僕には同腹の妹が二人いた。
一人はナナリー・ヴィ・ブリタニア。
僕を慕う、愛おしく、守るべき存在。
そしてもう一人がリリーシャ・ヴィ・ブリタニア。
双子の妹として生を受け、最初の敵となった存在。
もちろん、何も最初からアイツの事を敵視していたわけじゃない。
リリーシャは生まれ付き身体が弱く、僕達と一緒に遊ぶ機会は稀で、普段は一人自室や書庫に籠もり読書をするだけの日々を続けていた。
その環境からなのか、リリーシャは感情の起伏に乏しく、また普段から口数も少なく、大人しい印象を抱かせる。その一方で手負いの獣が周囲を威嚇するかのように、常に他者を拒絶するような雰囲気を纏っていた。
それでもこちらから声を掛ければ普通に会話や意思疎通は成立する。
ナナリーに対して何か思う所があるのか、どこか煩わしげに接することもあるが、結局は面倒見の良い姉として対応している事もあり、日常生活に困ることはなかった。
他人からすれば気難しく思えるリリーシャだったが、母さんも僕も、そしてナナリーも掛け替えのない家族として愛していた。
だけどある日を境に僕達の関係は一変する。
その日は突然訪れた。
リリーシャが床に臥せる。彼女が体調を崩すこと自体は珍しいことではなかったが、その日は少しだけ違っていた。今にして思えば予兆はあったのかも知れない。
いつもなら「大丈夫よ、何も心配いらないわ」と、そう僕達に告げて微笑んでくれる母さんも、この時はどこか焦っている様子だった。
その事からもリリーシャの容態が深刻だと理解できた。現に後から聞いた話では、一時は本当に危険な状態だったようだ。
そんなリリーシャの身を案じ、お見舞いに行きたいとナナリーが言ってきた。
姉を心配し、見舞いに赴く妹。その行為は何らおかしな事ではなく、むしろ家族なのだから当然のこと。僕自身も同じ思いだった事もあり、引き留める理由は何もなかった。
善は急げとでも言うかのように駆け出すナナリーの背に、僕は苦笑しながら転ばないように注意の言葉を掛けた事を今も憶えている。
もしもこの時、ナナリーを止めていたら、果たして別の未来が訪れていたのだろうか?
僕達兄妹の関係が壊れることは……いや、今となっては意味のない問いだ。
ナナリーの後を追い、リリーシャの自室へと足を踏み入れた瞬間、視界に飛び込んできた光景を僕はすぐに理解できなかった。
ベッドの上、ナナリーを組み伏せ、その首に手を掛けるリリーシャの姿。
目の錯覚だったら、どれだけ良かっただろう。
「……何をしているんだ、リリーシャ?」
何が起こっているのかは分からない。
それでも咄嗟に身体は動いていた。
「ッ、止めろ!!」
背後からリリーシャの肩を掴み、ナナリーから引き離す。
「邪魔をしないでくれるかな!」
リリーシャは抵抗し、錯乱したように叫んだ。
「全てはキミの為、この国の為だよ! 何故それが分からないんだい!?」
彼女の言葉は支離滅裂で、何故そんな考えに至ったの想像もできない。
分からないことばかりだった。
ただ彼女が本気で妹を殺そうとしていたことは紛れもない事実。
皮肉にもその時初めて、リリーシャ・ヴィ・ブリタニアという『人間』を垣間見た気がした。
騒ぎを聞き付けて飛んできた医師や侍従によって、リリーシャは沈静化され、その場は事無きを得る。
ただ自己防衛本能が働いたのか、幸いなことにナナリーはその日のことを憶えてはいない。
けれどこの時から無意識の内にリリーシャに脅え、身体の震えや変調などの拒絶反応を示し、避けるようになった。殺されそうになったのだから当然の反応だろう。
そしてその日からリリーシャは変わった。
まるで自らを偽る仮面のような笑みを浮かべ、他者を見下し、からかうかのような皮肉ばかりを口にする。
あれ以降ナナリーに対して直接手を出すことや殺意を向けるような事はなかったが、それでも他者との対応の差は顕著であり、ナナリーを庇う僕に対する態度もまた同様だった。
一度出来た溝は埋まらず、いや埋める気などないとでも言いたげな彼女に対して、ナナリーを守る為に僕が敵対の道を選ぶことは時間の問題と言えた。
一方でリリーシャは取り憑かれたかのように、今まで以上に本を漁っては貪り読み、知識を集めていく。中には各種分野の高度な専門書を始め、それまで興味のなかった古代文明や得体の知れない宗教、オカルト分野に関連する物も多く含まれていた。
その結果、一時は到底理解できない数式や化学式、宗教画や何かの設計図──少し見ただけだが確かField Limitary Eff……なんとかと書かれていたはずだ──などが部屋中に溢れている事もあった。
無愛想で無口な妹ながら、面倒見の良い姉でもあった彼女はもう居ない。
一体彼女の身に何があったのかは未だに分からない。
だけどあの日リリーシャは死に、代わりに僕の敵となる『魔女』が生まれた。
「お兄様? どうしたんですか、そんな恐いお顔をして?」
その声にハッと我に返ると、そこには覗き込むように見上げてくるナナリーの顔があった。
ナナリーを見ているだけで、胸の奥で渦を巻くわだかまりが、少しずつ解消されていくような気がした。
「いや、何でもないよ。ちょっと考えごとをしていたんだ」
「お兄様ったら、わたしたちといっしょにいるのがつまらないんですか?」
そう言ってナナリーは可愛らしく頬を膨らませて不機嫌をアピールする。
ご機嫌斜めだ、これは拙いな。
「もうナナリー、ルルーシュが困っているじゃない」
異母妹のユフィがナナリーを宥めるように声を掛けてくれる。
庶民階級出身である母さんに忌避感を持たない彼女とは年が近いこともあり、例え母親は違えど、それが気にならない程度に僕達は良好な関係を築いていた。
「ほら、見てください、ルルーシュ」
「わ、わたしも作ったんです! どうですか、お兄様?」
手作りの花の首飾りを差し出すユフィに対抗して、ナナリーも手にしていた花の冠を掲げて見せた。
「ああ、二人とも上手く出来てるね」
「ふふっ、そうでしょ? だからこれはルルーシュに差し上げます♪」
「え、いや、でも……」
「ほら、少しかがんでください」
「あ、ユフィ姉様ずるい! お兄様、わたしのも付けてください」
「ああ、分かったから二人とも落ち着いて」
二人のペースに押され、僕は戸惑いながら苦笑を浮かべるしかなかった。
まるで喧騒を忘れてしまったかのように、穏やかな空気に包まれた晴れた日の午後。
こんな日々がいつまでも続いてくれたならと願う。
だが一時の平穏なんて、何れ訪れる騒乱の演出の一部でしかない。
平穏が長く続けば続くほど、それが壊れた時に齎される反動は大きくなるのだから。
「兄くん、私からのプレゼントも受け取って貰えるかな?」
背後から掛けられた声は幼くも蠱惑的であり、他人を馬鹿にしているかのように癇に障るものだった。
その声の主を僕は嫌と言うほど知っている。
背後を振り返り、自分とよく似た顔の魔女を視界に捉える。
刹那、色とりどりに咲き誇っていた花々が一瞬にして枯れ落ち、緑の大地は焦土と化し、晴れやかな青空は紅く染め上げられた。
「何の用だ、リリーシャ」
「おやおや、我が兄君はその年で耳が遠くなってしまったようだね。
仕方がないからもう一度だけ言うよ? 私からのプレゼントも受け取って貰えるかな?」
リリーシャが手にしていたのは黒いナニか。
紅い液体が滴るそれは人間の頭部大の大きさであり、まるで人間の髪のような黒い毛が生えている。
「な、何なんだ、ソレは……」
本当はソレが何なのか気付いていたのかも知れない。
だけど受け入れることを本能が拒んでいた。
「これ? 忘れてしまったのかな、もしそうならキミは意外と薄情者だね。キミにも見覚えがあるはずだよ。
だってこれは────」
リリーシャが狂気の笑みを浮かべて嗤う。
「私たちの母、閃光のマリアンヌ様なんだから」
毛髪の間から覗く顔。
そこにあったのは絶命した母さんの物で……。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああ─────」
「───────────────ッ!!」
声にならない叫びを上げ、悪夢から逃れるように勢いよく跳ね起きる。
「はぁ……はぁ……」
額から滴り落ちる汗を手の甲で拭う。
「……最悪」
激しい動悸、息苦しい呼吸、大量に掻いた汗、渇いた喉、込み上げる胃液と不快感。
まさに現状を言い表すには、その一言だけで事足りた。
こんな夢を見てしまうのも全てはアイツのせいだ。
夢、そう夢だ。
だけど僕の中で渦巻く疑念が囁いた。
果たして本当にそうなのだろうか、と。
母さんが亡くなり、ナナリーが撃たれたと聞かされた時、アイツは悲しみに涙一つ流すことなく、怒りを抱いている様子も見せなかった。
いや、それどころか平時と変わることなく、薄ら笑いすら浮かべていた。
裏切られた思いだったのは、僕が心のどこかでまだアイツのことを信じていた証拠なのかも知れない。
アイツの中に昔のリリーシャは生きているんじゃないか。
テロリストもしくは暗殺犯という共通の敵が現れた今、再び手を取り合い、関係を改善することも可能なんじゃないのか、と。
しかし期待は意図も容易く打ち砕かれた。
だからこそ、今回の事件にアイツが関与しているのでは、という疑念が生まれたのだろう。
まさかという思いと、もしやという思いが入り交じる。
ただ──ナナリーに対する前歴はあるが──母さんを殺す理由が思い付かなかった。
もちろん僕が知らないだけなのかもしれないが、アイツの性格からして理由があり、必要があると判断すれば、間違いなく産みの親でも手に掛けるに違いない。
しかし現状、僕の目の前に積み重ねられた問題は、何もリリーシャの事だけではなかった。
父上……いや、あの男に命じられた日本への渡航。
それが何を意味しているのか理解できないほど幼くはない。
人身御供。
分かっていたはずだ。あの男に楯突いた結果、その先にある未来が決して明るいモノでないことは。
それでも許せはしなかった。
理不尽に事件に巻き込まれて傷付いたナナリーを、憐憫の情さえ見せることなく弱者と切り捨てたあの男のことが。
どうして実の娘にそんな事が言えるんだ、と声を大にして叫びたかった。
だがこの国の最高権力者である皇帝の命を覆せる力は今の僕にはない。
故に願う。
力が欲しい、と。
力さえあれば。
誰にも負けない力。
世界に抗える力が。
でも、そんな都合の良い奇跡など起きはしない。
ふと風の流れを感じ、ベランダに続く扉が開いている事に気付く。
謁見の間で敗北を期し、その影響を多分に受けた結果、就寝前の記憶は酷く曖昧なのは事実。それでも襲撃事件の直後という事もあり、ここがブリタニアの中枢たるペンドラゴン皇宮内とはいえ、施錠の確認ぐらいはしたはずだ。
母さんを襲った襲撃者の存在が脳裏を過ぎるが、こうして生存している以上、予期せぬ訪問者の目的が暗殺だったとは考え難い。そもそも自分が暗殺者なら后妃である母親の庇護を失った子供を、危険を冒してまで警備の強化されたペンドラゴン皇宮内で殺害しようとは思わない。尤もその油断を突いたとすれば話は別だが、離宮への帰路を狙った方が確実だろう。
なら、誘っているのか?
ベッドから降り、ベランダへと足を向ける。
好奇心は猫をも殺すという言葉もあるが、もちろん僕に自殺願望などない。
ナナリーを守れるのは、もう僕一人だけなんだから。
極力気配を消し、周囲を警戒しながらベランダへ出た僕の視界に映り込んだのは予想外の人物。明確な二人目の敵となった父シャルルの姿だった。
「っ、……皇帝陛下」
昼間の──謁見の間での出来事を思い出し、僕は思わず後退りそうになる。
だが、黄昏れるように夜空を見上げ、物思いに耽るその姿からは、あの時気圧された上位者の風格や覇気、他者を威圧し圧倒する重圧といったモノを微塵も感じなかった。
むしろそこにある感情は失意だろうか。
「ぬ、起こしてしまったか」
僕の存在に気付いた父シャルルが、横目でこちらへと視線を向けてくる。
「ええ、皇帝陛下。それでこんな時間に、僕のような弱者に何のご用ですか?」
多分に皮肉を込めて応えた。
不敬罪?
今更そんな事を気にして何になる?
「今の儂はブリタニア皇帝ではない。お前の父としてこの場に居る、父上で構わぬ」
そう言って視線を逸らすように、父シャルルは再び空を見上げる。まさか柄にもない自身の言葉に照れているのだろうか。
しかしここに来て父親を名乗るなんて一体何を考えているんだ?
僕達を一方的に切り捨てたのはそっちじゃないか。
「今更ですね」
「…………」
「だったら皇帝ではなく父=シャルル・ジ・ブリタニアに今一度問います。
どうして母さんを守らなかったんですか、父上?」
僕はこの男に何を期待しているのだろう。
皇帝としての答えは非情なものであり、到底受け入れられることは出来なかった。
ならば人目のないこの場所で、自らを父と定義した現在、別の答えを聞けるかも知れない。
そう単純に考えてしまった。
沈黙が流れた。
「お前達から母親を奪うことになったのは全て儂のせいだ。
だが王として口にした言を撤回することはない。儂は一人の父であると同時に、一国の王なのだ」
僕は驚きを隠せなかった。
あのブリタニア皇帝が自らの非を認め、間接的にだが謝意を示している。
本来の皇帝を知る者は、誰もそれを想像することすら出来ないに違いない。
だが驚くべきはそれだけではなかった。
「今宵お前の下を訪れたのは、お前に頼みがあってのこと」
命令ではなく依頼。
「ナナリーを守れ。あの娘を守れるのはもうお前だけだ」
「父上に言われるまでもありません。ナナリーは僕が守ります」
皇帝としてナナリーを弱者と切り捨てたはずの父シャルルの依頼内容に──単純だとは自分でも思うが──少しだけ嬉しくなった。
父上はナナリーを完全に見捨てたわけではなく、今も気に掛けているのだと。
あの場での言葉は本心ではなく、参列した貴族達の手前、ブリタニア皇帝の威信を固持する為に必要なパフォーマンスだったのだろう。
「ああ、そうか」
父シャルルは呟き、満足げに笑う。
けれどその瞬間、彼の双眸が禍々しい光を帯びた気がした。
「今宵のことは忘れるのだ、ルルーシュ」
その言葉を最後に、突然の睡魔に襲われたのか、視界が揺らぎ、意識が急激に遠退いていく。
バランスを失い、前のめりに倒れていく身体を抱き止めてくれた父上の腕の中で、僕は完全に……意識を……手放し……た……………。
◇
「ルルーシュの事は頼んだ」
シャルルは苦々しい思いを抱きながら、意識を失った自らの息子を、まるで我が子のように胸に抱き、その髪を愛おしげに撫でている緑髪の魔女に念を押す。
そんなシャルルの様子を気に留めることなく、それどころか一瞥することもなく魔女は応えた。
「分かっているさ。なんせ私は『盾』なのだからな」
肉の盾とは何とも的を射ているじゃないか、と彼女は嗤う。
それぞれが各々に想いを内に抱き、夜は更けていく。
明けない夜はない。
やがて朝は訪れる。
だが、暮れない昼もまた存在しはしない。