「夏目。俺を式神にしてくれ」
夏目は、絶句した。
古い、幼い時の約束。一度は破ってしまった約束を今、はっきりと口にする。
「俺をお前の式神にしてくれ。今ここで」
これは、最後の手段だった。
夏目は、素人を呪術戦の真っただ中に連れて行くことはしないだろう。
しかし、夏目が土御門の『責任』に殉じるつもりならば、こちらも土御門分家の『しきたり』を持ち出せばいい。
しばらく黙っていた夏目がゆっくりと口を開いた
「……覚えていたんですか」
「……子供のころの約束の事か?」
「…ええ」
「ああ、覚えてるよ」
ダンッ!と床を踏み鳴らし、夏目が立ち上がった。
夏目は長い黒髪を振り乱し、キツイ形相で睨みつけてきた。
「だったら…なんで、…いまさらっ……どうして!」
夏目の体は怒りのためか少し震えていた。
いまさら、か。
夏目が感情のままに口にした言葉は、的確に俺の心に刺さっていた。
俺は幼いころに夏目の式神になると口約束を交わした。
しかし、俺はその約束を破った。
しかし夏目は違った。幼い時の約束を信じて、ずっと待っていた。周囲の重圧に耐えながら。
そして約束を破ったことは俺の中で夏目に対する負い目になっていた。
『いまさら』
確かにそうかもしれない。
けど、俺はここで引けない。引くわけにはいかない。
「…聞いてくれ夏目」
俺は、真っ直ぐ夏目の瞳を見ながら喋った。
「俺、今の生活が大好きなんだよ。バカやって一緒に笑えるダチがいて、毎日が楽しかった。陰陽師になりたいって考えたことが無い訳じゃ無い。でも俺は見鬼じゃねーし、両親も何も言わなかったからな。俺自身もこれでいいと思っていたよ」
自分の心の中の本音をゆっくりと整理させながら夏目に話す。
「でも違った。見鬼じゃなく、陰陽師ですらない分家の俺でも、やっぱり土御門の人間なんだ。今回の事件だって、俺が『土御門』から逃げてきたツケなんだよ。さっきお前に言った事は、俺にも当てはまる。『土御門』春虎ってのも間違いなく俺の一部なんだ」
北斗が何度も言っていたこと。俺と喧嘩になっても頑なに伝えようとしたこと。
いまならそれが分かる。
「俺は、もう逃げない。だから夏目、俺をお前の式神にしてくれ」
夏目は顔を俯かせ黙っている。
下を向いているから表情は、分からないが全身の強張った緊張が、薄れていくのは分かった。
「――か虎」
「…え?」
小さく夏目が何かをつぶやいたが聞き取れなかった。
「な、何でもありません」
夏目は、ゆっくり顔を上げた。
「…良いんですね?」
「ああ」
夏目は俺の答えを聞くと、俺の前に片膝をついた。
「今だけの事ではありません。これから生涯、私の式神として生きていくことになります。その覚悟はありますか?」
「ああ」
式神になろうとも
「もう嘘はつかない」
俺の言葉を聞いて、夏目は目を閉じた。
そして少しの沈黙の末、ふっと小さく笑う。
「…当然です。嘘をつくような式神には、お仕置きなんですからね」
その瞬間夏目は俺の見たことの無い、優しく噛みつくような目で俺の事を見た。
――ドキッ――
「!?」
なんだ、心臓が一瞬跳ねた?まさか…この歳で心臓病!?
俺が謎の感覚に戸惑っているとき、夏目の表情は真剣な物に戻っていた。
「…春虎君。今この時より、あなたを私の式神に任じます」
重々しく告げると夏目は、懐から小刀を取り出した。
鞘から抜き、刃に口づけ、刃を滑らせた。
「お、おい!?」
「…静かに。目を閉じていてください」
唇を血で濡らした夏目。おそらく儀式に必要なのだろう。
俺は夏目に言われた通りに目を閉じた。
緊張しながら目を閉じていると夏目が一歩前へ出る気配がした。
そして夏目のささやき声が聞こえてきた。
呪文だ。
「――祖霊安倍清明の名において。
その声は厳かだけれど、不思議と安心感が湧くような優しい声だった。
終わったか?
もう眼を開けても良いものか悩んでいると、自分の頬に指が添えられた感触がした。
次いで、夏目がグッと迫ってくるような気配もした。
反射的に目を開けてしまった。
目を開けたその先の光景に、俺は完全に固まってしまった。
目の前には夏目がいる。
これは当たり前だ。むしろいなかった方が驚く。
問題は距離だ。
まあ、目を閉じる前から向かい合っていたからそれなりには近かったのだが、今の状況は近すぎる。
三十センチも、二人の間に差は無いだろう。
要約すると、俺の眼前に夏目の顔がある。
夏目の顔はまだ近づいてくる。
あと二人の距離が十センチ程度のところで、夏目は口を開き舌で唇の傷から出ている血を舐めとる。
そのまま血の付いた舌先をおずおずと突出し、俺の左目の下の頬に触れた。
小さな、湿っぽい、柔らかく暖かい感触に全身が粟立つ。
夏目はわずかに震えながら、舌先をゆっくりと動かし始めた。
頬から感じる感触の軌跡から考えるとこの紋様は、
『五芒星』
安倍清明が用いた、土御門家の家紋でもある呪的紋様。
それが俺の左目の目じりの下に書かれた。
「…終わりました」
気づけば夏目も顔が真っ赤だった。どうやら相当恥ずかしかったみたいだ。
「…お、おう」
俺も、恥ずかしさから返事が固い。
まさか式神になるための儀式が、こんなにも恥ずかしいものだったとは。恥ずかしくて夏目の顔を見れん。
「――春虎君」
「は、はい!」
つい、敬語を使ってしまった。
「これであなたは私の
「ちょっと待て!?ルビがおかしいぞ!」
「チッ…冗談です。これであなたは私の
し、舌打ちしやがった!夏目ってこんなキャラだったか!?
「…それで、春虎君。『視』えていますか?」
「何の――」
何のことだ。そう聞こうと夏目を見たとき、言葉を失った。
夏目の全身がオーラのようなものに包まれていた。
「まさか夏目……念能力に目覚めたのか!?」
「……はい?」
「いえ、何でもありません!」
表情は笑顔を作っているが目が笑って無いですよ夏目さん。ガチで殺意が出てましたよ?
いや、ふざけた俺が悪いんだけどさ。
「まさか…これが霊気か?」
「ええ。私の呪術で春虎君を見鬼にしました。どうやら成功したようですね」
「…これが見鬼」
夏目をじっと見る。凛とした涼やかな、実に夏目らしいと言える霊気だ。
「…綺麗だな」
「――え!?き、綺麗!?」
「ああ、霊気ってこんなにも綺麗だったのか」
「…ああ、そっちですか。…いや、期待は……していなかったですけど…」
「?」
なぜか夏目が落ち込んでいたが気にしない。
これが見鬼の世界。
これが陰陽師の世界。
昨日見た北斗の書いた絵馬を思い出す。
『春虎が陰陽師になれますように』
まだ、本物の陰陽師にはなれてないけど、そのスタートラインに俺は今、立っている。
見ててくれ、北斗。
思わず目頭が熱くなるが奥歯を噛み締め耐える。
その時、夏目の後ろの祭壇で飾られていた丸い鏡が音を立てて割れた。
鏡は三つあり、二つ目の鏡もすでにひびが走っている。
「なんだあれ」
「…今日春虎君と喫茶店で会う前に仕掛けた祭壇の結界です。この分だと長くはもたないでしょう。急がないと」
鈴鹿が祭壇に迫っている。その報せを聞き、気を引き締める。
「……参ります」
夏目の言葉に無言で頷く。
雨音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。