「おーい、起きてるー?」
そんな声を受けて目を開けた。顔を持ち上げれば正面、金髪を朱色のリボンでポニーテールで纏める彼女の姿が見えた。恰好はラフの一言に尽きる。朱色のキャミソールは大きくへそを見せているほか、キャミソールの下の黒いブラジャーを隠そうともしておらず、ボトムスもボトムスでホットパンツであり、上のブラジャーと揃えてある黒い下着の紐を腰の横、ホットパンツの少し上の所で見せるように結んであった。金髪、碧眼。こんな中東ではめったに見ることのない美少女の姿がそこにはあった。
「起きてる起きてる」
「ほんと、もう、しっかりしなさいよ全く。気が抜けてるんじゃないの?」
そういいながら彼女がコーヒーの入ったマグカップを渡してくれる。受け取り、感謝する。夜となると暑かった昼間とは違ってだいぶ過ごしやすくなってくる。だがそれも一気に二十度以上ある気温の変化だ。しかも風が吹いてくると少しずつだが肌寒さを感じてしまう。そんな時にもらえる、こういう暖かい飲み物の差し入れは正直、助かる。突っ伏していたテーブルから上半身を持ち上げ、座っている椅子の背もたれに全身を預けるように座り直しながらふぅ、とコーヒーを片手に息を吐く。
「というか何をしてたの?」
「俺か? ……まぁ、色々と考えてたんだよ、色々と」
肩肘をつきながら彼女にそう答えつつ、頭の中では考えるのは今までのこと、そしてこれからのことだった。長く、本当に長く旅をしてきた。それこそもはや故郷の姿をおぼろげにしか思い出せないぐらいに長く旅をしてきた。もう数十年も帰っていないのだから当然といえば当然なのだろう。だがそうやって積み重ねてきた旅路は少しずつだが経験として自分の中で蓄積されつつある。本当に、本当に時間がかかった。だが少しずつだが
それを聞いて、それを理解するまでに二十年近くかかっているのはもはや愚鈍としか説明できないのだが。
しかしそうやって旅をした結果、なんで自分は反政府グループなんて場所にいるんだろう、と思ってしまう。20XX年現在、中東の状況は非常に緊迫している。一人の独裁者が危険物―――おそらくは核か何かに手を出して馬鹿をした結果、大国や世界そのものを敵に回した。そんな中で軍備の強化、そして国内の締め上げを行っているのだから国民の間で不平や不満は爆発しており、反政府組織やゲリラの類は乱立しており、あらゆる場所で抗争が発生していた。
そんな危険な情勢の中東に自分は飛び込んでいた。この死地の中でならきっと、人の本質、そして心の底に抱く祈りというものを見れる気がしたから。その結果が今、これである。自分も比較的穏健派より反政府組織で半ば所属しているような扱いで働かされている。目の前の少女は自分と同じ雇われのハッカーだった。
「ねぇ、世界を回ってたんでしょ? どんなもんだったの? 世界って」
「お前もここに来る前は国連で働いてたって聞いてたけど」
その言葉にあー、と苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「あー……なしなし。アレはなし。国連にいりゃあ少しは役立てるかと思ったけどアレはないわ。支援するって金や物資を出せばいいって訳じゃないのよ。連中、本当に心の底からどうにかしようって気持がこもってないからこっちから辞めてやったわ。それよりそっちよそっち。世界のほとんどを歩き回ったって自慢してるじゃない。貴方の事を話しなさいよ。いい暇つぶしになるわ」
「俺、ねぇ……」
世界と言われても、まぁ、
「―――あまりここと変わらないもんだぞ、世界なんてもんは」
歩き回って自分が知ったのは結局、
「ロシアは酷かった。表向きは平和で貧富の差は少ないように見えているが、その実は違う。裏通りや廃墟の中へと入れば大量のストリートチルドレンを見つける事が出来た。彼らは親に捨てられた子供たちで、ロシア全体からしても珍しい光景じゃなかった。腕を確認すれば寒さと飢えをごまかすために麻薬を使った注射痕が大量にあって、今にも吐きそうな顔をしながら神に祈っていなかった。彼らは神に祈ったところで食卓のパンが増える事がないってのを理解しているからだ」
それから西へと向かった。
「ドイツはドイツで第二次世界大戦の敗北をいまだに引きずっていた。最後の最後で大敗したのが経済に響いて今でも景気は低調している。もはやかつて世界を荒らしまわっただけの力は存在せず、一つの財団によって国のほぼすべてが管理されるという状態にありつつあった。ディストピアの形成まであと数年、といったのが国民の間では見えていて、誰もが不安と恐怖を持ちながら救いを求めて祈りを捧げていたよ」
まぁ、それと比べればイギリスやフランスはまだまだ平和だった。さすが強国は安定している、というべきか。ただそれが原因なのか、
「イギリスとフランスでは宗教の対立が醜かったな……。経済的に安定して余裕があるせいか、さらに富を求めて互いに互いを蹴り落として利権にしがみ付こうとする姿を大量に見た。それは教会の人間も同じで、要職に就くことでそこで他に入る力を手に入れようとしていたのがありありと見えた。人を救う筈の教えが
それは自分が実際、足を運ぶことで確かめたことだった。現代における一番聖人としての適性が高い人物、というのを旅の途中で得た伝手を通して接触することに成功した。そして接触した果てで深い落胆を感じた。確かに清廉潔白な魂の持ち主だった。だが自分とは違う。
直接魂に語り掛けるような、神の声が聞こえていたわけじゃない。ただの人。それだけだった。ただの宗教の傀儡であり、本当に聖人と呼べるような人物ではなかった。
「旅をすればするほど理解し、気づかされる。世の中本当に救いようがない。手の出しようがない。トワイスの言葉を借りるなら
「ま、そんなことはあり得ないでしょうけどね。宇宙開拓、惑星開拓なんて
あぁ、だからどうしようもなく、この星に救いはない。地球を救うことはもう、不可能だ。そして人類を正しい方向へと導くことは無理だ。この二十年間、
「俺だけでも答えが欲しいんだ……神や宗教、信仰に頼らない救済を。どこか、人類は無理でも人を一人ぐらい救う方法がある筈なんだ……」
それが成長した俺の中にある求める全てだった。インドで数年間の修業を終えた俺と門司は別れた。互いに学ぶべきものがあるとしたから。だから一人の足で歩き、見て、感じ、そして自分だけの答えを求めた。その結果損耗しながらも諦めきれないものがあった。それがこれだった。神への怒りだった。これだけは絶対に手放せない己の根幹だった。だからずっとそれを抱き続けている。いや、抱き続けなきゃいけない。ずっと、頭の中でこうするべきだ、これが運命だ。立ち向かえ、お前がするべき事をなせ。
そう囁く神の声が何時まで経っても消えないから。
そう、神の声が囁く度に俺はこの憎悪を再熱し、何のために生きているのかを思い出すのだ。神を許してはならない。盲目に
だがそうやって確信し、十代に日本を出て、
「―――もう、三十年近く世界を放浪してる。それでも明確に答えと断言できるようなものには辿り着かない。何のために生まれ、何のために生きて、何のために死ぬのか……
ただ、旅をした結論として俺が断言できることは一つだけ。
「人間ってのは、どうも馬鹿な生き物らしい。どこへ行っても根本的には変わりがない。盲目に生きて、そこに溺れるだけ溺れて、首まで浸かったところで漸く自分がしてきたことに気付くんだ」
それはあぁ、なんて―――無様なのだろうか。
まさに
「で、俺の無駄な経験と人生を聞いてお前はどう思う、
アメリカ人の少女に、聞きたいことを聞いた、その感想を求めると、少しだけ困ったような表情を浮かべてからズバっと断言した。
「んー、完全に人生の無駄。そして贅沢な人生送っているわね、ってしか言えないわ」
「まぁ、そうだよな。お前もそう思うよな」
「ご愁傷様だけど私には理解できない話ね。そもそもそんなことに頭を悩ませている暇があったらもっと有意義なことに時間を費やしたほうが建設的じゃないかしら? 悩んでも答えが出ないならそもそも答えがないことが答えだろうってそこでいったん切り捨てて次の作業に移るわ。そうすれば次の作業の合間に何か思いつくこともあるし」
「いや、ほんと心に突き刺さるぐらいズバっと言ってくれるな、お前は」
「そもそもからしてロマンティストすぎるのよ。良くもそんな調子で今まで生きてこれたと呆れるわ」
年が半分以下の少女に良く生きてこれたな、と心配されるのは正直、アラフォー超えたおじさんとしては心にクるものがある。とはいえ、リンが語っている事はまず間違いなく事実だ。これだけ世界を回ってまだ答えを見つけていないのだ、それまでのすべてが無駄だと断じても間違ってはいないのだろう。はぁ、と息を吐きながら再びテーブルに突っ伏す。
「どうするかねぇ……俺ももう割と歳だし、旅を続けるのもだいぶ辛くなってきたんだよなぁ」
「馬鹿言わないでよ。私よりも動ける奴が何言ってんの」
そりゃあ最低限動けなきゃ世界を回るなんて事はできない。最低限の自衛が出来なきゃこんな紛争地域に飛び込んでくる事もできない。これに関しては最初に色々と無茶苦茶言いながら修行を叩き付けてきた
その真理を見出す事が未だに、できない。
「……本当に参ってんのね」
「煩い
「ふーん」
半分興味なさげにリンはそう呟くと、さて、と声を零した。体を大きく伸ばしながら立ち上がった。
「じゃ、明日も早いし私はそろそろ寝るわ。お休み」
「お休みなさい、お姫様」
宿の二階へと向かおうとするリンの背中へとそう告げると、わずかに頬を紅潮させながら逃げるように階段を上がって行く姿が見えた。相変わらずそういう言葉に弱い、乙女っぽさが荒々しさの中にあるよなぁ、と軽い感心を抱く。あの細腕でアサルトライフルを振り回すし、
「誘ってんのか、アレ」
「―――そう思って声をかけた連中がどうなっているのかを君が知らない訳ではないと思うんだけど」
「トワイスか」
聞きなれた声にテーブル突っ伏したまま、声の主に応えれば正面の椅子が引かれる音がした。顔だけ持ち上げて正面を見れば、そこにはいつもと変わらない白衣の眼鏡を装着した、男の姿があった。こんな砂漠の中でもその白衣を脱がない苦行スタンスに関しては正直、こいつ頭おかしいんじゃねぇの? って今でも密かに思い続けている男だ。
「で、設置の調子はどうなんだ、トワイス。どうせ今の会話聞いてたんだろう? 俺から話すことはねぇ」
「ん? こっちか……そうだな、増々悪くなる一方だな。患者が増えに増えて正直手が追い付かなくなってきてる。完全な戦争になるまではまだ少し時間はあるだろうけど、近いうちに国境の封鎖が始まるだろうね。そうすれば後は地獄の幕開けだ。外国が介入を決定するまでの数か月間の間、国民が国民を殺す地獄が生まれて、その果てに外国からの空爆で死傷者が溢れ、地獄の窯で煮た悲鳴が漸く溢れ出す」
「夢も希望もねぇな」
「それを見せるのが
トワイスのその言葉に大声をあげながら笑い声を吐いた。テーブルを叩きながら腹を抱えて笑い、眼の端から流れる涙をぬぐいながら息を求めて、口を開けて深呼吸しながら腹を抱えて何とか落ち着きながらまた息を求め、
「ひひひ……そうか、俺が宗教家か! ひひひ、くくく……ははは、悪い、今世紀最悪のギャグだったわ。おかげで笑っちまったわ」
その言葉にトワイスはほう、と声を零し、こちらへと言葉を向けた。
「あらゆる宗教に精通し、それを学び、自分の経験として吸収し、そしてそれでも救済の道を求める者。私だけではなく、多くのものからすればその姿は新たな信仰を探す宗教家……いや、聖者の歩みだよ。おそらく現代で最も無価値で俗で、しかし尊い行いがあるとすれば、それは間違いなく君の道筋だ。多くの命を見送ってきた者としてそれは断言させてもらおう」
そう告げたトワイスという男の言葉に、俺はどうしようもない憐れみを感じた。
たったそれだけ。それだけでトワイス・ピースマンという男の中にある価値観、根幹を自分は偶然ながら見抜いてしまった。この男はおそらく、こういう地獄でしか呼吸することができないのだ。こういう場所で必死に働く事で漸く生を実感する事のできる欠落者なのだ。彼はきっと、欠けていたのだ。致命的な部分が欠片となって足りていないのだ。彼は俺を聖者だと表現したが、それこそが間違いだ。このトワイス・ピースマンこそが聖者と呼ぶべき人物であり、
同時に、聖者という認識に対する冒涜でもあると、はっきりと理解してしまった。
おそらく、俺もトワイスも、お互いに同じことを考えている。
この中東。親が生きるために子供を奴隷として売り払い、その金で数日食って行けるような状況の中で、まるで時代が逆行したような悪逆の中で、到底正気を保てる人間はいなかった。だが俺もトワイスも、そもそもここに到達する前から狂っていたのだろう。そして己がどれだけ狂っているのか、ここにいる人間も自覚しているのだ。
―――考えていてもしょうがない事だ。
空気を払拭する為にも話題を変える。
「……それはそれとして、
「何度言っても彼女にその自覚があるかどうかという問題がな……まぁ、本人は襲い掛かってきた連中を迷う事無く銃で打ち抜いているからな。ある程度の自覚はあるのだろう」
寸分の狂いも迷いもなく股間を打ち抜いていたリンの姿を思い出し、思わず内股になりながら思い出した出来事を頭の中から追い出す。
「はぁ、結婚したい……」
「君は……そうか。確かにその年齢になると色々とキツイものもあるだろうな」
「そういうお前はどうなんだよ。嫁さん、いるのか?」
「私か? まぁ、結婚はしていたが今では離縁してるよ。流石に好んで戦地に赴く旦那を我慢し続けられる程気丈ではなかったらしいな」
「お前……今滅茶苦茶ド畜生な発言をしている事に気づいてるよな……?」
「私だって自分がどういう存在か自覚している。とはいえ、ナイチンゲール程壊れているつもりはない」
「お前、鏡を見ようぜ」
苦笑しながらその夜はそのまま、トワイスと遅くまで語り合った。救いからはもっとも縁遠い場所。現代における地獄の最前線。そこに俺は救いに繋がる答えがあるはずだと祈っていた。
―――救いを探し、求める姿こそが信仰であるという矛盾を抱えながら。
中東、そこはその年代、最悪の場所だった。