序章 - 1
「―――だぁーかーら! 拙僧は今こそこの狭きアルカディアを捨て、オケアノスの彼方へと行くべきだと言っているのだ!」
春の日差しが眠気を誘ってくる、そんな暖かな陽気の中で、馬鹿が一人大仰にそんな事を叫んでいた。机の前でポーズを決めながらニヒルな笑みを浮かべる大馬鹿者に対して肩肘を付いた状態でその学生にしてはえらく発達のいい巨漢を見上げ、露骨に溜息を吐いた。こいつは何時もこうだ。第一、
「お前の言葉が意味不明すぎて何を言っているのか全く解らんのだが。俺の解る言葉で喋ってくれないか臥藤?」
「むぅ、すまんすまん。しかし貴殿はもっとフランクにモ・ン・ジ! という風に名前を呼んでもいいのだぞマイ・ブラザー、ソウルメイトよ。ところであんぱん食うか?」
「お願いだから正気になって。その時期がお前にあるのかどうかが怪しいけど」
食うけどさ、と答えて臥藤―――
入学以来の腐れ縁となっている友人であり、なにかとこう、絡まれる事は多い―――馬鹿でキチガイではあるが、基本的には良いやつなのだ。
キチガイであることを除けば。
ともあれ、そんな門司から受け取ったあんぱんを食いつつ、それで、一体どうしたんだよ、と若干めんどくさげに半眼になりつつにらみを向ければ門司がまたもや良く訳の解らないポーズを決めながらうむ、と一言言葉を置いた。
「拙僧、良く考えてみれば夏休みの二か月間という時間は非常に長く、それこそ先に夏休みの宿題を終わらせてしまえば色々と自由があるのではないか? とある日突然天啓を得たのだ―――そうだ、京都行こう」
「それ、JRのコマーシャル見ただけじゃないのか……?」
「NO! これこそ、まさに神より我に与えられし天啓! 啓示よ! ジャンヌ・ダルクもまさにこのような気分でオルレアン奪還マシーンへと変貌したに違いない! その先はだめだぞ、オルレアンではないからな! 神とは実に自分勝手なのである。それはそれとしてブラザーよ、マイ・ブラザーよ、この夏、ちょっと京都の神社仏閣へと行かないか? これぞまさに神より与えられし試練―――別名ロッズ・フロム・ゴッドだ!」
「それを発射したの神じゃなくてアメリカだと思うんですけど」
「―――現代における資本主義のゴッド・アメェェリカァ!」
「それでいいのかお前……」
「まぁ、拙僧まだ学生だし? 悟り開いてないし? 少しぐらい遊んでもまだ未成年セーフであるが故に問題なしである! それはそれとして、信仰が神を生むのであれば資本主義の犬という神がそろそろ生まれても良さそうな気が拙僧するのだが」
「それ以上いけない」
しかし夏休みに京都―――京都旅行、それは悪くないのかもしれない。きっと門司の事なのだから、完全に思い付きでノープランなのだろう。だけどひと夏の思い出にちょっと遠出するというのはいい感じに青春しているんじゃないだろうか? そんな考えが思い浮かび、きっと、悪くないことなんだろう、という考えに至った。まぁ、ここまで来てしまうと完全に正当化してしまうだけの話だ。だから自分の中ではほとんど決定事項だった。
「今からバイト探して入れてみるか」
「なに? 旅行なぞテントとチャリで十分ではないか?」
「超人かよお前。いや、そういやぁお前この前4階から飛び降りて無傷だったよな。超人だったわお前」
門司のテンションの高さに呆れつつも、夏休みの計画を考えると段々と楽しくなってくるのは事実だった。まぁ、完全に宗教ヲタクで煩いのが難ではあるのだが、それはそれとして、悪い奴ではないのだし、話していて面白いという部分もある。飽きないだろうなぁ、というのは確信できていた―――。
柔らかいベッドと、そして暖かいシーツの感触を得ながら、ゆっくりと目が覚めた。見慣れたカルデア内の白い天井を見上げながら、ベッドやシーツの感触とは別に、自分の横で感じる感触に視線を向けた。軽く丸まりながら抱き着くように眠っているのは妖精の姿だった。幻覚も眠りを覚えるとは何とも面白いものだと思いつつも、脳裏に浮かび上がってくるのは完全に別の事だった。
「ガトー……モンジ……」
それは知らない筈の名前だった―――つい、先ほどまでは。だがその名前を呟きながら思い出すのは逞しい宗教家学生の姿だった。彼の存在をカルデアで見たことはないし、データで閲覧した記憶もない。ここ、カルデアに来てから収集した知識の中にもなく、≪虚ろの英知≫の内部に記録されている訳でもない。それはつまり、
―――彼の名前は純粋に自分の記憶から生じたものだった。
その事実に驚きを感じざるを得なかった。カルデアで自由を得てから2,3年が経過している。その間、ダ・ヴィンチやロマニが何をしようともそれが蘇るような形跡はなかった。だが突如として夢として過去を見て、思い出した。そう学生の頃の話だ。自分には門司という馬鹿な友人がいたのだ。馬鹿で、滅茶苦茶で、しかしいい奴だった。俺の声もこんなものではなく、もっと若々しい声、あんな声をしていたのか、と驚かされるものだった。
「だけど、それだけ……か」
思い出せるのはそれだけだった。それ以外に思い出せることはなかった。自分の名前、自分の顔、どこだったのか、何年前の話だったのか。それは以前として不明のままで、自分の正体はまだまだ謎に包まれたままで―――検体171号である事実に変化はなかった。一瞬、自分の何かが解ったのではないかと思ったが、盛り上がった感情の波はしかし、即座に消え去ってしまった。
『あら、でもその割には嬉しそうな表情を浮かべているじゃない。顔が笑っているわよ』
いつの間にかベッドから抜け出していた妖精がそんな事をベッドの横に立ちながらそんなことを言ってきていた。それを確かめるように上半身だけ持ち上げながら自分の顔へと手を持っていけば、しかし、微妙に唇の端に笑みを作っていた、というのが良く分かった。
『何度もカウンセリングや処方を受けても思い出すことのなかった記憶、そして浮かべることのなかった笑みをあっさりと取り戻しちゃうのね。あの二人が実に憐れだわ! ふふ』
悪意のある言い方で笑みを浮かべ、妖精は笑っていた。やはりこの幻覚、邪悪だよな、と思いながらベッドから抜け出すように起き上がった。時間を確認するとまだまだ早い時間だった。いつも自分が起きる時間よりも数時間早く、カルデア内部でも活動している人数は少ないだろう。だけども、再び寝る気持ちにはどうしてもなれなかった。ベッドの横に置いてある着替えに手を伸ばしつつ、思い出す。
『そうね、今日はファーストオーダーの日よ』
着替えながら思い出す。2015年、カルデアは未来の喪失を確認した。そしてその原因の特定は果たされた―――即ち2004年、日本のある地方都市が原因で未来が閉ざされてしまったのだ、と。ゆえにカルデアでは本日、ファーストオーダーを計画している。今年に入って完成された霊子演算装置トリスメギストスにより
無論―――己も、参加することになっている。
サーヴァントに匹敵する実力、それを遊ばせる訳にはいかず、完全には事情を把握していないオルガマリーが参加を要請してきたのが理由にある。彼女からすれば参加させない理由が解らない、ということだろう。ダ・ヴィンチとロマニはここで反対票を投じようとしてくれたが、
結局、自分の意思でファーストオーダーに参加する事は決めた。
その為に生み出された存在なのだから、
『復讐者が人類を救う為に戦いに赴くのよ―――なんて愉快な事かしら。さて、今朝の朝ごはんはどうしましょうか? きっと、すごく大変な一日なるのだから、しっかりと食べておきたいわね』
着替えと軽い身嗜みを整え、朝の支度を終わらせたところで妖精が声をかけてきた。その言葉にそうだな、と声を呟かせた。自身の喉から漏れた声はやはり、夢の中で見たようなあの若々しい声ではなく、怪物のような唸り声だった。元がなんであれ、これが今の自分なんだな、と確認し終わったところで朝に、どうしても食べたいものを思い浮かべた。
「―――あんぱん」
何時も通り完全に姿を隠した格好でカルデア内で移動を始めると既に色々とカルデアが活気づいているのが雰囲気から伝わってきた。やはりファーストオーダー、その日、ともなるとスタッフのほうは忙しいのだろう。カルデアの機器に関する技術的な知識はちゃんとほかの戦闘技能とかと共にインプリントされてある為、いったいどうやって何をしようとしているのかは、門外漢であってもある程度理解できる。そう言えばこの日のためにダ・ヴィンチが数日前から休み知らずに働き続けている、なんて話も聞いた気がする。
『人類が滅ぶ瞬間を目前にしていると思うと背筋がゾクゾクしてくるわね』
カルデアが未来を観測できないという結果はつまり、人類の滅亡が目前にあるという事実でもある。つまり今、静かにではあるが、人類は滅びそうになっているのだ。妖精の言葉で気づかされるが今、人類は割と切迫した局面を迎えているのだ。
『そういう貴方は人類滅亡の前に何か思うことはあるのかしら?』
それは―――どうだろうか。
個人的に自分の中に消失しているものは
自分の存在理由という物が欲しい。
そうでなければ名前も忘れてしまい、復讐心さえ抱くことの許されない、元聖人があまりにも憐れで、そして同時に自分が何のために存在しているのかが解らないからだ。だから正直な話、人類の滅亡、戦わなくてはいけない状況、そしてファーストオーダー要請の存在には実のところ、ほっとしている部分がある。
そうでなければ自分はただの思考するだけの人形―――オートマタと変わりはしない。
『大丈夫よ。貴方は私の為に存在するのだから、そんなに悩む必要なんてないわ。困ったら何もかも全てを忘れて私に委ねればいいわ! そうすれば全部私がどうにかしてあげるわ!』
何時も通り発狂している妖精の言葉を受け流し、朝食を得るために歩き出す。通り過ぎるマスターや魔術師、スタッフ達の表情はどこか緊張感に満たされており、寝不足で目を擦っている姿も散見できる。ただ本日出撃予定のAチームを見かけない辺り、やはりギリギリまで調子を整えている、というところだろうか。
―――まぁ、どうでもいい話だ。
『そうね、そうよね。他の有象無象なんて興味もないものね』
とりあえずはあんぱんだ。夢の中の残滓。それを追いかけたくて、それしか追いかけられるようなものが今、カルデアでは手に入らなくて―――それでも追いかけたくて、郷愁を思い出したくて、何の変哲もないそれを探しに、食堂へと向かう。
あなたはおぼえていますか?
その日、ファーストオーダーとともに物語は始まった。舞台に役者がそろったらあとはサメライターで舞台を本能寺して敵をレフらせるのみ……それともリヨってソロモる?