―――意識が朦朧とする。
水面に揺れる木の葉のように揺蕩う小舟はやがて首都からの喧騒を逃れたことだけは理解できたそれでも小船は動きを止めず、おそらくは魔術的な動力で静かに進んでいた。疲労と無理がたたってか、全身に感じる気怠さは如何ともし難く、まるで高熱に魘されるような感覚が小舟に乗っている間、ずっと己を襲っていた。
―――失敗、したな……。
間違いない。自分の失敗だった。連合首都を確認したところで自分は逃げるべきだった。それで十分すぎる成果だった筈だ。なのに自分はそれ以上を執拗に求めた。だからこそ失敗したのだろう―――それは、冬木にいたころの己であれば絶対にやろうとしなかった事だ。そう、人間性だ。人間性があるからこそ、機械的にではなく感情と理性で考える。それはある意味、自分らしさ、というステータスを取り戻す行いでもある。だがそれは同時に、不確定要素を混じらせる行いでもある。
だがそれでも、自分は思い出したい―――自分が誰だったのか、何だったのか。それを思い出したい、と明確に願っているのだ。そう思いながら小舟の中、無明の世界の中で手を伸ばせば、小舟の中に転がっている物に触れる。それはカルデアから自分が持ち込んだ薬品の類であり、そして丸い感触はシェイプシフターのものだった。あのサーヴァントが此方の持ち物を積み込んでいてくれたのだろうか? それには感謝するしかなかった―――とはいえ、ダメージが酷い。まともに魔力を練れる気がしない。
『あ、今触れてるそれは琥珀色のよ』
「と、なると……これが、回復薬か」
『そうねー……って瓶ごと噛み砕いちゃうのね』
口の中に放り込み、瓶を噛み砕き、液体を喉の奥へと流し込む。これで多少肉体的な再生が始まるが、それで体調が戻る訳ではない。何より失った目玉は再生しない。カルデアへと戻ればスペアの義眼があるかもしれない―――いや、ダ・ヴィンチなら用意できるだろう。それまでは完全に戦力外だな、とため息を吐きながら砕けた瓶の欠片を吐き捨てる。
「っ……一体、どこに、向かってんだ」
『んー、そうねー……連合首都からは現在進行形で離れているわね』
自分が光を失っても解っていたが、妖精のほうはちゃんと見えるらしい。もう、ここに至ってこの存在の摩訶不思議さに関しては突っ込みを入れない。彼女は自分にしか見えないが、完全に独立した個体であるのは確かだった。そしてその答えは、正体は、自分の過去にあるのだという事も理解している―――なぜ彼女がここまでも自分に狂愛を見せるのか。
……たぶん、それを聞いても彼女は無粋だと答えるのだろう。
『解ってるじゃない。私は貴方の一挙一動、その全てが愛しくてたまらないの。だからこうやって私がなんであるのか、なんで私が貴方にしか見えないのか、それを思い出してくれない事が凄く辛いのよ? だからほら、そこはロマンティックに思い出してくれると乙女としては嬉しいわ。それはそれとして、この小舟、ガンガン流されてるわね』
何か、見えないのだろうか。こう、岸とか。安全そうな場所とか。何か隠れて進めそうな場所とか。
『見渡す限り水平線ばかりね。ただ遠くに島のようなものが見えるわね。そっちのほうへ流されているのかも? まぁ、眼がないのじゃ操舵もできないわね。可哀想に。私が万全だったら目玉の百や二百ぐらい用意してあげたのに……』
それはそれで気持ち悪いから止めて欲しい。そう思いながらも、自分ができることは今、何もなかった。薬の力で肉体が急速に活性化をはじめ、無理やり細胞を生み出しながら傷を治癒して行く。順調に寿命を大幅に削りながら行使されてゆく治療行為に興味を持たず、体力を少しでも回復させるために小舟の中、倒れたまま時間が過ぎ去ってゆくのを静かに待つ。どうやら連合首都の東に見えたあの島へと向かって流されているらしい。何かがあれば妖精が伝えてくれるだろうし、
深く考える事は―――疲れた。
「俺は―――一体、何をやってるんだろうな……」
徐々に思い出す
だが、それを欲している。
『ままならないものね。完全が不完全を求めるもの。まぁ、世の中は得てして不完全が完全を求め、最終的に完全に到達することは不可能であると知るだけなんだけどね? 神でさえ敗北を知るのだから、完全な存在なんてある訳ないじゃない、馬鹿馬鹿しいわ』
そう、世の中はそんなものだ。結局のところ、俺の救いを求める旅も最終的には
『難儀な物よね―――無いからこそ求める。それが人という形なのだから』
そう、人は失ったものを埋めようとする。それが人の本能だからだ。だからこそ男と女という形があり、不完全ながらも埋めあうのだ。とはいえ、ここまで来ると喪失という形に近い。あぁ、なるほど、と口に出さず納得する。マシュ・キリエライトが見ている世界とはこういうものなのか、と。彼女は不完全で欠損していて、思い出すような事さえもない。答えは常に彼女の外側にあるのだ。本当に難儀だとしか表現する事がない。
「あぁ―――なんとも、無様なものだ……」
そう言葉を漏らし、見ることさえできない青空を求め、空へと視線を向けた。
朦朧とする意識の中、それを落ち着けるために海を彷徨っていると、やがて波の音が陸にぶつかる音が聞こえてくる。妖精に確かめてみれば首都東の島へと小舟がだいぶ接近していたらしい。まだ気怠さを感じる体を引きずりながら接岸の準備を整える、と言っても目が見えないのでは準備もクソもなく、小舟の端に捕まり、勝手に接岸するのを待つしかなかった。
やがて、揺れていた小舟は柔らかい大地の感触に受け止められるように停止した。小舟の外へと這うように手を伸ばし、その下から落ちるように、砂浜へと倒れた。若干体を濡らしながらも、ぼろぼろの体を引きずるように上体を起こす。その程度であれば体は反応するらしい。両手を砂地につけて立ち上がりながら、足元を砂と水、泥に引っ張られながらも前へと向かって足を踏み出す。何も見えず、感じ取る事しかできない。だがそれでも生き残ることを諦めるわけにはいかなかった。故に前に踏み出し、少なくとも波打ち際から脱出するように足を進める。
一歩、更に前に一歩へと踏み出すごとに体力が削られて行くのを感じる。だが小舟の中で安らげる訳もなく、どこか、休める場所へと進む必要がある。ふぅ、と荒く息を吐きながら、半分、体を引きずるように前へと出る。妖精が手伝うような声を出さないのは救いだ―――正直、なるべくなら自分の足で歩きたい。女の手を借りて歩くのはさすがに恥じる。そう思いながら足を引きずり、砂浜、乾いた大地の上へと漸く到着し、もう数歩、波がかからない場所まで出てきたところで、
膝を折った。
「はぁ、はぁ……はぁ……本格的に治療を施さないとヤバイな……」
息を整えながら、魔力を生成できるか、自分の体力と生命力に相談しようとした瞬間、気配を感じた。同時にこちらへと向かう足音、それはどこまでも清らかさを感じさせ、気配だけでどれだけ美しい存在であるのか、それを直接脳髄へと染み込ませるように理解させられた。ほぼ反射的に精神耐性を引きずり出し、警戒するように
「―――あら……これはお客様とみてよろしいのかしら」
聞いたそばから耳が蕩ける様な魅惑の美声だった。不覚にも今、レフによって両目を奪われていたことを感謝する。おそらくまともに両眼で見て、その姿を確認したら正気ではいられなかっただろうと思う。その声だけでここまでも心を激しく揺れ動かすのだから。だがその思考を頭から切り離し、体と脳を本能と反応から切り離し、理性と知性のみで行動する。さすれば魅了にも抗える。
『そうそう、私以外の女に靡いちゃだめよ。犬のように可愛がるならいいけど、本気になるなら心臓を止めちゃうかも』
―――今の一言で、どこか、正体の片鱗を掴んだ気がする。
それはともあれ、
「失礼、見ての通りただの重傷の不審者だ。できるなら休ませて欲しい。場所さえくれれば、後は勝手に治療する」
「えぇ、なるほど……そうね、確かにぼろぼろね、まるで襤褸雑巾の様な姿をしているわね」
中々言葉遣いが辛辣な女らしい。しかししゃべれば喋るほど、魅了されて行くのが解る。一回精神洗浄を行い、魅了と洗脳効果をクリーンリセットしながら深呼吸をする。常時ばらまかれている魅了はもはや呼吸のようなものなのだろう、この女に限っては。まず間違いない―――人間ではない、おそらくは、
「英霊、か」
「いいえ、違うわよ?」
言葉にした推測はしかし、即座に否定された。英霊ではない? だがこんな魔性とも表現できる特性を持てるのはサーヴァントぐらいだろう。いや、ネロという例外がいた。彼女はこの時代の生きた人間だ。そう考えるとこの声の主もまた、この時代の生きた存在なのかもしれない。だがそれにしてはどこか、人非ざる気配が
「
「えぇ、そうよ。形ある島へようこそ、お客様。女神が歓迎するわ」
カミ、或いは神。相手がそれに準ずるものであると理解した瞬間、体の動きはほぼ反射的なものだった。痛みやダメージですでに限界を超えている肉体を動かす。魂魄を燃焼させ、それを魔力へと変換し、シェイプシフターをダガーへと変形させ、握る。そのまま、すぐさま動けるように獣の様に四肢で体を支えるように低くする。そのまま、声の方向へと全神経を向けた。魔力を軽く放ち、ソナーの様に地形にたたきつけられた反応で環境を把握する。
魂と肉が魔力へと変換され、削れる感触に激痛を覚えるが、神性が相手であるのならば問題はない。
「あら……酷いわね。私なんて力もない、愛されるだけの女神なのに、そんなに警戒しちゃうなんて。うふふ、ちょっと力で警戒されるなんてことは……えぇ、初めてね。少しだけ
「……」
敵意は―――ない。だが神という存在はそのものがきまぐれだ。門司の言うとおりだ。現代における神々は
「
それに尽きる。神とは傲慢であるからこそ、神なのだ。なにせ、
人は、神々と決別しなくてはならなかった。
人が人として生きるために、神と決別する時代が必要だったのだ、と、自分は思う。
だからこそ、女神は笑った。
「ふふ、そうね―――貴方は正しいわ。よほど恐ろしい目に合ってきたのね? 見て直ぐに解るわ、よほど愛されていたのね。えぇ、そうよ。
嘘偽りは―――ないだろう。そういうタイプの存在であるようには思えない。何よりも肉体の方が無理やり魔力を絞り出した結果、ガタが来ている。カルデアからの監視を外したことが仇になったな、と心の中で自嘲しつつ、
今は、刃を収める事にした。
「うふふふ……そう、それで正解よ。それでは改めて―――ようこそ人の子よ、形ある島へ。ここには私もあの子もいないけど、勇者の証明を行った客人には寛容よ」
形ある島に到着。2章は割とTASれる場所ねぇよなぁ、というかシナリオに無駄がなかった、って感じだった。
次回、にんじんが食べたい猫がワンワン鳴きながらリサイタルから逃げる……!