「珠雫、本当に大丈夫?」
珠雫を心配するアリスが顔を覗き込むようにして尋ねてきた。
それもそのはず。
珠雫の瞳には決意が灯っているのだが、体は震えているのだ。珠雫ほどの人間が震えているのはとても珍しい。
それ以上に、彼女はやらなければならないことがあるのだ。
「……大丈夫」
ホテルの一室を前にして、珠雫は大きく息を吸った。
そして、扉をノックした。
「……………………………………………………」
珠雫の懸念は既にここからあった。
まず、自分が求めている彼がここに居るのか──それが何より必要なことだった。
しばらくの間が空いた後、扉が開かれた。
「誰かと思えば、珠雫とアリスじゃないか。どうしたんだ?」
背中にしがみついている六花を、そのまま引き連れて二人の前に爛が現れた。
何をしに来たのかと尋ねる爛だが、珠雫の瞳に宿る決意のような何かを感じ取ると、それに気づいていない振りをする。
「……爛さん、私に戦い方を教えてくれませんか?」
深々と頭を下げながら、そう懇願した。
「……何のために?」
「えっ……?」
「何のために、お前は戦う」
「それは……」
珠雫の目的を知らない爛は、そう尋ねる。
質問に質問を返された珠雫は言葉が詰まった。
「……守りたい人を守れるように、です」
不安を抱えながらも、必死に訴えかける珠雫の瞳。
「……分かった。いいだろう」
珠雫はステラとは違う。
突き放すようにステラの頼みは断ったが、彼女には彼女に合った師がいるはずだ。思い当たる人物は一人だけいる。自分なんかよりも、ステラを成長させることが出来るはずだ。
だが、珠雫は?
ステラのように魔力が飛び抜けて高いわけではないが、代わりに魔力制御において彼女の右に出る者は少ない。それは、彼女が唯一ステラに勝てる能力だ。
繊細な魔力制御と防御力を巧みに扱えば、持久戦は負けなしのはずだ。
爛に出来ることは、彼女の長所をさらに伸ばすこと。
「ただし、ひとつだけ条件がある」
「なんですか?」
その理由を聞こうとすると、爛は困ったような表情をし、言いづらそうに口を動かして答えた。
「……まぁ、なんだ。気にしないかもしれないが、六花が嫉妬の目を向けても気にするなよ」
爛が心配する理由が何となく分かるのは、彼女と同じように、ステラに嫉妬の視線を向けたことがあるからだろう。
「大丈夫ですよ」
「ならいい。
時間があるなら今からでも教えることはできるが、どうする?」
爛の問いかけに、珠雫は反射的に生徒手帳を開いた。
今の時間は十五時。見ておきたい試合も、今日はない。
「お願いします」
「分かった。それじゃあ、行くから六花は降りてくれ」
「……やだって言いたいところだけど……分かったよ」
爛の背中から降りることを渋々だが選んでくれた六花に内心、感謝をしつつ、爛と共に併設されている訓練場に向かう。
その道中は不思議なほど静かだった。
誰も口を開かず、喋ろうとはしなかった。
「珠雫」
訓練場にあるリングの上で対峙した。
爛の言葉に、珠雫は目で頷く。
「俺は攻撃はしない。
逃げ続けるから、俺に一太刀でも、掠り傷でもいい。傷をつけろ」
爛の言葉は果たして本当に戦い方を珠雫に教える気かと疑うほどに、適当に近いものだった。
「……それで、本当に珠雫の為になるの?」
「為になるかどうかは本人次第だ。この鍛練にはどんな意味があるのか──自分で考えて動いてみろ」
あくまで、爛はヒントを提示するつもりはないようだ。
それ以上、彼は答えようとしない。
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「何故、私を突き放すことをしなかったのですか? ステラさんには自分よりも適任がいるといって突き放したようですが」
「適材適所だ。ステラは俺が鍛えてやるよりも、同じように最初から化物級に才能があった奴が教えるのがいい。その点、俺は才能が少ないからな」
謙遜を……と言いたくなるが、彼が嘘をついているようには思えない。
第一、彼女に似た才能の持ち主を爛が知っているからこそ、その様に出来たのだ。
「さぁ、始めよう。俺はいつでもいいぞ」
攻撃をすることはしないと宣言している爛は、
「行きます……!」
爛の声に背中を押されるように、珠雫は霊装を顕現する。
──瞬間、訓練場の空気が凍えた。今は夏だというのに、寒い。その原因は珠雫にあった。珠雫の周りには冷気が立ち込めており、それを常に放っているのだ。冷気が霧へと変わっていき、視界が段々と悪くなっていく。
珠雫から攻撃は飛んでこない。爛の視界に入らなくなった時に動くつもりだろう。霧が濃くなっていく中、互いに目を合わせたまま立ち尽くす。
「────────────────」
ほどなくして、爛が跳んだ。彼がいた足元は凍っていた。
地上を見ている爛にひとつの大きな影が出来ていた。影に気付いた爛が視線を上に向けると、人ひとりを潰すには余りにも大きすぎる氷塊が落ちてきていた。
「ッ……!」
足裏に雷を展開し、地面を形成する。横向きに作り出し、高度を維持したまま平行に移動する。
氷塊が着弾したことで立ち込めていた霧が吹き飛んで晴れていく。視界は良くなり、珠雫の攻撃が見やすくなるが、それは珠雫の方にもメリットがある。
「ハァ!!」
短刀を構えた珠雫が、地面に落ちていく爛に目掛けて距離を詰めて振るう。空中で体勢を変えることは困難を極める。中途半端に動いてしまえば、それこそ珠雫の短刀から逃れられない。
「なっ!?」
変に逃げるよりもいなす形が一番安全だと判断した爛は、珠雫の短刀をしっかりと捉え、掌を合わせるようにして刀身を捕らえた。
「……む」
左右から飛来する水牢弾。体を反らしながら珠雫の背後に回り、水牢弾を避ける。
珠雫との距離を離しながら、次々の飛んでくる水牢弾を避け続ける。
(ここまで制御する量が多いのか……流石、珠雫だ)
軽く見ただけでも二桁はある。
水牢弾に気を取られていると、別方向からの魔術の行使に気付けず、肝を冷やされかねない。
「ッッ!!」
水牢弾を躱し続け、やっとリング上にに落ち着くことが出来ると思っていた爛に、氷の槍が襲い掛かる。
リング上は薄く水が張られており、急速に冷却することで氷の生成を速めているのだ。
避けるだけでは捌ききれない。
「フッ!!」
氷槍を刀で打ち払いながら、リング上を駆ける。
「くっ!」
珠雫は攻撃を思うように当てられず、四苦八苦している。
到底、簡単に当てられるとは思ってはいない。苦労するとは思っていたが、ここまで難しいものだとは思わなかった。間違いなく、爛は実戦において珠雫を相手にしたときを想定して避けている。
真剣になって彼は攻撃を避け続けているのだ。
「どうした? 攻撃の手が止まっているぞ」
珠雫の攻撃を捌くことだけに集中できている爛は、攻撃が止み始めている珠雫に挑発の言葉を投げた。
「……いえ! まだまだこれからです!」
諦めるわけにはいかない。
大切なものを守るために、強くなるのだ。そのためにここから逃げることなんて出来ない。
兄は自分の限界を超えてまで、高みを目指している。
こうして、一時間にも及んだ鍛練だが、珠雫は爛に掠り傷一つ与えることは出来なかった。
ーーー第91話へーーー