噂。
それは酒樽を形象した文字の下に両手を象形した文字『寸』を据えて、人の『口』と書く。
イメージとすれば、杯とそれを持つ手、そしてそれを持つ人。
つまりこの文字は、人が酒の席で欲する話、または多くの人が集まって話すということを一文字に収めたものである。
ある種の酒の肴だ。
基本的にそれは曖昧で、あやふやで、不明確なものだ。
その本質と同じく、流言、巷談、世間話などと言葉の形も様々に形容されていて、内容も実態の得ないもの、照合の取れない無責任かつ無誠実なものが多くを占めている。
ゴシップ。
雑誌などでよく見るこの呼称の方が、それにどのような意味や意図を持たせているかがイメージ、また理解しやすいかもしれない。
だが、それ全てが虚言妄言によって構成されているのかといえば決してそうではない。
事の発端には、ある程度の真実が伴っていることが多かったりするのだ。
まぁ、そこから先は曖昧模糊、虚言妄言のオンパレードだが。
あ、いや、正確には予測、予想して発展させた推測のお話といったほうが適切なのかもしれない。
天気予報が過去のデータを参考に天候の行く末を推測するのと同じく、噂もまた似たように、その人の行く末を他人が好き勝手に妄想しているという訳だ。
そんな文字が遥か昔からあるということは、どうやら我々の先駆者、遥か昔の人々も現代人と変わらず、それを使って様々な感情を駆り立て、煽り立てていたのだろう。
そう思うと、いくら技術は進歩していても、上辺だけを取り繕うばかりで人としての根幹は現代でもなんら進歩していないように思える。
そんなものに何百年、何千年と踊り踊らされていると思うと、うんざりするし、軽蔑もする。
何より、いつまで経っても学ぶことのないその姿は滑稽ですらある。
だが、そう思っている自分でさえもそんな人間であって、人間社会に身を置いている以上、それからは逃れられないし、好奇心をくすぐられるのも、また事実であった。
それだけ、噂と言うものは人を惹きつけ、楽しませる、『娯楽』なのだろう。
そう、娯楽。
憂晴しであり、気晴らしであり、気慰み。
身一つで何の才能も無くとも、何の労力も厭わず、何の費用も掛からず行える簡単な娯楽。
その噂の主役。
被害者たちを除いては、だが。
× × ×
人気が無い階段をのろのろと昇る。
足には見えない枷が巻きついているように重たく、大した段差でもないのに億劫になる。
たどたどしい足つきで、階段を上がる度に学校の喧騒が一つ、また一つと遠ざかっていく。
階段の終端に着く頃には、さっきまでいた教室と同じ校内とは思えない程に音は動きを止めていた。
階段を上り終わるとすぐ目の前に扉がある。
ノブに手をかけて、少し重い扉をゆっくりと開けた。
錆びた金属の擦れる音がすると風が吹き抜けて、俺を置いて下の階へと降りていく。
眼前に広がるコンクリートの床は真っ白とまではいかないが、薄汚れながらも白い。
空から降り注ぐ光が軽く反射していて、屋内の明るさに慣れていた目には眩しかった。
ぐるりと周囲を見渡してみる。
無人。
そこには俺以外の来客者はいないようで風切音がやけに大きく聞こえた。
時折吹く二月の寒風は身に刺さる。
だけど、授業以外の気苦労で過熱気味の頭には、その冷たさが調度良かった。
風が当たり過ぎない給水塔の影に腰を下ろすと、ついつい口からため息が漏れた。
―――あぁ、疲れた。
購買の袋に入れていた缶を取り出して、プルトップ開ける。
呷る気にはなれず、ちびちびと舐めるように口に含んでいると午前中のことが頭に浮かぶ。
身を震わしながらも登校して、ほっと一息ついたのも束の間。
教室の扉を開けると、先に来ていた由比ヶ浜からの非難がましくも冷ややかな視線で詳しくは分からずともなんとなく事情を察した。
トコトコと歩み寄ってきた戸塚に事情を聞くと、案の定、昨日の一色とのやりとりは既に広まっているとのことで、普段は俺がいようと見向きもしない奴らがちらちらと好奇の視線を向けていた。
いやはや、噂ってのは出回るのが早いもんだ。
そう思った。
まあ、その噂をでっち上げて広めようとしていた奴がいたのだから、既に少なからず出回っていたのかもしれないが。
それが今日に至るまであまり広がりを見せていなかったのは現実味がなかったからかもしれない。
火の無い所に煙は立たぬ。
なんていい加減な言葉もあるが、一色と俺との場合では海の中では火は着かぬ、なんて言葉になるだろう。
それくらいに、釣り合いがとれていないのだ。
片や、一年生ながらも生徒会長を務め、その容姿と性格で話題に事欠かない一色。
片や、目立たず周囲から居るかどうかの認識すら怪しく、最低な奴だとかなんとか言われていた日陰者。
どう自分で自身を過大評価しても、それでも、天秤が傾き過ぎている。
それが、周囲の評価となれば尚更だろう。
まぁ何より、あいつの目標は葉山であり、あからさまなその姿勢は周知されているのだし。
それらの理由があってか多くの人に見向きもされず、燃え広がることなく下火へとなっていたのだろう。
噂とは想像力を駆り立てられるからこそのものであって、それはない、それは嘘だ、と断言しうるものは火種にもならずに消えてしまうのは当然の事だ。
そう、そのままいけば消えてなくなるのも時間の問題だったはず。
それが昨日、傍目から見れば仲睦まじく腕を組んで帰路につく姿が多くの人に目撃され、誰からも信じて貰えなかったものに薄くとも信憑性が帯び、再燃したといったところだろう。
「……はぁ」
折角、こっちが避けていたってのに、無くなるどころか過熱してんじゃねぇか……。
抵抗しようにもしきれなかった、そんな意志薄弱な昨日の自分が恨めしい。
あの時、せめて腕さえ解かしていればこうも広がりをみせなかったはずだ。
などと、過ぎた行いをうだうだと考えてしまう。
そこでふと、思い出す。
女の子特有の甘い香り、柔らかな手、微かな息遣い、そして慎ましくも確かに存在する―――。
昨日の事とは言え、まだ昨日だ。
その状況は鮮明に脳裏に焼き付いて、夕日の眩しさ、雨上りの空気感、香り、そして感触は、ついさっきのことのように思い出すことができる。
端的に言えば。
悪くなかった、とだけ言っておこう。
「あぁぁぁ………」
が、そんなドキッとシチュエーションを堪能する余裕など僅かしかなかった。
あ、あんなとこを!
あ、あんなところを不特定多数に見られるなんてっ!
まるで事情を知らない人間から見ればバカップルのようなことを、いつも忌々しく、憎々しく、貶すような視線で見ていたそれを、まさか自分が、例え自身で望んでなくてもそのような行動をしてしまうとは。
事情を知っているのは自分達だけだ。
ならば、自分達以外にはバカップルだと思われていても可笑しくはない。
そもそも、その事情とやらも一色の独断であり、俺をからかうつもりで決行したのだろうから大した理由は恐らくない。
つまり、もし奇跡的に事情を説明、弁解する機会に恵まれても鬱陶しいリア充と結論されるだろう。
火を避けて水に陥る。
前門のバカップル、後門のリア充。
俺が忌み嫌う二つの嫌すぎる挟み撃ち。
け、消してしまいたい。
この忌まわしき恥辱に塗られた記憶なんてっ!
あまりの恥ずかしさに身悶えしたくなる。
刺さるような周囲の視線を思い出すだけで手はさもそこにあることが当然の如く頭を抱える。
あれはもう一種の拷問だ。
相手の精神を破壊する恐るべき罠だ。
「うごぉぉぉ………」
俺は静かなこの場でひとしきり呻いた。
呻いて、呻いて、いくらか時間が経過して、ようやく落ち着きを取り戻してきた頭を軽く振って、煩悩と邪念を払う。
―――す、過ぎたことを気にしてもぐぐぅぅぅ……。
考えれば考えるほど深みに嵌まっていく気がして、このままではいかんとビニール袋からパンを取り出し、さぁ口に運ぼうとした、その時。
「やっと広まってきたんだけどー、遅くねぇ?」
「マジそれー」
「まーケッコー広まってるみたいだし、結果オーライってやつでしょ」
鉄が擦れる音がした。
それに続いて数人の女の声と、靴を引きずるような足音がこの場所への来客を知らせる。
咄嗟にそいつらから見えない位置へと身を隠した。
別にやましいことはないのだから隠れる必要はないのだけれど、それでも、その声に聴き覚えがあった俺は息を潜めた。
「これであいつも調子ノレなくなるっしょー」
「ホンそれぇ。ねぇねぇ、後でさー、見にいっちゃわない?」
「いいじゃんいいじゃん。どんな顔してんのか気になるみたいな!」
透き通るように静かだったこの場に、甲高い笑い声と手を叩く音がけたたましく鳴り響く。
身を隠していて向こうからも見えないだろうが、こちらからも顔や人数が確認出来ない。
会話から察するに来訪者は恐らく女子三人組か。
―――こいつら、あの時の。
あの時。
そう、それは数日前に聞いた、あの時と同じ声だった。
「でもその前にぃ。もうちょいやっとこ」
「サンセー。ここで勢いなくなってもツマンナイしー」
「つぎどこら辺いっちゃう?サッカー部とかよくない?」
―――まぁ、そうだよなぁ。
なんともまぁ頭の中がハッピーそうな口調ではあるが、人を陥れることについては抜かりがないご様子で。
にしても、こうなれば昨日の対応が増々悔やまれるな。
再び昨日の行いを思い出し、胸中で嘆息する。
あれだけの人数に見られてしまえば、語り手も聞き手もやり易いだろう。
目撃情報は豊富。
事実の伴った口上は人々の好奇心を一層煽り、否定的な意見を一掃し、想像力を掻き立てて作られるお話はなんの違和感もなく広がっていくだろう。
むしろ、こいつらが態々そんな追撃の算段などしなくとも、人から人へ、口から口へ、興味から好奇心へと伝播するだろうに。
―――また、逃げるか?
いやもう無理だ。
以前ならまだしも、今は、今ではもう無理だ。
笑顔。
昨日、数日振りに会った一色はどうみても顔色が悪くて、いつもなら垣間見れる強かさ、芯の強さは欠片も見当たらなかった。
それどころか今に崩れ落ちてしまいそうな脆さが露見していた。
何かがあったのだろう、そう思ったが見当はつかなかった。
さてどうしたものかと胸中で悩んでいたが、何もせずとも時間が経つにつれて憑き物が落ちたように以前の姿を取り戻していった。
そして、その最中に見せたそれ。
あの、あんな笑顔を見せられては、見てしまっては、もうそんな無責任なことはできない。
例え、それに目を背けて逃げたとしても、それではもう解決にはならない。
何より、そんな状況ではもうない。
意図的に噂を拡散させる工作員がいるこの場合、放置治療では悪化の一方を辿るばかりだろう。
では、どうする。
以前に使ったインパクトある事柄で押し流す方法、それは今回は難しい。
あれは、葉山だからこそ出来たことであり、大きなイベントもそう都合良く起こりはしない。
ならば、他の方法。
金、力、根回し搦め手で人の口を無理やりに塞ぐらいだろうか。
とは言っても、一般的な高校生にそんな大金もなければ、力もない。
根回しや搦め手に至っては、ぼっちの俺とは一番縁遠いものと言っても過言ではない。
そうなれば、手の打ちようがない。
こいつらの手によって徐々に加速し、範囲を広げていくだろうそれに対応できる策が、それを止める術が、ない。
万事休す。
「それよりさぁ。ちょっと聞いてくんない?ワタシさぁ―――――」
かと、思われたその時。
あーでもない、こーでもないと頭を捻りながら、片手間で盗み聞いていた会話に聞き覚えのある単語が耳に残った。
―――これを、使えば……。
これ以上の拡散を完全に防ぐとまではいかなくとも、こいつらの動きを止められる策が、術が、あった。
いや、あったではないな。
まさに今、それが可能になった。
こちらに気が付く気配も無く、呑気にぺらぺらとよく喋るこって。
それに耳を傾けながらも、もう意識の殆どはこれからの事へと集中している。
策は敵が授けてくれた。
状況を改善できる情報を相手から明かしてくれるとは。
こんな幸運に恵まれたならば、ここはニヒルに、少しヒールに微笑するべきなのかもしれないな。
少し悪役チックになるが、この手を使うのならばその方が様になるだろう。
だが、そんな爽快感を素直に感受することは出来なかった。
守るべき者を、傷つける敵だとしても。
それが助けるべき相手ではないとしても。
それでも―――。
心情を映した伏し目がちな視線を、お門違いな苦渋を、それらを投げ捨てる為に空を見上げた。
―――いっつも、晴れてんだよなぁ。こんな、時には。
晴天。
そこには、一縷の希望と苦悶との狭間で揺れ動いている俺を嘲笑うかのように、清々しく、雲一つなく晴れ渡る青空が、どこまでも続いていた。
口を開くことが出来るのなら、今日何回目かわからないため息を盛大についていただろう。
そんな時。
意識が内側へと向かっていて、会話を読み解くことなくBGMのように聞き流していたそんな時だ。
「ま、どうでもいいけど。しっかり頼むよ?」
甲高い会話の隙間。
低い声。
そんな声が聞こえた気がしたのは、俺の気のせいだろうか。
第六話 絡む思惑取違え 上
お疲れ様でした。
至らぬ箇所が多く、稚拙な文章なのにかかわらず、ここまで読んで頂きましてありがとうごうざいます。
どうです、どうです?
今回は二週間での投稿ですよ?
今まで遅筆だのなんだの言ってきましたが、やれば出来るでしょう?
うんうん。
そうでしょう、そうでしょう。
……はい、申し訳ありません。
まやかしです、トリックにもなってないですね。
今までは一話を一万文字程度で投稿してきたのですが、今回は途中で分割して先半分を優先して書き上げ、投稿したのでいつもより早かった、それだけなのです。
では何故、急にそうしたかと言いますと理由は二つありまして。
一か月以上、何もなくお待たせするよりも、分割でも投稿があったほうがいいかと思ったのが一つ。
そして、未熟で稚拙な文章を、一気に一万文字読むのは皆様のご負担が大きいように思えたからという二つです。
新たな試みですが、如何でしょう?
皆様のご負担が減っていれば幸いです。
この新たな分割投稿方式により、六話は上下に分かれます。
六話の下も遅くなり過ぎないよう執筆に励む所存です。
もし、遅筆な作者ですが引き続きお待ち頂けるのなら身に余る光栄です。
それでは皆様。
また次話でお会い出来ることを楽しみにしております。