変わっていく日々を君と   作:こーど

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第三話 解けゆく霜は雨になる

 

 

 

 

 

ゆれるゆれる、ふわふわと。

浮いては沈んで、ゆらゆらと。

 

足が地面についているのか、わからずに。

視界は暗い気もするが。

だけれど、何故か見える気が。

 

周囲は冷たく真っ暗で。

何もないけど、何かある。

目まぐるしく変化する。

しているような気がしている。

 

自分が、何かを言っている。

だけれど、何を言っているかはわからない。

 

誰かに、何かを言われている。

だけれど、何を言われているかはわからない。

 

前へと進みたいと思っても。

だけれど、体は重くて鈍い。

 

後ろへと戻りたいと思っても。

だけれど、体は軽くて儚い。

 

浮かんで、揺れて、薄れて、消える。

色んな思いが、次々と。

 

覆って隠す。

隠して騙す。

騙して演じる。

いつしか、それを求められ。

 

覆って隠した、自分自身。

隠して騙す、心の中。

騙して、作る、聖域を。

いつしか、それがわたしになる。

 

揺れる意識に、流れる思い。

流れた思いに、冷やされて。

じわりじわりと、凍りつく。

 

凍える隔たりに囲われて。

じくじくと、痛む悲哀を背に隠す。

零れる何かを、拭わずに。

 

寒くて冷たい。

凍えて、凍てつき、凍りつく。

だけど、ここから出ようとせず。

だけど、誰にも入らせず。

 

しっかり凍るように、祈りを込めて。

零れる何かを隔たりに。

 

厚く厚く、硬く硬く。

高く高く、積み上げて。

遠く遠く、広げてく。

 

諦めたように、微笑みながら。

潰えているように、零しながら。

 

いつしか、その手も凍りつく。

染み広がる冷たさに。

ひっそり一人、安堵する。

誰にも見せず、安堵する。

 

身体が凍る。

揺れる意識が動きを止める。

流れる思いが枯れあがる。

 

目を開けているかもわからない。

だけれど、それを閉じようとした。

 

ゆらりゆらりと揺れるもの。

隔てた向こうに、影が差す。

揺れる温かな影が差す。

こんなにも、ここは暗いのに。

 

凍った隔たりが溶けていく。

じわりじわりと、溶かされていく。

溶けた思いは凍らずに。

ゆらゆら流れて、消えていく。

 

影は、のろのろ近づいて。

溶けていない隔たりを、ないかの様にするすると。

いつしか影は、わたしの元へ。

 

おずおずと、びくびくと。

近づいた影に、手を伸ばす。

 

触れるとそれは、温かで。

見るとそれは、優しげで。

聞くとそれは、心地よく。

揺れる意識が、動き出す。

 

隔たりは、いつしか消えていて。

周囲は、徐々に明るくなる。

 

温かな影に寄り添って。

輝く光に目を細める。

零れる何かは、止まっていた。

 

誰にも入らせない聖域に。

この影だけは、特別で。

だから、他は入らせない。

他では隔たりは、溶かせない。

 

例え、どれだけ壊そうとも。

わたしは、それを拒絶する。

招くものは、この影だけ。

 

無くさぬように、離さぬように。

強く握って、捕まえる。

温かさは、そこにある。

 

だけど、するりと抜けていく。

影が手から、落ちていく。

するする、するする。零れていく。

 

輝く光がチカチカと。

暗く、くすんで消えていく。

 

温かだった手の中も。

再び、じわりと凍りだす。

今にも、何かが零れそう。

 

遠ざかる影に、手を伸ばす。

けれど、その手は届かない。

 

一歩踏み出そうと、足を見る。

それは、既に凍っていて。

近づくことも、叶わない。

 

声を上げて、影を呼ぶ。

だけれど、影は止まらずに。

ゆらゆら、ゆらゆら、遠ざかる。

 

行かないで。

その言葉は、声に出ず。

口も既に凍てついた。

 

揺れる意識が凍る時。

影が、こちらを振り向いた。

 

「じゃあな、一色」

 

 

 

 

 

 

「っ!!!」

 

わけもわからず、目を見開いた。

ぼやけた視界は、ゆっくりゆっくり焦点が合っていく。

世界が構築されて、止まっていた時間が流れ始めた。

 

鮮明に映り始めた視界には、見慣れた白い天井に照明器具。

回らない頭は天井を見つめる以外のことをさせてくれなくて、焦点を合わせては外れるを意味もなく繰り返す。

意識と体の接続が出来ていない。

働き者の両目は、忙しなく意味不明な信号を送ってくる頭に翻弄されている。

 

しばらくぼーっと天井を見つめ続けていると、強張っていた体から急にふっと力が抜けた。

ふわふわと浮いていた意識が、すぅっと沈むような感覚で落ちてくる。

そうすると、ようやく同じ光景を映しっぱなしだった視界に瞼が暗幕を下ろす。

半紙に墨がじわっと滲むように、長く瞬きをしていなかった瞳に涙がじわりと染み込んでくる。

暗闇の中で徐々に落ち着きを取り戻す意識。

頭が夢と現の合間から、こちらへと舵を切り始めたみたい。

 

意識が鮮明になると聞こえてきた、自分の呼吸。

布団に覆われた胸は慌ただしく上下していた。

まるで、さっきまで息が詰まっていたかのようだ。

大きく一つ吸い込む度に、ひんやりとした空気が体の内側から覚醒を促してくる。

荒い息遣いを少しづつ鎮めながら、ゆっくりと目を開けた。

 

一瞬揺れて、明確になる視界。

見慣れた天井から視線を動かすと、薄暗くも見えてくる机にカーテン。

それに小物の数々と壁に掛けてある制服。

見慣れた光景だ。

それは、日常を象るものたち。

ここは、わたしの自室。

と、言うことは。

 

「……ゆ、め」

 

何かを、確認する為にそう口にした。

酷く、怖い夢だった。

そんな気がするから。

あれが現実ではないことを確かめたくて、布団の中で寝返りをする。

温かな布団と顔に張り付く冷たい外気。

それが、ここが現実なんだと教えてくれる。

けど、まだ心の端にその恐怖が手を掛けている気がして、漠然とした不安から逃げるように、ぐっと布団を口元まで引き寄せた。

 

こうして目が覚めた今、その夢の内容はほとんど記憶に残っていない。

それがどんな内容だったのか、概要ですらわからない。

目覚めて流れ始めたわたしの時間に、押し流されてしまったのかな。

残っているものは曖昧な夢の断片と、おぼろげながらちくりと刺さる心の痛みだけ。

ついさっきまで、その中にいたはずなのにもうたったこれだけしか残っていなかった。

 

夢見が悪くても、どんな悪夢にうなされようと、起きてみればこんなものだよね。

その中で体験した嫌なこと、怖いこと、辛いこと、苦しいこととか、ほとんどものは夢の世界に置いてきているんだし。

現実の世界に持ってこれているものは、お土産程度の欠片だけ。

その夢の欠片もきっと今日の夕方には、さらに薄れてぼやけていると思う。

この後味の悪い、もやもやとした心の痛みもきっとそう。

刺さるような痛みは気づけばするりと針が抜けて、痛みは治まっていることだろう。

そして、明日になればたぶんそんな夢を見たことさえも忘れている。

 

「ん……何時」

 

顔に触れる冷たさで、布団の外の寒さが想像できてしまう。

絶対、寒いよね。いやだなー。携帯からこっちにこないかなー。

 

むむむっ、と携帯に向かってしかめっ面で念を送ってみる。

来い来い来い、お前ならこれるはずだー、なんて心の中で呟く。

信じろー信じろー。

お前の可能性を信じるんだ。

さぁ、こーいっ。

 

睨みつけて数十秒。

心なしか僅か携帯がこちらに向かって来た気がする。

呆気にとられ、ぽかんと口を開けて、目をぱちくりさせる。

うそ、ほんとにこっちにきた。

も、もしかして超能力に目覚めたかも?

なんて心の中で思ってる間も、二つ折りの携帯は少しづつ移動している。

 

「…………」

 

鈍い振動音と、けたたましい音を鳴らしながら。

そう、携帯はわたしの超能力で動いていたわけではなかった。

まぁ、本当にそうだとは思っていなかったけどさー。

僅かに動いた携帯は、朝の目覚ましアラームによるバイブレーションで移動していたわけだ。

わたしが超能力うんぬん思ってる内にも、騒がしいアラーム音を鳴らして、ぶぅんぶぅんと細かに振動しながら右へ左へと不規則に動いていた。

遅刻なんてさせぬぞって、そんな確固たる意志を感じる。

 

一度思いっきり目を硬くつむり、覚悟を決めた。

大丈夫大丈夫、たぶんそんなに寒くないから。

だってここ室内だし。

布団があったかいから寒く感じるだけ。

……そうそんなに寒くない、はず。

あぁ、にしてもうるさいな、もう。

 

固くつむっていた目をぱっと開けて、布団から勢いよく携帯へ手を伸ばす。

あぁ、冷たい。

やっぱり寒い。

誰だ、そんなに寒くないって言ったのは。

冷気が腕にぐるぐると巻かれているみたいなんだけど。

そんな寒さに急かされて目測を誤ったわたしは、携帯のすぐ横へと手をついてしまう。

ふぃ、つめたっ。

携帯めー、避けたなー。

 

律儀になり続ける携帯を、今度こそはむんずと掴む。

そして、すぐさま手を再び布団へ引っ込めた。

外気で冷やされた腕が布団に入ると、布団の中までその冷気ですこし冷える。

ゆるゆると温まる片手を、布団から出ていない片手で早く温まれと擦りあわせると、血が通うように熱が腕に広がっていく。

 

ふぅ、と小さく息を吐いて、恨めしげに布団の中の携帯を睨む。

まったく、一刻を争う時に主人の手間をとらせるとは。

いつから反抗期に入ったんだー?

ぺしぺしと指で携帯を叩く。

その騒がしかった携帯は、温めている手と一緒に布団の中へと連行されて、くぐもって幾らかちいさくなった音で主人の起床を促している。

ぶるぶると振動する携帯は、なんとなくじりじりして不快感があった。

幾分か温まった手を布団の奥から引き揚げて、二つ折りの携帯をぱかりと開く。

 

「……まぶしぃ」

 

明るく光る液晶が眩しい。

薄暗い部屋に慣れているわたしの目には眩しくて、薄くしか目を開けられない。

うっすらと見える画面で騒がしく鳴るアラームをとりあえず止める。

すると、目が覚めた主人とは裏腹に、眠りについたみたいに静かになる携帯。

 

再び訪れた静寂に、なんとなくほっと胸を撫で下ろす。

ふぅーやっと静かになった。

が、一息ついたのも束の間。

 

「ん?……んんっ!?」

 

携帯のディスプレイに映っている時刻。

そこに映る時刻は、起きなくちゃいけない時間をとっくに過ぎていた。

どうやら、目を覚ましてからのぐずぐずが知らぬ内に長くなっていたみたい。

最近はすぐに起きて、布団から抜け出すことができていたからかな。

朝の感覚を忘れてしまってたんだ。

 

やっばい!

急いで用意しないとあの時間に間に合わない!

ガバッと身を起こす。

それから布団を跳ね除けるようにしてベッドを出て、ドタドタと慌ただしく洗面所へ。

こんなにも慌ただしいのに、未だ眠気眼のわたしと鏡で向き合いながら、ぐわっしぐわっしと勢いよく歯を磨く。

勢いそのままに手早く洗顔を済ませると、ようやくシャキッとしたわたしとご対面。

そこで試しに一つ。

いつもの営業スマイルを、鏡のわたしに向けてにこーっとしてみる。

 

「んー」

 

いかにも、営業スマイル。

見え透いた愛想笑いって感じだった。

とは言っても他人から見れば、そうは見えないくらい自然な笑顔を演じれている自信はあるけどね。

それはもう、今まで通りに適当な男の子ぐらいなら、すぐに落とせるくらい。

 

だけど、その愛想笑いは昨日までとは違う気がした。

何かが、決定的に違った。

……何が原因だろう?

夢見が悪かったせい?

寝起きだから?

今、忙しいから?

どれもピンとこない。

 

「んぬぬー?」

 

核心に近づけなくてうんうん頭を抱えて考えていると、ふと向こうのわたしと目が合った。

その瞳には、ゆらゆらと消えそうな灯が映っている。

 

悲しそう。

そう、漠然と思った。

彼女が勝手に口を開いて、何かを言ったわけでもないけど。

だけど。

鏡の向こうの彼女を見て、わたしはそう思ったんだ。

 

その瞳の奥は怯えるように、怖がるように。

そんな、覚束ない何かの感情で揺らめいていた。

顔は信じられない物を見るかのように驚いていても、瞳の奥は悲しげに揺れる灯火がゆらゆら灯ったままだ。

 

―――なんで?なんで、そんなに。

 

ふと、気が付くと下がっていた口角。

それを、人差し指でくいと上へ持ち上げた。

剥がれた仮面を着け直すように。

 

「……っ!」

 

なんだ、これ。

そこには、あまりに歪な愛想笑い。

垂れた眉に、揺れる瞳に、不自然に上がった口角。

まるでピエロだ。

ごちゃまぜになって、わけがわからない。

 

そんな出来損ないの笑顔らしきものは、すぐに失笑へと形を変えた。

……こんな顔ならすぐできるのになぁ。

作り物の笑顔ですら、儘ならないなんて。

今までは、なんてことなくできていたのに。

これじゃあ、わたしは―――

 

「てぇいっ!」

 

洗面所に響く、半ば自棄になった掛け声とパチンと乾いた音。

頭をぶんぶんと何かを振り落す為に左右へ振る。

 

それから鏡を見ると、ぼさぼさに髪を乱れさせた鏡の向こうの彼女いた。

その両頬は、両手で覆われている。

その覆われた頬は、じんじんと火傷したように痛くて、少し涙が浮かぶのがわかった。

 

……いったぁ。

思ったより痛かったぁ。

 

あまりに情けない表情の彼女に、喝を入れてやったのだ。

両手で思いっきりパチンと。

ちょっと強くしすぎた気もするけど。

だけど、これくらいじゃなきゃダメだ。

でないと、飲み込まれてしまうから。

理解できない怖さに。

その甲斐あって、彼女の悲しげに揺れていた灯は奥へ引っ込んで、今はとても痛そうな表情へ変わっている。

 

「……うん」

 

大丈夫。

さっきよりはマシな表情になったよ。

一人納得したように頷いて、彼女にそう言い聞かせた。

 

さっきは、ほんとに酷かった。

けど、今ならもう大丈夫。

ちゃんと、いつも通りにできるよ。

きっと。

 

 

 

 

 

 

 

    ×  ×  ×  ×

 

 

 

 

 

 

 

空は継ぎ目なく白い雲に覆われ、そこに灰色の塊の雲がべったり張り付いている。

薄い雲に遮られた太陽は、おぼろげにその姿を揺らして、日の温かさは僅かしか感じられない。

体を撫ぜる風も、変わらず寒々しい。

 

朝霜がしんなりとつもり、それに打たれている道端の草は、頭を下げるようにして枯れていた。

道行く人達は、薄暗い朝に暗澹とした面持ちで背を少し丸めて白い息を吐きながら行き交っていく。

そんな人達の一人として、わたしも同じように学校を目指していた。

 

ふうふうと吐く白い息を後ろに流しながら、スタスタとただ歩くわたし。

その足音は自身の心を表しているみたいに無機質で、歩く足取りは心なしか重かった。

 

いつもより一本遅い電車から降りる。

人でごった返す駅に、回れ右をしたくなる気持ちをなんとか抑えた。

人波で何人もの肩とぶつかりそうになりつつも、四苦八苦しながらようやく抜ける。

 

ここから少し歩けば校舎が見えてくる、そのはずなんだけど。

なんて言うべきなんだろう。

ほとんどいつも通りの時間帯で、いつもの通学路。

だと言うのに、学校が遠い?

あっという間に学校へ着いた昨日とは打って変わり、今日は学校までの道のりがすごく遠く感じる。

なにも変わっては、いないはずなのに。

 

「……ふぅ」

 

ようやく校門へとたどり着いた。

朝の遅れを取り戻すために、いつもより大きな歩幅で早歩きしたのにようやく、と言う言葉がぴったりだ。

んー学校ってこんなに遠かったけかな。

 

軽く上がっている息を整えて、携帯の時計で時間を確認する。

屋外で少し見づらい画面を見ると、昨日より五分遅い時間が表示してあった。

えっ、あんなに急いだのに!?

 

わたわたと急いで校門から彼の姿を探す。

ぐーっと見渡して見るが、それらしき人影は見当たらない。

いないってことは、もう自転車を置きに行ってるかも!

昨日より遅れてるし急がないと!

 

ばたばたと慌ただしく駐輪場へと向かう。

せっかく一息ついたと言うのに、また慌ただしく動き出す。

朝から一体、何息ついてるんだろう、わたしは。

 

駐輪場への道すがら。

知った顔の人たちが挨拶を飛ばしてくる。

無下にも出来ないけど、それを返していると走っている速度を緩めないといけないし、手間も取る。

もういかにも忙しなく走ってるんだから、それなりの理由があるのかなってくらい察してよ!

そんな風にざわつく苛立ちを隠しつつ、最低限の愛想を振りまきながら駆ける。

もーほんと今はほっといてくれないかなー。

 

駐輪場に着くと、HRまでの時間があまりないからか、昨日より人が少なくて閑散としていた。

そう言えば、昨日もこの時間ぐらいになると人が少なかったっけ?

 

そんな考えに急かされて、わたわたと駐輪場の端からぐるーっと見渡す。

たくさんの置いてある自転車と少しの人影。

目を凝らして、彼を見つけることに集中する。

あれは違う。

あの人も違う。

あの人も。

 

「……いない」

 

一通り探したが、彼はいなかった。

玄関口へ続く道にも彼は見当たらない。

 

何かが、すっと抜けていくように感じる。

駐輪場の景色は、こんなにも単調で色あせていたかな。

 

彼がこのぐらいの時間に登校することを偶然知ってから。

それからのわたしは、この時間に間に合うように学校へきて、自転車通学でもないのにここへと足を運んだ。

何か明確な理由がわたしの中にあったわけじゃない、たぶん。

だけど。

気がつけばいつもこの時間に来て、彼を探していた。

吸い寄せられるように、自然に。

 

そして、ここで彼との僅かなたったニ十分ぐらいの時間を過ごしていた。

時間が短くとも、彼の心の端に触れることでわたしの心は温かくなって。

色んなものが色づいて、キラキラと輝いていた。

だから、わたしにとってはたとえ冷たい風が吹き抜ける冬だとしても、この場所は温かなイメージがあるんだ。

 

なのに、それが今は変わっていた。

温かで色鮮やかだったイメージが、冷たくて色あせた灰色へと塗り替えられていく。

場所も、時間も、寒ささえも。

昨日までと、さして変わりはしないのに。

この場所に感じるものがまったく違っている。

 

「……せんぱい?」

 

いない。

わかっている。

呼んでも、答えてくれる人はいないんだってことくらい、わかってる。

さっき探したから、わかってるんだ。

けど、だけど。

弱々しく彼を呼ぶ声は、無意識に、勝手に零れ落ちるんだ。

 

視線は縋るように辺りを、いや、彼を探している。

さっき見渡したのに、また懲りず彼を探して視線を這わす。

校庭に、いない。

わかってる。

ここにも、いない。

わかってる。

わたしの隣に、傍に、いない。

……それも、わかってる。

 

「…………」

 

髪を揺らす風が冷たかった。

彼と昨日、ここで別れた時と同じで。

 

吐く息は白くて、鼻も頬も冷えて少し赤く染まっているだろう。

昨日より制服の下に厚着した服も、首に巻いたマフラーも、カイロを仕込んだ温かな手袋も着けているけど。

これだけ温かな格好をしているけど。

それでも、冷たく感じた。

昨日よりさらに。

彷徨わせていた視線を、諦めるように上へ放る。

 

「……雨かなぁ」

 

人がいなくなったからか、それとも雨の前触れなのかわからないけど。

辺りには、しんっと重くて仄暗い空気が漂っていた。

おぼろげでも見えていた太陽は、その姿を完全に隠してしまって。

そうなれば勿論、日光の温かさは感じられないし、周りも朝だと言うのに薄暗い。

 

降るかな?

降らないと、いいな。

今日は慌てて、折り畳み傘しか持って来てない。

傘が小さいんだ。

だから降らないで欲しい。

空を見上げてお願いしてみる。

……あぁ。

けど、厳しいかもしれない。

だって。

 

濃い黒に覆われた空は、今にも泣きだしそうだから。

 

 

 

 

 

    ×  ×  ×  ×

 

 

 

 

 

部活の掛け声、友達を遊びへ誘う声、教室に残り何気ない会話に花を咲かせている声。

色々な声が、あちらこちらから聞こえてくる。

それらはどれも、学校が終わった解放感と嬉しさを表現するかのように活気で満ち満ちていた。

授業中のため息がでるような陰鬱な空気は、もう遠い彼方のこと。

 

外に目を向ければ、黒く濁った雲が空を埋め尽くしているけど、雨は降ってはいない。

午前中に多少はぱらついただけで、なんとか持ち直した。

その後は地面が濡れることなく、無事今に至っている。

祈りが通じたのかもしれない。

そっちの祈りは、だけど。

 

まあ、誰の祈りがお天道様に届いたかはわからないけど、このままいけば小さな折り畳み傘で足やカバンの端を濡らして帰らなくて済みそうだ。

最近はただでさえ身震いするほどに寒いのに、もし雨がはねて靴や足が濡れようものなら、寒風による容赦ない総攻撃に晒されちゃう。

乾燥は任せろー、と言わんばかりに雨で濡れた箇所に吹きあたる風が冷たいのってなんの。

体感温度マイナス三度状態の出来上がり。

だからこそ、この雨雲祭りの中で天気が持ち直してくれたのは非常にありがたい。

 

が、だからといって今後も雨が降らないとは言い切れなさそう。

視線を上へと向ければ、空には灰色を濃くした雲が見渡す限り続いていて、いつ雨がちらつき始めてもおかしくなさそう。

雨の準備出来てますよと、そう言わんばかりの曇天空模様だ。

 

いつもだとこんな日は、生徒会の仕事が溜まっていなければ役員の皆を帰らせて、わたし自身も早々に学校を立ち去るのだけど。

今日はまだ、こうして学校に残っている。

 

理由は、まぁ、なんていうのが正しいのだろう。

簡潔に、言葉として形にすることが難しいあやふやなものばかりなんだけど。

空模様が重く暗い雲に覆われているように、わたしの心もまた、重く暗く冷たい何かに覆われていて。

その、わけがわからない感情に振り回されて、疲れてしまったから。

そして、あの場所に居るはずの彼に触れたいがために。

と、言うのが正しいのだろうか。

ともかく、わたしはそこへ向かうために、今も学校に残っているのだ。

 

天井の無い中庭からは、こんないつ雨が降るかわからない天候でも、ワイワイと楽しそうな声が聞こえてくる。

賑やかにはしゃぐ人たちを横目に、わたしは教室棟の向かい側へと歩を進める。

教室や中庭から笑い声たちが薄くなっていき、それに反比例して部活の掛け声が少しだけ大きくなる。

中庭の楽しげな声とは違い、こちらの声は真剣みを帯びた声が漂う。

あー、サッカー部最近行ってないなー。マネジャーの仕事そんなに嫌いじゃないけど、今はなぁ。

 

「ん?」

 

ぶるぶるとポケットの携帯が震えた。

取り出してぱかりと携帯を開いて見てみると、メールが一件。副会長からだ。

どうしたんだろう?

今日はそこまで生徒会の仕事も残ってはいないし、こんな天気だからと言うことで生徒会はなしってことにしたんだけど。

小首を傾げて疑問に思いながら、ぽちぽちと操作してメールを開いてみる。

 

「……んふふ」

 

文面を見て、小さく笑う。

今のわたしはきっと、にやにやと意地の悪い顔をしているに違いない。

 

メールの内容は、副会長と書記ちゃんが少し仕事を片付けてから帰るとのことが書かれてあった。

大層な仕事も残っていないから、今日は生徒会はなしと言ったのに。

あの二人、本当に仕事するために残るのかなー?

なんて考えて、意地が悪い返信をしてやろうかとも考えたりする。

だが、いつも世話をかけている二人のことだ。

気づかない振りをしてあげよう。

 

優しくて気の使える上司に感謝、してくださいよね。

なんて、ここにいない二人へ心の中でこっそりと呟きながらメールを作成する。

内容が伝わったこと、わたしも学校からすぐに帰らないこと、何かあったらいってくださいってことを簡単に書き留めて返信。

送信が完了したことを見届けて、ぱたりと携帯を閉じてポケットへと戻す。

 

さて、わたしの目的地も、携帯をつついているうちにもうすぐそこだ。

ここは、特別棟三階の一角。

他にも活動している部活はあるはずなのに、この辺りはさっきまでの喧騒が嘘のように落ち着いてる。

すっと研磨されるように、澄んだ静けさがここには漂う。

それが、人通りの少ない特別棟という立地条件ゆえなのか。

それとも、あの教室から流れてくるような穏やかな温かさからなのかはわからない。

 

ふわりと微かに香る、優しい紅茶の香り。

ひとつ、またひとつとそこへ近づくと、強く張りつめていた心の張りが緩んでいく。

表情も、気分も、自然と明るく華やいでいく。

無機質だった足音には、ほんのりと色がついていく。

 

そしてたどり着いた、空き教室。

プレートには何も書いておらず、代わりにシールがペタペタと数枚張り付けてある、変わった教室。

 

こんこん。

軽くノックをする。

居るだろうか。

居てくれているだろうか。

ほんの少しの緊張感とも、高揚感ともつかない鼓動の僅かな高鳴り。

 

「どうぞ」

 

僅かな間を置いて教室の中から聞こえる、戸に遮られてもわかる冷たくも芯が通った声。

それに促されて、戸を開ける。

 

すると薄く香っていた紅茶の香りがふわっと広がって、撫でるように鼻腔をくすぐる。

目をゆるりと閉じたくなるような、心地いい香りにふわふわとほだされる。

温かな教室の空気は、ここへ来るまでに冷やされた体を包むように温めてくれる。

 

「こんにちはでーす!雪ノ下先輩、結衣先輩!」

 

「あっ!いろはちゃん、やっはろー!」

 

「いらっしゃい、一色さん」

 

中に入ると、端っこには無造作に積まれた机と椅子ある。

教室の真ん中あたりには、長机が一つと、三つの奇妙な配置の椅子があって。

その奇妙な配置の椅子に座る、二人の女の子が出迎えてくれる。

 

一人は、ふわふわと揺れる茶髪でお団子を頭に作り、無邪気で無垢で、はっとするほど素直で天真爛漫な笑顔を咲かせる女の子と。

 

一人は、すとんと落ちるような真っ直ぐな黒髪流し、絵画のように美しく、端正に整った顔立ちに、穏やかな微笑みを湛える女の子。

 

わたしの大好きな二人の先輩がそこにいる。

この教室に。

それだけで、たったこれだけで。

僅かな息苦しさまで覚える陰鬱な気分が、溶けるように薄れていく。

 

「一色さん、紅茶でいいかしら?」

 

「はいっ、ありがとうございます。いただきますー」

 

「どーぞ、いろはちゃん。座って座って!」

 

結衣先輩がすすっと、わたしがいつも座る定位置に椅子を持って来て、ほらほらと手招きする。

その横で雪ノ下先輩が、手慣れた手つきで水音を奏でながら紅茶を淹れてくれている。

 

わたしは、ゆっくりと戸を後ろ手に閉める。

冷たい場所とわたしの間には境界線が引かれた。

わたしはもう、温かい場所にいる。

冷たい場所は、もう向こう側だ。

 

一歩、彼女たちの方へ。

もう一歩、あの温かな輪の近くへと。

歩くたびに湧き上がる小さな、くすぐったい幸福感を勿体ぶるようにゆっくりと。

 

用意してもらった椅子へ、すとんと腰を下ろす。

さらりと流れる黒髪がさらりと視界の端に映って、小さく小さくかちゃりと音が鳴ると、肩の力がすぅっと抜けるいい香りがした。

 

「どうぞ」

 

「ありがとうございます。いただきまーす。」

 

出されたばかりのティーカップを、手で包む。

……あったかい。

紅茶の味と香りを損なわないように調節された緩やかな温度は、冷たくなっていた手のひらに熱を宿す。

口をつける前に小さく息を吸うと、柔らかで優しい香りがわたしの瞼を自然と下げていく。

その息を吐くと、穏やかな香りの波がわたしをそっと揺らした。

 

「いろはちゃん、今日はどしたの?何かあった?」

 

「いえー、特に何かあってきたわけじゃないんですよー。なんとなく、ですかね?」

 

「そう。大したお持て成しは出来ないけれど、ゆっくりしていって」

 

「はいっ。……んふふー」

 

自然と綻ぶ表情。

薄く、細くなる世界。

冷めていた体と心に、じんわりと熱が帯びていく。

紅茶のように緩やかに。

 

ちらりと長机の端を見やる。

そこには女の子二人と極端に置かれた、主なき空席の椅子。

所在なさげにぽつんと、誰かを待つように静かに佇んでいる。

 

その空席に、わたしの何かがちくりと痛んだ。

熱を帯びたはずなのに、じわりと影から忍び寄るような薄ら寒さを感じる。

 

「そう言えば先輩、まだ来てないんですかー?」

 

冷たい何かにちくりと刺されながらわたしは、そう尋ねる。

すると、結衣先輩が思い出したかのようにぽんっと手を叩く。

 

「あぁーそうそうヒッキー、平塚先生に呼び出されてるんだって。だから、ここに来るのはたぶんそれが終わってからかなー」

 

「本当に、どれだけ平塚先生に呼び出されてるのかしら」

 

「まーた、なにかやらかしたんですかねー?」

 

「んーその話聞いた時のヒッキー、嫌そうな顔してたし、そうかも」

 

「真面目に物事に当たればいいのにもかかわらず、わざわざ捻くれた返しをしたがるからそうなるのよ」

 

この場にいない彼の話。

絶対、先輩最初は屁理屈捏ねて言い訳してるよね。

そんでもって、それに苛立った平塚先生に何かされて。

最終的には平謝り。

絶対そう。

 

嫌そうな顔をして平塚先生に絞られている彼を想像して、くすくすと笑みが零れた。

結衣先輩も雪ノ下先輩も、見ればくすくすと笑っていて。

三人して彼のことで笑っていたことに気が付いて、くすくす、は三人でさらに大きくなった。

 

あぁ、楽しいな。

ここへ来るまでのことが嘘みたいだ。

冷たいわけのわからないあの感情が、全部が全部なくなったわけじゃないけれど。

それでも、この二人の傍に来てからは、楽しいと素直に思える。

 

わたしは奉仕部の先輩三人に、どれだけ助けられているのだろう。

生徒会選挙をきっかけに始まった、わたしと先輩達との付き合い。

決して長いとは言えないけど、それでもわたしが困っている時には、必ずこの人たちが傍にいてくれた。

ほんとうに、たくさん助けてもらって、たくさん教わった。

厳しくも公平に、優しくも素直に、捻くれながらも不器用に。

 

この人達がいてくれたからこそ、今のわたしがある。

そう断言できるくらいには、今のわたしはこの人達に影響されている。

まだまだ未熟かもしれないけど、この人達と会うまでのわたしと比べれば、随分成長できたと思う。

 

だから、もし、この人達に何かあった時。

出来る限り力になりたい。

わたしを助けてくれたように、わたしも助けたい。

わたしに出来ることなんて限られていて、この人達が解決できないことをわたしが解決できるとは、あんまり思わないけど。

だけど、それでも。

例え、小さな小さな一欠けら程度の微力でも。

力になりたい。

 

面と向かってはまだ、言えない。

まだまだ、そう言えるほど成長出来ていないから。

だから今はまだ、それは心の中にしまっておくんだ。

 

「あっ、そう言えばねー」

 

わたしが大きな大きな秘密事を心の内に隠していると、結衣先輩が何気ないことを話始めた。

それに合わせてわたしの言葉をそこへ混ぜる。

雪ノ下先輩は訂正を入れながら、優しく微笑んだ。

それは途切れることなく、肩肘をはることなく、自然と、会話は弾んでいく。

一つ一つの会話が、心躍るように楽しくて、足をばたつかせたくなるくらいに嬉しい。

 

このまま。

今日は完全下校時間までここで。

それまで、この輪の中で。

ここへ来るであろう、彼を待とう。

温かな輪の中で。

 

 

 

 

 

どれくらいの時間が経っただろう。

ひらひらと降り積もる言の葉と、しゅわしゅわとした幸せの粒たちに包まれていたのは、あっという間だったような、とても長い間だったような。

木漏れ日のような、優しく穏やかな輪の中で微睡んでいると、こつこつこつと戸をノックする音がした。

 

「どうぞ。お入りください」

 

雪ノ下先輩がそう言うと、おずおずと戸が遠慮がちに開いていく。

ゆっくりと開いていく戸の奥から、ちらと顔を覗かせたのは気弱そうな少女。

制服を規定通りにきちんと着て、眼鏡をかけた三つ編みの少女は、びくびくと緊張しながらも礼儀正しくぺこりと頭を下げてこの部屋へ入ってくる。

 

「おっ、お邪魔します。あ、あの私、一年の藤沢と申します」

 

そう言って、雪ノ下先輩と結衣先輩に目をやり、頭をまたぺこりと下げる少女。

 

「あれ?書記ちゃん?どうしたのー?」

 

これまた珍しい。と言うか初めてだ。

我らが生徒会書記の書記ちゃんが、この部へ訪れたのである。

この書記ちゃん、メールによれば副会長と二人で生徒会の仕事をしていたのだが。

仕事が終わったのだろうか?

昨日の時点で、面倒な仕事は粗方終わっていたしありえない話じゃない。

でも、仕事が終わったからと言って、ここへ来る理由にはならないし。

 

「あっ、一色さん。そのー、えっと」

 

書記ちゃんは、言いずらそうに言い淀む。

んー?どしたんだろ?

言い淀む彼女を、小首を傾げながらも見つめる。

 

「生徒会の仕事してたらね。その、会長の判子がいる書類があって……」

 

「……あぁーなるほど」

 

つまること、お呼び出しってことか。

それなら、こうして彼女がここへ来たことも、視線を下げ気味にバツの悪そうにしているのにも納得がいく。

 

わたしはまだ一年生だけど、これでも生徒会長。

生徒会の長なのだ。

まだまだ責任能力の無い高校生が組織する生徒会でも、やっぱり少しはそれを求められるわけで。

何かしらの行事があれば、学校側も一応全生徒を代表している生徒会に、この書類に書いてあることに文句はありませんよー的な同意を求めてくるのだ。

とは言っても、大体がサインを書くか、生徒会長の判子をポンと押す程度の簡単なものだけど。

 

「すいません雪ノ下先輩、結衣先輩。わたしちょっと行ってきますー」

 

後ろ髪を引かれる。

くんっと引かれる、そんなもんじゃない。

鷲掴みにされて、体が浮きそうなくらい後ろに引っ張られている。

本当は行きたくない。

ここに、いたい。

二人の輪の中に、いたい。

 

「えぇ。また私たちに手伝えることがあったら言って」

 

「そうそう!いろはちゃんなら遠慮なんていらないからね?」

 

二人の表情がすこし曇った。

でも、すぐにわたしに優しげな微笑みを向けてくれる。

惜しく思ってくれることも、気遣ってくれていることも。

わたしを引っ張る、見えない手の力を強めた。

 

「はいっ!ありがとうございますー!」

 

けど、わたしは立ち上がる。

二人の微笑みに、しっかりと返事をする。

 

わたしは、立ち上がらなければならない。

この人達に何かあった時に、力になれるようにするために。

この人達に甘えているだけは、もうやめたんだ。

だからいくら引きずられようとも、立ち上がる。

わたしのためではなく、この人達のために。

 

「それでは、また!」

 

ぺこりと頭を下げてから、びしっと敬礼をして、空き教室の戸をゆっくりと名残惜しみながら閉める。

とん、と音を立てて閉まる戸は、わたしとあの場所を隔てる境界線を再び引き直す。

 

寒いなぁ。

さっきまで温かな部屋にいたからか、廊下の寒さが余計に身に染みた。

一歩、進むごとに優しい紅茶の香りが少しずつ遠ざかって行く。

 

「……ごめんね、一色さん」

 

申し訳なさそうに眉を下げる書記ちゃん。

たぶんわたしを自分たちの都合で、呼び出したことを心苦しく思ってくれているのだろう。

わたしだって以前は、やる気もなくて嫌々やっていたけど、最近は生徒会長としての自覚が出てきたんだ。

だから、役員の皆の作業が円滑に進むのならば、ある程度の呼び出しは構わないのに。

ほんとこの子は。もーほんっと良い子だなぁー。

 

「いいよー気にしないで、書記ちゃん!」

 

「……うん。でも、一色さんすごく楽しそうだったし。悪いことしちゃったよね」

 

少しでも、わたしを気遣ってくれている彼女の罪悪感を小さくするために、調子を上げて揚々と言葉を返す。

それでもまだ、しゅんと落ちている彼女の肩をぽんぽんと叩く。

 

「ほーらっ!早く行かないとー、副会長が、書記ちゃんを、待ってるんだよねー?」

 

「ちっ、ちがっ!私じゃなくて一色さんを、だよー!」

 

軽い冗談を織り交ぜると、ようやく彼女の申し訳なさそうな表情が変化した。

わたわたと焦りながらあーでもない、こーでもないと言い訳のように言葉を並べる彼女に、くすくすと笑ってしまう。

 

温かなあの場所から離れて行くと、心のどこかがぎしぎしと冷えていく。

少しばかり緩んでいた心の糸が、再びぎりぎりと張りつめていっている。

それでも、今日の放課後以前に比べると幾分かは緩みが出来ている。

幾分かは、だが。

 

隣を歩く彼女に気づかれないように、小さく小さく心の中で息を吐く。

今日は、彼に会えなかった。

それどころか、昨日の昼を境目に後ろ姿ですら見つけられていない。

同じ学校にいて、こんなにも近づこうとしているのに。

運命の悪戯なのか、すれ違っている気がする。

偶然、交わった交差点みたいに。

偶然、交差しただけで、向かう先が違う道は、もう交わることはないのだろうか。

 

ただ、一日。

たった、一日。

彼に会わなかった、だけなのに。

今日だって、あのままあの場所にいれば会えただろう。

その程度。

だから、そんなに深く考えることもないのに。

なのに、なぜ悪いことばかり考えてしまうのだろう。

 

駄目だなぁ。

何も、わかんない。

なんなんだろう。

なんですれ違ってるんだろう。

もし、もしこのままだとしたら。

もうわたしは、あの温かな彼に。

 

「……あっ」

 

ぽつりぽつり。

ぽたぽたぽた。

 

小さな塊がぶつかって、色んな所からこつこつびしびしと音が聞こえる。

地面には小さな透明の染みが、じわりじわり広がっていく。

独特な匂いが土から、アスファルトから、湯気のように湧き上がる。

 

「……降ってきたね」

 

書記ちゃんが、そう言いながら空を見上げた。

今まで持ちこたえていた空が、ぽつりぽつりと雨を落とし始めた。

 

いや、違う。

これは、空が留め切れずに零れだした、涙雨だ。

二月の寒さに冷やされただろうその雨は、きっと悲しいくらいに冷たい。

 

「……ううん。たぶんもう、雨は降ってたんだよ」

 

そうだ。

あの時から、既に。

 

「えっ?そうなの?」

 

わたしの言葉に困惑する書記ちゃん。

ごめんね、変な事聞かせちゃって。

空とわたしを交互に見る書記ちゃんに、誤魔化すように曖昧な笑みを返す。

 

ぽつぽつとぱらついていた雨は、少しづつ雨足を強める。

一度零れだした涙雨は、決壊したダムのようにざーざーと落ち始め、すぐに止む気配はない。

 

落ちる滴を辿るようにして、空を見上げた。

そこには朝から変わらず雲があって。

青空も太陽も、見えなかった。

 

ねぇ、せんぱい。

 

 

この雨は、いつか止むんでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三話 解けゆく霜は雨になる

 

 

 

 




 









お疲れ様でした。
今回も拙い文ながら、ここまで読んでいただきましてありがとうございます。

今話は、前話と比べて大分投稿期間が空いてしまいました。
前話の一週と二日投稿から二週と四日投稿と、倍です倍。
速筆の方々が本当に羨ましいです。
コツとか、あるんでしょうか。
でもまあ、羨んでも筆は早くはなりそうにないので、遅筆の自分はコツコツ書くこととします。

……お目汚し失礼しました。


ともあれ。
今話ですが、気づけば一万五千文字にも及ぶ文字数になってしまいました。
一話と二話を足して、いい勝負くらいの文字数です。
書いてたらどんどん増えてしまって。
二話に分けると言うことも考えたのですが、如何せん区切り所がピンとこず。
この長いままの投稿となりました。

そう言うこともあって、冒頭のお疲れ様です、なのです。
本当にお疲れ様でした。
これからも区切り、表現等、上達するよう努力していきますので、ご容赦を。

今年の投稿は、この三話が最後となります。
年明け後の四話を、お楽しみにしていただけると光栄です。
それでは皆様、良いお年を。




 

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