――西暦250年6月30日午後1時30分――
紫の能力が覚醒してから二週間後の良く晴れた日の事、私と紫は森の中に居た。
「グルルルル!」
数歩先には牙を見せながら威嚇する一匹の犬妖怪の姿がいて、全身から殺気を溢れさせ今にも襲いかかってきそうだ。私の実力なら目を瞑ってても勝てるレベルの低級妖怪だが、紫は震えながら後ろに隠れていた。
「こ、怖いよおねえちゃん。本当にやるの?」
「大丈夫だ。紫ちゃんの力ならなんとかなる」
「で、でも……」
「毎日一生懸命特訓してきただろ? いざっとなったら私が助ける。だから思いっきりやってこい!」
「う、うん!」
「グワアアアア!」
意を決して前に踏み出した瞬間、牙を剥き出しにした犬妖怪が飛び掛かる。紫はまだオドオドしながらも「えいっ!」と、かわいらしい掛け声と共に手の平を突き出した。
すると、紫の正面に黒い穴が現れて犬妖怪の体をそのまま呑み込み、数秒後に同じ場所に開いた時には、白目を剝いた状態で倒れていた。
「ど、どうなったの?」
私はその犬妖怪の近くにしゃがみ込み、様子を確認する。目に見えた傷は無かったものの完全に息絶えていた。
「こいつはもう死んでる。お前ひとりの力で妖怪を倒したんだ。やったな紫ちゃん!」
「わ、わたしが……」
未だに両手が小刻みに震えている紫は、目を大きく見開き、唖然とした様子で死体を見下ろしていた。
ここ二週間、日々の生活の合間に特訓を重ねていったことで、紫は驚異的な速度で成長していた。覗き穴程の小さいスキマから、洞窟サイズまで作れるようになった他、スキマの中に人や物が入る事に気づいてそこに身を隠せることを知り、更にはスキマ同士を繋げて別の場所に瞬間移動することもできるようになった。そして今日、初めて妖怪相手に能力を使ったのだが見事に撃退して見せた。これは紫の妖怪人生にとって大きな一歩となる。
「私が初めて魔法を使えるようになったのに一ヶ月掛かったからな。そう考えると、紫ちゃんは天才だぜ」
もちろんこれは未来を知っているからという理由ではなく、この三週間の成長ぶりを見ての発言だ。私が命名するならば、今の彼女はまだ『空間を操る程度の能力』でしかないが、年を重ねて妖力が上がれば、境界を操ることだって可能だろう。
「おねえちゃん――そっか、この力があればもう怯えなくてもいいんだ。わたしを追い出した人間達にだって……」
「紫ちゃん、その考えは良くない。考えなしに能力を使うような真似は絶対に駄目だぜ」
「どうして? わたしの力があれば、なんの能力もない人間なんか恐れる必要ないでしょ?」
無邪気に人間を見下す発言をする紫は、やはり根っからの妖怪なんだなと再認識させられるもので、元人間の私とは大違いだ。
「確かに人間は弱い。けどな、弱いからこそ人間は一か所に集まって地域社会を築き、知恵を振り絞って外敵に対抗するんだ」
「そうなの?」
「ああ。そうやって人間はこれまで生きて来たんだ。もし妖怪が人間よりもあらゆる点で優れていたら、とっくに人間という種は絶滅しているだろ?」
「言われてみれば……」
「別に人を襲うなとは言わない、それが妖怪の本能だからな。しかし無差別に襲ったり、後先考えずに行動すると必ず手痛い反撃を食らうことになるぜ。私も昔、無計画に勝負を挑んで痛い目を見たからな」
妖怪に寛容な幻想郷でも、ルールを無視して暴れ回った妖怪は博麗の巫女や退魔師に退治される。まだまだ妖怪の勢力が盛んなこの時代なら、尚更その危険性が高い。元が人間だからという依怙贔屓ではなく、純粋に彼女を思っての助言だった。
「おねえちゃんが? ――わかった。ちゃんと考えて行動するよ」
「えらいぞ」
素直に頷く紫の頭を撫でると、彼女はニコリと微笑み、心を和ませてくれる。長く暮らしていれば情も湧くもので、彼女が本当の娘のような愛おしさすら感じつつあった。
(――これならもう大丈夫だな。名残惜しいけどそろそろ潮時か……)
だけど二週間前から抱いていた予感は、今日を持って確信に変わる。長かった私の弥生時代の生活も、とうとう終わりの日が来た事に。
それから妖怪の死体を処理した後、私と紫は洞窟へと帰ってきた。
すっかりこの時代の拠点となっている洞窟内は、来たばかりの頃よりも多くの物が増え、風を凌ぐために作った布を継ぎ接ぎしただけの小さなテントには、布を重ねただけの簡単な布団や、土器鍋などの生活用品が散らかっていた。
私は洞窟の天井に張ったロープに干していた替えの洋服や、地面に置かれたキノコ採りにも使った採集道具を片付けていく。ここにある土器の一つでも持ち帰ればかなり考古学的な価値がありそうだが、後々面倒なことになりそうだし、もったいないけど置いていこう。
「おねえちゃん、なにしてるの?」
洞窟の入り口から響く舌足らずな甘い声に背中を向けたまま、作業の手を止めずに答えた。
「帰り支度さ」
「え――?」
「紫ちゃんはきちんと能力を使えるようになって、生きる術も学んだ。もう私が傍に居なくても大丈夫だぜ」
「そんな……」
やがて片付けも終わり、リュックサックを背負った私は「じゃあな、これから先も頑張れよ」と洞窟を後にしたが、紫は追いすがってきた。
「ま、待っておねえちゃん! わたしも行く!」
私は足を止め、振り返りながら言った。
「――頼むよ。これ以上我儘を言わないでくれ」
「だって、だって……意味が分かんないよ。どうしてそんな、急に別れるなんて言うの!?」
「元からそういう約束だったろ? もう私には心残りがないんだ」
「やだやだ! わたしはおねえちゃんと一緒に居たいし、もっと色々教えて欲しいの! お願いだからもうわたしを置いていかないで! うわぁぁぁん!」
腰にしがみついたまま、終いには森中に響き渡りそうな大声で泣き出してしまい、私はほとほと参ってしまった。
(弱ったな……。まさかこんなに懐かれていたなんて、どうやって説明したらいいんだろ)
そんな時、私の身に突然浮遊感が生じ、目線が幼い紫と同じくらいになった。何事かと思い目線を下にやると、下半身が足元に開いたスキマに呑み込まれているではないか。抜け出そうと地面に手を付いて力を込めても、まるで石のように硬くびくともしない。
「こ、こらっ。何をするんだ! 私を出せー!」
「イヤ。もう絶対に離さない。おねえちゃんはいつまでもわたしと一緒に居るの。ウフフ」
「……!」
ぶら下がった両手で握りこぶしを作り、涙声でそう言い放つ紫に私は言葉を失った。彼女は頬に一筋の涙の跡が残り、一見すると微笑んでいるように見えるが、その目は笑っておらず、現代で散々見た胡散臭く謀略をめぐらしている時の表情にそっくりで、末恐ろしさすら感じさせる。
今の紫はまだまだ発展途上だし、自らの魔力を全開放して強引に力押しでいけばスキマから抜け出せるだろう。しかしこの感じでは地の果てまで私を追いかけてきそうだ。流石に時間の境界は飛び越えられないだろうけど、居なくなった私を延々と探し続ける――なんてことになったら現代にも影響が出かねない。
何よりも紫の気持ちを考えれば、心の整理を付ける間もなく、あまりにも唐突すぎる別れの言葉だった。こんな子供を追い詰めて、私は酷い女だな。
「――なあ紫。私はな、今よりもずっと遠い明日から来たんだ」
「え?」
「この時間に来たのはほんの些細な理由でさ、私の居た時代にはもう絶滅していたセイレンカさえ手に入れてしまえばすぐに帰るつもりだった。それがまさか幼い頃のお前に会っちまうなんて、運命の悪戯とは恐ろしいもんだぜ」
「なにを、言ってるの?」
「お前とは今よりもずっと遠い明日で、同じ志を持って戦った。時には敵対することもあったけど、歩く道は同じだった。お前が居なければ、私は理想の世界に辿り着けなかったよ」
どうせ今の紫に言っても分からないだろうな、と諦めにも似た思いを抱きつつ私は語っていく。
「紫。私とお前では生きる時間が全く違うんだ。お前がここで独り立ちしてくれないと、私は死ぬことになる」
「死ぬ……? おねえちゃんが?」
「そうだ。私はお前が創り出した理想の世界で生まれたんだ。そこでは私を待っててくれている古い友達がいて、他にも沢山の友達が楽しく暮らしている。――もちろんお前もな」
「友達――!」
「酷い事を言っているのは充分理解してる。私の事を恨んでくれても構わない。それでも私は帰らなきゃいけないんだ! 頼む、この通り!」
そう言って私は両手を合わせ、誠心誠意拝みこんだ。
咄嗟に思いついた
紫の顔を見上げる勇気もなく、刻一刻と時間だけが過ぎていく。風に揺られ、草木がざわめく音だけが聞こえる中、紫は絞りだすような声で口を開いた。
「――そっか、そう、だよね。おねえちゃんはわたしだけのものじゃないもんね」
直後に能力は解かれ、私は地面が下からせりだされるような形で元に戻る。紫は俯いていて表情が見えなかったが、その影となる地面には水滴の跡が残っていた。
「わたし、自分の事ばかり考えていて、おねえちゃんの都合なんてちっとも考えてなかった……! ごめんなさい……」
「私の方こそ辛い思いをさせてごめんな紫。いつか必ず会いに行くからさ、その日が来るまで待っててくれないか?」
「うん……! うぅぅ……」
両手で顔を覆い、肩を震わせながら声を殺して泣く紫を、私は優しく抱きしめていた。
紫が落ち着いた頃、私は彼女と手を繋ぎながら森の中を歩き、目印を付けた大木の前へと戻って来た。その間の会話は無く、紫は浮かない表情で唇をギュッと結んだままだった。
私は一度木の頂上と幹に巻き付いた赤いリボンを回収してから、大木の前で紫に向き直る。
「それじゃあ紫。元気でな」
「うん……。グスッ」
泣きはらした目で私を見上げる紫の頭を撫でた後、大木の傍まで歩いていき、心の中で唱える。
(タイムジャンプ! 行先は西暦215X年9月30日午後2時30分!)
足元に歯車が幾つも噛み合った魔方陣が現れ、そこから眩い光が生じ、世界が段々と真っ白になって遠ざかって行く。
「おねえちゃん! 必ずわたしに会いに来て! 約束だからね!」
「ああ、約束だ! 【遠い未来で宜しく!】」
胸の前で両手を握り、感情を剥き出しにして叫ぶ紫に手を振りながら、私は元の時間へと帰って行った。瞳の裏にその姿をしっかりと焼き付けて――。
――西暦215X年9月30日午後2時30分――
タイムジャンプが終わり、私は森の入り口の平原に立っていた。弥生時代より暖かく慣れ親しんだ空気、後ろには小高い緑の丘が延々と続き、果てには空が見える。
私は大きく伸びをしながら「んーっ! どうやら、何事もなく帰ってこれたみたいだな」と、過去から持って来た疲労感を体内の二酸化炭素と共に吐き出した。
(それにしても、幼い紫は素直で可愛かったなあ。あんな子が将来胡散臭いスキマ妖怪だなんて呼ばれるようになるんだから、月日の流れってのは恐ろしいぜ)
はたして、弥生時代で紫と過ごした三週間は現代に影響があったのか。まあここが幻想郷なのは雰囲気で分かるし、私の予感では何も代わってない気もするけど、後で霊夢に紫の事をそれとなく聞いてみよう。
(さて、後は300X年に跳んで、月の都にセイレンカを届ければいいんだけど――今は温かい風呂に入りたい気分だな)
弥生時代の生活では満足に水浴びすることができず、私の自慢の髪はバサバサになってしまい、定期的に水洗いしていたものの、洋服からは生臭い獣のような匂いがしていた。アリスや咲夜ほどオシャレに拘っている訳ではないけれど、小汚い恰好で開き直っていられるほど女は捨ててない。
私は一度自宅に戻ることにした。
それからニ時間半後、浴槽に長く入り汚れた衣服も新調して身支度を整え、身も心もさっぱりした私は玄関を開け放つ。外はすっかり夕方となっていて、西日が私の家を照らしていた。
「よ~し、行くか!」
もうすぐ夜になるが、タイムトラベラーの私に時間なんて合ってないようなもの。意気揚々と飛び出そうとしたその時、目の前の開けた空間がチャックのように裂け、足を止める。
(! もしや――)
裂けた空間から現れたその人物は、実体のない境界に腰かけ、「あら、魔理沙じゃない? ごきげんよう」と優雅に挨拶する。こんな芸当が出来るのは幻想郷広しといえどもただ一人。
「ゆ、紫ち――!?」
正真正銘大人になった紫の前であらぬことを口走りかけたが、咄嗟に自らの右手で口を塞ぐ。危ない危ない、今の彼女を子ども扱いしたら何を言われることか。
「なによ? そんなに驚いて」
「い、いや別に!? き、気のせいだろ?」
「その割には、さっきから目が泳いでるみたいだけど?」
「そ、そうか? は、ははははは」
「変な子ねえ……」
訝し気な紫に、私は空笑いを浮かべるしかなかった。
『おねえちゃーん!』
つい先程まで一緒に暮らしていた幼い紫の姿がちらつき、まともに顔を見ることができない。なんなんだこの気持ちは? 平静に、平静に……。
「と、ところで、私に何の用だ?」
「たまたま近くを通りかかったら、玄関を出る貴女の姿が見えて声を掛けたのよ。ちょうど良かったわ。実は貴女に訊ねたいことがあったんだけど――」
「わ、悪いな。今ちょっと急いでるんだ。また今度にしてくれ、それじゃ」
「待ちなさい」
会話を切り上げて飛び立とうとした私の右腕を、紫の右手が掴む。細い腕ながらも見かけによらず力強く、かといって締め付けられているような痛みもない、絶妙な力加減だった。
「貴女の用事なんか時間移動すればどうとでもなるでしょ? 私の時間は有限なのだから、こちらを優先して欲しいわ」紫は手を放す。
「う……」
「それに今の貴女は明らかに怪しいわ。ちゃんと私の目を見て話しなさい」
「お、おう。そうだな」
私は胸に手を当て一度深呼吸をした後、目の前で怪訝な顔つきの紫を見据えた。
曇りのないパッチリとした紫色の瞳、すらっとした鼻に艶めく唇、透き通る肌。腰まで伸びた長い金色の髪は、毛先を束ねて幾つものリボンで留めていて、頭には赤い細リボンが施された白いナイトキャップを被っている。服装は紫色を基調にしたフリルの付いたドレスを着用し、両手には真白のオペラ・グローブ、足にはこげ茶色のレースアップロングブーツを履いており、彼女が差している薄桃色の日傘とも相まって、貴族の令嬢のような印象を受ける。
すっかりと成長して美人になった紫だが、幼い時の面影は僅かに残っていて、私は生き別れた娘に再会した時のような感慨深さを覚えていた。
「なあに? 今度はぼうっとしちゃって。まさか私に見惚れちゃったのかしら?」
「か、からかうなよ。馬鹿」
図星を突かれ咄嗟に否定するも、それを見透かすように紫はクスクスと笑いながら、「まあ冗談もこれくらいにして、本題に入らせてもらうわ」と切り出した。
「今からおよそ6時間近く前、貴女宇宙飛行機に乗って幻想郷を飛び出して行ったでしょ?」
「気づいていたのか」
「あの機体には私の能力が一部使われてるのよ? 気づかない訳ないじゃない。どこへ行っていたのか教えてもらえないかしら?」
微笑んでいる紫は、尋問と言うよりは、心を開いた友人に訊ねるような優しい声色だった。別に隠すようなことでもないし、ここは正直に話すことにしよう。
「一週間前に私がタイムトラベルの体験談を話した時、39億年前にアンナという宇宙人の少女に会って、また遊びに行くと約束したエピソードがあったんだけど、覚えているか?」
「ええ、生命が芽生える前の地球に不時着してきたのでしょう? 印象に残っているわ」
「今日になってその星に行こうと思い立ってな? 昼前くらいの時間に、にとりの家に向かったんだけどさ、機体が未整備でおまけにワープに使う燃料も足りないらしくて、一度300X年の月の都に向かうことにしたんだ」
「300X年に?」
「元々あの宇宙飛行機は31世紀の月の技術で改良されたものだからな。22世紀の現代では、まだまだテクノロジーが未発達だと思ったんだ」
「ふ~ん」
相槌を打ちながら話を聞いている紫。
あまりに自然過ぎて今気づいたけど、こうしてお互いに会話が通じているということは、弥生時代での私の行動による歴史改変の影響は起きていないらしい。
「けどその割には見当たらないようだけど」
「それがさー、依姫の奴整備してもらいたいなら金払えって言って来てさ、しかもその額が私とにとりの全財産を合わせても足りないと来たもんだ。しょうがなく彼女の要求を呑んで私だけ幻想郷に戻って時間遡航してさ、三時間くらい前にようやくこの時代に帰って来た所なんだ」
「へぇ、大変だったのねえ。いったいどんな要求をされたの?」
「永琳の誕生日プレゼントとして送るために、大昔に絶滅した花を持ってきて欲しいとさ。『それくらいなら』と思って安請け合いしたけど、見つけ出すのにかなり苦労したぜ」
「そう――」
実はもっと凄いことがあったんだけど、本人の前でそれを話していいのか迷う。今の紫からしてみればイメージ崩壊も良い所だし、掘り返してほしくないのかもしれない。さっきもそれとなく匂わしてみたけど何の反応もないし、敢えて知らないふりをしているのか、あるいは本当に忘れちゃったのか。私は更に彼女の反応を探る事にした。
「採って来た花がちょうどこの鞄の中に入ってるんだけど、見てみるか?」
「もちろん、太古の昔に絶滅した花なんて興味あるわ」
「少しだけだからな」
もったいぶるような素振りを見せつつ鞄を開けると、眩い光が私達の目を突き刺し、思わず手で遮った。
「うわっ、眩し!」
やっと目が慣れて来た所で、鞄の中を落ち着いて観察すると、その光源はなんとセイレンカから発せられていた。どうやら結晶化した花弁には光を溜めこむ性質があるようで、まるでダイヤモンドのように光の乱反射が起こっていた。
「わぁ! とても綺麗な花ねぇ~! 名前は何て言うのかしら?」
「『セイレンカ』だぜ」
「『セイレンカ』――清らかで美しく、この花にピッタリね……! 心が癒されていくわ――」
紫はうっとりとした様子で花を眺めていたが、私は心に穴が開いたような気持ちでその横顔を見つめていた。
(この花はお前と一緒に苦労しながら採って来たんだけど、すっかり私の事は忘れちゃったみたいだな)
まあ彼女が幼い頃の話だし仕方のないことか。小さな溜息と共に私は鞄を閉じる。紫は少し残念そうに「もうお終いなのね」と呟いていた。
「――とまあそういう訳で、今から300X年に行くんだ」
「貴女の話は良く分かったわ。気を付けてね」
「ああ」
そう言って前に足を踏み出し、紫の横をすれ違った後、彼女の声が聞こえた。
「――ようやく貴女にこの言葉を伝えられる日が来たわ。幼い私を助けてくれてありがとう。貴女と過ごした三週間は、私の一番の思い出なの」
「!」
「またね、〝おねえちゃん″」
振り返った時にはもう、彼女の姿は影も形も無くなっていた。
(紫――! ふっ、そういうことか)
思い返してみれば、一週間前に私が年表を公開した時、200X年より過去の空欄に注目してたり、念を押すようにタイムトラベルの確認があった。なるほど、初めから知っていたんだな。
「――またな、紫」
既に居ない彼女に向けて呟き、私は永遠亭に向けて飛んで行った。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
以下に補足説明を書いておきます(読まなくても本筋には関係ありません)
172話から続いた弥生時代のエピソードは、46話で話していた紫の過去話及び、番外編の第153話の本文中に記された(β)の内容に含まれます。
(ちなみに番外編では魔理沙の動機、滞在日時、目的が異なっているので、魔理沙が紫を助けたという事実は変わりませんが、今回の話で描写された西暦215X年9月30日の二人の会話は起こりませんでした)