数分前。
彼は自分の愚かしさを心の底から呪っていた。
(この地底に普通の人間がいないなんて最初からわかってただろうが! 何を呑気に修理の人間がくるのを待つつもりになってたんだ! その間抜けさの代償がこれだ! クソ、どうすれば…………!?)
なりふり構わず逃げることも考えた。
だが、そんなことをすれば明らかに怪しまれる。ただでさえ見知らぬ人間が、自分達を見るなり逃走を図ればどう思うか。
……間違いなく、後ろめたいことを隠していると思われるだろう。
そうなってしまえば、後は地獄の鬼ごっこの始まりだ。
本物の鬼を相手に、旧地獄の中で、生死を賭けた鬼ごっこ。
…………ははっ、笑えない。
かと言って、この鬼達と一緒にいることもありえない。
空にはあの適当な自己紹介で誤魔化せたが、普通の相手ならあんな挨拶は通用しない。
どうしても、自分の情報を漏らすことになる。
前門の虎、後門の狼。
……この場合に限って言えば前門の鬼、後門も鬼。
まさに絶体絶命の窮地。
歯噛みしながら打開策を必死に探そうとする暁は、手を自分の胸元に伸ばす。
服の上からでは見えない、その『保険』の存在を再確認し、少し冷静さを取り戻した。
(…………いざという時はコレがある。ラクカジャとコレがあれば、少なくとも死ぬことはない)
……その一瞬の思考の停滞。それが致命的だった。
打開策を見つける暇もなく、鬼の集団はすぐそこまで来てしまっていた。
「馬鹿どもを連れてきたよ。遅れてすまないね」
集団の先頭を歩いていた鬼が口を開いた。
空はその言葉に頷いて、地下センターの方を右腕に装着した多角柱で指し示す。
「今日はここを案内することになってるので、パパッと終わらせちゃってください!」
「案内、ねえ。珍しいね、ここに誰かが来てるなんて。そこにいるのはさとりの妹だろう? 確か……こいし、だったね。どういう風の吹き回しだい?」
その鬼はこいしに視線を移して尋ねる。
「お兄ちゃんと地底観光してるの!」
と、元気よくこいしは言った。
その返答に鬼は怪訝そうな表情になる。
「…………お兄ちゃん? 私の記憶では、そんなのはいやしなかったはず
だけど。少なくとも聞いたことは一度もない」
「うん! そうだよ! お兄ちゃんと会ったのはついこの前だし!」
「………………ふぅん。そのお兄ちゃんってのは?」
「え? そこにいるでしょ?」
こいしは離れたところに立っていた暁へと走っていき、その背中に回りこむ。
鬼はそこでようやく彼の存在に気づき、胡乱げな瞳をむけ——その顔を見るなり、驚愕したように目を剥く。
「……!! …………へえ、こいつは面白い。この馬鹿どもの後始末をするつもりだったが………………いや、まったく今日はツイてるね」
(…………ついにロックオンされたか)
事ここに至ってはもはや覚悟を決めるしかない。
静かに笑いはじめた鬼に対峙し、ここからどう話が転がってもすぐに反応できるように、眼前の相手の一挙一動を注視する。
「……どうも。貴女とは初対面だと思うのですが。私の何が琴線に触れたのか、よければお聞かせ願いたい」
まずは対話から始めよう。
そう考えて彼は口を開いた。
「…………ククッ、いや、なに……ちょっとばかり聞いた話を思い出してね。それと、その気持ち悪い喋り方はやめてくれ。鳥肌が立つよ」
「……そうか。なら普通に話すことにするよ」
「ああ、それでいい。それでこそ——
鬼は口角を吊り上げて愉快げな笑みを暁にむける。
その笑顔を見た彼は警戒心とともに、チリチリと毛が逆立つような嫌な気配が背中を這い登ってくるのを感じた。
……この感覚を味わうのはこれが初めてではない。
「…………バレてたか」
「人間だってことがかい? それくらい、気配からすぐにわかる……と言いたいところなんだけどね。残念ながら、そうじゃない。容貌からの判断さ」
目を細める彼女はゆっくりと足を前に出す。
「恥ずかしながら、こいしに言われるまで私はお前の気配を察知すらできなかった。こうして目の前にいるとわかってる今ですら、どうにも雲を掴むようなあやふやな気配しか伝わってこない」
「………………影が薄いってことか」
鬼の言いたいことを理解しながらも、あえて的外れな返答をして肩をすくめる暁。
鬼は構わず言葉を続ける。
「お前が何者なのかは知らないが、少なくともただの人間じゃない——
黙って鬼の話を聞いていた暁。
一歩ずつ近づいてくる鬼を眺めていたが————
「お前が萃香と戦った人間か」
「……………………………………ッッッ!!!?」
目の前まで肉薄されて、ようやく
警戒心を最大にし、何をしてくるかわからない相手から目を離さなかった。
なのに。
この鬼が近づいてくることを認識していたにも関わらず、こうして眼前に立たれることをあっさりと許し。
あまつさえ、
——人間に限らず、二足歩行する生物は「重心を崩す」ことによって歩くことができる。
もっと端的に言ってしまえば、バランスを崩すことで前にむかって「
その動作が本能として染み付き、自然なものとして作用する。人間はその重心が崩れ、また保持される一連の流れを「歩行」と認識するのだ。
この鬼の動きはその条理を無視した、不自然な動きだった。
一切重心が崩れず、ブレず。
——俗に言う、『歩法』。
人間が生み出したいくつもの戦闘技術のうち、古武術と呼ばれるもの。その一端
である。
こちらに歩いてきているはずなのに、重心は崩れていない。
重心が崩れていないなら動いていないはずなのに、こちらに近づいてきている。
視覚的情報から矛盾するはずのその二項を読み取った彼の脳は一時的にエラーを起こし、「鬼が近づいてくる」という情報から繋がる次の動作へと移行することができなかったのだ————
「——
「——————!!!!」
何事かを話そうとしていた鬼——勇儀の台詞を最後まで聞かず、彼は反射的にペルソナを纏い、右手に握ったナイフを目にも止まらぬ速度で眼前の
彼自身の思考すら置き去りにした雷光の如きその一閃は、違わず標的の首めがけて疾り——
「おいおい、落ち着きな。私はお前をどうこうするつもりは…………ッ!?」
そっと、止められる。
真剣白刃取りなどという次元ではない。
押しとどめるように出された掌に正面からナイフはぶつかり、その衝撃を全て吸収され、刃は一ミリたりとも食い込まない。
尋常ではない肉体の硬さに加え、人間には到底持ちえない動体視力と反射神経。
それらを頭のどこかで冷静に分析しながら、彼は既に理解していた。
今の行動は、この状況における
敵意は無かったらしい相手に思わずこちらから手を出してしまった。
………………。
ここで、少し状況を整理してみよう。
通常、彼は持っている中で一番強い武器である「ミセリコルデ」を愛用している。
しかし何かトラブルが起きて「ミセリコルデ」を紛失、あるいは使用できない状況になることも想定し、手持ちの中で二番目に強力な「名人のパリングダガー」も携帯している。
…………しかし。
しかしだ。
ここで思い出してほしい。
彼は先日の伊吹萃香との戦闘中、彼女に能力を行使された拍子に
言うまでもないが、この二本はまさしく「ミセリコルデ」に「名人のパリングダガー」である。
…………つまり、今の彼は丸腰なのか?
——それは違う。
一番も二番も使えないとしても、彼はまだ武器を持っている。
念には念を、石橋を叩いて渡るような用心深さによって、もう一本の予備を用意していた。
まさか使うことはないだろうと思っていた、その武器の銘は「
「ミセリコルデ」にも「名人のパリングダガー」にも劣るこの武器には、しかし唯一無二の特徴があった。
この武器によって攻撃した相手に——
————状態異常、『
極限まで加速する思考。
間近にある勇儀の目がゆっくりと赤く染まっていく様子がはっきりとわかる。
全身が総毛立つような危機感と焦燥を覚え、すぐさま逃げようとし、極めて鈍重に感じる足を後ろへ動かして——
トンッ、とこいしに当たる。
…………ダメだ。
彼女を掴んでこの場を離れるほどの時間はもうない。
だからといって、自分だけ逃げれば
逃げることはできない。
そう判断した彼は咄嗟に後ろ足でこいしを横に
出来るだけ痛くならないように軽い彼女の体を足で引っ掛けるように持ち上げ、一気に振り抜く。
「……えっ——きゃぁっっ!?」
驚きと痛みで悲鳴をあげるこいし。極力痛くないようにしたとはいえ、小柄な彼女への
金魚すくいの金魚のように宙を舞う彼女は何が起きたかはわかっていないだろうが、ただ自分に「裏切られた」という思いを抱いただろう。
そのことに身を切られるような心の痛みを覚え、声にできない謝罪の念を溢れさせながらも、前の勇儀を見据える。
……大丈夫だ。
【アルセーヌ】を纏った今の自分はただでさえ頑丈になっている上に、〈マハラクカオート〉で防御力も上がっている。
地底にむかうと決まった時、まさにこんな状況のために用意した『保険』もある。
これなら鬼の一撃だろうと————
…………そんな淡い期待は、振り上げられようとするその「拳」を見た瞬間に消し飛ばされた。
……………………あれはダメだ。
激怒によって上乗せされた威力も相当量あるだろうが、元々の破壊力が計り知れない。
鬼の肉体が生み出す「全力」というものを自分はまだ侮っていたらしい。
超極大の物理ダメージ——いや、
ただの拳も、あらゆるものを突き抜けた先には物理法則さえ超えるのか————
(ここからの回避。不可能。物理無効。ダメだ。アレは物理で受けきれるものじゃない。〈ランダマイザ〉。間に合わない。拳。鬼。鬼……オニ?)
刻々と迫る拳を前にし、すさまじい速度で思考を回転させ続けるジョーカーは何かに思い当たり、口を——
「【オ」
————刹那。
全てを吹き飛ばす暴虐が顕現した。
そういえば、今まで作中ででてきたアイテムは全部ゲーム内に登場しているものです。
永琳達への贈り物や鈴仙のタンコブを冷やしたスプレーなども、きちんとゲーム内にあるもので賄ってます。
言われずとも既にわかっていた方も多いでしょうが、今まで言っていなかったので、一応。