兄貴…………姐さん…………
ゴシゴシと目をこすりながら立ち上がる鈴仙。
それにつられて視線をあげ、鈴仙の後ろに他の三人が立っていたということに気づいた。
おそらくだが、鈴仙をなだめている途中に部屋から出てきたのだろう。
多くの感情が混じる彼女らの視線に何を言えばいいかよくわからず、とりあえず挨拶する。
「えと、あー…………おはよう、ございます……?」
「「「「…………」」」」
これであってますか? と問うように、全員の顔を見回す。
挨拶に対する返事はなかったが、何故だか緊張した様子だった全員の肩の力が抜けた……気がする。
鈴仙が後ろに下がり、代わりに一人が前に出てくる。
彼女は…………ん?
あれ、
「…………え、
「……おはよう。皆、心配してたのよ……とてもとても、言葉では伝えられないくらい」
…………どうやら、合っていたらしい。
寝起きで頭の調子がどうにも悪いせいか、名前をど忘れしてしまっていた。
一応思い出したものの、半分くらい自信が無いまま呼んだため、不安そうな声色になってしまったが、そこには触れられなかった。
何か別の要因で自分が不安になっていると思われたらしい。
「…………
「……はい? 何言ってるんですか? そんなの当たり前でしょう。ここで自分がどれだけ過ごしたと————」
————軋む。
頭蓋の奥で、何かがギシギシと軋む。
…………どれだけ? …………どれだけの日数、ここにいた?
…………ここ? …………
————この人たちは、
…………落ち着け。
冷静になって思い出せ。
………………そうだ。ここは、永遠亭。
ここに来てからは数週間が経っている。
彼女達は、永遠亭の住人。
名前は——
「…………鈴仙、永琳、輝夜、てゐ……でしょう? わかりますよ」
「…………」
安心させようと笑いながら答えたが、永琳の表情は暗くなる。
慌てて返事が遅れたことの弁解をしようと口を開き。
「………………
ガチリ、と見えない何かを噛んだように全身が強張る。
そのことに他ならぬ自分が一番戸惑い、驚く。体の反応に思考がついていかない。
…………誰って、決まっているだろう。
自分は自分だ。他の何者でもない、「 」で——
刹那、突然足元が崩れさったような錯覚に陥る。
そこにあることを疑いもせず踏み出した先の階段がぽっかりと空いていたような感覚。
唐突に訪れたその感覚を認識したと同時、彼を襲ったのは言いようもない焦燥と——甚大な、恐怖。
「じ、自分は、じぶ、じ、じジじっ…………!!!?」
ガチガチと音が聞こえる。
違う、これは自分の歯が鳴る音だ。
自分? 自分とは何だ? 自分、自分、自分自分自分俺僕私は————
「——! ————、——!? 」
眼前に永琳の顔がある。
何か懸命にこちらに語りかけてきているが、その口から出る音を聞きとれない。
ギアが空転するように、大切な何かが欠落していて噛み合わない。
繋がっていたはずの
このままだといずれ決定的な破綻を迎える。
理屈抜きにそう直感した、その時。
ポスッと背中に感じる軽い重さとともに、意味を成す言葉が聞こえた。
「
その言葉は電撃のように脳内に響く。
欠けていた何かがピタリとはまり、ギアの空転が解消された。
思い出せなかった名前、そしてそれに付随する記憶の全てが一気に奔流となって自分を満たしていく。
「自分」は「来栖暁」だ。
それを再確認した瞬間に焦燥と恐怖、そして体の震えが消える。
張り詰めていた気が緩んで脱力し、息をゆっくりと吐く。
「落ち着いた? だいじょーぶ?」
「……ありがとう。お前のおかげだ……」
背後からかけられる声に心底から感謝し、礼を述べる暁。
しかし、そこではたと気づく。
永琳を含め、永遠亭の住人は全員自分の前にいる。
では、今後ろから自分に話しかけているのは誰なのか……と。
錆びついた人形のようにぎこちなく首を回し、背中に抱きついている人物を確かめる。
そこにいたのは、先ほど寝かせてきた謎の少女。
「
謎の少女——こいしはそう言って、暁にニッコリと笑いかけた。
自分がどうなっているのかわからず、そこに謎の少女の存在もあいまって混乱の渦に叩き込まれた暁は、彼が自我を取り戻したことに安堵した永琳達に説明を受けることとなる。
「……つまり、ペルソナと同化してた俺をなんとか戻せたはいいものの、俺は何日も昏睡状態から目覚めなかった、と…………」
「そういうこと。何か言うことは——」
「ほんっっっっっとうに、すいませんでしたっっっ!!!!」
みなまで言わせず、彼は全員に混じり気なしの本気で土下座し、謝罪する。
まさか自分がそんなことになっていたとは夢にも思わなかった。
部屋に入って呑気に挨拶などしていた自分に皆が絶句していたのも道理というものだろう。
申し訳なさと不甲斐なさのあまり、顔を上げられない。
「まったくね。しっかり反省なさい」
永琳は額をこすりつけんばかりに深く頭を下げる彼の顔にそっと手をそえ、優しく言う。
「…………けど、とにかく無事に目覚めてくれて、本当によかったわ……」
手を離して心底ほっとしたように絞り出された彼女の声に続き、輝夜とてゐも口を開く。
「……暁、この貸しは高くつくわよ? 生半可なことでは返しきれないと覚悟しておくことね」
「ハラハラさせないでほしいっての。お師匠様に呼ばれてあんたを見た時のあの衝撃はしばらく忘れらんないよ」
「はい…………」
何も言い返せず、ただ頷くことしかできない暁。
一人黙っていた鈴仙は彼のもとにツカツカと歩み寄り、顔を強引に上げさせて視線を合わせる。
彼女は瞬きする暁に一言ずつ刻み込む。
「二度と、こんなに、心配させないで。…………わかった?」
「は、はい」
完全に目が据わった彼女に何度も頷く暁。
それを見て満足したのか、鈴仙は目をそらし、足早にその場を立ち去った。
微笑ましげにその後ろ姿を眺める永琳達。
その隣で暁はまたも自分の背中に乗っかってきた少女、こいしに話しかける。
「…………で、その……君はなんでここにいるんだ? こいしちゃん、だっけ?」
「なんでって、失礼なー! お兄ちゃんが助かったのは私のおかげでもあるんだよー?」
「え、どういうことだ?」
衝撃の事実に彼女の素性のことはいったん頭から抜け落ち、聞き返す暁。
「お兄ちゃんを助けた手順、まだ説明してなかったね。教えてあげようか?」
「……頼む」
ニコニコと笑うこいし。
真剣な面持ちになり、暁は彼女の話を聞く姿勢をとる。
「えっとねー、簡単にまとめるとねー」
「………………」
「あ、そうそう、まずはお兄ちゃんの深層意識から自我を引きずり出すために、
「…………そうだったのか」
「そうだよー。私は『無意識を操る程度の能力』を持っててね? 無意識については専門家みたいなものだから、お兄ちゃんの状態とかいろいろわかったの。だから、私のおかげでもあるんだよー?」
笑顔のままで語られる彼女の言葉に黙りこむ暁。
多大な迷惑をかけたことを改めて実感し、拳を強く握った。
「…………ありがとう」
「うん! どういたしまして!」
感謝されたことに嬉しそうにはしゃぐこいし。
背中に抱きつかれたままの暁はやりにくそうにしながら立ち上がる。
「わわっ?」
「っと、平気か?」
落ちそうになるこいしを咄嗟におんぶし、落ちないようしっかりと支えなおす。
「うん! わ! お兄ちゃん、背高い! すごーい!」
「はは、楽しいか?」
「すっごく楽しい! 背が高いと、こんな風に景色が見えるんだね!」
子供の無垢で純粋な笑い声に癒される暁。強張っていた体から余計な力が抜ける。
楽しそうにはしゃぎ続けるこいしを構いながら、自分がそんな有様になっていた原因を思い出そうとする。
(……確か、人里で鈴仙と打ち上げしようってことになって、それから…………そう、俺だけ外に出たんだ。それで、その後は————!! そうだ、神社だ! 思い出した! あの場所で、伊吹萃香とかいう鬼に……!)
——鈴仙が調整したという自分の波長。おそらく完全な状態ではなかったそれを、さっきの発言とともにこいしが微調整してくれたのだろう。
ぼやけていた記憶が戻ってきた。
固い表情になる暁の顔は見えていないこいしだが、雰囲気から何かを感じたのか不思議そうに尋ねる。
「どうしたのー?」
「…………ちょっと、思い出したことがあって。……永琳、輝夜、てゐ」
呼びかけに振り返る三人。
話がある、と険しい顔のままで彼はそう言った。
もう一度さっきの部屋に入り、思い出したことを皆に説明する。
鈴仙だけはこの場にいないが、後で伝えることにしよう。
「…………あの伊吹萃香と戦ったぁ?」
「はい。しばらくの間やりあってたんですが、彼女の能力によってペルソナと俺自身を一つにされたあたりから記憶が飛んでます。十中八九、あれが原因でペルソナと同化してしまったのではないかと」
「「「…………」」」
素っ頓狂な声をあげる輝夜に頷いて詳細を補足すると、また皆が黙りこくってしまった。
何か失敗したかと焦りかける暁の視界に、目を輝かせているこいしが入る。
「鬼の四天王と互角に渡り合えるなんて! 暁お兄ちゃんってすごいんだね! 普通の人間なら、ただの鬼相手でも絶対勝てないんだよ?」
「互角とは言えないな。終始押されっぱなしだったよ。鬼ってのがあんなに強いなら、確かに大抵の人間はどうやっても勝てないな。俺も危うく死にかけたし」
彼は自分の天敵とも呼べるような能力を持っていた恐るべき鬼を思い返し、身震いする。
「…………暁、本当にわかってないのね。鬼なんて妖怪でもよほど腕に自信があるやつくらいじゃないと相手にならないわよ? その中でも四天王と呼ばれる鬼は別格。それを弾幕ごっこ抜きの真剣勝負で相手にして生き残るなんて…………勝ち負け関係なく誇っていい偉業なのよ?」
永琳は呆れるべきか感嘆するべきか決めきれず、どっちつかずの声を漏らす。
輝夜とてゐも呆れたような視線を暁に送るが、こいしは一人だけ楽しそうに笑う。
「すごいねー! お兄ちゃんくらい強かったなら、私たちと一緒に暮らせるんじゃないかなー?」
「……そういや聞きそびれてたけど、こいしはいったいどこから来たんだ?」
「…………私達も聞いてなかったわね。あなたが結局何者なのか」
無邪気な笑顔のこいしに尋ねる暁。
永琳もそのことに思い当たり、真面目な表情になって彼女に問う。
暁を元に戻すことに協力してくれたことから害意はないとわかっているが、彼女の素性は不明な部分が多すぎる。
その場にいる全員の視線をむけられたこいしは依然として笑顔のまま、朗らかにこう言った。
「私は地底にある地霊殿ってところから来たよ? あ、お兄ちゃんは知らないかもしれないけど、地底っていうのは鬼がいっぱい住んでるところだよ! 他には妖怪とか怨霊とか!」
ピシリと空気が凍りつく。
暁は地底について霖之助に聞いたことを思い出す。確かに鬼が住む場所だと言っていた。
一般的な鬼はアレほどではないと聞いても、あれだけ苦戦した相手と同族である鬼がたくさん住む場所と聞いては、断じて好印象にはならない。その上怨霊やら妖怪やらまでいるらしい。
…………決して行きたくはない。
幻想郷の住人である永琳達は暁とはまた違う観点で驚いていた。
地底にある地霊殿という場所。
そこに住んでいると聞く妖怪は悪評しか聞かない、かの有名な——
「…………
「あ! 知ってるの?
「「「…………」」」
永琳、輝夜、てゐ。
揃って重苦しく沈黙しだした彼女達の様子に何かを察した暁。
こいしだけがその場の微妙な雰囲気にまったく頓着せず、ニコニコと笑っていた。
こいしの呼び方に悩みましたが、やっぱり「お兄ちゃん」ですよね!