稗田家九代目当主、稗田阿求。
彼女は悲嘆に暮れて自室に篭っていた。
心配する家人達が代わる代わる訪れてきたが、誰一人として部屋の中には入れなかった。
彼女がこうなってしまったのは、昨晩の『怪盗』などと名乗る男に盗まれたものが原因である。
彼女の人生の集大成ともいえるもの。それを全て盗まれてしまった絶望は筆舌に尽くしがたい。
何をするべきかもわからず、あの賊が捕まり、盗まれたものが返ってくるという儚い希望に縋るしかない。
だが、そんなことが起こるとは到底思えなかった。
泣けもせず、怒ることすらできず、ただただ呆然として部屋の端で俯いて座り込んだまま何時間も経つ。
そして彼女は、今日何度目になるかもわからない部屋の外からの声を聞く。
「阿求様、どうかお食事だけでもなさってください……このままでは、お体に障りが出てしまいます」
「…………いらない」
「…………左様でございますか。では、扉の前に置いていきますので、気分がよくなられましたら、召し上がってください」
「…………」
食事を乗せた盆を置く音がし、家人が立ち去る足音が遠のいていく。
(…………なんで。なんで、よりにもよって、アレを持っていったの。アレを持っていかれるくらいなら、他の家財をこちらから手渡すくらいなのに。なんで、アレを)
数え切れないほど繰り返した自問に答えは出ない。
虚無感と絶望で心に大きな穴が空いたような心境になる。
(アレがない私に価値なんてない。私の人生はアレを完成させるためにあったのに。私のこれまでの人生は、全て無意味なものになった。生まれてきた意味を、生きる意味を、無くしてしまった)
自責や後悔の念は次から次へと溢れてくる。
ぐるぐると頭の中に渦巻く感情を整理できず、吐き気すら覚える。
それからどれほどの時間が経っただろうか。彼女は不意に視線を上げる。
何故かは自分でもよくわからない。ただ、なんとなく空気が変わったような気がしたのだ。
その違和感の正体をぼんやりとした頭で探る。
(……………………ずいぶんと、静か)
そう、静かなのだ。
こちらを心配する者や、あの賊について話し合う者。
家中にいるたくさんの人の声が一日中意味を成さないノイズのようになって耳に届いていた。
しかし、今は不気味なほどに静かになっている。
いつの間にか、誰もが寝静まる深夜になってしまったのだろうか。
そんなことを頭の片隅で考え、また視線を床に落としていると、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
少なくとも、まだ一人は起きているらしい。
無感情にその足音が自分の部屋の前までくるのを聞きながら、今日何度も吐いた拒絶の言葉をまた吐く用意をする。
こないで。いらない。やめて。
どれでもいい。何を言われようと、今の私が返せる言葉はこれだけしか——
————ガラリ。
なんの前置きもなく、いきなり部屋の戸を開けられた。
そして声がかけられる。
「こんばんは」
「!?」
阿求はその声に弾かれたように反応し、バッと顔を上げて部屋の入り口を見やる。
そこにいたのは他でもない。
あの『怪盗』だった。
「昨晩の品を返却に参りました」
「…………!? …………!! …………!?」
状況に理解が追いつかず、口をパクパクとさせる阿求。
意味のある言葉を口から出すことができない。
「こちらです。さ、どうぞ」
怪盗はこちらに歩いてくると、脇にかかえていたものを目の前に置く。
それは紛れもなく、昨日盗まれたアレだった。
目を疑い、耳を疑い、これが夢ではないかと疑う。
置かれた桐箱と目の前に立つ男を交互に見る。
彼女が事態を把握していないことを見てとった男は桐箱の蓋をとり、彼女に直接手渡す。
「どうぞ確認してください」
「…………」
阿求はこわごわと伸ばした手でそれを受け取り、中身を取り出し、パラパラとめくっていく。
……間違いなく昨日盗まれたものが全てここにある。
「……………………なんで?」
思わず疑問が口から出る。
独り言のようなそれに目の前の男は答える。
「極めて勝手な都合ながら、私という存在を大々的に広める必要があったので、この人里の有力者だという貴女を標的に定めました。しかし、私は別段その箱と中身が欲しいわけではないので」
「…………」
わからない。
この男が何をしたいのか、そして何を考えているのか。
今の言葉が本当かどうかもわからない。
本当だとして、わざわざ盗んだものを返しにくる意味もわからない。
泥棒が一度侵入した場所にもう一度やってきてまで、律儀に盗品を返そうとする必要がどこにある。警備も強化されている。捕まる危険だって——
「……! 他の皆にいったい何をしたの!?」
はたと気づく。
この男がここにいるということは、あれだけの厳重な警備を潜り抜けてきたということ。
そんなことは普通できない。
できるとするならば、それは…………
思い当たる可能性に血相を変える。
しかし男はなだめるように両手を前に出す。
「落ち着いて。屋敷の人達に一切危害は加えてません。ただ眠ってもらっただけです」
「……眠らせた? どうやって?」
「さあ? 秘密です。まあ怪盗として、これくらいのことはやってみせますよ」
適当な言葉ではぐらかされる。
しかし今の言葉で少し安心した。
いつの間にか誰の声も聞こえないようになっていたことも、全員が一斉に眠ってしまったと考えれば納得できる。
無論、それが事実だという証拠はない。
しかし、この男が自分達に害意を持っていないことも確かだ。もしそうなら、悠長にこの男と話などできていない。
とっくに殺すなりなんなりされているだろう。
「それで、どうです? 確認はとれました?」
「…………ええ。確かにあなたが盗んでいったものはここに全部揃ってる」
自分で口にしてようやく実感する。
本当に、返ってきたのだ。
様々な感情が一気に溢れ、胸をぎゅっと押さえる。
怪盗は自分を静かに見下ろし、口を開く。
「……安心しましたか?」
「…………………………当たり前です」
なんとか言葉を絞り出す。
怪盗はさらに言葉を紡ぐ。
「……これで貴女の目標である『幻想郷縁起』の完成は再び可能となりました」
「…………ええ、その通りよ。本当に——」
よかった。
そう言おうとした。
だが、怪盗はこう言った。
「————
思考が、停止した。
呼吸がつかの間止まり、口から出ようとしていた言葉は霧消する。
知らず知らずのうちに、男の顔を見上げていた。
……男の表情は仮面に覆われてわからない。
「……………………え?」
理解不能な発言だった。
この男は何を言っているのか。
自分の人生をかけたものが無事に戻ってきたのだ。
落胆なんて、するはずが————
「これであなたは『幻想郷縁起』を完成
「…………何を!! 何を言っているんですか、あなたは!! 私の……ううん、私
男の言いように思わず激昂し、言葉を叩きつける。
怒りに燃える阿求の目を怪盗は静かに見つめ返す。
「…………貴女は自らその責務を望むと?」
「当然です! それこそが私の使命なんですよ!」
「…………そうですか。それは失礼しました」
「っ……ええ、今の発言は撤回してください」
あっさりと頭を下げて謝罪する怪盗に気勢を削がれ、怒声を呑み込んでしまった。
瞬きする阿求を見据え、怪盗はまだ話を続ける。
「貴女がその使命を果たすことを願っているのはわかりました。そしてその使命に真摯に向き合っていることも。……ですが」
怪盗は急に口調を強くし、その眼光も鋭くなる。
「
「…………どういう、ことですか」
尋ね返す自分の声はやや震えていた。
これは彼の侮辱のような物言いに対する怒りからくるものだ。
そのはずだ。
断じて、
この男がこれから自分に吐く言葉に怯えているなんて、ありえない。
「『稗田』。初代の
「その知識の集大成こそが『幻想郷縁起』。貴女の使命はそれを完成させ、次代へと伝えること。……なるほど、これ以上ないほど立派で崇高な使命ですね。いやはや、感嘆しますよ。ええ、本当に」
そう言いながら怪盗は肩をすくめ、わざとらしく拍手をする。
だが、その目が放つ光は凍てつくように冷たい。
「……しかしこのシステムには唯一の欠点が存在する。転生を繰り返すうちになんらかの不具合が起こるようになったのか、次第に継承者が短命になっていったのです。これはかの竹林に住む月の薬師にすら治すことのできない症状だとか。……人々はそれを稗田家の宿命だのなんだのと呼んでいますが」
「……そんなこと、今さら言われるまでもありません。誰よりも、何よりも、私自身が一番知っていることです」
まるで鉛でできているかのように重く感じる口を開き、抗弁する。
論理的に考えたのではなく、反射的な反応。
自分の中のナニカが告げている。
————この男の言葉を聞いてはいけない。
しかしそれとは裏腹に、自分はこの男の言葉に引きつけられるように、続きを聞こうとしている。
「そうでしょうね。私のような部外者……外来人に言われるまでもない。その通り。貴女のことは、貴女がもっとも理解している」
同意とともに何気なく明かされた事実。
怪盗を名乗るこの男は、外の世界から来たのだと言う。
「…………そう。貴女が一番よくわかっているはずだ。その使命は崇高で——反面、
「!!!!」
阿求は思わず歯を食いしばる。
そうしなければ、意味を持つ言葉にすらならない何かを口から漏らしてしまう。
聞いてはいけない。
これ以上、聞いてしまっては——
「幻想郷での出来事を細大漏らさず全て記憶し、確固たる事実を記す。人ならざる者達の恐ろしさを忘れず、危機感を薄れさせないように。そして、それをずっと続ける。寿命を持ち、不完全な存在である人間には到底不可能。だからこそ、転生を繰り返す一個人というシステム、『稗田』が生み出された。人とそれ以外が争い、殺しあう時代ではそれこそが最善だった」
「……だがそんな時代はとうに終わった。人と妖怪、神々は適切な距離をとり、共存している。揉め事も『スペルカードルール』という手段によって、平和裏に解決される。人々は、もはや恐怖など必要としていない」
滔々と語る怪盗。
自分は彼の話を聞き続けるうちに、いつしか俯いていた。
「…………恐怖が必要なくなったとしても、人には歴史が必要だ。その意味では、やはり『幻想郷縁起』というものはまだ必要とされているのかもしれない」
「……そ、そうです! だから、私は!」
「————
阿求は一瞬見えた光明に縋ろうとした。
しかしそれはすぐに切り捨てられる。
「人間についての歴史を人間が記さなければいけない理由なんてない。妖怪と友好的な関係を築けている現代で、短い寿命の人間にその役目を背負わせるくらいなら、長命な妖怪に頼む方がよほど合理的だ」
「…………!!」
阿求は反論できず、再び黙りこんでしまう。
「人間以外の者に任せてなんらかの偏見や主観性が混じることを恐れると言うのなら、幻想郷の管理者である八雲紫にでも頼めばいい。明確に中立の立場であるし、むしろ人間よりも公平に、ただ事実のみを記すだろう」
「……まあ、偏見や主観性について心配する必要はないでしょうね。貴女が持つ『幻想郷縁起』の草稿を読みましたが、どれもこれも主観と偏見に満ちていましたし」
嫌味のようなそれを聞き、怪盗を睨む。
だが相手はそれを正面から受け、気にもとめず、話も止めない。
「それもまた、妖怪という存在の恐怖を煽るための一端ではあるのでしょうけど…………きっと、それだけじゃない。やむを得ない理由がある。違いますか?」
「…………」
「………………やはり、そうでしたか」
その問いかけに目を逸らす。
怪盗にとって、それは何よりも雄弁に事実を示していた。
「
彼はキッパリとそう断言した。
「『稗田』という宿業を背負った貴女は生まれつき病弱で、家の外に出た姿すらほとんど目撃されてないと聞きました。そこにある『幻想郷縁起』の草稿に書かれた情報の大半はおそらく受け継いだ知識でしかなく、貴女自身の体験というものが欠如している。知識と伝聞でしか知らないものを記しているわけだ。偏見や主観が混じるのも当然です」
阿求は厳しい指摘に両手を握りしめ、激情を抑えこむ。
それでも抗弁しようとはしなかった。
全て、事実だったからだ。
自分の存在意義を真っ向から否定され、しかしそれに反論できない。
悔しさのあまり、目尻に涙が滲む。
そんな彼女に、先ほどまでとは打って変わって優しい声がかけられた。
「悔しいですよね。なんの関係もない、どこの誰とも知らない何者かにこんなことを言われて。怒りを覚えますよね。貴女のことを本当に理解しているわけでもないのに、わかったようなことを言われて」
「……?」
何を言いたいのかわからず、怪盗の顔を見る。
薄く滲んだ涙で少し歪む視界。
そこに映ったのは、慈しむような怪盗の目だった。
「さっき言ったように、俺は外来人だ。この幻想郷に住む者が当然だと思うことも、俺にとってはそうじゃない。部外者だからこそ、この世界のありのままの姿を見ることができる。そんな俺が断言しよう。全てを『稗田』に押し付けて、誰もなんとも思っていない。そんなのは
「————!!」
丁寧な口調をかなぐり捨て、吐き出されたその言葉。
阿求はそれを聞いて息を呑む。
「俺はあくまで部外者だ。けど、なんとなくわかる。申し訳ないとか、わがままだとか、そんなことを考えて、自分の心を殺しているんだろう」
「…………それは、だって、そうでしょう。先代だって、その先代だって、そのまた先代だって。皆がやってきたこと。なのに、私だけが投げ出すなんてできない。私自身、この使命に誇りだってある。だというのに、私は——」
自分でも何を言おうとしているかわからぬまま、言い訳のように、うわ言のように、阿求は話す。
視線をあちらこちらに泳がせ、何かから逃げようとする。
怪盗はそんな彼女の肩にそっと手を置き、目線の高さを合わせる。
「いいんだ」
「え?」
「怒っていい。泣いていい。喚いたっていい。例えお前が本当に『幻想郷縁起』の完成を望んでいて、しかし心のどこかでそれを拒否してしまっても、誰も咎めない。人間は完全じゃないんだ。矛盾した想いを抱えるのは誰だってある。それを殺す必要なんてない。嫌なら嫌と言えばいい」
呆気にとられ、瞬きをする。
そんなこと、考えたこともなかった。
自分は使命を背負って生まれ、周囲も自分にそれを期待していた。
使命を果たすことは義務であり、自分の誇りでもあった。
それでもなお心のどこかにある鬱屈した想いを自覚する度に自己嫌悪に陥っていた。
しかし、この男はそれでいいのだと言う。
「例えお前が自分の使命を厭う感情を持ったとしても、それと使命を果たそうとする高潔さは二律背反たりえない。無理に感情を抑えたところで、結局はお前が苦しくなるだけだ」
「認めればいい。それもまたお前だ。なんなら俺が聞いてやる。お前はどう思ってきたんだ? 生まれつき使命を背負わされて、人生をそれに捧げることが決定しているなんて聞いて、何も思わなかったか?」
真っ直ぐに見つめてくる彼の目を直視できず、俯く。
「それ、は………………」
「今ならお前に期待という重荷を背負わせ続けてきた、この家の人間も誰一人として聞いていない。こんなチャンス、そうないだろ? 思う存分、全部を吐き出してみろ」
揺れる。
彼の言葉に、どうしようもなく心が揺れ動く。
だが、最後の一歩をどうしても踏み出せない。
迷う彼女をしばらく見つめ、怪盗はおもむろにその仮面を外した。そうして露わになった素顔は、まるで影が張り付いているかのように黒く染まっていた。
怪盗はその仮面をくるりと手の中で回転させ、スッと阿求の顔にあてがう。
いきなりのことに目を白黒させる阿求は仮面ごしに見える男——否、少年の顔を見る。
彼の目は力強くこちらを見据えていた。
「これは仮面。仮面は現実と非現実を切り分け、自分というものを区切るものでもある。この仮面をつけた今、お前はなんでもない、ただの少女だ。『稗田』でもない、ただの『阿求』だ。黙って理不尽に屈するな! お前は、お前だろうが!」
「————!!!!」
雷に撃たれたかのような衝撃。
大きく目を見開き、呼吸はおろか心臓の鼓動すらも一瞬止まったような気がした。
視線を少年と合わせたまましばらく静止していた彼女。
やがて、こわごわと口を開く。
「………………………ぃ」
堰を切ったように、そこからは怒涛の勢いで言葉が流れ出す。
「納得できるわけないじゃない!! なんで私が、私だけが、こんな辛い目に合わなきゃいけないの!? 私だって、普通の生活が送りたい!! ただでさえ短い寿命をもっと楽しいことに使いたい!! こっ、こんな、しんどくて、なのにっ、無意味だとわかっててっ、それでもやんないといけなくって!!」
言葉とともに滴る大粒の涙。
それを流れるままにし、溜め込んできた鬱屈を爆発させる。
「私がこんなものを作ったところで、きっと何も変わりはしない! 変えられないっ! 人里は、平和でっ、妖怪達だって、ふ、普通にっ、暮らしてたりするしっ! そもそも、外の世界を見たことも無い私がっ、何を書いたところで! なんの説得力も無いじゃない…………!」
——一息に言い切った。
嗚咽を漏らし、顔を覆う少年の仮面を両手で強く握りしめる。
心からの衝動をそのまま言葉にし、自分の肩に左手を置いたままの少年にぶつける。
「…………死にたくない。死にたくない! もっと、生きたい! このままじゃ、何もっ、知らないままでっ、そんなの…………認めたくない! 認められないっ!!」
「——ッ!!」
その叫びに呼応するかのように、少女の背中から
一瞬だけ現れてすぐに消えたそれを見逃さなかった少年は驚愕するも、すぐに表情を戻す。
そして泣きじゃくる阿求の背中を優しくさする。
「…………よく言った。泣きたいだけ泣けばいい。俺のことは道端に転がる石ころか、草や木とでも思え。今は、誰も見ていない」
「うっ、ううぅ…………!」
彼は阿求が泣き止むまでずっと寄り添い、背中をゆっくりとさすっていた。
先に言っておきますが、ペルソナを使えるようにはなってません。
阿求が家から出ていなかったりといくつかの独自設定混じりの話でしたが、いかがでしょう。
できるだけ原作から逸脱しすぎないようにはしましたが、苦手な方がおられましたらすいません。