永琳と輝夜の言葉に甘え、永遠亭の風呂を借りた。
浴槽が檜であることまでは予想していたが、まさか浴室全部が檜作りとは思わなかった。
体を洗う石鹸も良い香りがする。きっと高級品なのだろう。
永遠亭の財力を改めて再確認させられながら、ゆっくりと湯船に浸かる。
浴槽の大きさ自体は同じくらいなのに、いつも入っていた銭湯とは明らかに違う。
空間に漂う気品というか、やはりそういう雰囲気からくる違いだろうか。いや、使っている水の違いかもしれない。
はっきりとした理由はわからないが、それでもこの風呂は格別だ。
滅多にできない体験を堪能し、彼は風呂から上がった。
常備されていたタオルをありがたく使わせてもらい、手早く全身を拭く。
香霖堂で購入した服のうち、寝間着用に見繕っておいたラフな服を着る。
頭を拭きながら、長い廊下を歩いて台所に向かう。
途中で輝夜とすれ違い、会釈。
「お先にいただきました。いやぁ、凄いですね。あんな良いお風呂初めてです」
「気に入ってもらえた? まあ、毎日入ってればそのありがたみもそのうち薄れるだろうけど」
「いやいや、それは無いですよ。この一年、公衆浴場で風呂に入ってましたから。寝泊まりする敷地内の風呂に、それも確実に一人だけで入れるなんて、そうそうありがたみは忘れないです」
「…………そ、そう。た、楽しんで? ね? なんならずっと居てもいいのよ?」
「あはは、それはなかなか魅力的な誘惑ですね」
冗談だと思われて軽く流されたが、半分以上本気で言った言葉だ。
彼について知る度に不憫な境遇を強く感じされられる。そこに同情を誘う意図があるわけでも無く、単なる経験談として語られるだけなのだが、それがむしろ尚更不憫に思えてしまう。
——まるで、苦難を背負うことを運命づけられているかのよう。
そんな益体も無いことを考えてしまった。
「じゃあ、俺はちょっと永琳さんのところ行ってきます」
「……そう。じゃあここで先に言っておくわ。おやすみ、暁」
「はい。おやすみなさい、輝夜さん」
暁は一礼して、輝夜と別れる。
少しの間背中に彼女の視線を感じたが、それもすぐになくなった。
歩きながらタオルを首にかけ、戸を開く。
台所では永琳と鈴仙が二人で食器を洗っていた。そこに近づいていき声をかける。
「お風呂いただきましたー。とても良いお風呂ですね」
「それはなにより。もっとゆっくり浸かっていても良かったのよ?」
「いえ、さすがに色々と気後れしまして……それにお手伝いもしたかったですし」
「真面目ねぇ。まあそこまで言うなら。 そうね、洗い終わった食器を拭いて、片付けてくれる?」
「わかりました。じゃあ早速……ん、どうかしたか?」
作業に取り掛かろうとする暁はチラチラ横目で見てくる鈴仙と目が合い、尋ねる。
「え、いや、別に…………な、なんでも」
「ああ。あなたと一緒のお風呂に入るからソワソワしてるのよ。使う浴槽が同じなだけなのに何を気にしているのやら……」
「し、師匠! だからそういうことは言わないで下さいって、さっきお願いしたじゃないですか!!」
「それに対してわかった、とは言ったけど。そうする、とは言ってないわよ?」
「ただの詭弁じゃないですか!!」
「だって、事実じゃない」
「うぐ…………そ、そんなこと言ったって……」
顔が赤くなる鈴仙。
今までだと永琳に続いて乗っかっていた暁もさすがにそのことについては触れられなかった。
「ま、まあまあ。そこは仕方ないですよ。俺が言えたことじゃないですが、やっぱそこは……」
「そ、そうよね! ね!」
「…………あら? やけに鈴仙の肩を持つわね?」
話を聞いていた暁がつい助け船を出すと、鈴仙には感謝で輝く目で、永琳には妖しく光る目で見られる。
…………しまった。
今度はこっちがロックオンされた。
「まあ『友達』の肩を持つのは当然よね。うどんげにも良い『友達』ができて嬉しい限りよ?」
「は、はい……恐縮です……永琳さ」
…………マズイ。今のは完全にやらかした。
案の定、永琳の口角が吊り上がる。
「え? 暁、誰に何を言ったの?」
「いや、それは…………えーと」
「水の音で聞こえなかったからもう一度、はっきりとお願いね」
「えーと、その…………」
視線を泳がせる彼は何か事態を打開できるものはないかと必死で頭を巡らせる。
だがその場にあるのは食器と、きょとんとした様子の鈴仙。……それと永琳。
(……………………ダメだ。逃げ道が無い)
誤魔化しきれないと悟った暁は言い回しを考えながら口を開いた。
「いえ、恐縮ですと言っただけですよ。たったそれだけで」
「誰に?」
「えっと、あなたにです」
(よし、これで上手く切り抜けられ——)
「あなたって?」
「えっ」
(…………なんとしても言わせるつもりか……いや、そもそもそれで彼女自身はどうなんだ。半分自爆みたいなものじゃ……)
チラリと永琳を一瞥する。
「ねえ、あなたって、だぁれ?」
「ぐっ…………!」
……ダメだ。彼女には何の躊躇も無い。
これは言うまで終わらないパターンだ。
観念した暁はしぶしぶと口にする。
「あなたはあなたですよ……永琳」
「…………えっ!? あ、暁!? 今、なんて」
「まあ、確かにそうよね! 言われてみれば当たり前ね。わざわざごめんね? 暁」
「……………………ハハッ」
「言わせてみれば」の間違いではなかろうか。
乾いた笑いを浮かべる暁に手をヒラヒラと振る永琳。ご丁寧なことに、名前の部分をしっかりと強調してくることも忘れていない。
今の今まで感謝の視線を送ってきていた鈴仙は、突然耳にした言葉に慌てふためいている。
「あ、やっぱり手伝いは要らないわ。それより、そっちの部屋にいるのと顔合わせしといて?」
「…………誰です?」
「てゐっていうの。昨日姫様が言ってたでしょ?」
「ああ、お帰りになってたんですか。わかりました、では挨拶してきます——」
満足したから見逃してやる、ということなのか。それとも、せめてもの情けということなのか。どちらにせよ、この場から立ち去る理由を与えられた。もちろん断れるわけもなく、そそくさと彼女らに背中を向ける。
「ちょ、暁! 待ちなさいよ! 今、さらっと師匠のこと呼び捨てにしなかった!? どういうこと!? ねえ、どういうこと!?」
「——それじゃ、おやすみなさい」
「待ちなさいって!! え、師匠、どういうことですか!?」
「ふふ……おやすみなさい」
「答えて下さいよ! 師匠! 師匠ってば!!」
……何か鈴仙の声が聞こえたような気がしたが、きっと気のせいだろう。
足早に台所を出て、永琳が指していた部屋を訪れる。
部屋の扉をノックする。
「ん? どうぞー」
「失礼します」
許可を得たので、特に躊躇することもなく、普通に踏み込む。
割と少女趣味な内装の部屋の中には椅子に座ってこちらを振り向いている小柄な少女が一人。
そして、鈴仙と同じように、頭から兎の耳が生えている。
手元に開いたままの本が置いてあることから察するに、読書中だったと思われる。
「あ、いきなりすいません。その、ご挨拶を、と思いまして……」
「ああ、お師匠様から聞いてるよ。来栖暁、だっけ? ここに住むって」
「はい、よろしくお願いします。あなたは……因幡てゐさん、ですよね?」
「そうそう。さんづけとか要らないけどね。てゐで良いよ。……それよりなんで敬語? どう見ても私はアンタより年下でしょ?」
「いや、お世話になる相手にいきなりタメ口っておかしいでしょう。それにココに住む人達は皆、その…………」
そこで口ごもる暁。
「なに? 私に気を遣ってるなら、別に気にしないから。言いなよ」
「……………………
しかしてゐの言葉に促され、酷く気まずい思いをしながらそう言った。
さすがに女性に対して面と向かって言うには憚られる言葉だった。
だがそれを聞いたてゐは愉快げにケラケラ笑い出す。
「ははは! なるほどね! いや、まったくその通り! 年上扱いされたのは久々だなー」
「す、すいません。失礼なことを……」
「いいっていいって。もう何年も子供扱いされるのに慣れちゃってて新鮮な気分だよ。やっぱこの姿だとどうしてもねー」
「…………気にしてないんですか?」
「全然。得な事も多いしね。昨日だって人里に行ってたけど、人間の大人はだいたい私に良くしてくれるよ。『こんな小さいのに頑張ってるね』とか言って。ま、滑稽っちゃ滑稽だよねー」
あっけからんと言い放つてゐに微妙な顔をする暁。
接し方というか、距離感を測りかねる。
他の永遠亭の住人と違い、外見と中身のギャップが大きい。
見た目がいくらか年上に見える永琳や輝夜には敬語、見た目も精神年齢もほぼ同年代に見える鈴仙にはタメ口。彼女達の場合はそれでしっくりきたのだが、見た目はかなり下の年齢に見えるてゐに対しては最適解がわからない。
「えっと……じゃあ俺はどうすれば良いですか?」
「どうすれば、っていうのは?」
「どう接するべきか、というべきでしょうか。敬語の方が良いですか?」
「んー、そうだね。まあ敬語は要らないかな。だからって小さい子供扱いはしなくていい。ふつーでいいよ、ふつーで」
無邪気にそう言うてゐ。
どこからどう見ても可愛らしい少女だが、実際は自分の想像が及ばないほど生きている存在なのだ。
改めて、幻想郷という場所の非常識さを実感する。
「……よろしく、てゐ。……これでいいですか?」
「いいよ。よろしく。あと敬語で確認しなくていいから」
「いや、つい……えっと、それじゃ俺はこれで。おやすみなさい」
「ん、おやすみー」
鈴仙や永琳とは違う、なんとも言えないやりにくさを感じる相手だったが、とにかく挨拶は済ませた。
することも無いし、今日はもう寝よう。
部屋から暁が出ていくのを眺めていたてゐは、永琳から聞いた彼の素性を思い返す。
外の世界の人間で、変わった能力を持つ。そして、彼の為すべきことが失敗すると、幻想郷どころか世界が滅ぶ……
「……ずいぶんとまあ、大変だね。あの人が言うんだから事実なんだろうけど。やれやれ、これからどうなることやら」
肩をすくめた彼女は手元に置いていた本を持ち、読書を再開した。
その頃永琳は執拗に絡んでくる鈴仙を適当にあしらいながら、てゐの話を思い出していた。
『……それで、どうだった?』
『…………お師匠様、いったい何が起きてるの? 洒落になってないよ』
『まずは私の質問に答えて。ちゃんと説明するから』
『…………わかった』
てゐがここまで真剣な表情になるのは相当珍しい。何か外の異変についての情報も手に入ったということだろうか。
そしててゐは語り始める。
『お師匠様に言われて、博麗神社に私は向かった——』
空を飛ぶ彼女は常人には真似できない速度で移動し、十数分もしないうちに博麗神社に到着した。
境内に降り立った彼女は服の裾を払う。
博麗の巫女はいるだろうか……
ほうきで境内を掃除していることも時たまあるが、少なくとも今は掃除はしていないようだ。
本殿の中にいるのだろうか。
そちらに向かって歩き出した彼女にかけられる声があった。
「あれ、お前は…………」
「ん? その声は……」
てゐが声の発せられた方を見ると、神社の縁側に座ってこちらを見ている者がいた。
てゐはその声と格好に覚えがあった。そうそう忘れない、印象的な人間だ。
「なんでアンタがここにいるの? 白黒」
「魔理沙だ!
「いや、わかってるよ。それよりなんでアンタがここにいるか聞いてんだけど」
憤慨した様子で訂正してくる少女——魔理沙は、てゐの呆れ声に首を傾げる。
「なんで、って言われてもな。霊夢のとこに遊びに来たんだけど、血相変えた霊夢に留守番押し付けられてさ。理由も言わないままどっか行っちまったから仕方なくここで待ってるんだよ」
「なるほど、そうなんだー。え、ていうことは霊夢、いないの?」
「いない。しばらく前に飛んでいったっきり、帰ってこない。つかお前の方こそなんでいるんだ? 何かあいつに用事でもあったのか?」
「いないのか……いや、お師匠様に頼まれてさ。なんだか結界の様子がおかしいみたいだから博麗の巫女に聞いてこい〜って。だからここに来たんだけど」
「あー、なるほど。それでここに。……じゃあ霊夢もそれでどっか行ったのか」
「多分そうじゃない? 確証は無いけどさー」
魔理沙との会話で霊夢がいないことを知り、どうするか思案するてゐに、魔理沙が話しかける。
「じゃあお前も霊夢が帰ってくるまで一緒に留守番しようぜ。一人だと暇すぎてさ。な、いいだろ?」
「えぇ…………面倒くさ……」
「そう言うなって。どうせ霊夢が帰ってくるまでお前も暇だろ?」
「いやまぁ、そうだけどさ……」
てゐは永琳との交渉を思い出す。
『結界の様子を聞ければすぐ帰っていい』
逆に言えば、聞けていない以上帰れない。
(他の場所で適当に時間を潰すのもアリか? ……いや、その間に帰ってきて、またどこかに行かれたら無駄足になる。結局ここで待つのが得策か…………)
ため息をつき、諦めたてゐは魔理沙に頷く。
「わかった。話し相手くらいにはなるよ」
「そうこなくっちゃ! つか話以外にすることなんて無いぞ。ココ、マジでなんにも無いからな」
「ははっ、確かに」
魔理沙のぼやきに同意し、隣に座る。
しばらくは彼女との雑談を続けることにした。
やがて、話すことも尽きだした二人。
このままだと何もすることがなくなる、と些細な危惧をてゐが抱いた、ちょうどその時。
「あっ、霊夢が帰ってきた」
空を見上げた魔理沙がそう呟いた。
彼女の視線の先を見ると、紅白の巫女服を纏った少女がまさに境内に降り立つ瞬間だった。
「おい、霊夢! なんも言わないで留守番だけ押し付けるとかどういうことだよ!」
「悪かったわよ……緊急だったから、タイミングよく来た魔理沙に任せようと思って……」
真っ先に文句を言う魔理沙に、疲れたように霊夢がそう返す。
「なんだ、結界になんかあったのか?」
「な、アンタ、それをどこで!」
「い、いや……ここにいる竹林の兎から。なんかお前に聞きたいことがあるってさ」
「兎……? ……なんだ、珍しいわね。アンタがいったい何の用よ、てゐ」
何気なく尋ねた言葉に鋭い視線を返され、若干怯む魔理沙。
彼女が指差したてゐを見て、霊夢は怪訝そうな顔になった。
「いや、お師匠様が『結界の様子がなんかおかしいから博麗の巫女に聞いて来い』って言うからさ。聞きに来たら本人不在で、仕方なくここで待ってた」
「……………………ふぅん?」
目を細めてこちらを見てくる霊夢。と言っても、全て事実だし、それ以外のことは何も知らない。腹を探られたところで、何も出ない。
やがて、本当にそれだけだと判断したらしく、ため息をついた霊夢はこちらに歩いてくる。
「……そうよ、結界全体がいきなり緩んだというか、異常をきたしてね。紫に呼ばれて、修復を手伝ってた」
「おいおい、ヤバくないかそれ! 大丈夫なのか!?」
「一応、安定状態まではもっていけたけど、すぐに不安定になるみたい。峠を越えたから私は帰ってきたけど、紫達は結界の維持にかかりきりね。しばらくは時間がかかると思う」
「そ、そうか。とりあえずは大丈夫なんだな。よかった……」
霊夢の言葉に焦って立ち上がった魔理沙だったが、続く言葉に安心したのか、再び座る。
「だからまあ、あの薬師にもそう伝えといてちょうだい。とりあえずは大丈夫だって」
「ん。わかった。ありがと」
聞きたいことは聞けた。
てゐは霊夢に礼を言い、立ち上がる。
彼女の脇を通り、すぐにその場から飛んで帰ろうと思ったのだが——
————霊夢の表情に疲れだけでなく、どこか焦りを感じ、振り向く。
背中を向ける霊夢の表情はわからない。
(気のせいか……?)
首を傾げるてゐの視線の先で、霊夢が魔理沙に話しかける。
「それで、魔理沙は何しにきたの?」
「いや、最近暇だからさ。遊びにきた。あと、もうすぐ今年も終わるだろ? 年の区切りにはいつも宴会するし、何か準備でもしないかと————」
「……………………わ」
「え?」
ぼそりと呟かれた霊夢の言葉を聞き取れなかった魔理沙は聞き返す。
「霊夢、今なんて言ったんだ?」
彼女の問いに視線を逸らし、霊夢は口にする。
「
「……………………は?」
霊夢の背中ごしに見える魔理沙の表情はポカンとしていた。
「………どういう意味だよ」
「……………幻想郷の時間は、外界のそれと完全に同期しているわけではない」
魔理沙の問いに答えず、霊夢は呟くようにそう言う。
魔理沙もそれに食ってかかろうとするが、霊夢の表情に何かを感じたのか、黙ってそれを聞き続ける。
「時差や進み方にズレがあったり、その時によって時間の流れが変わることも多々ある」
「…………けどね。それでも、こちらの時間はあちらに影響を受けていることは間違いない。四季だって、外界と同じように冬でしょう?」
「…………まあな。それがどうしたんだよ」
魔理沙も何かを察しているのか、声が低くなる。
霊夢は俯いて口にする。
「だからよ」
「は?」
「だからこそ、次の季節は訪れない」
「お前はさっきから、何を…………」
てゐは気がつく。
霊夢の手が、寒さではない何かによって震えていることに。
そして霊夢は口にする。
決定的な
「
凍てつく沈黙だけが、その場にあった。
シリアス。
時間が止まっているのは……詳しい理由は伏せます。
理由は一応用意してますので、そこはご安心を。