1.Past and future.
わたしは何処かで見た事がある教室に居ました。
セピア色の風景。色彩に欠けた景色。
視界の端に映る黒板には、達筆とは真逆を思わせる丁寧な字で、『じこしょうかい』と、態々平仮名で書いてありました。
平仮名……という事は小学校でしょうか?
よくよく見れば周りのクラスメイト達の顔に見覚えはあれど、第三新東京市へ来る直前に見た顔よりはずっと幼い姿です。
そこでわたしは察します。
これは『わたしの過去』。
碇シンジのものではないと――。
「わたしはいかりれん。しゅみもとくぎもない。しょうらいのゆめは
そう言って、わたしの視点の高さが下がります。
どうやら椅子に腰掛けたようです。
自分で聞いてもあんまりな自己紹介。
視界の端で教師がハッとして立ち上がりますが、わたしの視線がその人から逸らすように窓の外へ流れれば、その人は諦めたように「次」と零しました。
後ろの席からガタンと音が聞こえ、自己紹介は続いていきます。
向けられた視線の先には、グラウンド。
小学校のそれっぽく、大きな遊具があります。
――あれ? たしか、この時って……。
わたしは何処か既視感を覚える風景に、ある予感を抱きました。
自分の中でも『特別な日』だったと思い起こせる記憶だと、そう思い出すのです。
「あたしは『しにたい』なんていうこがだいっきらいです!」
思わずと言う風に、ハッとして振り返るわたし。
その動作はわたし自身が『この日』を思い起こしてハッとするのと殆んど同時でした。
が、わたしが感慨深く感じるのとは対照的に、この記憶のわたしは敵愾心を抱いていたのでしょう。
視界はスッと細まり、視点が先程自己紹介をした時と同じ高さになります。
「……なに? わたしにむかっていってんの? ていうかだれよあんた」
その視線の先には赤褐色にも見える栗色の髪をした少女。
わたしよりも席は二つ後ろで、今正に自己紹介をしていたと表すように立っていました。
少女はわたしに合わすかのように目を細めます。
「ことしからのてんこうせいだよ。だからあなたのことはしらない。……でも、いのちをそまつにするこがきらいだからそういっただけだよ?」
そして言葉の締めに、にっこりと笑って見せてくるのです。
あ、ヤバイ。これ……。
わたしは幼い自分の心境を思い起こし、そんな感想を抱きます。
「うっわ、うっとうしい。そういうせいぎぶったやつがいちばんむかつくんですけど」
「そうなの? でもあなたにきらわれてもべつにきにしないけど」
少女はわたしの反応に対し、尚も挑発的に返してきます。
そこで教師が「おい」と声を荒げて止めに入ってきましたが、その様子を視界の端で確認したわたしは、自分の席から離れて少女のもとへ走ります。
そして右腕を振り上げて、少女も同じく右腕を振り上げて――。
「ちょっと! グーなんてひどい!」
「はあ!? しるか。おじょうさまなの? パーとか。ぶってんじゃねえよ」
グーで殴ったわたしと、パーで叩いてきた少女。
ダメージが大きかったのは間違いなく相手でした。
それでも尚立ち向かってくる彼女は、きっとわたしの言い分が赦しちゃいけない事だと思っていたのでしょう。パンチを食らって泣きそうな表情になっているのに、より一層饒舌になってわたしを罵倒してきました。
その後はもう滅茶苦茶です。
わたしは少女の赤毛を引っこ抜かんばかりに鷲掴みにして、彼女はわたしの頬を何度も何度も叩きました。わたしが押し倒して馬乗りになれば、彼女は近くの机を引っ張ってわたしにぶつけてきます。
やがて漸く駆けつけた教師が止めに入ってきても、わたしは彼女を蹴るし、彼女はわたしの顔を引っ掻くしで、自己紹介の時間なんて何処かに消えて無くなるのでした。
そこで景色が白くなっていき――。
「……んん」
目が開いて、思考よりも先に零れる声。
それは薄暗い室内に溶けるように消え、しかし夢の中で聞いたどの声とも合致しない自分の声に、わたしの意識は急速に現実の世界を知覚していきます。
身じろぎしながら瞼を開き、違和感のある視界を改めんと何度か瞬きをしました。
ゆっくり身体を起こしてみれば、頭の中まで響くようにドキドキと音が鳴っていて、まるで早鐘を打つかのようです。思わずブラジャーを着けていない柔らかな脂肪の間を右手で押さえ、鼓動を自分の脈だと確認。その後再度目をパチパチと瞬かせました。
そして数秒経って、ふうと一息。何時の間にか強張っていたらしい身体から力が抜け、じんわりとした温かみが身体中を巡っていく感覚を心地よく感じます。
同時に鼻腔をくすぐるのは慣れない香り。
新品の布団特有の爽やかなもの。
ごくり。
喉を鳴らして現状を確認。
左右を見渡してみれば、ベッド以外は何も置かれちゃいない部屋。……ああ、そうだ。ネルフの宿舎に泊まったのでした。此処はその寝室ですね。
天井を見上げてみれば、円盤型の電灯が豆球のみ点いている状態。それを確認してから左手で枕元を弄り、昨日電気を消したリモコンを探します。手探りでしたがすぐに見つかり、わたしはスイッチを入れました。
パッと言う形容が似合う感じで点灯。
突如明るくなった所為で思わず目を瞑り、顔を伏せます。やがてゆっくりと目を開き、今一度数度の瞬き。視界に映るのは真白の布団と、胸を押さえたままの右手。そして昨日着替えとして用意された白のワンピース。
あー……。
ワンピで寝るとあの子に怒られるとか思ってたんだっけ……。
視界が光に慣れていく感覚と共に、わたしの意識が覚醒していくようでした。
座ったままの体勢で両手を組み、天井へ向けて力一杯伸ばします。胸を張って腰を左右へ回し、凝り固まった身体を解していきます。
それにしても――。
「普通の夢見るの、超久しぶり……」
わたしは背伸びをしながら、誰に話し掛けるでもなくそうぼやきます。
見た夢は小学二年の頃のものでしょう。多少おぼろげですが、『親友』と出会ったその日の記憶。忘れる筈ありません。あの子との出会いが、自殺志願者だったわたしのターニングポイントでしたから。
と、それは兎も角、今何時だろう?
確か一〇時にミサトさんと約束してた筈です。昨日は晩御飯も食べずにさっさと寝たので、流石に寝過ごしてはいないでしょうが……。
そう思えばぐうと音を鳴らすわたしのお腹。
見た目に変化が無いのを承知で、思わず本能的に音が出た部分を目で見て確認してしまいます。
お腹、減ったかも……。
そう思って、わたしはベッドから出ました。
そのままベッドだけの寝室を後にし、覚束無い足取りでリビングへ向かいます。
「……あ」
開き戸まで歩き、それを開けようとして、思わずクイックターン。
ベッドまで戻って、枕元を弄ります。そしてすぐに見つけました。
何故かサイズがぴったりないわくつきブラジャー。
片手で掴み上げて見てみれば、思わずその『何故か』と言う部分に理由を探してしまいます。しかし当然ながら不明。考えられる可能性としては前の学校で受けた身体測定のデータが此処へ流れている事ですが……
まあ、悩んでいても仕方無いので、さっさと着けてわたしは再度リビングへ。
開き戸の『施錠』を解除し、ガチャリと音を立てて扉を開けます。
白い二人掛けのソファーがひとつ。
その向かいに木製の机と、壁に掛けられた液晶テレビ。
家具としてはそれだけで、きっと最低限の設備を用意している部屋なのだと思います。昨日は大して気にしなかったものの、改めて見てみるとフローリングの上にカーペットさえ無いのに、幾つか家具があるというのは違和感満載です。
だけどそんな違和感よりも一際目立つオブジェクトがありました。……いや、オブジェクトではないですし、『居ました』と言うべきでしょうか?
「おはようございます」
「……おはようございます」
扉の音でこちらを振り向いてきていた顔は、ソファーに座って、首だけでこちらを向いていました。
朝っぱらからサングラスを掛けていて、全く寝ていないかのように見えるこれっぽっちも乱れが見られないオールバックの黒髪。昨日わたしをエスコートしてくれた黒服です。
名前は
まことに不本意ながら、一四の身空にて、赤の他人の男の人と二人っきりで屋根を共にしてしまいました……。やましい事は何もしていませんが。
理由を聞けば素直に教えてくれたのですが、どうにもわたしの精神状態が懸念されたらしく、『何かあった時』の為に音が聞こえる範囲から離れないようにと指示されていたのだとか。
この人が何かしら問題を起こすとは思わないのか。指示をした誰かさん。寝室は施錠出来たけど、『何かあった時』は躊躇なくぶち破って入ってくる筈だし、その気なら襲われてたよね? わたし。
「よく眠れましたか?」
表情ひとつ変えず。
口角のみを動かして喋る木崎さん。
わたしは視線を逸らしながら答えます。
「……ええ。まあ」
そんな訳ないでしょ! 野郎と一緒で安心して眠れるか!
とは言ってやりたいものの、爆睡していたのだから言える筈もありません。……いびきとか掻いてないよね? もしも掻いてて聞かれてたら自殺ものなんだけど。
「それは良かった。お食事は?」
「いや、別に――」
――ぐうううう。
お腹は減ってるけど、すぐに食べなくて良いやと思って返事をしようとしたわたし。だけど、がめつくもずうずうしく、わたしのお腹が何とも間抜けな音を響かせます。
思わずわたしは木崎さんと再度目を合わせ、表情ひとつ変えずに右腕を振り上げて――ゴスッ! 恥知らずな自分のお腹へ罰を下します。
そしてにこにこ笑顔を浮かべて小首を傾げ、「別に急ぎません」と報告をしました。
すると木崎さんはこくりと頷いてくれます。
サングラスのつるを右手で掴み、掛け直すような仕草を続けて見せて、やはり表情を変えないままに唇を開きました。
「そうですか。しかし先程、レン様の鞄を受け取りがてら、朝食代わりの菓子パンを用意させてしまいました。無駄にするのもどうかと思います。いかがですか?」
示すように左手が挙げられれば、その手はコンビニの袋らしきものを持っていました。
「……あ、はい」
気を使ってくれているのでしょうか?
思わず呆気にとられてしまいました。
と、お礼言わなきゃ。
わたしはハッとして「ありがとう」と短い礼を述べます。
すると木崎さんはやおら立ち上がり、ソファの右へ外れて、わたしに座るようにと手で促してくれました。
「……自分は床で食べますのでどうぞ」
「べ、別に隣でも気にしないですよ?」
「分かりました」
成る程。
一々気を利かせる人のようです。
きっと思春期女子の思考を想定して、席を譲ってくれようとしたのでしょう。とはいえカーペットが無い床に直に座って食事なんて、見ているこちらが嫌な気分になります。
本来ならば黒服がソファーに座っている光景自体も珍しいですが、これだって流石に一晩中休憩も無く突っ立っているなんて酷いと思って、昨日わたしから適当に休んでくれないと申し訳無いと告げてあるのです。
改めて
その動作のきびきびとした様ったら……って、この人ロボットじゃないよね?
さっきから表情が全く動かないし、やたらと気を利かせてくるし、昨日の夕方から一睡もしていない筈なのに全く疲れてるように見えないし……。リツコさんのお手製保安用ロボって言われてもわたしは驚きませんよ?
「では改めて失礼します」
そう言ってソファーの
って、本当に至れり尽くせりですね。
気を使っているのか、気遣いなのかは、分からなくなってきそうですが……。表情も読めないし。
ただ、態々ソファーの右側から左側に移動して腰掛けた理由といえば、わたしがノースリーブのワンピを着ていて、左腕の傷痕が露呈しているからでしょう。そうじゃないと理由が見当たりませんし、黒服という身の上からそんな無駄な事はしないでしょうから。
やべえ。
わたしが
生まれて初めて見たよ。
加持さんやカヲルくんレベルのイケメン。
お父さんには絶対出来ない芸当だわ、これ。
「……ども」
一応ささやかな
用意された菓子パンこそ誰かを使いぱしったらしく、『あんパン』とか『クリームパン』とか簡単なものしかなくてすみませんと言われました。だけど、それがとても美味しく感じたのはきっと気の所為じゃ無いでしょう。
食事を終えれば、木崎さんは腕時計を見せてくれました。
時刻は八時三〇分を過ぎたところ。
一〇時までは時間も空いていますが、如何しますかと問われ、わたしは逆に何が出来るかを問い掛けます。
すると昨日LCL塗れになった制服と下着を水洗いしたので、それをクリーニングに出しに行く事は出来ると返されました。
えっ……。
と、思って表情を固めれば、「女性職員に頼みました」と続ける木崎さん。
思わず深い溜め息を吐き、何度目か分からないお礼を述べました。
だけど答えはノー。
此処に来たと言う事は転校させるのでしょうと問い返せば、当然の事ながら頷いて返されます。
ならば前の学校の制服は必要無いと告げますが、しかし木崎さんは首を横に。
「思い出としても、退路としても、大事な意味があるではありませんか」
そう零す彼の顔つきは、表情こそ全く変わっていないのに、何故か慈悲深げに見えました。
鉄仮面なのに物凄く心情を汲んでくる姿に、思わずわたしの年頃の子供でもいるのかと思えば、左手の薬指に指輪が着いていました。……そりゃそうか。誰も放っておきませんよね。
まあ、そこまで言われて無下にするのはどうかと思ったので、制服は地上のクリーニング屋さんへ持っていく事に。
その後は再度この宿舎へ帰ってきては、やはり木崎さんの提案で昨日ミサトさんから受け取った封筒の中身へと目を通しました。
木崎ノボルはレンを除くと本作唯一のオリキャラです。彼が居ないと成り立たない部分があるので、ご了承下さい。