薄暗いエントリープラグの中でジッと時を待ちます。
暫くして小さな警告音と共にエントリープラグ自体が動いたような振動を感じて、その後コックピットが降下を始めました。
やがて聞こえるザパンと言う水の音。
頃合と見計らって、わたしは慌てたような姿を取り繕って大声を上げます。
「な、何か水が入って来てるんですけど、これってなんですか!?」
すると間髪入れずに、プツンと言う何かの接続音が聞こえました。
『LCLよ。それで肺が満たされれば、直接肺へ酸素を取り込んでくれます』
続いたのはリツコさんの声です。
わたしは尚も滑稽に慌てる様を演じて、あたふたと身振り手振りで「ええ!?」と驚愕を顕にして見せました。……いやまあ、シンジくんの真似事してるだけなんですけどね。
と、思ったのも束の間。
わたしの足をLCLが濡らした瞬間。
芝居を打つでもなくわたしはハッとしました。
「ちょ、服! 服濡れちゃうんですけど!!」
そりゃそうでしょ。
我ながら馬鹿か。
と、冷静な自分がそんな事を言っていました。
『我慢して頂戴』
リツコさんも呆れたような言葉を吐きます。
先程の威勢の良さに対して、あまりに滑稽な姿だと言わんばかりでした。
いや、でも……!
わたしは思わず取り乱して悲鳴を上げます。
「ふ、服が濡れると体型丸分かりじゃん! 見ないでよエッチ!!」
本心も本心。
有事だという事も忘れる心地で主張しました。
『……あのねぇ』
すると、呆れたかのようなミサトさんの声。
加えてリツコさんのものらしき溜め息まで聞こえてきました。
いや、だって、女の子だよ? わたし。
女の子の体型がモロバレするって、死活問題だよ?
嫌だそんなの。見られたくない。
むしろ誰に見ているか考えたら吐き気が……。
オペレーターの日向さんと青葉さんや副司令は兎も角、あの腹立たしい父親には見られたくないよ!!
わたしは思わず足を上げて、コックピットの中で立ち上がって――ごちん。エントリープラグの天井で頭を打ちました。痛い。
そしてその間にもLCLは水位を増しています。
うぅぅ……。
『……カメラをフェイス固定しておくから、それで我慢して貰えるかしら?』
そうまでして体型を見られたくないわたしの姿に、ついに呆れ果てたと言わんばかりなリツコさんが妥協案を提示してくれます。
渋々ですが納得する他無いでしょう……。
「わかりましたぁ……」
思わず溜め息混じり。
ぶつけた頭が訴える鈍い痛みも合わさって、泣きそうになりながら応えます。
だって、だってぇ……。
わたしって結構体型良いって自分で思ってたのに、此処に来てみればミサトさんはモデル顔負けだし、リツコさんもすんごいグラマラスだし、そりゃあ自信も失くすよぉ。
胸までLCLに浸り、身体に張り付く制服を呪いがましい目で見つめます。
脳内でミサトさんの爆乳と比べてみれば……ダメだ。勝てる気がしない。そこに越えられない壁を感じるよ。ちくしょー!
でも、よくよく考えてみれば、プラグスーツを着ればずっと体型晒す感じになるんだよね?
うわぁ……。有り得ない。
初日だけ我慢して、上着着て良いか聞いてみる事にしよう。身体にぴったりフィットするスーツを着て本部内をうろうろしなくちゃいけないとか、絶対に嫌だもん。絶対に。
そんな悶着を脳内でしながら、わたしは先程リツコさんから受け取ったヘアクリップで前髪を纏めて左へ寄せて留めます。
実に嫌そうな顔つきを浮かべて見せながら、LCLを吸い込みました。
肺に鋭い痛み。
思わず咳き込んで、肺に残った空気を全て吐き出します。
これもこれで嫌ですね。
これから先訓練や実戦の度に痛い思いをしながらLCLに浸からなきゃいけないのかと思うと、ゾッとしません……。
だけど本当にゾッとするのは、ここからでした。
『神経接続、開始します』
プラグ内がLCLで満たされたのでしょう。女性の声が聞こえました。その声に『ああ、この声はマヤさんだ』なんて思っていたわたしですが、『神経接続』が開始された瞬間、凄まじい衝撃を感じたのです。
「あ、あぁぁっ!?」
思わず声を漏らして、わたしは身じろぎします。
脳の中身を引っ掻き回すような……いや、違う、心の中身を引っ掻き回すような感触でした。
頭に激痛が走って、視界がはっきりしません。咄嗟に身体が震えて、凄まじい嫌悪感に襲われます。
こんな事はシンジくんの記憶では無かったし、生まれて初めてとも思える程の痛みでした。
「痛い、痛い、痛ぃぃ……」
前頭葉と呼ばれる部分がズキズキと痛んで、思わず声を漏らします。
その異常事態に対して、すぐに『マヤ、接続中止!』とリツコさんの声が聞こえたけど、続く『接続中止』の言葉が聞こえても痛みは治まりませんでした。
薄く開いた目の前がチカチカします。
何か分からないけど、その良く見えない光景に、誰か見知らぬ人影を見た気がしました。
――知らない? それは嘘だね。
そしてそんな声を聞くと、
「……ご、ごめんなさい。大丈夫です」
だけど。
『大丈夫?』
「はい。続けて下さい」
『……了解したわ。異常を感じたらすぐに教えて』
「分かりました」
だけど――。
『神経接続再開します』
今、目を開いて視ているのは誰だ?
今、口を開いて話したのは誰だ?
今、わたしは、誰だ?
『シンクロ率……は、八七・二パーセント。す、凄い……』
『どうりで神経接続にショックを受ける訳ね。……続けて頂戴』
『ハーモニクス正常。神経接続……全て完了しました』
声が聞こえない。
――いや、聞こえている。
身体が動かない。
――いや、動いている。
わたしがわたしじゃない。
――いや、わたしだ。
頭が可笑しくなりそう。
――いや、思考は正常だ。
自らの手を握って自分の身体の動きを確かめたい衝動はあったが、今此処で動かせばエヴァまで動いてしまうかもしれない。その衝動は胸の内で収めた。
何時の間にかコックピットの前面にはエヴァの視界が広がっていた。
赤いパトライトが警告を示した後、アンビリカルブリッジがゆっくりと離れていく。
そして先程自発的に引き千切った右腕の拘束具以外を着けられたまま、初号機は移送される。行く先は見慣れた射出ゲートだ。
『碇司令。……構いませんね?』
そこで葛城ミサトが碇ゲンドウに最終確認する声。
――ああ、懐かしい。
確かな聞き覚えを感じた。
『構わん。使徒を倒さぬ限り、我々に未来は無い』
『……分かりました』
返って来た冷徹な言葉に、葛城ミサトが寂しげな言葉を漏らす。
わたしはただただ黙って聞いているだけだった。
そして――。
『エヴァンゲリオン。発進!』
葛城ミサトの声が掛け声になって、初号機が射出される。
凄まじい速度で上昇していき、わたしは思わず身を強張らせる程の加速度を感じた。
頭上を見上げてみれば、何時の間にか開いていたゲートの先に……夜空。
非常事態宣言の発令が一二時三〇分だった事を考えれば、随分と時間が経っていた。
まあ傷んだルノーでは移動に相応の時間が掛かっていたし、わたしがエヴァに乗る事を葛藤しなかったとはいえ、結局は碇シンジと変わらない時刻になったのだろう。そう理解する。
そしてその夜空の下へ出た時、わたしは正面を見直す。
そこには先の街で見た烏色の巨人。
まだ浅い月に照らされ、こちらを臨む虚無の双眸は相変わらずのがらんどう。しかし先のN2兵器の被害が多少なりあったのか、啄木鳥のような仮面は斜め上へ逸れ、かつてそれがあった場所には新たに丸い仮面があった。今機能しているのはその丸いもののようだ。
悠然とビルの間で佇むその姿は、正しく不気味。
しかしわたしの心は真逆の昂ぶりを見せた。
思わず、わたしの口角が歪む。
胸の内でドクンドクンと音が鳴り、如何にこの日この時を待ち望んできたかを自分自身に訴えていたのだ。
――やっと、やっと……
ああ、喉が震える。
口の中を満たすLCLの温度が上がっていく程、身体の熱が上昇していく。
腕が、足が、胸が、震える。
恋をした事は無いけれど、きっとこれは恋しいと言う感情と良く似ているんだろう。
会いたかった。
ずっと会いたかった。
御伽噺の住人。
夢物語の象徴。
わたしを苦しめ続けた存在。
「……ふふ」
思わず小さな笑い声を出してしまう。
きっと発令所の大人達には怪訝に思われた事だろうが、この程度なら問題無いだろう。
現に拘束具は外された。
直立するエヴァの体勢が不安定になるが、倒れる事は無かった。
戦えと、言っている。
殺せと、言っている。
わたしは醜悪な笑みを浮かべて、第三使徒を見据えた。
エヴァが呼応するように顔を上げて、奴を視界の中央に収める。
ドクン、ドクンと鳴る心音が耳にまで聞こえる気がした。
さあ、早く指示を寄越せ――無能な大人ども。