真白の世界に描かれたのどかな高原、一本の木。
その木陰に、わたしは在りし日の面影を見る。
いいや、それは確かに『在りし日』ではあるが、わたしが知る筈のない景色だった。
「ええ。ここは貴女の記憶ではない」
そう答えを寄越すのは、わたしがこの景色に、『わたしの記憶ではない』という回答を持つ証拠であり、証明。証人でもあった。
きっと鏡があれば、冗談交じりに間違い探しが出来ただろう。
ここに憎き父がいれば、弱みを握るに十分な一面を垣間見れただろう。
記憶や夢の中では何度となく姿を見たが、こうして『わたし』が『わたし』として、彼女の目に留まるのは、果たして何年ぶりなのだろう。
ああ、本当に、懐かしい。
「おいで。レン」
どうして、こんなにも温かい。
どうして、安らぐ匂いがする。
どうして、どうして、どうして……。
ぎゅうと抱き締められてしまえば、思わず嗚咽が漏れた。
記憶とは違う。自らの母に知覚して貰える事が、こんなにも嬉しい事だとは思わなかった。
最期の時まで記憶に不確かなニアミスばかりが続いた碇シンジとは、どうやら決定的に異なる。今のわたしは、彼よりずっと鮮明な体験をしていた。果たして、今しがたエヴァの操縦桿を握っていた事なんて、それこそが夢みたいだった。
「もう、勝手に呼びつけて、勝手に利用して、勝手に泣きついてくれちゃって……随分、甘えん坊さんに育ってしまったのね。レン」
「誰の所為よ……誰の、誰の所為だと!」
「分かってる。分かってるわ」
わたしを掻き抱く腕が、ぎゅうと力強くなる。
母がくすりと耳元で笑えば、まるで春風に季節の移ろいを感じるかのように、胸にじんとした感動を覚える。それがやけに懐かしくて。身体では覚えていない幼い頃の記憶が、無理矢理引っ張り出されるかのように、わたしの涙腺を緩ませた。
「全部見た。全部、見たわ」
「ぜん……ぶ?」
「ええ。レンが必死に生きてきた事も、貴女を苦しめたもう一人のわたしの子供の事も。そして、人類補完計画と……その、末路も」
つらつらと語る母、碇ユイ。
その表情は何処か儚げで、気が付けば消えてしまっている木陰の風景と同じように、ふとすれば居なくなってしまうかのように見える。それが嫌で母の薄い白衣をギュッと握り締めれば、まるで応えてくれるように、わたしを抱く腕にも力が籠った。
母が言うのは、恐らく碇シンジの記憶の事。
人類補完計画でわたしが様々な人の心と思い出を垣間見たように、わたしとシンクロをした母もまた、わたしのありとあらゆる記憶を垣間見たのだろう。勿論、その中には見られたくない思い出もあったが、不思議と恥じらいはなかった。
これが母と子の関係だというなら、何だか少し、母はズルい。
「大人はズルいくらいが丁度良い……でしょ?」
「お母さんは加持さんよりよっぽどズルい……ズルいよぉ!」
心を読んだ風に零す母に、わたしは思わず涙声で悪態を溢す。
わたしの記憶を覗いたと言うのなら、どうしてこんな風に姿を現せられるのか。どうして母としてわたしの前に立つ事が出来るのか。
父がわたしを置いていった時も、わたしが悪夢に苛まれた時も、助けてくれなかった。一緒に居てすら、くれなかった。本当に辛い時、わたしに寄り添ってくれたのは、たった一人、自分自身だけだった。
何もかも全部、貴女が生きたいと思うだけで、壊れなかったかもしれないのに!
どうして、わたしが手を伸ばしても届かないところにいるの!
それでも母親だと言うの!?
堰を切ったように溢れ出した感情の促すまま、わたしは言葉にならない声を上げた。
「うぇ、うぁ、うあぁぁぁああん!!」
ここはきっと、シンクロの果てにあるわたしとお母さん、二人だけの虚構の世界。だから、言葉にせずとも、気持ちは気持ちのまま、伝わっていく。伝わってくる。
ズキリと胸が痛んだ。
しかしそれはあまりに突拍子がない痛みで、思わず肩が跳ねてしまう。
きっとこの痛みは、母の痛み。
わたしの本音を聞いて傷付いた母の心。
それが分かると、わたしは更に泣いた。
「ごめんね。レン」
まるで痛みを覆い隠すかのように、母はわたしを更に強く抱いた。
ぎゅうぎゅうと締め付けられて、胸の痛みなんてすぐに消えてしまう。母のそれも、きっともう名残りさえ残っていない。
決して傷の舐めあいがしたい訳ではないし、母にそのつもりが無いのも分かっている。
ただ、この一時が『たった一時』である事が分かっているから、冷静ではいられない。多少の痛みに目を瞑ってでも交わすべき言葉があるし、それを蔑ろにしてまで伝えるべき想いもある。
なんて、御大層なお題目。
実際は、普通の親子が交わす喜怒哀楽を、わたしと母の間では一瞬の出来事でしか共有出来ないから、何を優先して良いかが分からなくって、感情ばかりが駆け足になっているだけだ。まるで、そう、小さな駄々っ子が、母親相手に我儘を言っているようなものだ。
そんな事、分かっている。
分かってはいるけど、止められないんだ。
なんで。
どうして。
そんな言葉で母を傷つけるばかりが、わたしのしたい事ではないのに。そんなつまらない事に浪費して良い程、母との時間は粗末なものでもないのに。
ああ、ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。
「ごめっなさい……ごめん、なさい」
「良いのよ。レン」
ぎゅうと抱き締めてくれる母。時折肩をポンポンと叩いてくれるのが、とても心地好い。
今まで様々なカウンセリングを受けて来たわたしだが、どんなそれよりもずっと効果的に感じるのは、やはりこの碇ユイという人物がどうしようもなく自分の母親である証に思えた。
もしも、
と、そんな心地好い一時は束の間。
ふとした様子で、母はわたしを抱く手を緩めた。
「さて」
短く零す母。
未だ何処か心苦しそうな表情ではあったが、やるべき事を思い出したように、その目はジッとわたしを見据えた。
その視線に促されるようにして、わたしの思考から淀みが抜けていく。
今がどういう状況で、何の為に此処にいるのか――と、思案が追い付いたところで、母が改めて唇を開いた。
「ごめんなさい。出来ればもっとゆっくり話がしたかったけれど……今はひとつだけ」
「ひとつ?」
「人類補完計画は……例え失敗するとしても、一縷の望みであるべきなのよ」
唐突な暴露に、わたしは目を丸くする。
え? でも……。
と、出掛けた言葉は、母の人差し指がわたしの唇に当てられて、無理矢理飲み込まされてしまう。
「レン。貴女はもう、自分で考えて、切り拓くだけの力がある。だから、あくまでもわたしの意見はわたしの意見として、貴女の糧にしなさい。そうして自分なりの答えを得たら……また、今度はゆっくり、話しましょう」
そう言って微笑む母。
つまるところ、今は異論も反論も聞いちゃくれないという事だろう。
成る程。
母はヒントをくれている訳だ。
もしかしたらそれは、人類補完計画の意図だけに留まらず、母がエヴァからサルベージされなかった理由も含まれるかもしれない。
今、それについて答えてくれない理由は――。
「あまり悠長にしていると、貴女も、わたしも、死んでしまうのよ」
「えっと、今って……その」
「ええ。初号機の本能的な防衛本能で戦ってる。リツコちゃんあたりは、暴走って言いそう。いいえ、碇シンジの記憶で、確かにそう呼ばれていたわね」
母があまりに淡々と語るものだから、上手く想像が出来なかった。
五秒程時間を無駄にして、あまりの不確定要素の多さに、わたしは思わず「え、うそ」とぽつり。
あの高火力と絶対防御を両立するラミエルを相手に、暴走? 碇シンジの記憶では、ゼルエルさえも圧倒したポテンシャルこそあるが、あれは肉弾戦が通用したからに他ならない。万が一、ラミエルの荷粒子砲が撃たれた場合、あれがATフィールドで防げる火力でない以上、被弾は避けられない筈だ。
現状、わたしの身体は生身ではない筈なのに、サァと血の気が引いていくような気がした。
「それ、不味くない?」
「ええ。めっちゃ不味いわね」
此処に至って、何故か満面のにっこり笑顔で肯定してくれる母。
その様子は決して天然なようには見えず、むしろ『めっちゃ不味いから、お前が何とかするんだろ?』という隠された圧力に見えてしまう。そういえば、母ってあの父をからかったり、可愛いとか言ったり……ああ、そうだ。エスっ気があるんだった。
いや、まあ、それはともかくとして。
まさかこのまま黙って死ぬ訳にもいかない。
ハッとするわたし……ではあるが、そもそもこの現状こそ、理解不能な状態である事を今更ながらに自覚する。碇シンジが似たような状況に陥った際は、赤木博士のサルベージ計画によって難を逃れたが、果たして今それが叶う筈が無い事もすぐに分かる。
と、わたしがややパニックに陥ろうとしているのを察したのだろう。
母がくすりと音を立てて笑った。
「ほんと、貴女って子は……」
「な、何を呑気な」
言い返してみれば、母はツボに入ったように肩を揺らしていた。
先程まで泣いていたわたしが、一転して狼狽えたり、不服を訴える姿が、そんなにも可笑しいものなのか。
「違う。そうじゃないわ」
「じゃあ何よ」
「貴女、嫌ってる癖に、お父さん似なのよね」
「は? いや、嫌なんですけど」
言われてみればそうかもしれない。
我ながら薄々感じているところはあるのだが、それは誰かに指摘されたい点ではない。少なくとも自分にとって、美点ではなく、欠点でもない。汚点だ。
っていうか、急いでいるんじゃないのか。
それを改めて何になる。致命的なタイムロスになりかねないじゃないか。
途端に引き留めるような事を言う母に、わたしは思わず怪訝な顔をした。するとやはり、母はくすくすと笑うのだ。
「まだまだ思春期の子供よね」
「なによっ! お母さんは何が言いたいの? 今、結構ヤバいんでしょ!?」
「そうね。その通りよ」
もう、まったく。
そんな風に憤慨すれば、母はわたしから一歩離れて、虚空に指を立てる。
「じゃあ、先ず。生きたいと願いなさい」
「生き……たい?」
「ええ」
要領を得ない提案に、思わず小首を傾げる。
生きたいと思えと言われても、それは意外と難題な話。
死にたいと願う事は多くあっても、生きたいと願った事はあまり無い。あまりと言うか、殆んど無い。それこそ覚えが無い。
と、眉根を寄せれば、母は仕方がないと言わんばかりに、肩を竦めて見せる。
「今の貴女には、逢いたい人が、いるでしょう?」
「逢いたい……うん。いる」
ミサトさんや綾波ちゃん。ヒカリちゃんをはじめとした学校の友達や、最近漸く打ち解け始めたと思えるリツコさんや、マヤさん。それに……いつかは、幼いわたしを助けてくれたマナにも、堂々と再会したい。
と、母の促すまま、逢いたい人を脳裏に浮かべていけば、何時の間にか視界が滲むように白ばんでいた。
ふとすれば夢から覚めるような心地で、母の姿が朧気になっていく。
ああ、成る程。
別に特別な装置が無くても、わたしが生を渇望すれば、それが自発的なサルベージを促すんだ。
感覚の変化から、現実への帰還を察したわたしは、独りでに納得する。母もどうやらこれを承知していたようだ。改めて向き直ってみれば、輪郭さえ朧気ながら、安堵しているような気配がした。
「ふふ、『貴女じゃないレン』にも、よろしくね」
そこで核心を突いたような言葉を受けて、わたしはハッとする。
え? ちょっと待って。
今のわたしって……どっち?