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陽光の射しこみ具合なんてまるで度外視で、図書室の本棚のように並ぶ集合住宅の建物。近隣の工業地帯からは、全く配慮されていなさそうな作業音が響いていて、どうにも住み心地は悪そうです。
綾波ちゃんが住んでいるという市営住宅は、如何にも『とりあえず住人を収容出来れば良い』という装いでした。
シンジくんの記憶と、リツコさんが教えてくれた場所を照らし合わせながら、建物のひとつへ。
こういう住宅棟の共同スペースは、自治会で清掃するものだと聞いた事があります。わたしが居候するマンションでは、毎週のように管理会社の従業員がやって来て、掃除をしてくれているものですが、此処ではやはり知識の通りといったところ。所々に蜘蛛の巣まで張っています。壁が打ちっぱなしのコンクリートという事も相まって、何処か廃れたような雰囲気を感じました。
こつん、こつん、と、コンクリートを踏み歩く音がふたつ。遠方からの作業音の合間に響く足音は、何とももの悲しく聞こえるものです。……まあ、そりゃあこんな劣悪な環境で、子供の遊ぶ声などを期待している訳ではありません。住人の一人さえ見かけないあたり、随分と過疎化が進んでいるようですし。
そりゃあそうか。
第三新東京市は比較的新しい街。それに比べてこの建物と言えば、手入れを怠っていそうな事を差し引いても、建築からそこそこの年月を経ていそうです。あくまでも推測ですが、第三新東京市を建築するに当たって、作業員を住まわせていた施設ではないかと思います。……まあ、そんな場所に綾波ちゃんが住んでいる事以外、どうでも良い事ですが。
階段を上り、目的の四階へ。
『綾波』の表札は、その階の二号室に掛かっていました。
当然ながら、此処まではわたしの予想通り。というか、記憶通りです。シンジくんの立場がわたしに代わっている事以外、あの記憶にある事は殆んど代わり映えしません。つまるところ、わたしの存在が、綾波ちゃんの住所なんてたいそれたものに影響を与えている訳もなく。
同時に、今現在の状況においても、シンジくんの記憶は『解答』を用意してくれています。
一応、呼び鈴を鳴らしてみたのですが、綾波ちゃん
つまるところ、今、綾波ちゃんは生まれたままの姿でシャワーを浴びている事でしょう。
快晴の空を思わせる水色の髪。何処か触れてはいけなさそうな神秘性を感じる透き通った白い柔肌。そこに生を思わせる深紅の瞳は揺らぐ事が無く、けれど全体的な華奢っぽいシルエットが儚さを思わせる。
その髪を、肌を、伝い、落ちていく雫。水滴。
数多の水滴が床を打つ音の中、彼女はどのような表情で湯を浴びているのか。
お日様とも、LCLともとれない彼女の良い匂いは、風呂場で作られるものなのか。もしもそうなら、彼女が入っている風呂場とは、正にその良い匂いが充満しているところではないのか。
ふとした瞬間に浮かぶ妄想が、まるで白昼夢のようにも映ります。
決して目で見ている景色ではないその映像は、わたしの心音を加速させ、腹の底からふっと燃えるような熱を生み出しました。ぐらりと歪むリアルな視界。ほわほわと脳を埋め尽くしていく妄想という名の第二の視界。
うだるような常夏の気温の下、ふとすれば卒倒してしまいそうな程、わたしの体温は上がる。上がる。上がっていく――。
「レンさん?」
「ひゃいっ!」
不意に呼びかけられて、わたしは素っ頓狂な声を上げます。
脳の中で絶え間なく鳴り響くどくんどくんという音。ふとすれば冷や汗でも掻いているように感じる程、普段より高くなっていると自覚出来る体温。気が付けば手足が震えていて、断続的に首筋を撫でられるような感覚に襲われます。
そんなどう考えても異常な状態のわたし。傍から見ても様子が可笑しかったのか、木崎さんはこちらを一瞥していた体勢から、身体ごと向き直ってきて「大丈夫ですか?」と問い掛けてきます。
「ああ、だ、大丈夫っ。大丈夫ですとも! ちょ、ちょぉーっと、暑さでぼーっとしちゃってました! あはははは!」
胸に宿る高鳴りの正体を悟られまいと、わたしは盛大に誤魔化します。
訝しげな顔をする彼の前で、ブラウスの胸元を大きくはだけさせて、手で首筋を扇いで見せました。「暑い。いやあ、本当に暑いですねえ!」なんて言っていれば、木崎さんは大きく溜め息をひとつ。
短く「失礼」と断って、わたしの手を優しく払うと、第三ボタンまで開けたブラウスの第二ボタンまでを閉めてしまいました。
「胸が大きいのはコンプレックスではないのですか? 何処とは言いませんが、自ら強調してはいけませんよ」
綾波ちゃんで妄想していた事は恥ずかしい。
しかし、それを誤魔化す為に、不意にやってしまった事は、更に恥ずかしい事でした。ふと自分の胸元を見下ろせば、汗で湿って透けたブラウスの下、これ見よがしなふたつの肉塊による深い峡谷。そう、わたしはこれを今、見せつけていたのです。
思わず唇を金魚のようにぱくぱくとさせて、硬直。
自ら見せていた事実に加え、そこを顔色ひとつ変えずに、木崎さんに閉じられたのです。羞恥心で死ねるのなら、一〇回や二〇回死んだところで、足りないのではないでしょうか。
次第に先程とは違う熱が、首の下から這い上がってくる感覚。
ふとすれば、自分の顔が真っ赤に染まっていることなんて、手にとるように分かるのでした。
「き、きゃあああっ! ご、ごめ、ごめんなさいっ」
そう言って、残る第一ボタンを大急ぎで留めて、木崎さんに背を向け、その場にしゃがみ込むわたし。胸を両腕でしっかりホールドして、「ごめんなさい」を連呼しました。
いや、ね……?
木崎さんってば、前にお父さんを蹴っ飛ばした件の意趣返しの所為――これに限ってはクソオヤジほんとマジで死んで――で、わたしの裸を度々見てるんだけど……それって不可抗力なのよ。でも、今わたしがしたのって、間違いなく故意なのよ。ビッチ予備軍みたいな事を、彼にやっちまったのよ。それってどうなの? わたし。頭可笑しいんじゃないの? っていうか死ね。死んで詫びろ。「お粗末様でした!」って叫んで、今すぐこの廊下の手摺を飛び越えて、気分は鳥になれ。だけどやっぱり鳥になれなくて、そのまま真っ逆さまに落ちて死ね。
思い付いたら即行動。
さあ飛び立て。碇レン。
素早く立ち上がったわたしは、廊下の手摺にしがみ付くようにして、片足を上げます。
今によじ登ろうとする姿に、「ちょ」と、らしくもないぎょっとしたような声を上げる木崎さん。彼もまた素早くわたしの腕を後ろから抱えて、しがみ付く手と、引っ掛けた足を、何とか手摺から引き剥がそうとぐいぐい引っ張ります。
「落ち着いて下さい! レンさん!」
声を荒げる木崎さん。
対するわたしはもうパニック。彼に肘うちをかましている事にも気付かずに、思いっきりもがきます。
「は、離してっ! もうわたし鳥にでもなるから! 離してっ」
「先程の行為は軽率でした。謝罪しますから兎に角落ち着いて下さい!」
「ビッチには相応しい死に様だ! ほら、よく見てろ! お粗末様でしたっ!!」
「お、落ち着いて下さい!」
ぐいぐい引っ張る木崎さん。
離せ離せともがくわたし。
力は明らかに木崎さんの方が強いですが、わたしは既に膝までを手摺に引っ掛けていました。加えて手摺を抱き込むように抱えているのですから、パワーバランスは絶妙な拮抗状態にありました。
そんな状況で一〇秒、二〇秒と過ぎていく内、わたしはひたすら「離せ」と叫んでいて、木崎さんは説得を試みていたのです。徐々に互いの体力が奪われていき、加えて蒸すような気温の所為で意識まで何処か朧気に。やがて暑さの所為もあってか、痺れを切らした木崎さんが声を張り上げました。
「子供の裸に興奮するような性癖は無いと言ってるだろうが! いい加減パンツも見えてるんだから足を下ろせ。この馬鹿娘が!」
衝撃的な罵声。
本当に、色んな意味で衝撃的過ぎた罵声。
その声が冷や水のようにわたしの激情を静め、視線を足下へと促します。
すると、巷で可愛いと評判の第壱中学校のショルダースカートの裾は、校則で決められている膝どころか、太ももすら顕にしている程、捲れ上がっていて――あああ、見えてる。見えちゃってる! 何で今日に限ってストライプなの!? 何で、何でっ! どうしてこんな子供っぽい下着をチョイスしたの? わたし。ああ、うわああ……うあああああああ!!
ガチャリ。
そんな折、空気を読んだのか、読んでいないのか、よく分からないタイミングで開く扉。
「……何?」
出て来た綾波ちゃんは全裸でした。
死にたい……。
いや、もう、ほんと割りとマジで死にたい……。
人類補完計画の阻止とか、使徒戦滅とか、もう全部投げ出して死んでしまいたい。
でも、こんな時になって気が付く。
わたしの自殺対策がかなり徹底されてる。
それこそさっきの投身に対する木崎さんの対処の速さもそうだし、何時の間にかわたしの鞄からカッターナイフをはじめとする危険物が回収されてる……。おまけに本部に行く綾波ちゃんと一緒に乗り込んだ特務車だって、わたしが乗る後部座席は、内側から扉を開けられないようにロックされてるし……。
あああ、ちくしょう。
優秀だよ。
憎たらしい程優秀だよ。ちっくしょぉー……。
でもって、綾波ちゃんの裸は最高だったよ。
思わずグッジョブつって、そのまま気絶しちまったよ。
色んな意味で台無しだよ。
どちくしょぉーっ!
期待した通り、透き通るような柔肌と空色の髪に滴る雫というのは、凄まじい破壊力でした。一目見た瞬間、見て見ぬふりをしてきた己の性癖が、開花しちゃいました。
ええ。そうです。
わたし、レズです。
いや、『開花』なんて言うと語弊がありますね。
知っていました。知っていましたとも……。
己がレズである事なんて、親友と接してきた時、妙に胸がドキドキするなぁと思っていましたし、その感覚がシンジくんの記憶にあるアスカの裸を見た時や、綾波ちゃんを押し倒しちゃった時とかと、酷似していましたもの。それを以って気が付かない程、馬鹿でも鈍感でもないですって。
だけど……ほら、やっぱ人並みの人生を生きたいって思ってるのに、レズってどうなの? って思ったりとか。この感覚はシンジくんの記憶の所為で、偽者なんじゃないかとか。そんな風に考えてしまうじゃないですか。だから自分でも深く考えないようにしたりとか、鈍感であるように振舞うじゃないですか。
そ、それに一応男の子にだってときめく事もあるんですから、本当のところはバイというものです。木崎さんに対して憧れるクラスメイトの気持ちも分かりますし、シンジくんの記憶に出てくるカヲルくんとか、会える時が今から楽しみですって。相田? 鈴原? あいつ等は恋愛対象外。ヒカリちゃんには悪いけど、変態と野蛮人に恋する趣味は無い。
って、誰に言い訳してるんだか……。
ともあれ、あれじゃあ絶対に木崎さんは気が付いた。
まさか同性の女の子の裸を見て、「グッジョブ」って言って倒れるような女の子はいまい。っていうか、『
我ながら阿呆過ぎて泣ける……。っていうか、その実泣いてる。特務車の後部座席で、怪訝な表情をした綾波ちゃんにまじまじと観察されながら、さめざめと泣いてる。
もう車が怖いとか、どうやって特務車まで運ばれたかとか、そんなのどうでも良い。
穴掘って埋まりたい。
ミトコンドリアとかになりたい。
「あの……」
不意のソプラノが、隣から聞こえます。
ちらりと見やれば、特務車は現在、トンネルの中らしい。綾波ちゃんの横顔は、薄暗い中、橙色のランプに照らされて、これっぽっちも表情が読み取れないものでした。いや、普段から表情が読み辛い子ではあるんですけども。最近は分かるようになった細やかな表情の変化が、はっきりと見えないと言えば良いでしょうか。
彼女は木崎さんに声を掛けているようで、それを察した彼が「何でしょう?」と、短く返事。しかし視線は綾波ちゃんではなく、顔を起こしたわたしを、サイドミラー越しに見ていました。
とすれば、綾波ちゃん自身も、わたしの方をちらり。その後一度木崎さんの方向へと改まったかと思えば、やはりと言った様子でわたしへ向き直ってきます。
思わず目尻を拭い、鼻を啜ります。泣いていた痕跡を処理している内に、彼女は唇を開いていました。
「どうして? あそこは、わたしの家……碇さんの家ではない」
問われて、わたしはハッとします。
そういえば騒ぎ立てるだけ騒ぎ立てて、彼女の更新カードの事を忘れていました。
「ちょ、ちょっと待ってね」
真っ直ぐこちらを見てくる視線が、何処か眩しく感じて……というか、先程見てしまった彼女の裸を彷彿してしまいそうで、わたしは慌てて自らの鞄へと視線を落とします。膝の上で学校指定の鞄を開き、スケジュール帳を取り出して、その一ページ目に挟んでおいた更新カードを取り上げます。
流石に視線を逸らしながら渡すのは可笑しいので、短い深呼吸の後、彼女へ改まって、手渡します。胸がどくんどくんと高鳴る音に、『煩い。黙れ』と言い聞かせながら、出来る限りの笑顔を浮かべました。
「更新カード。リツコさんが、渡すの忘れてたって」
「……そう」
若干の間の後、受け取ってくれる綾波ちゃん。
ジッと更新カードを見詰めているかと思えば、ちらりとわたしの足許を見てきます。その後、何でもないかのように、自らの鞄を取り上げ、カードを仕舞いました。
含むような動作に、内心『うん?』と小首を傾げるわたし。
しかしながら、混乱して泣いていた所為か、上手く思考が纏まりません。「どうかした?」と尋ねてみても、綾波ちゃんはそしらん顔でそっぽを向いてしまいます。
何か……いけない事したっけ?
鞄を改めてみても、今日は学校に顔だけだして、すぐに早退してしまう予定だったので、大したものは入っていません。強いて言うならお弁当くらいですが……綾波ちゃんは今日、起動実験なので、昼食は――使徒が襲来したらそれどころじゃないだろうけど――お父さんととる予定でしょう。
疑問は疑問のまま、特務車はネルフ本部へと到着しました。
『え? 綾波レイについて掘り下げるんじゃないの? なんでギャグコメやってんの? 作者馬鹿なの!?』
って思われそうだから先に補足。
次の章から暫くシリアス過多になるからってのが作品的理由。レンが綾波ちゃん家に凸したら妄想で三〇〇〇字くらい使うのでってのがキャラクター的理由。