※
何時の間にか日は落ち、窓の外は果ての見えない闇に染まっていました。ぽつりぽつりと点在する明かりも、深夜を過ぎた頃となれば、数も少なく、何処か寂しげに見えます。昔は何処そこの夜景を取り上げて、『一〇〇万ドルの夜景』だなんて言ったそうですが、第三新東京市のそれはどうでしょう。金額的には匹敵するのかもしれませんが、誰がどう見ても日本の次期首都とは言い難い。都市防衛機能に重きを置いた決戦都市の夜は、実に静かなものでした。
いいえ。今が平時ならば、もう少し明るい夜景を見れたのかもしれません。
暗がりでよく見えませんが、寝静まった街の外れに、山を丸ごと隠すような大きな仮囲いがあります。それは三日前、第三新東京市に住まう人々に出された避難命令の後、突如そこに現れたのです。おまけに周囲は昼夜問わず、ネルフ職員によって厳重に警備され、誰も近寄れないようにされているようです。ただでさえ特務機関ネルフには黒い噂が絶えないものですし、様々な憶測が実しやかに語られるというもの。あんなあからさまに不気味な場所へ、好奇心の促すままに近付こうという者は、早々いないでしょう。
まあ、そんな変わり者に心当たりがないかと言われれば、否ではあるのですが……それは今、特に気にすることではありませんね。
「馬鹿。ねえ……」
わたしの隣で、そんな言葉を零すミサトさん。
髪はぼさぼさで、目の下にはくっきりとした隈。何時ものジャケットだってよれよれで、所々汚れているような箇所も見受けられます。停止したルノーのヘッドライトが照らす仄かな明かりに浮かぶのは、激務の疲れがありありと伝わるような容姿でした。
辺りは静寂に包まれています。
此処はあまり有名ではない山の頂上付近のパーキングエリア。深夜二時を過ぎた頃合ともなれば、停まっているのもミサトさんのルノーだけ。当然ながら、人気も無く。此処に居るのもわたしとミサトさんの二人だけでした。
丸石が敷き詰められた地面を離れた所からは、微かに虫の羽音が聞こえてくるのですが……それさえも、何処か遠い別世界のような雰囲気。まるで世界から隔離されたような――とは、少し詩人が過ぎますね。とはいえ、普段、家で日常的な会話をしている時とは、少しばかり違った雰囲気が、わたし達を包んでいる。それは確かでした。
じゃり。と、音を立て、わたしは踵を返します。
視界の隅で認めていた彼女へ向き直ると、こくりと一回頷きました。
「まあ、拒否したのはわたしであって、わたしじゃないんですが……シンジくんの時は『馬鹿』って言われたから、ミサトさんの射撃指示を拒否したんだと思います」
そして改めて説明を加えます。
ミサトさんはこくりこくりと、数回に分けて浅く頷きました。そして「それは分かったけど」と言って、視線をゆっくりと下へ。そこには一冊のノートがあり、彼女はそれを次のページへと捲ります。
深夜の静寂に、ルノーのエンジン音と、紙を捲る音が小さく響きます。寂しげにも聞こえるその音が促すように、ミサトさんの顔付きは険しく……いえ、何処か哀愁が漂っているように見えました。
「色々聞きたいことはあるんだけど……こうして見せられると、あたしって相当酷い指揮官ね。威力偵察もしてないし、二言目には発進させてるじゃない……」
成る程。
わたしが昨日、今日と掛けて作った『碇シンジ・THE・激動の一年』のうち、自分のとった行動を見ていたようです。まあ、そりゃあこんな風にパラレルワールド的な世界の史実を目にする機会なんてある訳無いでしょうし、となると自分がどうしていたかを注視するのは何となく理解出来ます。
いやあ、頑張った甲斐がありますねえ。
これを見て『無能指揮官』なんて呼ばれなかったことを奇跡なんだと理解して、反省して欲しいものです。ほんと、ミサトさんってごり押ししか能が無いんだもの。毎回、毎回、運が良かったから切り抜けただけなんだからね。……そう、運は良いんだよね。運だけは。
付き合わされる方は堪ったもんじゃない。
裏のわたしがどう思ってるかは知らないけど、少なくともわたしはごめんです。昨日は何ともなかったのに、シンジノート作成の為に思い返す内、シャムシエルに胸を刺されたことを思い出してからというもの、痛みがぶり返してきて、今だって地味に痛いんですから。
書かれていることが、何らかの愛嬌宜しく、脚色されたものではないかと言いたげに、訝しげな顔を向けてくるミサトさん。わたしは溜め息混じりに肩を落とし、そっぽを向きました。
「事実ですけど?」
「……認めたくないわー」
認めたくなくても、シャムシエル相手に射撃の指示を出したくせに、『馬鹿! 爆煙で敵が見えない!』って発言をした事実は、わたしの記憶からは消えません。少なくとも、シンジくんは割りと根に持ってました。
指示に従ったら怒られた。
指示に従わずに結果を残しても怒られた。
酷い上官ですね。ほんと。
わたしが呆れ混じりに皮肉を言えば、ミサトさんはがっくりと肩を落とします。
徹夜明けに容赦無いと文句を言われますが、そんな事は知ったこっちゃありません。わたしだって――厳密にはわたしじゃないけど――第四使徒撃退という結果を残したんです。それに対して文句を言うのなら、『じゃあ使徒撃退しなくて良いんですね?』って返しちゃいますよ?
「ほんと……あんたって面倒臭い子ねぇ」
「悪意の塊をどうも」
呆れた調子で零すミサトさんに、うそぶくような調子で返すわたし。
それから無言の一瞬が流れたかと思えば、どちらからともなくふっと笑みを零しました。
「もう……疲れてるってのに、いきなしこんな大事な話を……」
「いや、だから態々ノートに書いたんじゃないですか。わたしだってそれ作るのに超疲れたんですからね? ミサトさんってば口で言っても絶対に忘れるもん!」
一言の文句に、捲くし立てる勢いでお返しします。
疲れているのは承知の上ですが、放っておけば一年後には皆仲良くLCLになっちゃうんですもの。それでなくても使徒という未曾有の脅威が襲来しているのですから、もっと危機感を持って欲しいものです。少なくともミサトさんは人類の存亡を預かる作戦部長なのですし。……いや、まあ、家の中までピリピリしてろとは言わないけどね? でも少しは木崎さんを見習えって思う。あの人、第四使徒戦の後、わたしが起きるまで一睡もしてなかったって、当然のように言うんですもん。むしろあそこまでいくと心配になる。わたしにも優しくする義務感みたいなものが芽生える。だけど今のミサトさんにかける優しさは……あんまり無いですね。
「こんなに頑張ってるのに……」
項垂れるミサトさんに、わたしはにっこりと笑いかけます。
「もうちょっと頑張って?」
すると彼女はげんなりとした表情を浮かべて、わたしをじろりと睨みつけてきます。
「鬼……悪魔……外道……」
「うら若い少女を捕まえて、あんまりな言いがかりをどうも」
わたしは飄々と返しました。
昨日、帰宅を希望する際に言いつけられたカウンセリング。
それを済ませたわたしは、『もう少しで終わる』と言うミサトさんを二時間待って、夜間の恐怖ドライブへ。外で晩御飯を食べ、二人のドライブは山中を走りました。そうして此処に至り、シンジくんの記憶をミサトさんに話したのです。
といっても、成る丈手短に話し終えられるよう、大半は要約しました。大事な部分は全部『碇シンジ・THE・激動の一年』に書いておいたので、疑問はそれを見て欲しいで済ませています。
んで、今はそれを改めているところ。
つまるところ気の抜けた一時です。
シンジくんの記憶はどう話したとしても残酷で。話の主観が彼である以上、きっと誰もが同情を禁じ得ないことでしょう。何と言っても、齢一四の子供が負うにしては、大きすぎる責任と覚悟……そして、代償のお話なのです。彼は大人になろうと努力はしたものの、やはり一四歳の子供で。故に背負いきれない重圧に負けて、逃げ出してしまった……けれどそれは周りの悪意を放置する事になってしまい、最期は無念な結果になってしまう。
仕方無いと言うには可哀想で。
馬鹿だと言うには彼は若く。
なら……一体どうすれば良かったんだ。と言うのが、今のお話。わたしはその正解ルートを歩いて行きたい。流石に男女の差はあれ、けれど大筋は彼と違いが無さそうな現状を、より良いハッピーエンドに向かわせたい。
「まあ、分かったわ……。それを急ぐ理由も、ね?」
ミサトさんはそう言って、薄く微笑みます。
笑顔の理由が分からないわたしは、それでも言葉の意味ばかりは理解して、僅かに顔を伏せます。
急ぐ理由なんて沢山ある。
それこそ、メリットは挙げ出したらキリが無い。
だけど、ミサトさんの言うそれは、『急がなければいけない』という事。決してメリットを重視した話ではなく、急がなかったが為の代償を恐れたが故の行動だったと言いたげです。
ええ。
その通り。
わたしは真面目な顔付きで改まります。
ミサトさんに真正面から向かい合って、小さく頷きます。彼女の言わんとした事を、肯定しました。
「……二重人格。本来なら、わたしのそれはシンジくんのことでした。だけど、今の現状は明らかに違う。誰か分からない『二人目』がわたしの中に居て、使徒と戦ってる」
独りごちて、わたしはミサトさんから視線を逸らします。
改めた第三新東京市の街並みは、やはり静かで。それを守ったという実感は、わたしの心の何処を探したとて、存在しないものでした。むしろ、ふとすれば何時かわたし自身が壊してしまうのではないか……そう思えてしまう程、儚げに映るのです。
「ちょっち……今一度確認していい?」
わたしの横顔に掛けられた声へ、再度振り返ります。
ミサトさんは先程までの笑顔が嘘のように、あまり見ない思案顔をしていました。畳んだノートを脇に挟み、腕を組んで顎を撫でる様は、何処か『それっぽく』映ります。
わたしが頷くと、ミサトさんは明後日の方向へ、視線を逸らしました。促された気になって、視線を追えば……第三新東京市に不穏な影を落とす仮囲いの方へ。
「あの時のレンちゃん……多分、今の貴女を指して『表のわたし』って言ってたわ。それってつまり、貴女は本当の二重人格者だった……って事で良いのよね?」
それは、再三に渡って、なあなあで済ませてきた事です。
わたしにとっての二重人格とは、『碇シンジ』のこと。『裏』と称するわたしの存在は、第三使徒と相対した際、生まれて初めて自覚したものです。つまるところ、ミサトさんの質問に対する答えは是。
こくりと頷いて返しました。
「わたしにとっては、シンジくんの事だった筈なんですけどね……何が一体どうなっているのやら。我ながらほんとさっぱりです」
「……我ながらって言いつつ、随分他人事ね?」
呆れたような調子で、ミサトさん。
それぐらいショッキングな事なんです。察して欲しいものです。
溜め息混じりに向き直り、わたしは補足します。
「因みに裏の時の記憶は朧気です。強いて言うなら、激情して大暴れした後に、ふとその事を思い起こそうとするような感じ……何となくは思い起こせるんですが、何処か断片的です」
第三使徒の時も、第四使徒の時も、『裏』になっていた際の記憶は、わたしにとってシンジくんのそれよりも、よっぽど他人事です。感覚やら、感情やら、じっくりと思い返してみると、明確ではあるのですが……何と言うか、それらの記憶が繋がらない。『記憶』ではなく、『記録』のように感じるのです。
例えるなら、歴史の年号を覚えているような感じでしょうか。本能寺の変と関ヶ原の戦いの間が、一八年しかないって、言われて初めて気が付くような感覚です。どちらの時代にも徳川家康はいましたが、改めて見直さないと、全く別世界の出来事同士のように思えるじゃないですか。
「その例えはよく分からないけど……まあ、言いたいことはよく分かったわ」
ミサトさんは溜め息混じりに、そう言いました。
ふと改まれば、その表情は何処か慈愛深く見えます。
成る程。
きちんと理解してくれたようです。
そう……わたしはこの二重人格をどうにかしないといけない。
これをどうにかしないことには、わたし自身の手でバッドエンドを作り出してしまうかもしれない。
だから――。
わたしは改めて、頭を下げました。
「ミサトさん。助けて下さい」
人類補完計画の阻止を、誰かに任せる必要があるのです。
此処に来て、わたしはそれを痛感したのです。