わたしは茫然と巨人に臨みます。
まるで魅了でもされたかのように身体が動かなくなり、その体躯を、挙動を、観察していました。
身体自体はカーボンのような烏色。肉質は……どうなんでしょう。一見すると柔らかそうですが、戦闘機の攻撃を食らっても傷ひとつ付いた様子は見られません。つまり実際は随分と硬そうです。しかしあれが『ATフィールド』によるものなのか、はたまた純粋な硬さなのかについては、残念ながら肉眼では判りかねます。
また、まるで装甲のような白いパーツが肩、腰、胸などに付いています。これは一見すると浮き出た骨のように見えますが、これまた肉眼では何なのか分かりません。
頭部のようなものはありません。首自体が無く、形としても首無しの人型という姿です。その代わりなのかは判りませんが、胸より少し上の辺りに
そして、最も特徴的なのは胸の装甲に守られるようにしてある赤い宝玉のようなものです。見た目にも分かり易い『コア』ですね。アレを砕くとあの巨人は絶命する筈です。
あの巨人の識別名称は『使徒』。
ちゃちな呼び方をするのならば、UMAと呼ばれる生命体でしょう。
そして今尚、戦闘機の攻撃をものともせずに悠然と歩を進める『彼』自身は三番目の使徒。名前は『サキエル』。わたしはそう
うん。もう疑う余地も無い。
わたしは間違っていなかった。
一度目を瞑り、ふうと息を吐きます。
未知の生物を拝んだ所為なのか、本能的に強張る身体と、ドクンドクンと騒ぎ立てる胸の鼓動。それを自覚したわたしは、自分自身に落ち着けと何度も言い聞かせます。鞄を持った左手と、胸に添えた右手をグッと握り締め、深呼吸と共に力を抜きました。
「……ふう」
思わず言葉までも漏らし、ゆっくりと目を開きます。
視界の先では第三使徒が戦闘機の一機をジッと見据え、「これは何だ?」とでも言いたげに小首を傾げていました。
そろそろ状況が動きそうです。
此処に居ると危ないかも……。
公衆電話の前なら安全だったっけ?
わたしはその場で軽く足踏みして、震える足に動けと命じます。そしてゆっくりと一歩踏み出し、公衆電話の近くまで歩を進め、膝を折りました。その場で蹲って顔を伏せ、
ドクン。
ドクン。
胸の内で高鳴る鼓動。
何度落ち着けと言っても、全然静まる様子はありません。
しかしこれは本当に本能的な恐怖なのか、はたまたこれから自らに訪れる激動の一年が待ち遠しいのか、それとも――。
ほんの少しの間。
きっと本当に僅かな時間しか過ぎていない事でしょう。
視界で捉えてはいませんでしたが、煩わしく思ったのか、はたまた先程の様子の通り単純な興味を示したのか、使徒の手によって戦闘機の一機が撃墜されたようでした。風を切るような音と、幾つもの爆発音が重なったような轟音が近付いてきて、その音を聞くわたしの身体がただただ本能的に強張ります。
そしてわたしが自分の身体をギュッと抱き締めたその時、締めと言わんばかりのとんでもない爆発音と、衝撃波が襲い掛かってきました。
不意に身体に掛かる重力が無くなったように感じて、目を開きます。何時の間にか身体が僅かに宙を舞っていて、蹲った状態から真横に弾き飛ばされるように転がされました。
視界の先では、やはり爆炎。
しかしそれよりも手前に――アルピーヌ・ルノー。
青いスポーツカーはまるでわたしを庇うように滑り込んできていました。地べたに尻餅をついたわたしは、きっとその車が庇ってくれていなければ丸焦げになっていた事でしょう。
そのルノーの助手席の扉が、バンと大きな音を立てて開かれました。中からこちらを臨んでくるのは、長い黒髪とサングラスが特徴的な女性。
「ごめーん! お待たせ」
そしてその女性は、こんな非常時だというのに、底抜けに明るく感じるような声を上げてくるのです。おまけに口はにっこりと笑っていて、非常識にさえ思えてしまう程でした。
爆炎を背に、戦場を目前にしているというのに、澄んだその声はきちんとわたしに届きます。他のものが有象無象に見えてしまう程、彼女に目を奪われました。
その声、その顔……どれもがわたしにとっては
思わず喉が震え、四肢から力が抜けたように感じます。唖然と開いたままの口が熱気の籠もった空気を浅く吸い込み、その焦げ臭さがなんと息苦しく感じる事でしょうか。
わたしは目をパチパチと瞬かせ、右手で胸を押さえます。落ち着け、息を整えろと自らに言い聞かせました。
と、そんなわたしを見ていた女性が小首を傾げます。そして呆れたように口角を片方だけ吊り上げました。
「……パンツ、見えてるわよ?」
「へ?」
唖然としていたわたしが、状況を飲み込めていないように見えたのでしょう。それを解す為の指摘だったのだと思います。ですが、その指摘は確かに事実でした。
視線を自らの股間に向けてみれば、紺色のスカートが捲れ上がっていたのです。全く日焼けをしていない太ももと、真っ白の下着が……『覗けている』ではなく、完全に『晒している』と言えた状態で顕になっていました。
「あ、わ、わあああーっ!」
思わず頬が熱くなる思いでスカートを直します。
完全に捲れ上がって、スカートの下に仕舞い込んだ服の裾さえもが見えてしまっているのを、急いで正します。
そして立ち上がり、わたしは首を横に振って「違うんだ」と主張します。何を違うと主張したいのかは自分でも分かりませんでした。それでも身振り手振りであたふたと言い訳がましい様子を見せるわたしは、実に滑稽だった事でしょう。
そんなわたしの様子が可笑しかったのか、女性はクスリと笑います。
「それは良いから、早く乗って」
「ひゃ、ひゃい!」
もうグダグダ。
わたしは返事すらも噛んで、転がり込むようにしてルノーの助手席へ入りました。
そこからはその女性の
華麗なハンドル捌きでルノーを操り、降って来る瓦礫をきちんと避けて、その場を離脱しました。
その走行の速い事速い事。
わたしが待っていた場所から即座に離れていきます。
掴まっててとの言葉に従い、何とかシートベルトだけは締めましたが、身体に掛かる加速度が凄まじい。今に事故るんじゃないかと、頭の中で誰かが呟きます。それに煽られたように、羞恥心で限界を迎えようとしていた筈の心臓が更に大暴れをして、冷や汗が止まりません。
き、気持ち悪い……。
が、今は非常時。わたしは鞄を抱えて蹲りました。少なくとも前を見なければ怖さも半減します。
しかし、わたしはその女性に言わなければいけない事があります。戦地を離れ、加速が落ち着いた頃合になれば、わたしの羞恥心や恐怖心も少しは落ち着いていました。
わたしは今に加速を緩めそうな女性を振り返り、ありったけのポーカーフェイスで表情を取り繕い、叫ぶように声を上げました。
「葛城さん! 戦自がN2兵器を使う筈です。速度落とさないで下さい!」
するとその女性――葛城ミサトさんは、サングラスを掛けたままの顔をこちらへ向けて来ます。薄く唇を開いて、唖然としたような様子でした。
さながら「何故
「事情は離れてから話します。今は兎に角離れて! 新車ボコボコになって、卸したての服もドロドロになっちゃいますから!」
「ちょ……えぇ? はいい?」
「ほら、急げって言ってるんですよ!」
「え、ええ……」
無理矢理話を止め、わたしは運転に再度集中しようと言うミサトさんに代わって、窓から身を乗り出します。心臓がはちきれんばかりに煩く鳴って、『怖い』と訴えますが、そんな事は言ってられません。運転席から「危ないわよ!?」と焦ったような声も頂戴しましたが、状況の確認が必要なのです。丁度此処等は『彼』がN2兵器の余波で吹っ飛ばされた辺りなのですから。
シートベルトを限界まで引っ張り、わたしは上半身を完全に車外へ。きつく細めた目で先程離脱してきた戦地をじっと見据え、米粒程の大きさにしか見えない戦闘機の様子を確認します。
遠目に何とか見えたのは、小さな人形の周りに群がっていた米粒が、ふらふらとした軌道で転進しようとしている様子でした。
ゴクリ。
喉を鳴らして見守る先で、戦闘機は凄まじい加速と共に離脱――。
わたしはすぐに車内へ。
ミサトさんへ顔を向け、ありったけの声を吐き出します。
「戦闘機が離脱しました! 来ますよ。ミサトさん!」
「……マジ? 間に合わないんじゃないの? これ」
「アクセル目一杯に踏み込んで! 今ならまだルノーが焦げるだけで済むと思います! 死にたくないならごたごた言ってないで頑張ってよ!」
自分の目で見ていないからか未だ怪訝な表情のミサトさんですが、理屈よりも衝動を優先する彼女の気質が発揮されてか、言葉もなくルノーは更なる加速をします。
瞬時に感じた加速度でシートへわたしが叩き付けられた頃になってから、申し訳のように「掴まって」と言ってきますが、明らかに時既に遅し。思わず息が詰まって、わたしは茫然とフロントガラスの向こうの景色を見詰めていました。
ぐんぐん流れていく景色。
抜き去っていく様々なモノ。
――はじめて見る風景。
胸の内で何かが変わっていくような感覚。
恐怖心が全く別のものへと変わっていきました。
それは確かな期待感。
絶望を覆す、努力の果てにある奇跡。
奇跡という名の――現実。
そう……。
此処からわたしの記憶の世界が、御伽噺が、絶望が、奇跡に変わっていくんだ。いや、変えていくんだ。
そんな事を考えた瞬間でした。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚という、五感の内四つもの感覚をぶち壊すような衝撃がやって来ました。
※
わたしの名前は碇レン。
今年で一四歳になりました。
性別は女。髪の色は黒。髪型はセミロング。少し癖っ毛だから、毎朝整えています。
長袖しか着ないけど、体型には自信があります。……まだ、自信はある筈。ミサトさんに勝てないだけ。彼女に勝つ一四歳がいたら見てみたい。わたしの知る限りではいません。
そんな、何処にでもいそうな中学生女子のわたし。ですがわたしには普通と違う事が幾つかあります。
例えば父親が非公式組織の総司令だったり。
その父が仕事に没頭する為にわたしを放置したり。
更にその父親とは一〇年以上会ってなかったり。
等、その殆んどは単なる『不幸な身の上』で片付く事ばかりですが、唯一『神様の悪戯』とでも言ってしまえそうな話がありました。
それが『ある人物の記憶を受け継いでいた』という事。
いや、違う。
そんな生温い言い方ではありませんし、記憶を受け継いだ等という言い方では語弊もあります。
正しくは『夢に見てきた』。
赤の他人である……というか、わたしが居るこの世界には存在しない筈の少年、『碇シンジ』の人生の一部を、毎晩の睡眠時間の間に見てきました。
そして、苦しめられてきました。
間違いの無い苦痛でした。
例えばその『碇シンジ』が本当に正真正銘の赤の他人であったり、わたしと何ら係わり合いの無い人物ならば、見ている夢がたとえ凄惨であれど、それは喜劇にもなり得た事でしょう。少なくとも逆説的に、わたしにとって『彼』がどういう存在かを自覚してからは、正しく地獄のような夢でした。
そう、『碇シンジ』とは、わたしです。
わたしが男の子であれば、正しく彼と同じ人生だったのだと思います。故に『この世界には存在しない筈の少年だ』という訳です。
とはいえ普通の人生をただ見ているだけならば、わたしはちょっとしたファンタジーにでも浸っている少女で済んだ事でしょう。決して『死にたい』と思う程に、苦しんでいた筈はありません。
つまり、普通ではなかったのです。
碇シンジの人生は。
わたしと同じ父親、碇ゲンドウによってある日突然第三新東京市へ召還され、未知の生命体である使徒と命懸けの戦いをしていく。
簡単に要約すればそんなところ。
此処までならまだヒーローもののアニメでも観ている感覚で、浸っていられます。しかしこれはアニメではなく、非情すぎる程に現実的でした。
初めて紡いだ親友という絆を自ら壊し。
初恋と似た感情を抱いた少女が自爆を決行し。
最も近くて最も遠い憧れの少女が廃人となり。
自分を最も愛してくれた少年を自ら殺し。
大人の象徴と感じていた男性が消息を絶ち。
最愛の家族だった女性が自分を庇って死に。
そして、全ての黒幕は自らの父であったと知り。
世界は滅びました。
夢だというのに痛みも苦しみも感じるその物語の終わりはあまりに残酷。碇シンジはLCLと言う生命のスープに溶け、最後まで彼を拒んだ少女が『人類補完計画』そのものを否定し、物語の本懐は全人類を液体化させただけで終わりました。
そこに未来も、救いも無い―ー。
『嫌だ。もう嫌だ。死にたい! 死なせてよ!!』
そして『わたし』は自らの左腕を何度も引き裂きました。
もう何度も何度も、数え切れない程に、わたしはこの地獄から恒久的に逃れられる唯一の術を決行し続けました。
だってそれは夢物語で。
それは御伽噺で。
周りの誰に話しても全然信じてくれなくて。
そんな状況がもどかしくて、辛くて。
悲しくて……。
『あたし……引っ越すんだ……』
そんなわたしを救ってくれた人もいたけど、何時しか居なくなってしまって。
この時の喪失感で、碇シンジの抱いた絶望感が更に分かるようになって。
結局は死にきれずに、こうして此処に居る訳ですが、これまでのわたしは不眠症であれば自殺志願者で、精神鑑定でも異常の二文字をつけられていたような人間でした。
今は少しばかり落ち着きましたけどね。
改善したのはその救ってくれた人のおかげと――そう、これが『御伽噺』や『夢物語』ではなかったからです。
正しくは『碇シンジの記憶』だった。
それが今のわたしの見解です。
たった二文字の黒い葉書を受け取ったわたしは、まるでそれが希望のように感じたものです。
そうしてわたしの物語は始まりを告げたのでした。