昨日遅かったのよー。と、主張するミサトさん。
その言葉にわたしは「それは自分の所為だ」と言って、汚部屋から無理やり引っ張り出します。すると彼女は意地悪だと言いながら、渋々着いてきました。
「意地悪じゃない。昨日ミサトさんが残業になった理由は大体予想出来てるもん」
「ちぇっ。リツコのやつぅー……」
愚痴る彼女へ、そんな事は良いから顔を洗えと、洗面所へ行くよう促しました。まったく、良い大人がだらしない。
大きな欠伸をしながら洗面所へ向かうミサトさん。
その姿をキッチンで見送ったわたしは、ペンペンの部屋とは別にある冷蔵庫を開け、朝ご飯の為だけにしては過剰な量の材料を取り出します。別に大食漢が居る訳ではなし、単純にお弁当用も含んでいるからです。
エプロンを着けて、背中でその紐を縛り、食器棚を開きます。
今日は――。
「あ、レンちゃん。あたし今日当直ー」
昨日言えよ。
そう思いながら、わたしは洗面所から聞こえてきた声に分かったと返事をします。
つまるところ、ミサトさんは本日昼過ぎから出勤。お弁当は不要でしょう。
となると、
不要になったミサトさんのお弁当分の材料を冷蔵庫に戻し、早速調理に取り掛かります。フライパンを熱し、油を引き、お鍋に水を入れてから余ったコンロに置いて、着火。
顔を洗ったミサトさんが戻ってきて、席に着きます。そしてペンペンはもう起きてるのかと問い掛けてきました。
いや、ミサトさんよりペンペンが寝坊してる時の方が珍しいんだけど……。わたしはそんな風に肩を竦めながらもうんと返します。
切ったほうれん草を水洗いしてお鍋に。
手をかざしてフライパンの温度を確認。少し火を弱めておきました。
ボウルに卵を五個割って、菜箸で掻き混ぜます。
と、そこでわたしは手を止めないままに、ミサトさんを振り返ります。
「あ、ごめんなさい。珈琲淹れ忘れた」
「いいわよぉ。そんくらい自分でやるわ」
ミサトさんはテーブルで頬杖を突いて、空いた手でスマートフォンを操作していました。夜中の内に入ってきた新着通知を確認しているのでしょう。わたしは前に向き直って、ブロックベーコンに包丁を入れながら話を続けます。
「着替えも急いで下さいね。七時には木崎さん来ちゃうから」
「はいはい。分かりましたよーっと。……珈琲、レンちゃんの分は?」
「いつも通り甘々のオレで」
「朝からよく飲むわね……」
背中に掛けられる呆れた声に、短い笑い声を返します。
まあ、毎晩悪夢にうなされてるので、起きた時にはいつも疲労感を感じるんですよね。だから朝からしっかり糖分を摂らないとやっていけないと言うか、頭が働かないと言うか……。ほら、さっきもミサトさんを起こすかどうかで迷って、時間を少しばかり無駄にしましたし。
やがて珈琲を淹れたミサトさんは愚鈍な動作で汚部屋に戻って行き、着替えを済ませ、リビングへ帰って来ました。その頃には洗濯物をベランダに干し終えて、お弁当のおかずが完成。
ふたつのお弁当箱の中には三種類のおかず。もうひとつのお弁当箱には同じく三種類ですが、ベーコンを抜いて、他のおかずに少し手を加えたものを詰めています。種類は少なく感じますが、お米は混ぜ御飯にする予定だし、問題ないでしょう。栄養バランスのチェックの為に、後で作ったものをメモしておきましょう。
余った材料で更に二品作る頃に、葛城家のインターホンが鳴りました。……やっべ、急がないと。
「はーい」
そんな声を上げながら玄関へ行くミサトさん。
わたしはミトンを着けて炊飯器から釜を取り出し、キッチンに戻ります。
「おはようございます。葛城一尉」
「おはよう。今日もご苦労様ー」
玄関から聞こえてくる声を背に、わたしは手を急がせます。
調味料を置いている棚から混ぜご飯用のふりかけを取り上げて、それを軽量スプーンで計りながら投入。しゃもじで混ぜていきます。
「おはようございます。レンさん」
「おはよーです」
後ろから掛けられた声へ、肩越しに振り返って笑顔と共に小さく会釈。
いつもの黒いスーツに、サングラス。きちんとオールバックに纏められた髪型。そして、鉄仮面を思わせるかのような硬さが垣間見える引き締まった口角。わたしからすれば気心も知れたように感じる相手、木崎さんです。
この二週間で何が変わったと聞かれて、一番はミサトさんの家へ移住した事だと思います。ですが、それはシンジくんの記憶の上では予定調和でした。とするなら、わたしの中で一番印象に残っている事といえば、間違いなく木崎さんの事でしょう。
聞けばこの人、一日一食。睡眠時間は多くて三時間。でもって休日は無し。
どこのブラック企業だよ。
流石に酷い。そう思って、わたしは副司令に頼んで、都合良く空き家だったミサトさんの隣家を木崎さんの待機場所にして貰いました。これで少しでも休める時間が増える事でしょう。でもって「年頃の女性の家に男が行くのは……」と拒絶する彼を何とか説得して、朝ご飯を一緒に食べる事に。今用意したお弁当もひとつは彼の分です。お昼は友達と食べて下さいと譲ってくれませんでしたが、晩ご飯も一緒に食べています。
勿論ミサトさんの許可もとりました。彼女的には渋々といった様子だったのですが、こちらもわたしが家事を全部引き受ける条件で了承を得ました。まあ、この家を掃除したのはわたしと彼だったので、引け目もあったのでしょうが。
もう見慣れてきた光景という事もあって、最近ではミサトさんと木崎さん同士も他愛のない話をしていたりもします。この前なんてミサトさんの『上官許可』という職権乱用でお酒の相手もさせられていたり……。まあ、身体の中に
少しの時間が過ぎて、食卓に着いたわたし。
三人と冷蔵庫から出てきたペンペンとで向かい合って、手を合わせて食べ始めます。
「ミサトさん。今日当直ってさっき言ってましたよね?」
食事の合間で問い掛けてみれば、タンクトップの上に一枚薄手のシャツを羽織ったミサトさんは、お米を口に入れながらこくりと頷きます。ごくんと飲み込んでから、改めて唇が開かれました。
「ええ。だから今日の晩ご飯は要らないわ」
「明日の朝ご飯はどうしましょう? あとお弁当」
「多分帰ってすぐに寝ちゃうから朝は要らないわね。あ、でもお弁当は欲しいかな」
「はーい」
そんな会話をしながら、七時半になる頃には食事も終了。
お弁当を包んで、ひとつを木崎さんに手渡します。
自室から昨日用意しておいた学生鞄を持ってきて、その中へふたつのお弁当箱を傾かないように入れました。
二〇分程の時間が余っているので、五分で食器を洗い、一五分で髪の毛をブローしたり、歯を磨いたりと、身支度を整えます。最後に自室で今朝とお弁当のメニューをメモ用紙に走りがきして、よしと頷いて木崎さんの下へ。
リビングでテレビを見ながら珈琲を飲んでいるミサトさんに声を掛けます。
「じゃ、行ってきまーす」
「はーい。行ってらっしゃい」
見送ってくれるミサトさんに会釈で返しながら木崎さんと共に玄関へ。
扉を開けていざ出発です。
余談ですが、ミサトさんの昨日の残業の理由は、サボっていたからなんだと思います。リツコさんが昨日カウンセリングの時に、そう愚痴っていたので。
どうせならと用意された特務車両で学校へ。
有事ではないので運転手は木崎さんですが、建前上わたしは『お嬢様』みたいなものなので、それっぽく取り繕っているみたいです。本当は単なる監視ですけど。
彼の運転はとても安全で、停車の際にも後部座席に座るわたしへ揺れを感じさせない優しいものです。自動車嫌いのわたしだって喜んで乗れる程なのですから、どっかの誰かに見習わせたいものですね。
そんな上層ブルジョワジーみたいな登校は当然目立ちます。
丘の上にある第壱中学校へ着いてみれば、登校中の生徒の視線を浴びせられるのです。とはいえ当然ながら道路と同じ速度で走っては他の生徒を危険にさらしてしまう為、ゆっくりと駐車場へ向かいます。となれば後部座席とはいえスモークが貼ってある訳でもないので、わたしの横顔は外から丸見えでしょう。ちらりと視線を向けてみれば、クラスメイトの姿も確認出来ます。
っと、ちょい待ち。
わたしは窓を開けて、目が合った生徒へ笑顔を向けました。
「おはよ。ヒカリちゃん」
「あ、やっぱり碇さんだったのね。おはよう」
わたしの動作を察して車両を止めてくれた木崎さんに会釈でお礼を示し、目の前の少女に向き直ります。
茶色いおさげと年頃を思わせるそばかすが特徴的な、それでいてとても可愛らしい容姿の女の子です。わたしが在籍する『二年A組』の学級委員長、洞木ヒカリちゃん。転校生のわたしに自ら率先して話し掛けてくれた優しい子で、此処へ来て初めて出来た友達です。
シンジくんの記憶の中でも優しいイメージが強くて、
「あはは、重役通学だよ」
ヒカリちゃんにはわたしがパイロットである事を秘密だと頭打って早々に話してしまっている――学級委員である彼女に言っておけば、後々面倒臭い騒がれ方はされないだろうなんて算段です――ので、おふざけ半分に今の状態を茶化してみます。
すると彼女は呆れたように微笑みました。
「重役出勤の事? それって遅刻した人に対する嫌味よ?」
「そうだっけ?」
「まあ、近代語だから解釈次第だろうけど」
そんな言葉を思い出すような仕草と共に零すヒカリちゃん。
やがて目が合って、二人して何が可笑しいのかあははと笑い合いました。
「じゃ、また後で」
わたしから話を収め、木崎さんに『もういいよ』と目で合図します。彼はこくりと頷いて、車は再度発進しました。
ヒカリちゃんと手を振って別れ、駐車場へ。
車を
やがて木崎さんは二年A組の教室の前で「では」と告げて待機。わたしは無駄な労いという事は承知で、適度に休んで下さいと告げて、教室へ。
ガラリと音を立てて開けた引き戸の先は、何処にでもある学校の教室でした。木製の板と金属製のパイプを組み合わせた机と椅子が並んでいます。強いて言うならその数が田舎のそれよりは少ない事が違いでしょうか。
あとは机の上にあるラップトップパソコンも、教室の後ろにある大きなエアコンも、田舎の学校よりスペックが高いものでしたっけ。
予鈴まで二〇分はあろうかという頃合。
まだ半数も揃っていないクラスメイトは会話を止め、わたしを一瞥してきます。成る丈にっこりと笑って、「おはよう」と零してから自分の席へ。するとクラスメイト達は「おはよう」と返してきたり、こちらへの興味を無くしたかのようにそれまでやっていた事へ戻ります。……いやぁ、教室に入って開口一番に挨拶をするのも慣れたものです。はじめは凍り付いた空気の溶かし方が分からなくて、黙って扉を閉めた後、後ろの入り口に回って入り直したものですし。
あの時は恥ずかしかったなぁ。態々出直したのに、ずっと凝視されてたもん。主に胸を、だけど。
席に着くと、先に教室へ着いていたらしいヒカリちゃんが近寄って来ます。
「朝からご苦労様」
机に荷物を仕舞うわたしに、微笑み掛けてきました。
何を言わずとも、晒し者になっていた事を労ってくれているのだと理解します。脇に立つ彼女を横目に見上げる形で、わたしは肩を竦めて見せました。
「ありがと。まあ、車で登校するのは助かってるんだけどね」
薄く笑って、そんな風に返します。
自分で言った事とはいえ、家事を全部引き受けているのです。朝から時間に追われるのは結構苦しいものがあります。徒歩での通学ならば、ある程度手際良くやったとしても、髪の毛をセットする時間や食事の時間を急がねばなりません。そんなのは嫌です。女の子の身支度には時間がかかるもの――わたしは掛からない方だけど――だし、シンジくんと同じ状況でだなんてやってられません。
まあ、やっていた彼に対しては脱帽を通り越して脱皮するぐらいな気持ちなんですけどね。
「いいなぁ。わたしも朝もっとゆっくりしたいわ」
まるでわたしの心境を揶揄するかのように、愚痴っぽく零すヒカリちゃん。……そういえば彼女は三姉妹の次女で、お姉さんが働いてるからって家事全般やっているのです。ヒカリちゃんにも頭が上がらないと気付きました。
もう思わず両手を合わせて拝んでしまう心地です。っていうか、事実拝みました。
流石変態が多いこの学校において、彼らを戒める立場の存在。さしずめ『第壱中学校最後の良心』ってところでしょう。
「……何してるの?」
と、すればわたしの奇妙な行動に怪訝な表情を浮かべるヒカリちゃん。眉根を寄せて、小首を傾げ、ぱっちりとした目が若干薄目みたいに……困っているようにも見えました。
「え? いや、何となく」
そんな彼女へわたしは大抵の事を誤魔化せる言葉『何となく』を放ちます。
するとすぅーっと目を細めて、にっこりと笑う彼女。
「……わたしの胸を拝んだところで、嫌味にしか見えないよ?」
「それは失礼」
第壱中学校最後の良心の額に怒りマークが見えた気がします。
思わず咄嗟に両手を差し出して、『ストップ』と訴えました。
ですが、その際も自らの手首に当たるわたしの大きなバスト。不意に見下ろして、自分の両手で軽く持ち上げます。そしてヒカリちゃんを見上げました。
「欲しいならあげるよ?
すると呆れたようにあからさまな溜め息を吐くヒカリちゃん。
「無理でしょ……」
「いや、ネルフの技術ならいける気がす――」
としたところで、わたしの脳裏にぴきーんという、何かを告げる直感の音が響きます。
ヒカリちゃんから視線を逸らし、わたしは教室の後ろへ顔を向けました。即座に胸から手を放し、自分の席と後ろの席に両手を突いて立ち上がります。
視界の先には、こちらにカメラを向ける眼鏡を掛けた男子生徒。癖っ毛の茶髪が特徴的な――。
「相田ぁぁああ!!」
「ひぃっ! 見つかった!」
相田ケンスケ。
趣味は盗撮とミリタリー関連の何とかと盗撮と盗撮と盗撮。言わずとしれた第壱中学校の変態株筆頭です。
「待てコラ。今撮ったろ!? ネガ寄越せこの糞眼鏡!」
わたしの叫びに正しく危機感を持ったのか、機敏な反応を見せて後ろの出口へと猛ダッシュを開始しようとする相田くん。すかさず後を追います。
「あ、ああああげないぞ。これには知的財産権という――」
「その前に肖像権を勉強しろよ! 今までのその財産とか言うのも含めて渡せコラァァアア」
しかし走り出そうとしたところで盛大に揺れてくれる胸。
引き千切れそうな痛みを感じて、わたしは思わずたたらを踏んで止まります。ハッとして見直した先で、相田くんはさっさと後ろの出入り口から出て行ってしまっていました。
くそったれ。
後で椅子に画鋲置いておいてやろっと。
そう心に決めて、わたしは溜め息を吐きます。
そして立ち上がったわたしの動作を予期してか、数歩離れた位置で何とも言えない苦笑いを浮かべていたヒカリちゃんを振り返ります。ズキズキと痛む胸を片手で押さえ、苦悶の表情のまま、わたしも苦笑いを返しました。
「……これでも、羨ましい?」
分かってますとも。
走ったらすんごい揺れて痛いって事ぐらい、もう今年の春頃から自覚してますよ。でもまだ咄嗟に幼少の頃を思い出して走っちゃうんです。そしてあまりの痛みに毎度撃沈。いい加減学習しろよとは自分でも何度も思っている事なのですが、一昨年の春まではAとかBとかだったんだもの。二年ちょっとで急激に成長すれば、そりゃあこんな風にもなるでしょ……。
学校全体でもEとかFとか、あまり聞かないよね。卒業まであと一年半もあるのに、今でDとかどんだけ成長期なんですか、わたしの身体。……背は大して伸びないくせに。
フルカップのブラにしようかなぁ。
でも制服だと透けるから、目立つんだよね……。
脳内で涙するわたしに、第壱中学校最後の良心がくれた言葉は「ドンマイ」でした。