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翌日。
わたしは昼まで予定が無いと言われ、朝食をとった後は宿舎のベッドで寝転がっていました。
昨日買ったパジャマ姿のまま、仰向けで四肢を放り出していますが、仮眠をとるつもりはありません。だから瞼はしっかりと開けています。
身体を休めていると思考が捗るような気がするから、楽な格好で寝転がっているだけです。
第一、わたしは暇を持て余したとしても、仮眠で時間を潰す事はありません。睡眠はわたしにとって天敵です。……って思ったら
それはさておき、今という時間は一人でゆっくり思案するには丁度良い時間でした。
相変わらずリビングで木崎さんが待機していますが、乙女の寝室に入ってくる程無粋な人ではないですし。彼は向こうで新聞を読んでいるらしく、時折紙の擦れる音だけが聞こえてくるものの、無音には及ばない程度の静寂さとは、何とはなしに心地よく感じるものです。
仕事とはいえ自分を労わってくれる誰かが近くにいるというのも、実に安心出来ますしね。
わたしは天井を見上げ、身体を包む布の感触と、背を覆う柔らかな布団の感触に酔いしれます。
見上げているものが石造りの天井と円盤型の電気でなければ、もっと心地よいのになぁ。
なんて、月並みな事を考えるのも、まるで酩酊するかの如くです。……いや、お酒を飲んだ事は無いんですけどね。昔読んだ小説で、初めて飲んだお酒で酔い、夜空を見上げてみれば風情を感じるなんてお話があって――って、別にわたしは猫ではないし、飲み残しのビールを飲んで足を踏み外して水死するつもりも無いんですけども。
でも、心地としては変わらないのでしょうか。
今のわたしは言い知れぬもどかしい気持ちに覆われ、思考という大海で溺れようとしているのかもしれません。先の話に乗っけて巧く言い換えるのなら、『
はは、我ながら何を考えているのやら……。
一度思考をリセットしましょう。
わたしは両手を組んで、頭上――といっても寝転がっているので布団の上ですが――へ向けてゆっくりと伸ばします。小さな声で喘ぎ、力を抜けば、ふうと一息。
思考がクリアになりました。
さて、今一度考えてみましょう。
考えるべくは今の自分が置かれている状況と、これからどうするべきなのか。
昨日のカウンセリングではわたしの考えが足りないばかりに、不測の事態へと陥りました。今後あんな事は避けておきたい。とすれば当然ながら、下準備をしておいて損は無い筈です。それこそ考えが固定化されてしまう事を危惧していた考えもあるものの、既に『やらかして』いるのだから、咄嗟の事に上手く対応が出来ないのは自分でもよく理解出来ましたし。
むしろ人類補完計画なんてとんでもない計画は、一年やそこらの準備期間で出来るものではないでしょう。相手は既に動いていると見る方が良い。
となれば、既に後手。
出来る限り無駄無く対処しなければ……。
先ず、昨日の事を整理してみましょう。
リツコさんにシンジくんの記憶が伝わっていなかった事は幸いでした。が、同時に思い出されるのは、やはり第三者の視点から見れば、わたしが第三使徒を蹂躙した光景は『異常』そのものであったという事実。
わたし自身としてもあの時の事はおぼろげで、もしかしたらいよいよ本当に自分が多重人格者だったのではないかと思ってしまいますが……これについては判断を保留。リツコさんに言葉を濁して語った通り、使徒に傷付けられた記憶の鬱憤を晴らしたかっただけかもしれませんし。
わたしって昔からキレると自分でも制御出来なかったからなぁ。だけど、何となく自分がキレてた感覚ではないし……。強いて言うなら、狂ってた? うーん……。
どうにも判断がつきません。
ふうとひとつ溜め息。
別にわたしの状態は取り急ぎそこまで重要じゃない。今考えるべくはわたしという人間が他人の目にどう映っているかという『状況』についてだ。
そう言い聞かせて、自らの頬を軽く叩きます。
さて、それを推測するなら取り上げるべきは、『木崎さん』ですね。
彼がわたしの護衛として用意された理由は、わたしの現状が精神的に危うい状態か、もしくはそういう状態に今に陥りそうな人間に見えているからの筈です。
その本懐は、人類補完計画に必要な人材であるわたしを死なせる訳にはいかない……だからこうしたと見るのが一番正解っぽいように思います。
ただ、気がかりとするなら、シンジくんは此処へ来てから何度かパイロットを辞めようとしています。そしてそれが許可された事実もあります。結果的に彼はパイロットを続けるのですが、
つまり、シンジくんを中心として行われた人類補完計画ですが、別案があるのかもしれません。わたしがそのポジションにいると思って胡坐を掻くのはいささか無用心に思えるのです。
まあ、これはこれでいいか。
とりあえずその人類補完計画の全容をわたしは知識として知っているものの、いまいち理解出来ていません。結果こそどうなって、どういう目的があるのかはお母さんが語っていたので覚えていますが、そうしなければいけない理由や意義が全く以って分かっていないのです。だってほら、シンジくんのその時は使徒を全部倒した後ですし、人間がひとつになったところで何の利点があるの? って話な訳で……。
つまるところ、この知識を明け渡して、わたしには見つけられない回答を並べてくれる人を探さないといけないのです。
これがこれからわたしが早急にやるべき事……でしょうね。
――例えば……ミサトさん?
わたしは自分に問い掛けます。
目を瞑って回答を頭の中で探しました。
ミサトさんはああ見えて頭が良い人だし、実際シンジくんの記憶でも真実に辿り着いていたっぽいですが……どうでしょう。使徒が来ている現状、それを考えるだけの余裕はあるのでしょうか。
もとより彼女は理屈で物事を考察するタイプじゃない筈です。これは推測ですが、シンジくんの時に提示した回答だって、最終的に『自分で調べた事』だから行き着いたものかもしれません。
わたしが口頭で知識を並べたとして、彼女は自らそれを調べないと回答として用意出来ない気がするのです。となれば、まだ佳境には遠く、人員に余裕のあるネルフで暗躍するにはあまりに危険。……せめてわたしに監視がつかなくなるぐらいに切羽詰った状況でない限りは、警備が厳重すぎて手が出せないでしょう。
それを出来るとすれば……『加持さん』かな。
――だけど、加持さんは……。
と、否定の言葉がわたしの脳に現れます。
ごくり。
喉を鳴らしてわたしは目を開きました。
視界の中央には円盤型の電気。それは光が点いていて、少し眩しく感じます。
しかしわたしの視界には見える筈の無い景色が見えていました。
それは見慣れたリビング。
だけど自分の眼では見た事が無い部屋。
誰も居ない、シンジくんの我が家。
ミサトさんの家。
その片隅に置かれた固定電話が示す――留守番電話の報せ。
ドクンドクンと胸が高鳴る音を聞きます。
わたしは不意にその音を自覚して、すぐに首を横に。きつく目を瞑って自らに忘れろと言い聞かせました。
そしてゆっくりと深呼吸。
同じくゆっくりと目を開けば、幻覚染みた景色は影も形もありません。それを確かめれば、思わずホッとして息を吐きました。
ああ、もう……。
ほんと皆簡単に死んでいくんだから。
人の心に勝手なトラウマばっか残してちゃってさ。
ばーか……。
少しばかり愚痴っぽく心の中で悪態を吐き、わたしはゆっくりと身体を起こします。
何だか気分的にこれ以上思案するのは嫌になって、また夜にでも考えようと思い至りました。ミサトさんに相談するにしても、加持さんに相談するにしても、どの道今日今すぐにって動ける訳ではありませんしね。
あーあ、事情通のリツコさんが味方ならすんごい楽なんだろうけどなぁ……。
そんな事を考えながら、先程した筈の背伸びを今一度してみます。すると先程は感じなかった違和感を肩に感じて、何時の間に凝ったのかなんて考えながら、頭を横に一回ずつ倒します。
ゴキゴキと鳴る音。思わずしかめっ面を浮かべて、手を解きました。
はぁ……。
思わずわたしは溜め息を吐きます。
肩凝りの原因となっている自分の胸にぶら下がった脂肪の塊を両手で持ち上げてみて、再度溜め息。
朝食の前にブラジャーを着けたので鷲掴みにした感触はあまり良くないのですが、吊り下げている重さを体感してみれば、こいつも知識と同じく、半端で役に立ちやしないなぁ……なんて思うのです。
色んな意味で使えない人間だ。
わたしって。
そんな事を思いながら、着替えを始めました。
とりあえず昨日クリーニングに出した前の学校の制服を取りに行こう。
その後はお昼からミサトさんに誘われていますし、そこであわよくば同居をお願いしよう。
上は首元がゆるい白のシャツに、長袖のゆったりとした黒のロングカーディガン。下はデニム地のショートパンツと黒いニーソックスを穿いて、ちょっと大人っぽさを意識したコーディネートにしてみました。
リビングに出て木崎さんに印象を聞いてみれば、「これもどうぞ」と黒いキャスケット帽を渡されたのでそれも被りました。……てか、この帽子何処から? 買った覚え無いんですけど。
それは兎も角として、わたしはクリーニングのお店に行きたい旨を伝えます。すると木崎さんは二つ返事で頷いてくれて、予定まではあと一時間程しかないので急がなければいけない事を教えてくれました。
まあ、急げば間に合うのだから問題はないでしょう。
ジオフロントから地上へ上がり、そこから最も近いらしいクリーニングのお店へ。といってもネルフの職員の人達が敬遠するぐらい割高で、新都市にあるまじき古びた装い。制服一着だから使ったものの……というようなお店です。
店主の人は横に黒服を引き連れて現れたわたしを覚えていたらしく、さしたる問答も無く紙切れ一枚の応酬で制服を渡してくれました。
受け取ったわたしはすぐにとんぼ返りです。
例の如く木崎さんに制服の入った紙袋を取り上げられて、少し小走りになりながら宿舎へ向かいました。
そしてその道中で最後になるエレベーターでの事です。目的のフロアへ着かない内に扉が開き、そこに丁度良くミサトさんが居たのでした。
「あら、レンちゃん。丁度良かった」
そう言って僅かに驚いた様子を残し、彼女は微笑みます。
ハッとして会釈を返し、今クリーニングに出していた制服を受け取って帰ってきたところだと伝えました。
今から良いかと問われ、木崎さんをちらりと見てみれば、彼は頷いてくれます。制服は宿舎に置いておきますと言ってくれました。そこで一言お礼を述べてわたしはエレベーターを降車。ミサトさんと並んで木崎さんを見送ります。
エレベーターが動き出した頃合を見計らって、ミサトさんは先程わたしがやって来た方へ戻るボタンを押します。その意は……外出するという事でしょうか? 押された行き先は外への連絡路や駐車場へ向かうだけの方向です。
「昨日リツコのカウンセリング……あまりよろしくなかったそうね?」
「ああ、はい……」
そのエレベーターを待つ最中、ミサトさんは無沙汰になった時間を持て余してか、そんな苦言を寄越してきます。ちらりと横目で表情を確認してみれば、別に怒っている風には見えません。一昨日から服装が変わっていない事の理由か、疲れが見てとれるのですが、呆れたように微笑んでいる姿です。
とすれば、彼女も彼女でわたしの服装を確認していたようで、不意に視線が合いました。
「……ふむ。中々お洒落さんねぇ」
ミサトさんはジロジロ見ていた事を誤魔化しもせず、そんな感想を呟くと、更に舐めるようにわたしを見直します。特に気にする事もなく、頷いて返しました。
「まあ、そう見えないと、長袖なんて着てる理由を誤魔化せないですし」
「あ、そういう理由なのね」
「一応……。お洒落自体は好きですけどね」
得心いった風なミサトさんに補足を付け加え、わたしは改まる思いで今一度唇を開きます。
「……で、何処に?」
「んー、単にお昼ご飯食べに行こうってだけよ。ただまあ、リツコから貴女の様子を見てきて欲しいって頼まれててね」
「ああ……ほんとごめんなさい」
「気にする事ないわよ。元々リツコ自身カウンセリングは苦手だって言ってたし」
成る程。
まあ、わたしがミサトさんに対して軟化しているとはリツコさんも知るところなのでしょう。ミサトさんはそこに小難しい理由が必要な人柄ではありませんし、彼女自身がわたしよりも深刻な精神疾患を抱えていた事もあります。それをわたしよりよく知る筈のリツコさんからすれば、わたしの精神面のチェックは彼女が行う方が合理的だと思ったのかもしれません。事実その通りかもしれませんけども。
そんな訳で、ガタガタ揺れるルノーと、疲労困憊なミサトさんの運転に、わたしがガクガクブルブルするのはそれから間も無くの事でした。