宿舎に戻ると木崎さんがこれからの予定を教えてくれました。
先ず、先程確認した書類にサインが済んでいないので、ミサトさんから説明を受けた上で問題が無いようならサインをする事。次に、それを持って副司令のもとまで持っていく事。それらが済めば、一七時から赤木博士の所へ行き、カウンセリングを受け、エヴァの説明を受ける事。
どうやら今日は過密スケジュールのようです。……まあ、当然ですが。
しかしながら不意に気になって、率直に聞いてみたところ、どうやらわたしの予定については、事のついでで木崎さんが管理してくれているそうな。思わず秘書かよ! と突っ込みたくなりましたが、まあお目付け役とするならそういう役回りも仕事の内……なのかなぁ? 分かんないや。
とりあえず書類を今一度確認。
給与や木崎さんの件は先程確かめた通りなので、他の部分を見ていきましょう。
とはいえそれらも先程確かめた通り、殆んどがシンジくんの時と変わりません。
大事な事を取り挙げるとすれば……。
訓練は週六日で、学業と並行して行う事。有事の際は早退、欠席する義務があり、重要な訓練の際も欠席する事が有りうる。また、非常召集に迅速な対応が出来ない地へ行く事は慎む事。
ネルフの情報については全てにおいて秘匿義務があり、特に第三新東京市外部に漏れるような行動は慎む事。如何なる理由で免職になっても生涯監視がつき、ネルフに不利益な情報を漏洩した場合は逮捕も有りうる。
如何なる理由であっても指示なくエヴァに搭乗しない事。私的占有は犯罪行為であり、如何なる処分も有りうる。
要約すればこんな感じの三項。
これが重要……ですかね。
一つ目は当然の事です。
むしろ世界を懸ける戦いだというのに、週一で休みがある事自体驚きです。
二つ目も当然。
シンジくんの記憶だと、ミサトさんが言っていましたし。
三つ目は……シンジくんが一度犯した罪ですね。
如何なる処分も、というのは、暗に死刑も含まれている筈。まあ、人類補完計画のキーパーソンに近い筈のわたしが殺される事は早々無いと思いますが、『LCL圧縮濃度を最大にする』ぐらいな事は当然にして有り得る事でしょう。
わたしは机の下に置いてあった自分の鞄を取り上げ、中から筆箱を取り出します。あまりごちゃごちゃと物を持つ趣味は無いので、黒のボールペンはすぐに見つかりました。
そして更に、木崎さんから「印鑑はお持ちですか?」と問われたので、これも鞄から取り出します。シンジくんがどういう準備をしてきたかはあまり覚えが無かったのですが、わたしは此処へ来るまでに『住民票』と『印鑑』、『通帳』くらいのものは用意して来ています。
記憶があるので当然な事と言えば当然なのですが、横で見ていた木崎さんに用意が良いですねと褒められました。
う、嬉しくなんかっ……いや、普通に嬉しいですね。思わず顔がにやけてしまうのは、褒められた事が少ないからでしょう。
我ながら哀れと言うか、何と言うか……。
そんな事は兎も角、わたしはさっさとサインを済ませていきます。
正本と副本からなる二枚組みの書類たちへ、氏名の欄に成る丈綺麗な字で碇レンと、日付の欄に八月一六日と記入しました。その後は印の文字がある場所へ捺印し、更に木崎さんに教えて貰いながら『割り印』というものを済ませます。
「捨て印って要るんでしょうか?」
割り印を終えて、わたしは自分が持っている知識の中で、昔テレビドラマで見た名称を木崎さんに問い掛けてみます。役割は書類内の重要ではない要項について、誤字修正などをわたしの許可無しに行えるようにする事ですね。
彼は「いえ」と言葉を置いてから説明してくれました。
「今から副司令にお持ちする書類です。きちんと確認して貰えるかと思われます。それに、修正内容は逐一レンさんの耳に入る方がよろしいのでは?」
「……それもそうですね」
成る程。
確かに雇用主であるお父さんをわたしが信用していない以上、勝手に修正されるのはよろしくないでしょう。
わたしは思い直すと、木崎さんにお礼を言って、書類を封筒に纏めました。
その後学生鞄の中に入っている教科書たちを宿舎の机に出し、鞄の中へ封筒と筆記具、住民票、印鑑、通帳を収めます。これからすぐに必要なのかは分かりませんが、あって邪魔になるものでもありませんし、持っていく方が良いでしょう。
服装は特に畏まる必要は無いそうなので、レイヤードワンピースのままで問題無さそうです。
さて、用意は出来ました。
とすれば、わたしが準備をしている間に木崎さんは通信機で他の隊員に確認を取っていたらしく、それを終えるなり「今からでも大丈夫のようです」と報告しくれます。
短いお礼を言って、彼の先導で宿舎を後にしました。
木崎さんの先導で通路を歩きます。
此処が宿舎しか無いフロアだからか、辺りには相変わらず人気がありません。前を歩く彼の革靴がカツンカツンと音を鳴らす以外は音も無く、僅かな呼吸の音でさえ響いているんじゃないかという程の静寂でした。
何となく心地がよく、わたしは出来る限り静かに歩を進めました。
やがてエレベーターの前に到着すれば、そこでカーゴの駆動音が静寂をぶち壊します。
その頃を見計らって、わたしは木崎さんの横顔を見上げました。
「木崎さんって、お幾つですか?」
すると彼はこちらを一瞥。
しかしすぐに前へ向き直り、サングラスを左手で掛け直します。
「必要な質問でしょうか?」
そして突っぱねるような言葉が返って来ました。
思わずわたしはくすりと笑って、自分の唇を右手で軽く押さえます。すると咎めるように横目で睨まれますが、構う事無く首を横に振って見せました。
「これからお世話になるんだから、些細な事も知っておきたいなって思いますよ」
わたしがそう言えば、木崎さんは溜め息に似た息を吐きます。
そしてゆっくりと唇を開きました。
「……五〇を越えてから数えてません」
「へっ? ご、五〇!?」
「はい。多分六〇にはなってないと思います」
淡々と言う姿は、飄々としている風にも見えます。
思わずわたしは目をぱちぱちと瞬かせました。
木崎さんの顔をまじまじと見てみますが……どう見ても三〇代にしか見えません。皺は少なく、肉付きはしっかりしているものの、骨格の印象が強いので、精悍な顔立ちに近い印象。世間一般で言う五〇代の悩みである弛みなどに襲われているようにも思えませんでした。
しかし童顔と言うよりは、年をとっているように見えない感じです。纏っている雰囲気は落ち着いていますし、年を聞いて驚愕すると共に納得している自分もいます。
「……わ、若く見えますね?」
「年を教えると必ず言われます」
木崎さんはそう言って、浅く頷きました。
相変わらずの鉄仮面ぶりですが、何処かしてやったりな風に見えてしまうのは、わたしが捻くれているからでしょうか……。
エレベーターがまだ来ないからか、木崎さんは「まあ」と頭打って、話を掘り下げてくれます。
わたしは改まる思いで彼の二の句に身体ごと向き直りました。
「老兵ですから、こう見えて身体にはガタがきています。レンさんを取り押さえる事は出来ても、司令の命を狙う刺客からお守りする事は難しい。……そういう事です」
言われた事を反芻してみます。
つまりボディーガードというよりは、やはりお目付け役の役割が強い。という事でしょうか。
少しばかり言い回しを変えて聞いてみると、木崎さんはこくりと頷いて返してきます。その後与太話がてら、更に掘り下げた話を教えてくれました。
わたしにもシンジくんと同じく、当然としてサードチルドレンを監視する部隊自体はあるらしく、その方々はわたしの目に留まらない場所に待機しているようです。木崎さんの役目はあくまでもわたしの自傷行為に対する監視であり、ボディーガードとしての役割も担ってはいるもののそちらは本意ではないのだとか。
だからこそわたしに対する態度はある程度柔らかく、わたしの精神状態を悪化させない為に配慮もしてくれるそうです。
なんだ、あの優しさはただの仕事だったのか。
と、シンジくんならばそう思いそうですね。
わたしはそんな感想を持ちました。
あるいは木崎さんが馬鹿正直にも思える程あっさりと己の任務を教えてくれたのは、わたしがこれを聞いても別段不信感を持たない事を気付いているからかもしれません。もしくは、対面してまだ一日しか経っていないからこそ、利害関係である事を念頭に置いておけという事でしょうか。
ともあれ、わたしは木崎さんの態度が仕事であると言われ、得心いきました。
だって、ねえ……。
オフでもこんな鉄仮面ならちょっと怖い。
いや、まあ、木崎さんにオフなんて無いようなものですけども……。
「……何か?」
わたしが思案に耽って思わず微笑むと、木崎さんが顔だけをこちらに向けて問い掛けて来ます。
わたしは首を横に振って何でもないと答えました。
丁度その頃を見計らったかのようにエレベーターが開きます。
と、すればそこには人影。
白衣を着たその人は、開いた扉にハッとした様子で顔を上げていました。金色のボブカットの下に宿る真っ黒な瞳で先ず木崎さんを見て、次いでわたしを見て、「ああ」と声を零します。
思わずドキリと鳴るわたしの胸。
別段何をした相手ではないのですが、何処からかやって来る焦燥感はシンジくんの記憶でその人――赤木リツコさんを信用しきれていないからでしょう。同時にやって来た背徳感は先程ミサトさんに怒鳴っていた件を思い起こし、わたしの為に彼女の予定を遅延させていたと思うからです。
わたしは慌ててお辞儀をします。
「こんにちは」
「はい。こんにちは」
返って来る言葉は落ち着いていて、何だかホッとする心地です。
見上げてみればリツコさんは微笑むでもなく、手に持った書類へ視線を落としつつ、わたしと木崎さんに場所を譲るように数歩下がっていました。
木崎さんがわたしの目的の階を押して、カーゴの扉が閉まります。
僅かな加速度と共に、エレベーターが動きました。
「レンさん。後でわたしの研究室に来て欲しいって事は伝わっているかしら?」
「はい。木崎さんから聞いてます」
「そう、なら結構。お小言はその時まで取っておくから、肩の力を抜きなさい」
「……はい」
暗に「あとでお説教よ」と言われ、わたしは思わず項垂れます。
そんな様子が可笑しかったのか、リツコさんはくすりと笑いました。
「司令と似ているようで似ていないわね。貴女」
「……へ?」
不意に掛けられた言葉に顔を向ければ、丁度良いタイミングを計ったかのようにカーゴの扉が開きます。リツコさんはわたしに微笑みかけると、その扉から出て行きました。
「その話はまた今度ね」と残して。
再度閉まって、木崎さんと二人になるカーゴの中。
思わず彼にリツコさんの発言をどう思うか聞いてみますが、分かる筈も無く。仕方なくそのまま疑問を思考の隅っこに投げて、副司令の執務室へと向かいました。
「保安二課、サードチルドレン担当の木崎だ。サードチルドレンをお連れした」
先導する木崎さんがそう告げると、扉の前で立っていた黒服が敬礼と共に横へ外れます。そして彼自身も会釈と共に扉の前をわたしへ譲りました。
わたしはお礼を言ってそこへ。
特に気負うでもなく、扉を二度ノックします。
「サードチルドレン、碇レンです。契約書の提出に参りました」
不意に学校で職員室に入る際の名乗りを思い起こす心地で声を上げました。
『通しなさい』
するとしゃがれた老人の声が返って来ます。
先程扉の前に居た黒服が反応して見せ、扉の横にある端末を操作しました。
シュッと音を立てて扉が開きます。
わたしは黒服に会釈してから室内に入りました。
そして思わず息を呑みます。
部屋の中はネルフ本部に設けられた一室だというには異質さがありました。
ジオフロントの景色を一望出来る巨大な窓に、それをバックにした革張りの椅子。そして執務用と思われる机。そこだけを見れば、シンジくんの記憶にある司令執務室のようでした。
違うとすれば、接待用の机とソファーが用意されている事や、お父さんならば絶対に置きそうにない観葉植物が、部屋の隅を飾っている事。あとは此処を専用の宿舎としているのか、他の部屋があると示すような開き戸が幾つもある事ですね。
この部屋の主たる冬月コウゾウ副司令は、執務用の机に向かっていました。
わたしが入ってきた姿を細い目でジッと見詰め、骨張った印象のある顔に、柔らかな笑みをたたえています。髪は年齢を思わせるように全て真っ白で、威厳を思わせるようにオールバック。格式の高さを感じさせるような紫色のスーツを着ていました。
わたしは目が合ってすぐにぺこりとお辞儀をします。
「初めまして。碇レンです」
「やあ。よく来たね。……はじめにひとつ訂正しておこう。君とわたしは初めましてではないよ」
そう言ってからゆっくりと立ち上がる副司令。
不意の指摘に「え?」と声を漏らすわたしに微笑み、「そこへ」と言って接待用のソファーへ促してきます。
会った事あったっけ……?
疑念を抱きつつも、再度会釈をし、副司令が示してくれたソファーへ。
改めて挨拶を交わすと、わたしがまだ乳飲み子から抜けるか抜けないかという頃に会った事があるそうでした。……覚えてる訳がありませんね。