ミサトさんから渡された書類には、お父さんに提示した条件への回答が記載されていました。小難しい文章がずらりと並び、機械が印刷したと思わせる活字の合間合間に、後から書いたと思わしき手書きの文字が目立っています。渡された時は第三使徒殲滅後すぐだったので、急ぎで製作したのでしょう。
貸し与えられた宿舎のリビングで、ソファーに座って机の上にそれを広げてみて、一枚一枚確かめていきます。すると重要な部分と思わしき場所には赤い蛍光ペンでチェックがしてあり、所々に付箋が貼ってあって、そこに解説も書いてあります。……誰がやってくれたんだろう? ミサトさんかな?
とりあえずチェックしてある部分を確認していけば、わたしの手当てに関する部分に付箋が着いていて、『九九パーセントは秘匿に貯金されるわよ』とありました。
はて? 秘匿に貯金?
思わず木崎さんに尋ねてみます。
「出撃手当てが一度に
「……へ? いっせんまん?」
「此処にそう書いてあります」
わたしの隣で腰掛けている木崎さんが手を伸ばし、それまでわたしが注目していた『月給三〇万円』の下の行を示してきました。そこには確かに、『一度ノ出撃ニ対シ、甲ハ乙ニ金一〇〇〇万円ヲ支給スル』とあります。
甲はネルフ、乙はわたしですね。
って、いっせんまんえん?
へ? あ、うん。
いっせんまんえんか。
いっせんまんえん……。
いっせん、まん、えん……?
「は、はぁあ!?」
想像さえも出来ない金額に、わたしは思わず大声を上げて目をぱちぱち瞬かせます。
「妥当な数字かと思われます。一応、後遺症を残す怪我をした場合等の保険についても記載がありますね」
茫然自失のわたしに、木崎さんが更なるフォローを入れてくれました。
って、いや、妥当って……。
妥当なの? これ。
シンジくんはあまりお金持ってなかったイメージがあるんだけど……。実を言うとお金持ちだったの? 本人も知らなかっただけ……とか?
ふうと息を吐いて、少し補足しましょうと木崎さん。
うん? と小首を傾げれば、彼は書類を見ながらゆっくりとした口調で解説してくれました。
「戦自のデータは機密扱いなので挙げられる例はありませんが……。給与については尉官待遇にパイロットの資格手当てといったところでしょう。出撃手当てについては死亡する危険性が高い以上、あって然るべきです。金額はセカンドインパクト以前の自衛官の航空機等のパイロット手当てと比べればかなり多いですが、エヴァのパイロットの希少性に加え、相手が未確認生命体である事を鑑みれば、妥当だと思われます」
「……へ、へぇ?」
思わずとぼけたような返事をしてしまいながらも、言われた事を反芻。
成る程……。今現在世界一の軍隊と名高い戦略自衛隊の情報が無いのは残念ですが、セカンドインパクト前にあった自衛隊と言うものと体制自体はあまり変わらないと学校の授業で習いました。それと比べて貰えるとしっくりきますね。
それでも具体的な金額を聞けば、わたしの出撃手当てには尋常じゃない補正が掛かっていると思えますが、エヴァで戦闘機二〇機分の活躍を出来るかと聞かれれば愚問です。そう言う話だと思います。……多分。
兎も角。
と、木崎さんは話を強引に区切ります。
「金額が大きいと不安に感じるかもしれませんが、別段司令はレン様にパイロット以外の役割をさせようという算段ではないでしょう。しかし給金も、定期訓練と有事を
「……問題があるとなにか?」
「厳罰の項目に『処罰ノ対象ニ給与減額ヲ含ム』と書いてあります」
「ほんとだ」
しっかりしてやがる。
わたしはこれを定めたのがお父さんだと勝手に決め付けて、そう思いました。
命令違反は……まあ、やりかねないよね、わたし。
気をつけましょう……。
よし。
給与については理解しました。
ならば他はどうだろう? と見ていって、次にわたしの目が留まった赤ペンの場所は『監視義務』について。
「あ、木崎さんの名前だ」
「はい。僭越ながら、自分がレン様の担当をさせて頂きます。他のパイロットには基本的に本人の目に留まらない場所で護衛する形なのですが、申し訳ありません」
木崎さんは表情のひとつも変えずにそう言って会釈してきます。
と、いう事は――。
わたしにだけ木崎さんと言う護衛が四六時中着いて回ると?
聞けば二つ返事でそうだと答えられました。
理由は……当然なのですが、わたしの『持病』と『経歴』を踏まえての事です。そりゃあまあ、手首切るわ、喧嘩するわ、発狂するわ……うん、お目付け役を付けられて然るべしかもしれません。
街中では常に隣に居て、学校では廊下で待機して、家でも成る丈近くに待機すると説明されました。名目上は要人の娘の護衛としてなんだとか。
一応最低限のプライバシーを守る為に他の上官と居る時は席を外してくれるそうですが……聞いたわたしは思わず唖然とします。
わたし自身はやる事を考えた事すらありませんが、シンジくんの記憶を元にして敢えて主張するなら――おちおち自慰行為すら出来ないじゃないですか! いや、しないけど。
「あの、木崎さんの休みって?」
わたしは頬を引きつらせながら、一応聞いてみました。
「ありません」
すると即答。
しかも残念がる素振りすらありません。
わたしは思わずソファーの上で身を引き、木崎さんを睨み付けて唇を開けます。
「さ、さてはあんた……ロリコンだな」
「自分は以前、司令の身辺警護をする部隊の隊長を務めておりました。弁えております」
すると眉すら動かさずの返答。
サングラスの下に見える双眸はこちらをジッと見詰めていて、ぶれる事を知らないかのようでした。
その迷いが無い姿に気圧されて、わたしは固まり、頬を引きつらせたまま視線を逸らします。
「……ごめんなさい」
「いえ、疑う気持ちは分かりかねますが、察せます」
ああ、もう……。
なんかすっごく頼りになる人だ。
わたしはそんな風な感想を持ちました。
多分木崎さんが実はロリコンだとしても、わたしの目では見抜く事も出来ないでしょうね。あはは……。
ふうと木崎さんは溜め息をひとつ。……と言ってもやはり表情は崩れないので、全然
彼はわたしをちらりと見て、肩を竦めて見せてきます。
「必要とあれば理由を用意します。ですが、とってつけた風な話は嫌いです。自分の行動理念はセカンドインパクトで死んだ知人達の為。故に必要とあれば、この身体を貴女の盾にするだけです。そこに情を持ち込む程、自分はこの職にプライドが無い訳ではありません」
そう言って木崎さんは立ち上がります。
少し喋りすぎましたと言って、玄関へ続く廊下へ。
そこで立ち止まって、明後日の方向を向いてしまいます。
わたしは言われた言葉を今一度反芻してみます。
自分が失礼な事をしたと察するのに、一秒も要りませんでした。
「木崎さん」
話し掛ければ、木崎さんは顔だけで振り向いてきます。
「何でしょう?」と、言葉を仕草も無く吐き出す様は、如何にも黒服っぽさがありました。
「この仕事、どれぐらいですか?」
「足掛け一八年……というところですね」
成る程。
セカンドインパクトの前からそういう仕事をやっていたと……。
当時も今と同じく護衛をやっていたのでしょうか? とはいえそこまで根掘り葉掘り聞くのは失礼も度が過ぎると思い直します。ですが、どうせですし失礼ついでで気になっていた事を言ってみましょう。
わたしは微笑んで見せて、唇を開きました。
「もし良かったら、様付けは止めて欲しいです」
「では、なんと?」
木崎さんはやはり表情のひとつも変えずに問い返してきます。
うーん。呼び捨てでも良いのですが、それはそれで木崎さんの立場からすれば呼び辛いかもしれません。あくまでもわたしは護衛対象で、おそらく雇用主はお父さんでしょうし、周りの視線もあるでしょうから。
わたしは小首を傾げて、虚空を見上げながら零すように提案します。
「……レン
「お断りします」
即答で断られました。
うん。
知ってた……じゃなくて、そんな予感がした。
なら何故言ったのよ、わたし。
そんな風に溜め息混じりになってそっぽを向くわたしへ、木崎さんも溜め息混じりなご様子でした。
「レンさん。で、よろしいでしょうか?」
「あ、はい。それで」
やがて彼自ら挙げてくれた提案で話は決着。
そんな事より早く書類を確認して下さいと続けられて、わたしはハッとして書類へ向き直ります。後ろからあと五分でミサトさんが来る時刻だと言われ、思わず焦る心地に。
しかしながら給与と監視の要項以外に目立った項目はありませんでした。シンジくんの記憶ではなあなあになっていたような気がするのですが、秘匿義務などは彼も
やがてミサトさん来訪。
木崎さんが玄関を開ければ、彼と入れ替わる形でリビングにやって来ます。彼は言わずもがな、わたしが『上官』と居る時こそ気の休まる時なのでしょう。廊下で待機しているのでしょうが、少しは休めると良いななんて思いながら、わたしはミサトさんを迎えました。
服装は昨日と変わらず、襟が立っているノースリーブの黒い服。流石に本部内でサングラスは着けていません。意味も無いでしょうし、当然ですが。屋内でサングラス掛けてる変質者なんて、お父さんだけで十分です。
わたしがソファーから立ち上がって声を掛ければ、ミサトさんは柔らかな表情で微笑んでいました。
「ごめんねぇ。忙しくって時間ギリギリになっちゃったわ」
開口一番に謝罪。
まあネルフの仕事は軍務とも言ってしまえる訳で、本来なら一五分前行動が望ましいのでしょう。シンジくんの記憶で『アスカ』がそんな事を言っていた気がします。
わたしは首を横に振って応えました。
「いえ、丁度書類に一通り目を通したところです」
「そ。色々補足しておいたけど、分からない所は無かった?」
ミサトさんは腰に手を当て、ふうと息を吐くような姿で問い掛けて来ます。その姿に何となく彼女が疲れ果てている事を察し、話しぶりから『赤ペン』の人は彼女だったのだとも気がつきました。
疲れているのにわたしに代わって一度書類へ目を通して、補足を入れてくれたのでしょう。そう思うと申し訳無い気分にもなりますが、わたしは罰悪い表情ですみませんと断りを入れます。
「秘匿貯金のところが分からなかったんです」
「ああ、それはどのみち説明しようと思ってたから気にする必要はないわ」
そう言って彼女はこちらへ歩を進めて来ます。
空いているソファーの左側へ、淑女にあるまじき「どっこいしょ」の掛け声と共に腰を降ろしました。
いや、何も言うまい。むしろミサトさんに淑女っぽさを求めるなんて……あはは。
そんなわたしの心境なんて知る由も無く、わたしが続いて腰を降ろすなり、ミサトさんは書類を手で退けていきます。雑な動作で紙を散らばらせると、付箋が目印になったのか「あったあった」と給与について書かれていた用紙を取り上げました。
「えっと、レンちゃん。所得税って分かる?」
「あ、税金対策……って言うか、お金の出所が明かせないからじゃないかって事は木崎さんが教えてくれました」
教えを請うにあたって口を挟むのは野暮でしょうが、疲れているミサトさんに無駄な話をさせるのは忍びなくって、わたしは先程木崎さんから教わった事を伝えます。
と、すれば当然のようにミサトさんは首を傾げます。
「木崎って、貴女の護衛……つまりさっきそこに居た彼よね?」
わたしははいと頷いて、他に受けた補足を伝えました。
すると目を丸くさせていたミサトさんは感心したようにへぇと声を漏らします。
「まあ、ほぼほぼ彼の話で合ってるわね。唯一必要な補足としては、この秘匿に貯金されたお金は何時でも好きなように使える訳ではない事ね」
幾らか手間が省けた事で気が抜けたのか、両手を組んで天井に向けて伸ばし、「んーっ……」と短い声を漏らすミサトさん。そのまま力を抜いて、ソファーに深く凭れ掛かりふうと溜め息。
わたしは不意に苦笑を浮かべました。
「お疲れですね……」
「ちょっちねー。……って言うか、他人ごとみたいだけどほっとんどレンちゃんの所為よ?」
ソファーの背もたれに頭を預け、視線だけで咎めてきます。とはいえ表情は悪戯っぽく笑っていて、怒っているようには見えませんでした。
わたしは意図的に眉をハの字にして、更なる苦笑を浮かべて肩を竦めます。
「知ってます。ごめんなさい」
「……もう、可愛げないわねえ。もっとしおらしくなさいよぅ」
「昨日気にするなって言ったのミサトさんだもん」
「へえ、言うじゃない」
呆れたように肩を竦めるミサトさん。
わたしは笑って返しました。
まあ、申し訳ない気持ちは一杯なのですが、こうして茶化してくれるのは逆説的に捉えろと言う事でしょう。気にするなと、暗にそう言ってくれているのだと思います。
「ま、話を戻すわね」
今度は「よっこらせ」の掛け声で身体を起こすミサトさん。
その動作にわたしがどんな感想を持っているかを気にした風も無く、彼女は腕と足を組んでから続けました。
「秘匿にする意味は分かる?」
問い掛けられて、わたしは先程ミサトさんに話した木崎さんから聞いた話を思い起こします。
思わず小首を傾げました。
「わたしが未成年だから?」
思い起こした中で一番理由らしい理由を取り上げてみます。
ミサトさんはこくりと頷きました。
「有り体に言えばそうなるわね。だけど未成年者だから給金出来ない理由って?」
尚も話を掘り下げられます。
わたしは大事な事に気付けと言われてると察して、真面目な表情で返します。
「税金?」
「そ。でも税金なんて払っちゃえば良いだけじゃない。むしろそれが正しいわ」
「……うん」
「じゃあ、なんで?」
話は更なる深みに。
わたしは床へ視線を落として思案してみます。
例えば税金を払ったとする。
中学生のわたしには消費税以外の税金なんて払った経験は無いのですが、授業で習った『所得税』の仕組みを思い起こします。確か給与から半ば自動的に引かれて――。
「あ……そっか」
そこでわたしは気付きました。
ミサトさんへゆっくりと向き直って答え合わせをします。
「わたしがネルフから貰ってるって知れたら、金額や年齢的にわたしがパイロットだって分かっちゃう。そうなると公的な組織にわたしの存在が割れちゃう。そこから情報が漏洩する可能性がある。戦自は共闘する事もあるだろうから兎も角として……軍務機関以外のところに漏れるのはあまりよろしくない……ってところですか?」
するとミサトさんは目をまん丸に。
唖然としたと言わんばかりに口をぽかんと開けて、右手でその唇を押さえていました。
「おっどろいた……。まさかそこまで理解すると思わなかったわ」
そしてそんな風に零します。
成る程、聞こえは不名誉ですが、正解だったようです。
何度かこくこくと頷いてから、ミサトさんはわたしの頭を撫でてきました。
「まあそう言う事なのよ。貴女の事は世間的には中学生として通しておきたいから、いずれ成人して堂々とネルフ所属と言えるまでは、司令からのお小遣い程度しか支給出来ない訳。もしもそれまでにネルフが解体とかになっても、そうなればパイロットの任も終えてるから幾らでもやりようがあるわ」
そう補足されます。
つまるところ月三〇〇〇円、出撃一回に対して一〇万円のお小遣いだという事です。因みに生活費は別途支給されるそうなので、明らかにわたしはシンジくんより優遇されています。……お父さんからのお小遣いってのは癪に障りますが、まあおそらくあの人のポケットマネーから出るって事でしょうね。財布を軽くしてやる事は別に悪い事じゃないでしょう。主に嫌がらせ的な意味で。
しかしこれは主張した自分を褒めてやれば良いのか。はたまたシンジくんの不遇っぷりを哀れめば良いのか……。
シンジくんが銀行に幾ら持っていたかはわたしの知るところではありませんが、アスカにジュースを奢るだけで財布の中身を心配していた覚えがあるので……っと、ここで不意に思い起こしますが、『サードインパクト』が起こると、わたしの給与が確約されたところで意味がありませんでした。世界が滅べばお金なんて意味が無くなっちゃいますから。
むう、これは何としても邪魔せねば。
わたしは思わず決意し直す心地です。
お金に目が眩んだのは否定しませんが、やる事は変わりませんし、別に良いでしょう。