「行きましょう。一一三○からチーズ開始します!」
「いよぉっし!」
加古が勢いよく握りこぶしを振り上げた。その目の前の缶からは香ばしいチーズの匂いが立ち上っている。初霜はポップコーンを口に含むと、咀嚼してもう一度大きく頷いた。
「江風さん、外回りの売り子をお願いします。チーズで行きます。加古さんにしっかり作り方を教わってください」
…あん?あたしの聞き違いか?今チーズって言わなかったか。外売りは店の看板、本来なら一番人気のバターを推すはずだ。
目を白黒させる加古の肩に、初霜の小さな手が置かれる。自分を見上げるその小さな瞳は、先ほどとはうって変わって熱意に燃えていた。
「おいしいですチーズ。これで行きましょう!」
「お、おうよっ!」
つられて加古も力が入る。
初霜は加古の胸にどんと握り拳をぶつけると、満面の笑顔を残して表のカウンターにかけて行った。テントの内側に表の喧騒が入り込んでくる。
「みなさーん!おまたせしました!当テント一押しのチーズ味の販売を開始いたします!暑い時こそ、ポップコーンと冷たいビール!とろーり新味、ぜひご賞味ください!」
「おいおいおい…」
気恥ずかしくて頬を掻く。しかし、そこまで期待されちゃあしょうがねぇ。
「やってやるぜ!この雷雲戦隊副艦「加古」様がな!」
(気に入ったんだな…)
(気に入ったんですね…)
(気に入ったンだろうなぁ…)
(気に入ったのかな…?)
(気に入ったのね…)
暑い日差しの下で飛び回る六人の艦娘達。
その中において、最も身をすり減らして駆けまわっていた初霜が真っ先に「それ」に気がついた。
朝から途切れる事の無かった行列にまばらに空間ができ始めている。テントの隙間から海岸を確認し、腕時計に視線を落とす。駆け足でカウンターへ戻ったところで、並んでいた先頭の客から声をかけられた。
「初霜ちゃん、もうすぐ誠ちゃんの演説始まるよ」
「えっ!」
とっさに息を飲む。
これから公開演習が始まる。しかしその前に、横須賀の提督である丁嵐誠一から艦娘達に激励の言葉があるのだ。長話が嫌いな男だ、実際の演説は10分にも満たない短いものであるが、早くも号令台の周りに人が集まっている所を見る限り、かなり多くの艦娘がこの瞬間の為に時間を割いているのがわかる。
「え…と、あ、あの…!」
観艦式が始まってから常に気丈にふるまっていた初霜の表情が焦りに陰る。あまりにも必死なその姿に、日向は少し面白そうに口元を歪めた。
「行ってきな初霜。店は任せとけ。どうせ誠の演説中は客は少ないんだ」
「す、すいません。ちょっと外します。那珂ちゃん待って―!」
日向の言葉を聞き終わるよりも前に、エプロンを躍らせてテントを飛び出していく。せり出したカウンターから小さく身を乗り出すと、ちょうど丁嵐が建物から出てきた所だった。人山が黄色い歓声に揺れる。
「せーっの、せいちゃーーーーーーん!」
日差しの下に出てきた丁嵐は、直射日光を気にしながらも汗に濡れた手で長袖をまくっている。似合わないサングラスを外すと、人山の一角に向けて噛み付くかのごとく牙を剥き出した。
「提督とお呼びなさい!こんガキどもっ!」
「きゃーーーーーー!せいちゃんカワイイ!」
いっそうざわめきが広がる。丁嵐の一挙一動に几帳面なほどに身をよじらせるその光景に、江風は出店のアイスを咥えながら冷めた視線を向けていた。
「なンでああミーハーかね」
あそこで騒いでいるのは「丁嵐倶楽部」のメンバーだ。通称「誠ちゃんクラブ」と呼ばれるファンクラブの中に、ちゃっかり初霜も籍を置いている。本人曰く「誠さんは尊敬できる方です」との事。丁嵐本人は迷惑がっているようだが、あの甘面と口がうまい性分が幸いして、鎮守府内外問わず人気があるのだ。
まあ、そんな奴らは大抵が本人と深い関わりの無い浅い間柄だというのは言うまでもないが。