妖夢がその話を初めて聞いたのは、白玉楼にきて間もない頃だった。
毎晩眠る前に幽々子から聞かされた昔話の中で、その話が一番のお気に入りだった。
都に現れた怪鳥を倒す、侍の話。妖怪に怯える人々を救う、英雄の話。
妖夢はいつかその侍のようになることを夢見ながら、来る日も来る日も剣を振り続けた。
往来を混乱が包む。天に向かって伸びる黒い手から逃げるように、人々は走っていた。
両替屋の店先で黒煙を眺める妖夢の脳裏を、嫌な予感がよぎる。あの方角というと、以前森で倒れたときに世話になった家がある方だ。あの家族は無事に逃げられただろうか? そんなことを考えた。しかしそれを確認しようと思うと、どうしても妖夢の足を止めるものがあった。妖怪である。
妖夢とてこれまで妖怪と無縁の人生を送ってきたわけではない。分かりあえる者もいた。許しあえる者もいた。しかしいざその暴威の前に晒されたとき、妖夢の頭に一番に浮かんでくるのは恐怖だ。どれだけ精神を鍛えても、根底にあるものは変わらない。記憶の深層に刻まれた傷が、自分と妖怪の間のすべてを覚えているのだ。
妖夢が二の足を踏んでいると、半霊が勢いよく背中を押した。バランスを崩したまま二、三歩前にまろび出る。その勢いを止めることはしなかった。
何のための修行か。ここで逃げてしまえば、自分は本当に侍として死んでしまう。妖夢は逃げる人混みを掻き分けながら走りはじめた。
「乗れよ」
背後から声がする。妖夢は魔理沙の手を掴むと、そのまま身を持ち上げて箒にとび乗る。
「飛ばすぜ!」
二人を乗せた箒はスピードを上げ、人の波の上を逆走していった。
炎に包まれた通りの中央に一人の男がいた。
出張った形の禿頭に、荒々しく伸びきった髭と眉毛。
強面の男は源氏車の紋付き羽織をはためかせながら、誰もいない通りを我が物顔で歩く。その様は食後に茶屋でも目指して歩くかのように悠々としており、辺りの火の海が嘘のようである。
男は火が回りきっていない家屋を見つけると、その戸口に向けて掌を押しあてる。すると、男の掌から広がった炎が家を包み込んだ。男はそれを見てにやりと笑う。そしてまた次の家を燃やさんと通りを歩きはじめた。
男が次の標的を品定めしていると、角から三人の侍が飛びだしてきて男を囲んだ。
「妖怪め、そこまでだ!」
言うが早いか、妖怪の正面に位置どる侍が斬りかかった。妖怪はさっと身を躱すが、一人が斬り抜けている間に別の一人が正面に回り、囲みを抜けられないでいる。
「一向二裏……あの人たち、手練れだ」
現場に到着した妖夢は加勢しようかと迷ったが、思いとどまった。連携を乱してはならない。それに、三人の侍はそれぞれに妖夢の目から見ても十分な腕を持っている。ならば自分たちは二陣に控える方が得策だ。妖夢はそう判断して長屋の陰から侍たちを見守ることに決めた。
三人の攻めは休みなく続く。しかし、妖怪はこれをすべて捌ききっていた。
妖怪の動きには無駄があるが、反射と運動の速度が人間離れしている。そのうえ大きな動きをしているにもかかわらず、まったくもって疲れが見えない。
やがて侍の一人が一拍遅れた攻撃を繰り出す。妖怪はそれを見逃さずに狩った。斬りかかろうとする侍の首を鷲掴みにし、それを押し返して後続の侍にぶつける。妖怪はそのまま二人を押し倒して地面に叩きつけた。
すかさず残る一人が吶喊する。しかし、結果は目に見えていた。妖怪は侍を軽くいなした後で後ろからその頭を掴む。次の瞬間、侍の頭が派手な音と共に爆発した。頭部を失った体ががくりと膝を落とし、不自然な動きで倒れる。
妖怪は手についた髪や油を燃やそうと再び掌に火を灯しながら、凶悪な笑みを浮かべた。
「こりゃ無策で突っ込んでどうにかなる相手じゃないな」
魔理沙が抑えた声でそう言った。
緊張をかき乱すお調子者は、そこにはいなかった。しかし惨劇を目の当たりにして恐怖に飲まれかかっていた妖夢は、その冷静さに助けられた。
「みたいね……何か便利な魔法があったりしない?」
「無いな。ばら撒くかぶっ放すか、戦うとなればそれだけだ」
「この前のあれでここから狙えない?」
「マスタースパークか? 放火魔が妖怪から魔女に変わるだけだぜ? ま、最終手段ってとこだな」
「そっか……」
そうしている間にも妖怪は家に火を放ちながら通りを進んでゆく。
「よし、ならこうしよう」
魔理沙は隠れていた角から離れ、通りから離れた方の角に動いた。
「私がこの裏道から先回りする。お前はここで待ってろ。挟み撃ちだ。上手くアイツを盾にしろよ」
矢継ぎ早に飛ばされる指示に首肯で答える。
「私が見えたら飛びだせ、いいな?」
妖夢が頷くと、魔理沙はすぐに箒に乗って飛んでいった。妖夢は再び通りに目をやり、妖怪の動きを注意深く観察する。ほんの数秒の時間が、いやにじっとりと流れる。
程なくして、妖怪の行く手に一人の少女が踊り出た。魔理沙かと思いきや、その姿は彼女の物と比べて一回り小さい。妖夢はそれを見てハッと息を飲んだ。あのときの娘だ。
娘は家の焼け跡に向かうと、瓦礫の山を掘り起こそうとした。しかし折り重なる瓦礫は娘の力では到底動かない。
必死になっている娘の背に、妖怪が大きな影を落とす。
魔理沙の姿はまだ見えない。だが、妖夢は構うことなく飛びだした。
「やめろおぉ!」
とにかく剣を振り回す。妖怪はひとまず意識をこちらに向け、その場を飛び退いた。少しでも遠くへ追いやろうと、妖夢は追撃する。
しばらく妖夢の攻撃が続いた後、後退を続けていた妖怪はあるところで急に止まった。そのまま踏み込んでしまった妖夢は敵と肉薄する。楼観剣の描く大きな円弧の内側、徒手空拳の間合いである。
妖夢は勢いを殺さず突っ込んだ。相手の腹を蹴り、反動で宙返りをして距離を取る。
妖怪は妖夢の軽い蹴りに怯むことなく向かってくるが、それも想定内だった。踏み込みを読んで置かれた斬撃が右腕を斬り落とす。妖怪の顔が苦痛に歪んだ。
しかし、妖怪は怯まなかった。見開かれた大きな瞳と目を合わせたとき、妖夢の時間は凍りついた。
腹に力強い足刀が叩き込まれる。振り終わりの隙を突かれた妖夢はこれをまともに受けた。
体がゴム毬のように大きく吹き飛ぶ。綺麗な放物線を描きながら、そのとき妖夢は理解した。これが人知を超えた存在を前にした自分の命の軽さなのだと。そして人体という玩具がひどく等閑に作られているような錯覚に陥った。
内臓が残っている事さえ奇跡に思える。無傷のはずの手足までも感覚がおかしい。肺の空気が押し出され、息が苦しい。身じろぎに伴う嫌な刺痛。全身から冷や汗が滲み出る。立ち上がろうにも、体が言うことを聞かない。
「お姉ちゃん!」
娘が妖夢の方へ駆け寄ってくる。その後ろに、妖夢は妖怪の姿を見た。妖怪は血走った目でこちらを見つめている。妖怪が吼える。すると、右腕の断面から溢れる血が音を立てて燃え上がった。激しく噴き出す炎は形を成し、巨大な腕となる。
「来ちゃ……ダメ……」
炎の手が、娘の体を包み込んだ。たちまち火達磨となった娘。服が、髪が、皮膚が焼け落ちる。記憶に残る顔が爛れて原型を失い、赤黒く醜い塊へと姿を変えてゆく。伸ばす手が届くことは無く、先ほどまで動いていたそれは地面に崩れ去った。
瞳を失った眼窩が、こちらをじっと見つめている。深い闇の中から、妖夢は自分を呼ぶ怨嗟の声を聞いた。
「あ……ぁ……ぁうっ!」
腹の底から何かが逆流してくるのが分かった。苦味と酸味の混じるそれを、妖夢は嗚咽と共に吐き出した。呼吸の乱れの中で何かが気管に入り、ひどいえずきが始まる。痛みに支配された感覚と、涙で滲んでゆく視界。
しかし動物的な直感は身の危険を知らせる。惨たらしい死が、自分に迫っていることを。
妖夢は自分の蛮勇を悔いた。逃げられるという希望さえ起らなかったが、死を受け容れることもできなかった。全力で抗う心と、無力に横たわる身体。焦りだけが徒に心臓の中を跳ねまわる。
怒りに燃える掌が、妖夢の視界を覆った。瞳を閉じても、薄い瞼では赤々とした光を遮ることができない。
眩しい一瞬の中で、脳裏を様々な記憶が巡る。両親を失って白玉楼に来た日のこと、初めて剣を握った日のこと、庭の木の枝を折って叱られた日のこと、先代が失踪した日のこと、巫女に負けた日のこと、主人とのすれ違いに泣いた日のこと。
思えば自分の人生はまったくもって未完の物語の集合であった。後悔と課題を積み上げながら、未来というものの無限性に甘えていた。剣を振り続ければ答えが出ると信じ、考えることを止めていた。しかしそれらはすべて問題の解決を先延ばしにするばかりの時間だった。
こうして終わりを突きつけられた今、自分には誇れるものが何もない。自分の歩んだ過去を「善し」と認められるだけの満足を、魂魄妖夢という人間を忘れて次の生を得るための充足を、何一つとして得ていないのだ。
魂が慟哭しながら黒く転ずるのが分る。ああそうか、自分は浮遊霊にでも成り下がるのか。未練を残したまま、死んでも死にきれずにこの世を彷徨う。半端者にはお似合いの末路だ。妖夢は自嘲の笑みを浮かべた。
しかし次の瞬間、妖夢の体はまだ原型を留めていた。目の前の妖怪は膝をつき、倒れている。通りの遥か向こうに、魔理沙の姿が見えた。
妖夢は一瞬救われたような気になった。だが次の瞬間にはその僅かな希望さえも絶望に変わる。想像してしまった最悪のシナリオ。悲劇の再演の予感に、妖夢は震撼した。
妖怪は低い唸りと共に立ち上がると、妖夢に背を向けて魔理沙へと突進する。魔理沙は迎撃するが、炎の手は弾幕をものともしない。
「うぉいっ、ちょっ! 話が違っ……」
魔理沙はポケットから何かを取り出そうとして止めた。
妖夢は気づいた。魔理沙は自分が射線上にいるせいで大技を撃てないのだ。情動に揉まれる意識を現実へと引き戻す。もうこれ以上奪われないために。軋む体に鞭を打ち、震える手で地を掴む。だが渾身の力で体を起こしたのも束の間、自重を支えることもままならず妖夢は再び地に伏した。
目の前にはいまだ燃え続ける黒い塊。その向こうで、逃げる魔理沙の背に灼熱の手が迫る。
「あ……ぁ……」
手を伸ばす。小さな手の隙間から見える、悪夢のような現実。
「魔理……沙……」
そのとき、突如として現れた侍が一刀の下に妖怪の首を撥ねた。あまりにも一瞬の出来事だった。状況を把握するよりも早く、安堵した妖夢の意識はそのまま闇の中へと落ちていった。
挿絵 借用データ(敬称略)
MikuMikuDance:樋口M
MikuMikuEffect:舞力介入P
PmxEditor:極北P
Aviutl:KENくん
魂魄妖夢:アールビット
霧雨魔理沙:にがもん/しえら
魔法使いの箒:咲楽
人里:鯖缶
Fire_G9:怪獣対若大将P
かっつりトゥーンシェーダー:ビームマンP/less