分かたぬ衣と往く先は   作:白縫綾

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白木は結局、同じ孤児院の出の兄や姉たちを見つけられないでいる。
働くのなら都市部に居るのだろうと、至極安易に深く考えないままでいたけれど、今や殺人者の坩堝、普通の人が太刀打ち出来る筈もない力を持つ人が影で当たり前のように跋扈する魔窟。
魔都横浜で、逃げ切ったか未だひっそりと身を潜めているか、はたまた既に闇に骨の髄まで喰われ尽くされたか。白木としては一番目を推したいところである。

その治安の悪さに戦いて、地方に散っていけばいい。
そんな希望が通るのなら、再会は叶わずとも、生きてはいられるだろう。実際はどうなのかも白木の識るところではないし、そもその前に己は居ないのだからどうとも云えない。
けれど、多くは望むまい。彼らが生きているという願望の通りであったとして、それをこの目で確かめることが出来ないだろうとしても、そうであったのならそれで十分白木は満足だった。
もう少しこの都市がきちんと統制され、人が集まるようになるのなら、自然とその時はやって来るだろう。



白木は気付かない。
注意力が散漫である、という訳ではない。出稼ぎに出たという兄や姉だって当時は未だ二十にも満たなかった。その過去の、みすぼらしい身なりの少年少女と、きちんと衣服を身につけ、大人の色香のある人が同一人物だと即座に断定することは出来ない。
何時ぞやに会した女──『告死』の男といくらか親しげにしていた情婦の顔を隠す紗の下に、見知った姉の貌があることを白木は識らない。


第三八話 常磐木の女

 

 

 女のそれ(・・)が生来からのものであるのか、何気なく掛けた筈の負荷がはずみ(・・・)によって予期せぬままその箍を取り払ってしまったのか、詳しいところまでは女自身であってもあまりよく記憶していないことだった。

 

 切っ掛けというものは、確かにあったのだろう。同様に、素質も。

 

 少なくとも鈍感な子供であって、周囲からもそうとられていた。よく傷を作ることも多く、そしてそれ故に実の親から棄てられた。

 棄てられた記憶は有るし、自我が定着してから棄てられるその時まで、自分からしたら(・・・・・・・)特に大きな出来事もなく過ごしていた。多少不思議なことはあったけれど、幼い頭では何が正しいかなんて己で判断など出来ないだろう。周囲の認識する異常と己の考えるそれに差異があることを、その時は未だ理解してはいなかった。

 

 とろい(・・・)とは思われていただろうし、生傷絶えず、そしてそれを意に介することもないのだから、けれども違和感は前々から蓄積されていた。

 実際に決断を下されるまでの決定的なことが起きることが遅かっただけで、その体質が、女が自我を芽生えさせるよりも前の、随分と幼い時分の頃からであってもおかしくはなかった。

──どちらにしても、今となってはあまり気に掛けても意味のない事だ。

 

 冷たいことかもしれないが、棄てられた直後でも、当時の女は幼子の特権である泣き喚くようなことはしなかった。 ……痛みに鈍く、周囲そのものが薄い膜越しであったけれど、寧ろぼんやりとした幸福を享受出来てさえいた。

 鈍い彼女であっても、感じる視線に含まれる何かしらの感情は、多少察知出来ていた。大人のそれは色々なものがぐちゃぐちゃに混ざりあう複雑さを有していたが、孤児院の子供の感情は単純で、他の家庭に居るような幼子よりももっと無垢で、同じ子供である自分にはそれが一番安心できた。

 

 

 痛みというものに対して敏感である、血の繋がらない沢山の小さい家族たちからすれば転んでも泣き喚かない彼女が怪我を負った時に寄り添って宥めることに安心感を与えられたので、寧ろ棄てられた先の孤児院では珍しく、当時の彼女は倖せであった。大きい家族たちは特に突っ込んだことを云うでもなく、「あまり痛くなくともたまには泣きなさい」とだけだった。

 彼女自身も少し反省して振る舞いに気をつけたからその程度で済んだ。異端というものを幼子の身で完全に隠すなんて術は無かったけれど、それでも、酷い怪我を負った時にどうでもよさそうに何も気にせず、血を流したまま動き回るような明らかな愚を犯さないと学んだのだ。

 

 

 着の身着のまま孤児院の前に立っていた幼子は、数日後には他の子たちと変わらないような交ぜ織の簡素な服を身に纏い、あまり善いとは云えない食事環境の中で文句を口にもせず、見事に溶け込んでみせた。

 少女の名前は──幼子に名字を名乗る機会なんてものは無いので、直ぐに忘却の彼方へと去っている──柊というのは、彼女自身の肉体以外で親から最初に受け取ったもので、最早名前以外に残されたものはない。棄てられた身であったけれど、それでも与えられた名前を存外彼女は気に入っていたので、その点では感謝をしている。

 

 柊の新しい家になった孤児院はこぢんまりとしていた。

 外から見たら孤児院とは思われないだろう、外観は辺鄙な場所にはまるで不釣り合いな図書館。それでもそこが一応孤児院として成立しているのは、本の詰まっている棚が壁に沿う形であって障害物のない広間のように集まれる場所があるからである。児童書から小難しい本まで様々な本の背表紙を眺めていて、そういえばこの場所で大人に遭ったのは一度きりだな、と気づいたのは数日後の話だ。

 大人がひどく少ない孤児院であると思う。少ないなんてものではない、そもそも一人で、その一人すらも子供にあまり関心のない様子だった。それこそ、その一人いる大人のためだけに誂えられたかのような場所だった。

 そのくせ孤児院には規則とそれなりの秩序があって、大人が煩わしく思った時には対象である子供に折檻の罰が下される。

 子供たちは殆ど放置される形で、けれども周囲に学べる(もの)があったからこの均衡は保たれていた。

 

 

 その齢の同年の子供と比べれば成熟していたのかもしれないが、それは個性で済まされる範疇だった。

精神性で僅かながら勝ったものがあったとしても、当時未だ幼子で、沢山居る子供の中でも年下の方に位置していた柊は、その鈍さもあってか周囲を見る力が他の子供よりも著しく低かったから当たり前のように庇護されていた。恐らく、その欠陥によって棄てられたのだと、気づいている人は気づいていた。

 

 ぼうっとして何かにぶつかることが多い。幼子だからと片付けるには多すぎる回数で転倒する。兄や姉たちによる協議で「この子には絶対に刃物を触らせない」……満場一致で決められたのは必然だった。

 同時に、間違いなく折檻の対象になることが多いと予想され、かつその当人が痛みに鈍いという性質の悪い悪循環を危惧した年上たちは出来るだけ周りを見るようにと常々聞かせることになる。

 それでも生来のそれが容易く矯正出来るでもなく、彼女の初めての折檻は大して間を空けずに行われた。

 

 

 

 

 柊は、じんわりと赤くなった金属が自分の肌に触れるのを、どこか遠い物を見るような気持ちで受け入れた。

 じり、と音がした。

 肌が少し焼ける。熱いというよりは痛い。ずくりと疼きを感じて、ぎゅっと眉を寄せる。…………声は上げなかった。

 院長である男は、それを感情を読ませない瞳でじいと見詰めていた。

 

 痛みに意識を飛ばさなかったことが異常であることを、少女は識らなかった。院長である男は何を云うでもなく、寧ろ運び出す手間が省けたとでもいうように彼女を解放した。

 焼けた自分の肌は、未だ熱で燻っている。ぽいと部屋から放り出された少女に慌てて駆け寄った一人の兄が柊を担ぎ上げて走りだした。

 

 別の部屋に飛び込んで「水の準備出来てるんだろうな!」と唸っている。既に何かの準備態勢が出来ている他の兄姉に突き出され、ぜえはあと息を荒くしたその兄の頭を宥めるようにぽんぽんと撫でると、「お前さては自分の状況を理解していないな?」と余計に怒られた。

 

 

 

 

 

 柊には不思議な特技がある。

 彼女自身が感じることは出来ないので、それは大体申告されてのことだったし真偽は定かでは無かったけれど、最初は信じていなかった彼女でもそれが幾度か続けば実績になる。

 柊の周りでは、大体怪我をしたり折檻を受けた他の子供たちがぴったりと張りついて何かをしている。年長にあたる兄や姉は殆どはちゃんとしているけれど時折どうしようもない程のへま(・・)をすることがあるので、その時は柊の体ごと抱えあげられて昼寝されたりする。

 彼らに云わせると、何でも彼女に触れているか触れられているかした時に傷の痛みが和らぐとか何とか。

 

 彼女自身はそれの正体を推し量ることが出来ないでいる。何故なら、そもそも柊にとって『怪我などによって施される痛み』というのは瞬間的(・・・)なもので、その一瞬さえ過ぎれば感覚は何の変哲もない日常に戻ってしまう。癒えていない傷口に触れたところで感じるものは手がそれに触れているという事実だけである。

 持続的に与えられる痛みというものを彼女は識らないのだった。

 

 

 

「そもそも、怪我をした時にお前が感じているものと俺たちが感じるのは違っている」

「ちょっとそんなはっきり云わなくても……」

「あ? 事実だろうよ。この本で見る限り無痛症って訳でもなさそうだ。痛み自体はこいつも感じている。ただ、痛みが持続していないし、大体他者の痛覚を操作するなんてのは聞いたことないぞ」

 

 

 兄姉が難しい話をしている中柊自身がぼんやりとしているので、それを額をつつくことで咎めつつ、折檻されたばかりの幼子を運んできた少年はぐっと眉を寄せて顰めっ面になった。

 子供は折檻による火傷で痛々しい肌を冷やしているけれど、普通それだけでけろりと出来るような緩和効果が水ごときにある訳がない。

 明らかな異常であった。対応している方が狼狽えてしまうような。…………当時戦時中で、異能力というものがあらゆる面で戦力として投入されていた為か、市井にはそんなありもしない(・・・・・・)戯れ言を進んで広めるような人は居なかった。

 

 

「……いいか、柊」と重々しく云った兄に、「なぁに、お兄ちゃん」と返してことりと首を傾げると、何故か周囲が顔を覆って崩れ落ちた。

 

「ん゛んんっ」

「柊ちゃん可愛い……」

「流石お兄ちゃん! これで眉ひとつ動かさないなんて出来る兄貴だな!」

「うるせぇなお前ら」

「柊の教育係はあんただしね、私たちは可愛がるだけの係ですものねー」

「ねー」

「話進まねぇな……いいか、柊。雑音は無視してとりあえず聞け」

 

 うん、と頷くと「えぇ、酷いなぁ」とかいう周りの詞を早速聞き流して、柊は、目線を合わせるように屈んだ兄の顔を覗き込んだ。

 ひとつ咳払いをして、兄は「お前のそれは、隠さなければならないことだ」と云った。

 

 

「かくしごとは、いけないことよ?」

「よく解ってるじゃねぇか。だが、そういう異常があったから、その全てを把握しないまでもお前の親はお前を棄てた。隠した方が倖せなことだってある。お前、自分が他の奴と違う変なことが何か、理解しているか?

「……ころんでもなかない?」

「それもある。痛みは持続するものだ。ずっと痛い。だから泣くし、お前のところに寄ってくる。お前の近くに居ると痛みが和らぐ、なんてのもそうだ。他人に触ってるだけで痛みが無くなるならみんなそうしてる。おかしいことだ。異常は淘汰される……ってのは理解出来ないよな。つまり、それを他のところでするとお前はいじめられるってことだ。内緒にしなけりゃならん」

 

 指を唇に当てて、至極真面目な表情で「しー、だ」と云った兄に周囲が苦笑する。似合わないと解っているので、兄がそれに睨みで返した。

 

「お前らもこいつにあんまり頼るなよ。こいつが居ないのが今までで普通だったんだ。徴兵されたらもっと痛いことなんて幾らでもあるだろう」

「うーん、まあそうなんだけどねー」

「ついつい……っていうのは言い訳だな」

「徴兵かぁ。孤児院出の兵士は痛みに強いって聞いたことあるけどね」

 

 そろって柊の方を見た兄姉に、その部屋に居るなかの最年少は矢っ張り少しだけ首を傾げて、真似するように唇に指を添えて「しぃ」と囁いた。

 

 

 

 かくして柊という幼子が何時からか発現させていた異能という代物は、その正体をはっきりさせないままに公然の秘密となっていた。

 他の幼子たちも、それぞれによく懐いている教育係の年上たちに何か云われたのか、余程酷い怪我以外に必要以上に引っ付くこともなくなった。……ただ、秘密は秘密でも公然の秘密であるので、お互いに「しぃ」と口に指を当てて背中合わせに引っ付いたりすることは時たまあるのである。

 

 

 柊のことをよく気に掛けていた兄は、やや乱暴な詞遣いで不器用でもあったけれど、それでも少し認識のずれている幼子に根気強く付き添ってくれていた。

 

「汗は出る。やっぱり無痛症じゃねえな。いや、特殊な症状…………判らん。お前大きくなったら絶対に医者のとこに向かえよ」

「泣かなくてもいいが、多少痛がってるくらいはしろ。平然とするな」

「おい柊、火傷したな? 調理場で火だと? 論外に決まってるだろうが、ああん? 最初っからお前は出禁にするって兄弟との協議で決まってんだよ!!」

 

 

 ……短気ではあったけれど、それなりに、感謝はしているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 赤紙が来た兄は、柊の伸びた髪を容赦なくかき混ぜて、「お前だけが気掛かりだよ」と呟いた。

 

 身長だってもう伸びて、兄には届かなくても、もう屈むまでもないくらいには成長していたのに、相変わらず子供は兄に心配ばかりを掛けさせている。

 その時には流石に、既に自覚があったので、神妙に頷いてみせた。

 

 

「周りをよく見ろよ。お前は注意力が散漫過ぎる」

「兄さんもね。私、兄さんに遭うのがこれが最後だなんてのは厭よ」

「云うようになったなぁ柊。…………元気でやれよ。便りも送れんようになるのか、それも判らんが、まあやれることをやるだけだ。それだけは何時になっても変わらんさ」

「うん。──行ってらっしゃい。帰ってきてね」

「ああ、行ってくる」

 

 

 それから現在に至るまで、柊の見た兄の姿は、青年になりたてのそれで止まっている。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 柊もまた、孤児院を出る年齢になって、それまでにはもう普通に振る舞うことも馴れたし、年下の幼子たちを相手にすることも増えた。何度か教育係をしたこともある──といってもそれは実際には、院の規則を教えたり、本の読み聞かせや字の練習など、日常の他愛ないことに付き添う程度であり、柊に付き添っていた彼程大変なことになっている人は見たことがないので、柊は余程要領が悪かったのだろう。

 

 複数人受け持っている中で、朧という名前の幼子に、何か引っ掛かるものがあった。

 朧は、よく泣く子供だった。日常では刺激さえ無ければ穏やか、大人しくあまり手の掛からない子であったが、それを崩されたらまあよく泣いた。

 精神が脆い子供だった。その上夜眠ってしまった後にも泣く。夢見が悪いのか何なのか、尋ねても首を傾げるばかりで、眠っている時に何を見ているのかは分からないが。

 少々悲観的なところがあり、物心つく前から孤児院に居て他の子供と同じように過ごしていたにも関わらず、妙に達観した、不安定な危うさを持つ子供だった。

 

 ──……思えば、それを理解していたかは別として、酷いことを云ったと思う。

 

 何時ぞやに、院長のきつい物言いで涙ぐんでいた幼子に、「泣いちゃだめよ、朧。私たちは心の傷に愚鈍でなければならないの。其れが許されるのは、親のいる子供だけなのだから」──と。

 年を重ねる毎に少しずつ泣くことも減っていったけれど、それでもたまには夜に何かを見て泣く。

 何がそんなに悲しいのか。それが無力さ故のものか、何か欠けたものを想ってのものなのか、単なる恐怖からくるものなのか、判然としない。

 当たり前のように夢のことを覚えていないから、夜夜中にふと目を覚ました時は流れている涙をそっと拭ってやったりするのみだ。

 

 ……ある時、不意に微睡みから目覚めると、よく朧に構っている年下の少年が、じっと幼子を見詰めていた。

 起きている者の気配は、眠っている人のそれと比べると総じて感じ取りやすい。

 

「白木」

「……柊姉さん」

「その子、泣いていた?」

 

 周囲が寝静まった中で、ひっそりと声を交わす。

 弟はうん、と頷いた。

 

「私が此処から出ることになったら、お前がその子を見てやるのよ」

「俺?」

「だって一番この子を気に掛けてやっているもの。だから頼むの」

「……姉さんはもう少しで此処から出るんだっけ」

「たまには連絡するわ。寂しいでしょう」

「…………」

「からかっているんじゃないのよ。ただ、反面教師が居たから」

「反面教師?」

「赤紙を貰って、便りを送ると云ったのに何の音沙汰もない兄よ」

「……」

「お前は覚えていないでしょうけどね」

「……姉さん」

「なぁに煮え切らない顔して。──でも、えぇ、そうね。寝ましょうか。お前を厭な気持ちにさせたい訳ではなかったのよ」

「…………うん」

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 柊は、何処其処の、聞いたことのない地名の作業場に送られた。少女のうち数人は同じ孤児院の出で、そこだけは少し気が楽だった。

 作業場の統括は男で、そいつが下卑た目で品定めするように少女たちを眺めるのを、冷めた目で見詰めた。

 無い訳ではないのだろう、そういった慰みものという面での用途は。もっとも、そんなことに余裕を注ぎ込むくらいならさっさと戦争を終局へ持っていってくれと思うのが本音だが。

 柊は見た目こそ美人のそれであったけれど、その身体には幾つもの折檻の痕が消えずに残っている躰であったから、そこまで相手にされなかったのは救いであったのだろう。

 

 働いて、給金を貰い、初めてのそれで便箋を買った。殺風景だった孤児院の周辺より豊かな植生で、しかも山が近くにある。生々しいことは無しにそういう他愛ないことを書いて送った。

 生活に充てている費用から余ったお金を少しずつ貯めて、お菓子を買った。戦時中はかなり値がはるもので、小包で孤児院へ送る。手紙も添えて、ふと、弟が孤児院を出る時戦争は未だ続いているのだろうかと考えた。

 

 

 ──結局、白木がその年齢に達するよりも前に終戦が訪れた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 作業場は、終戦後は最早需要のないものであったらしく、幾ばくかの給金を貰ってそのまま職無しの生活になった。

 同じ孤児院だった女が、柊がこの場所で最後にと書き綴っている手紙を覗き込みながら「何処へ往く心算なの?」と問う。

「横浜よ」と柊は短く答えた。手紙にもそう書いた。

 尋ねてきた彼女に貴女はどうするのかと返すと、彼女はちょっと躊躇って、はにかむように「旅をして回ろうと思って」と笑った。活発な彼女らしい、と頷いた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 終戦後の横浜は、それこそ地獄のようであった。

 子供の泣く声が遠くに聞こえる。

 

 混沌としていた。

 大戦後、連合系列の軍閥が進出し外国人が雪崩れ込んできた。きっとこれから混血化が進むのだろうと思わせる程度には多い。明るい色の髪や眼を街中でよく見掛ける。綺羅綺羅しいからとても目立つのだ。

 

 大都市だから、港に面し流通面で困らない、それは街の治安が善い時に初めて安心して利用できるものだ。

 規制が間に合わない、悪意で溢れかえった場所でのそれは、寧ろ一般人には毒でしかない。

 

 日本人では有り得ざる金、銀、鮮やかな赤の髪。そんな彼らを尻目にし、柊が僅かなお金だけを持ってやって来た横浜で住処に選んだのは、都市の外れ、低所得者や移民が多く住む一角であった。

 

 女一人で生きていく為に、手っ取り早く職を見つけようと思うのなら。

 地方よりも高い物価にこっそりと戦く。食材を抱えて帰る道では当たり前のように少女が春を売っているのが目に入る。──……柊よりも余程幼い、けれど何処か覚悟を持った瞳が印象的だった。

 

 果して自分に何が出来るだろう、と柊は思う。

 単純作業は前の働いていた処で馴れたから可能だろう。けれど、それをこの都市が求めているとも思わなかった。

 柊を置いていった兄は、もうきっと居ない。彼は普通の中に溶け込む方法を教えてくれたけれど、もう彼の手をとっくに離れて、今は料理だって出来る。けれど、出来るといってもそれまでで、それはあくまで生活を送る為のものだった。仕事にまで出来るような技量を持ち合わせるものはない。

 

 だから柊は、情婦になろうと決めた。

 旅をしようと云った同郷の彼女に追い付くには金子が足りない。ならば、まず一人で生きていこうと思うのなら、それが一番手っ取り早い。

 この混沌とした中でそれでも生きていくのなら。その先で懸命に足掻く子供たちに手を伸ばすかどうかはともかくとして、先ずは自分が出来ることをする。

 幸い顔はそれなりに善い。

 躰の所々にある傷痕は痛々しいが、需要が無い訳ではないだろう。

 

 

 安物の化粧道具を手に入れて、同じように体を売って生計を立てている隣人に化粧の方法を習う。

 彼女の働いている娼館の紹介までしてくれて、その礼は彼女の、四歳になる子供の面倒を時折手伝うだけでいいと云うのだから、とんだお人好しだと思った。

 細々と客が来るが、如何せん綺麗な躰でないものだから、どうせ暗闇だから気にしないという大雑把な男や、その傷が善いのだという特殊な性癖を抱えた非常に残念な男、けれどそれで食っていく自分もどっこいどっこいだなと苦笑した。

 

 白木への手紙は、最後に横浜へ向かうのだと知らせたものから一つも送っていなかった。

 彼女の生活が安定するまで手紙を送る暇すらなかったというのもあるし、生きる為と云いながら割と即断で情婦になることを躊躇わなかった自分が、大人の汚さを嫌うあの少年に嫌悪を与えてしまうのではないかという一匙の恐怖もあった。軽蔑されるのではなかろうか、と。

 結局私も反面教師のあの人のことを云えないのだ。

 

 

 

 

 

 何時までも安定した時というのは続かない。

 常連客のある男から、娼婦と客、それ以上の関係を求められるようになってきていた頃、大規模な抗争が起こった。

 その男は前々からきな臭いようなものを感じていたのかもしれない、彼は大規模抗争を起こした組織の片方に属し、下級構成員の一人であった。

 

 小競り合いのようなものなら茶飯事であるけれど、それなりに大きな組織同士のそれは周囲を巻き込んで甚大な被害を及ぼした。

 柊の居る処は、低所得者の集まるような場所である。塵も積もれば山となるというが、詰まるところ社会における彼女の立場というのは、そういった塵程度のものなのだ。

 掃いて棄てる程の中の一人。徴兵へ出された兄も、こういった軽い扱いをされたのだろうか、とぼんやりと思った。

 

 

 人口が多いというのは、悪い方にも傾くらしい。

 柊は血がどくどくと流れているのを凪いだ目で眺めていた。勿論、痛みはない。

 娼館ごと見事に巻き込まれた柊は、何発か銃弾を躰に貰いながら、それでも生きていたし、意識もはっきりとさせていた。

 多少鈍くても柊には感覚がある。あるけれど、それは一度感じたその数瞬後には何も痛くないという奇妙な体質だ。一度は痛みを感じており、逆にいうならその一度、一瞬の痛みしか感じていない。そしてきっとそれは、重傷であればある程その真価を発揮できるのだろう。

 皮肉なことに、この力が無ければ痛みに昏倒していた。少なくとも失血で死ぬまでは意識を保てる自信があった。

 

 館の中、どこかの構成員と情婦たちが折り重なるように死んでいる。同じように横たわっていた柊は、ゆっくりと起き上がって、彼女が他の人よりも銃弾を受けていない原因、盾となっていた人をゆっくりと退かした。

 どさくさに紛れて()の肉盾となるくらいに愛していたのか。逃げようと云った男に答える前にこう(・・)なってしまったことに、多少の罪悪感を覚える。──こと切れた男の血に濡れた頬をそっと撫でて、「おやすみなさい」と呟いた。

 

 命の気配のない建物の中を、出来るだけ早足になって歩く。亡くなっている人の中には隣人の女が居て、それなりに懐いてくれている幼子が思い出された。

 父は判らず、一人きりになってしまった子供。未だこの横浜を生き抜く為の力も地位もないか弱い子供を一人にさせたくないのは、偏に柊が孤児院の出だからである。

 死ぬわけにはいかなかった。

 時々ぼたりと腹から血を落としながら、建物の外へ出る。簡易な止血だけだからか、失った血が多いのか、痛みはなくともくらりと眩暈を起こす。

 抗争直後だからか人気がない中を歩いて、倒れてしまう前に人に遭いたかった。出会った一人目に託そうという無責任な考えが浮かんでしまうくらいには柊も切羽詰まっていた。

 

 角を曲がる。

 人にぶつかりそうになった。

 相手に謝罪する前にその服を掴む。人を捕まえられたことに少しの安堵、一気に力が抜けた。

 形振り構っていられずに早口に己の隣の住人の住所を呟く。

 誰かの慌てるような声、がくりと目の位置が下がる。

 泥臭い泥濘の臭い。膝をついた。「お願いします」と声に出せたろうか。

 ────暗転。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 目覚めた時、鼻をつくのは消毒薬の匂いだった。

 手に温もりがあり、視線だけそこへ向けると、幼女がすがり付くように眠っている。

 

 

「やあ、起きたかい」

「…………」

 

 

 扉に寄りかかるようにして、男が立っていた。

 声を出そうとするが、喉からは掠れたような音しか出ない。その男から水差しを受け取り、喉を湿らせた。

 男を見る。真っ白な、痩身の男だ。

 東洋の、見るからに日本人の造形であるのに、その色素だけが抜き取られたように白い髪は新雪を思わせる色。

 

 大きな声は出せなかったので「あなたは?」と呟くように問うと、「死に体の君を医者のところまで運んだ者だよ」と返ってきた。

 

 

「……お世話を、お掛けしまして」

「ふふ、世話を掛けられまして、かな。見ず知らずの僕に助けを求めるくらいには無害なのに、その上同胞(はらから)であるなら情婦であっても見棄てるのは寝覚めが悪いからね」

 

 

「僕も子供は好きでね」と男は微笑する。

 しかしそれは結果に過ぎないことを、柊は識っていた。彼女が失血で昏倒するまでに子供のこの字も口には出さなかったのだから、この男は単純に倒れた彼女を哀れんだのだと、容易に察することが出来た。

 

 ──自分の幸運と、このお人好しな男に、深く感謝する。

 深々と頭を下げて、自分の手にしがみついて眠り込んでしまった幼子の顔にかかる髪を、そっと払ってやった。頬の涙の跡をなぞってやると、むずがるように口をむにむにと動かす。情が移ってしまった以上は、どうしても見棄てることは叶わなかった。

 或いはあの母親は、それを見越して交流を持ちかけていたのかもしれない。

 

 

「君も災難だったねぇ。かなりの重傷、よくもまああんなに歩けたものだ」

「火事場の何とか、という奴でしょう。……しかし職場が無くなってしまったことは痛いですね。余計な傷も増えましたし。此処のお医者様は何と?」

「彼は今出掛けているから、その時に尋ねたらいいよ。少し性癖が屈折しているけれど、悪い人ではないんだ」

 

 寝ている子供をちらりと見遣って云うのに首を傾げたが、柊は割と直ぐにその詞を理解することになる。

 白衣の医者は、重度の小児性愛者(ロリコン)であった。

 

 

 

「────これの何を見て、『少し』性癖が屈折しているなんて仰ったのか尋ねたいのですが」

 

 賑やかに帰って来た医師は、己の発言が扉を閉めていても途中から漏れ聞こえていたこと、そもそも患者である柊が起きているのも、子供に対しては一貫して庇護されるべきという考えであるというのも勿論識らない。

 

 

「君の客も似たようなものだったのでは?」

「彼らの方がまし(・・)です」

「そういうものか」

 馴れたような男の淡白な反応、そして医師の連れ子であるらしい幼女がぱっと顔を明るくして柊に駆け寄った。若干盾のようにされていることを気づかない程鈍くはない。ついでに影でこそこそと帳面に書き付けており、そっと差し出されたのを見る。

拙い字で『たいしょうはじゅうにさいいか』と書かれているのを見てしまった。すっと真顔になった。

 医師が今までの幼女に対する発言を無かったことにするかのようににこにこと「目が覚めたんだね」と云う。識ってしまった業の深さが憎たらしい。

 

 

「おかげさまで。けれど、貴方が小児性愛者なのに一気に心証が悪くなりました」

「君に間違っても欲情しないのだから、善いことじゃないか」

「この子を見ても同じ事を素面で云えますか?」

 

 図太く眠っている子供は美形である。未だ性がはっきりしていない、中性的な容姿で、欧州の血が入っているのか色素が薄い。

 あどけなさの中に色気が混じるのは母を見て育ったからか、或いは天性のものか。幼くとも引っ掛かる人は引っ掛かるだろう。

 頭を撫でつつ問うと、医師は無言でにっこりと微笑んだ。柊も微笑み返した。無言の肯定である。

 にこにこと笑顔の応酬を繰り返し、暫く経ってから目覚めたばかりで未だ本調子とは云い難い柊がため息を吐いてその場では根負けした。

 精一杯の強がりを保っていられる程の体力は無かったので。

 

「こんなしがない情婦です、預かりもののこの子以外であるならばこの身だろうと差し出せるものは差し出します」

「…………」

「本来なら私は多分、あの場で死に絶える筈の一人でしたから。お好きな様に、何とでも」

 

 

 どうせこの重傷の治療に払える金など無いのだから。

 

 白髪の男は我関せずの態度を貫き、白衣の医師は少し考え込んでいる。

 気紛れに医師の連れ子の金髪の幼女の頭を撫でると、花が開くように笑った。医師が羨ましそうにその様子を見て、そこで真面目な表情になり口を開いた。

 

 

「では、君の生命線についての情報を」

「生命線?」

「異能を持っているだろう? 彼から聞いたよ」

 

 柊は男を見た。彼は肩を竦めて「同胞(はらから)だって云っただろう」と云った。「僕は異能を所持しているかどうか見分けられるからね」と。

 

 そもそも、異能というものが何か。

 柊は前提を識らなかったが、それが自分の異様な体質を指しているのなら、同類が他にも居るらしい。

何だか救われたようで、妙に嬉しくなって口元だけで微笑んだ。

 

 

「その異能、とやらを私はよく識らないけれど…………それが私の異常な体質を指すのなら、生命線でも何でもないこれの詳細をお教えできますよ」

「おや。異能、異能者という詞に聞き覚えは無いのかい? ──……いや、民間には未だ浸透しきってないものなのか」

「そういえば昔兄に、医師に一度見てもらえと云われていましたね」

 

 

 すっかり忘れていました、と柊は薄く笑った。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 彼女の異能がそこそこ役に立つものであったので、そのまま柊は医師の手伝いをたまにしている。同時に、子供の庇護という点で意見が一致した白髪の男──『告死』ともそれなりに深い親交を続けていた。

 彼女の立ち位置というのはもう一介の情婦というだけでなく、異能による付加価値があった。色々と思うところがあって、(読みは同じだけれど)名前も変えた。もうずっと、弟に手紙は送っていない。

 

 預かりものの子供には、とにかく得意なことを探すこと、資格を取るだけでも社会的な信用は得られるのだと教えていたせいか、地頭がいいことも相まって社会を渡り歩くのは容易だろう。──少し甘ったれているのはどうにかしたいところではあったが。

 

 

 

 

 

 少年を黒外套に包んで抱えている男が、ひょいと顔を出して「疼木(ひいらぎ)」と呼びつける。

 森医師(せんせい)がおや、と眉を上げた。患者の手を握り鎮痛を行っている彼女もちらりと頭を上げて「少し待っていて」とだけ云った──患者は麻酔をかけられていないにも関わらず、泣き叫ぶこともなく銃弾の摘出が終わるのを待っている。

 処置を終えてから医師に一言断りを入れた疼木は、『告死』の男の方へ向かい、彼に抱えられている少年を確認して「この子、どうしたの」と尋ねた。

 

「仕事先で市警に引き渡されそうなのを掻っ攫ってきたんだ」

「『告死』、貴方ね……」

「取り敢えず意識が戻るまでは此所に置いて欲しいな。身体に支障があったらことだから」

「…………解ったわ。貴方は? これからどうするの」

 

 男は微笑んだ。

 

「僕はこれから行く処があってね」

「そう」

「後でまた来るよ」

「はいはい」

「……」

「……」

「疼木」

「……なあに」

「これから忙しくなるよ」

 

 

 ぽん、と頭に手を置かれる。お互いに忙しくなる。それはつまり、今起こっている抗争が終結へ向けて激化するのか。

 こくりと頷いた。頭から手が離れる。

 

「じゃあ、また夜に」

「ええ」

 

 その後ろ姿を見送って、外套ごと受け取った少年のくったりとした重みを感じながら、患者用の空きのある寝台の一つに横たえた。

 紙に事の次第を簡単に書き付けて枕元に置き、その場を離れて戻ろうと立ち上がる。

 

 最近また抗争の激化で患者は急増していた。

 彼女に出来るのは痛みをとってやることで、それだけが取り柄である。居ないより居た方がよい。その程度の人材だと己でも理解しているけれど、それを出来るのもまた彼女だけであるから。

 

 金髪の幼女がひょこりと顔を出して、疼木を手招きしていた。

 

 

「ヒイラギ! リンタロウが呼んでるわ!」

「あらエリスさん。迎えに来てくれたんだ」

 

 

「丁度戻ろうと思ったところだったんですよ」と云って、彼女は差し出された手をそっと取った。

 

 戻る心算で数歩歩き、ふと振り返ってみても、少年は未だ目を覚ます様子はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




──ぱたりと、手紙が来なくなった。

元々頻繁なやり取りでは無かったが、それでも季節の節目には連絡を心がけているような、そういうまめな(・・・)ひとだった。
彼女の最後の手紙が、「終戦に伴い作業場が閉鎖したために、住居を横浜へ移すことにしました」という簡素な報告である。
彼女の性分からして、目的地に着けばまた連絡を寄越すのだろう、そう考えていた。

けれども一向にやって来ない手紙を待ち続けて、そのうち白木は、こうして受けとるばかりであると己を嘲った。
ここで「矢張り大人は」と云ってしまっても善かったが、そうしたとして、その詞が、面倒を見てくれた自分の姉に対して大っぴらにされてしまえば苦痛に思ってしまうから口を謹んだ。そのくらいには、白木は姉を慕っていた。

ただ、この細々とした交流が途絶えることへの心構えが出来ていなかっただけで。
かといって、未練が無くなる訳でもなく、自分も横浜へ向かってみようと白木は考えた。


────きっとこれが、彼の人生における分水嶺だった。







本文の最後の辺りは前話の(告死さんによる織田作回収)話の続きです。疼木さんに織田作を預ける為彼女(の職場。森医師(せんせい)も居ました)のところを訪れたもよう。
それを書く過程で、疼木さんの人生について、どうやって森医師のところまで行き着いたのかを書いたら異様に長くなりました。
多分各話の文字数の中では最長。


※※
院長先生は医学書はもっているけど医学には明るくない感じです。彼は寧ろ、哲学書とかを読んでそうなイメージ。

彼女の様子にもあまり興味を持たなかったので、彼女が感覚が鈍い、或いは無痛症と考えても、その無痛症とは症状が違っていることには気づいていませんでした。異能であると察する機会は無かったということです。
即ち、彼女は知らず知らずで無意識的に異能を行使しており、それが感覚に対する鈍感さに繋がっていたということになります。




情報整理として、簡易異能紹介。↓


・所持者:疼木(柊)
・異能:『───』
⇒自分、及び接触している他者の痛覚を操る異能。
己に対しては、怪我という傷を負った際に「痛い」と思った時点で異能が発動、無痛状態になる。
幼い頃からそれが普通だと思っていたので、他者もそうであるという思い込みが伝播し、結局として傷を負っている他者も無痛状態へと導いている。
恐らく逆に、痛みを増幅させることも可能ではあるが、積極的に使いたいとは考えていない。
異能を自覚してからは、その制御も可能になる。ただし、苦手な方ではあるが。


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