「
「……今、仕事中よ」
ふつりと唄が途切れ、灯りをつけた男の方を女が見遣った。
情婦である彼女の隣には、服を来た男が一人。ぴくりとも動かない。
──鉄錆の匂いが、鼻につく。
「
「識っているわ。それでも、死んでしまって直ぐに止めてしまうのは少し、可哀想でしょう」
「優しいんだね」
「それを私に云うの?」
せめてもの手向けよ、と撫でていた頭から漸く手を降ろす。手を握りあっていたもう片方の手も放した。冷え始めている体温は、最早生きた人のそれではなく、──無造作にともいえるように放り出された。
ぐるり、と首が回り男を見据えた。
「で、何か用かしら?」
「作坊と『彼女』が来るんだ。教えておこうと思ってね」
ひらと投げ出された写真を拾い上げ、そこに写る人に一瞬固まるように身体を強張らせて……女は一言、絞り出すようにして「厭味な男」と吐き捨てた。
「一目、見に行くかい?」
「遠慮しておくわ。だって──」
その先の詞で、何を云おうとしたのかを男は識らない。女が云いかけた詞を呑み込んで、喋るまいとでもいうように俯いていたので。
その日の割り当てられていた時間まできっちりと働いて、朧は今、未だあまりよく識らない少年に手を引かれて歩いている。
自分よりも幼げで、背も低い。けれども、誰の支えもなく地に足をつけ立ち、平然と生きていることが実のところどれだけ異常であるのか、少女でも解ることだ。
「熱い」
「……あなたの手は冷たいと思う」
少年と繋がれた掌は、彼の硝子のような透き通るような瞳とは正反対に、まるで生きていることを声高に主張しているかのようにも思えた。
体温の低い朧ではあったけれど、彼女からすれば少年の熱は熾火のようにじりじりとしているようにも感じる────少々、過剰に表現し過ぎているかもしれないが。
握られ、一方的に引かれている手は、自分のものだ。少しだけ弱く握り返して、一言少女は「何処に向かっているの」と今更に尋ねるようにして呟いた。
しっかりと、聞こえていたらしい。
「あなたが、遭いたいと云った人のところへ」
「確かに云ったけれど……そう簡単に遭えるものとは思わなくて」
「──あの男は、子供には甘いから」
「答えになってないよ」
そして、自身が気に入られている程度に、少年は『告死』の男のお気に入りであるという自覚が存在した。
導かれた出逢い。その契機を作った男は、『彼女』と口にした。不明瞭だった人のことを、既に目していたのか否か──あったとして、一度擦れ違ったとかその程度なのだろうと少年は思っている。
赤の他人に対してでもそう断言出来るだけの
弱く握り返された手を、少年は応えるように心持ち強く握り返す。
「どうしたの」と後ろから声。ぬるい温度は、彼女がややもすると生きていないのではと思わせてしまい、少年は少しだけ、その手を引いて歩くことにした自分に後悔した。
自分よりも低い体温は、溢れ出て噎せ返る程に薫る血よりも余程、生きていることの生々しさを少年に伝えているように思えてならなかったのだ。
「子供に甘い……、かぁ」
「
「子供好きな人って、その子供には君も含まれているのかな」
「きっとそうじゃなかったら、構われることも無かった」
「ふぅん……? 少なくともそれを悪いようには思っていないんだね」
少年は歩調を緩めた。手を引いていたものがただ繋ぐだけの形に変わって、少女がゆっくりと解くように掴まれていた手を外した。
横に、歳上の少女の顔がある。それでも、そこまで近い年齢の人とあまり話したことがない少年は、少し戸惑ったようにして温もりの消えた手をもて余していた。
「どうかしたかな?」
「手を」
「そこまで危なっかしいかなあ」
「此処は自由に動ける
「私だって、そこそこ出来るのに」
「あなたを此処に連れ込んだ責任がある」
洋服の
それから目を逸らさず見据えて……少女は少しだけ頬を緩めて笑みをこぼした。
「自分の身を守ることは自己に課せられた責任だよ。私が望んだから此処に居る、それで善いと思わない?」
「…………」
「躊躇いはあった。選択肢も与えられていた。けれど私は此処に居る──自身の選んだ事にも責任はつくものだと理解しているから、君ばかりが負うのは
「世の中は総じて不公平だ」
「その不公平を受け入れたんだから、君を好ましいと私は思うよ」
既に離された手をひらひらと振ると、少しして鈍くなっていた歩みが元のように戻っていた。違うのは、手を引かれる形であった少女が少し速度を上げて今度は少年と隣り合って横並びに歩いていることだ。
ふふ、と少女は微笑んだ。
その笑みの理由を理解出来なかったのだろう、ぱちり、と瞬きをした目が一瞬不思議そうな色を見せたことを、朧だけが識っている。
何でもないよと嘯いて、「それにしても随分歩くね」と問い掛けた。
「何個か拠点にしている中で一番、あの喫茶店から遠い処の筈だから」
「そうなの?」
「今日は疼木に用があると聞いた」
「ひいらぎ」
「情婦と聞いている」
「……」
「疼くの字に木、で疼木」
「……うん、そっか」
一瞬、たどたどしく口調が固くなった人に何があったのか。少なくとも、名前の字面に頷いてほっとしたのは確かだった──知り合いに同じ名の人が居たのだろうか。
そこまで珍しい名前ではないけれど。
少年が『告死』を介して彼女……疼木と知り合いに成ってから、随分経つ。
意図せず出くわす率は、実は男よりも彼女の方が圧倒的に多かった。それは互いの職業柄、保持する異能力や、もう少し言及するなら年齢も関係しているのだろう。色事ではない別のことで少年も何度か世話になっているからだ。
拠点に近づき、掘っ立て小屋のような中にぼんやりと明かりが灯されていることを確認する。
未だ暗くなりきってはない時刻であるからこの位の光量で事足りるのだろう。
……そこで、朧は保護者に連絡をいれていないことに今更ながら気づいたのだった。
「……少し待って。連絡しなきゃいけないから」
黙って立ち止まってくれた少年に目線だけで礼を云って、携帯を操作する。相手へと繋げて、呼び出し音に耳を傾けようとした。
『何処に居る』
ワンコールで出た。
待ち構えていたかのような反応に、冷たいんだかなんだかが判らなくなって思わず半目になった。
「……連絡しなきゃいけないこと、忘れてました」
『連絡はきちんとしろ。社会の基本だ。で、何をしている』
「知り合った人と少し歩いているだけです。ちゃんと帰りますよ、院長先生」
『……誰だ』
「同年代の子ですよ?」
『表か裏か、其処まで関与する心算は無いが、精々拐われないように気をつけることだ。最近は治安が良くない』
「でも昔程では無いんでしょう? ──そう遅くはならないと思いますけど、気を付けますね」
『ふん……では家に戻っている』
「そうしてください」
もう用がないとばかりにぶつり、と電話が切れた。もう用事は無いだろうと朧も携帯の電源を容赦なくぶつりと切った。
電話先で、腹黒喫茶店主が種明かしとばかりに彼女が『告死』のもとへ向かったのだと知らされたことで自分の仕事先がどったんばったんしているなんて識る由もなく。
きっと直後に電源を切るなんてことをしていなければ鬼電の嵐だった筈だが、勿論朧は何てことないように簡易に連絡を終えてしまったので、何も思うことなく懐へと携帯を戻す。
「待っててくれて有難う」
「そんなに待ってない」
「そこは『どういたしまして』、かな」
「……」
朧を暫く眺めて、それから何かを確認するかのように、素直に少年は「どういたしまして」と呟いた。
少年が近づいて、きぃ、と扉を開ける。と、ぼんやりとした光が薄く少年少女の足下を照らした。
生活音はない。
不自然なまでに静かな屋内で、足音も無くやって来た男を一瞬幽霊か何かかと勘違いしそうになった程だ。それくらいには静かだった。実際には何てことはない、朧が一度見たことのある男は、確かにそこに存在していた。
──まぁ、あの時はこれ程までに濃密な闇を感じさせてはいなかったけれど。
「……」
黙って頭を下げた。
そうさせるような何かがあった。闇と形容したものが大げさ、なんて誰が云えるのか。院長とてそう感じさせることはあったけれど、多分種類が違うと朧は思った。
きっとこの人の闇は、もっとどろりとしたもので、昏く、そして凄惨だ。
表情こそ柔らかい目の前の男を眺めると、何時の間にか底無し沼にずぶずぶと沈み込んでしまうような錯覚を抱かせる。
うん?と首を傾げる様は無防備にも見えて、それがどうにも
微笑んでいる、その顔は何やら含みのある表情であった。
「やぁ。────
少年と顔を見合せる。その台詞で初めて男の声を聞いた少女が、彼女にしては珍しく顔をしかめて、男は笑みを崩すことはしなかった。
**
二人で向かい合って座っている間の机には、熱く湯気を立てた湯呑みが二つ、置かれている。
少年は部屋の奧へ行くようにと、この目の前の白髪の男が云って、静かに頷いた少年は、此方を見詰めながら少しの興味を瞳に乗せていたように思う。
「君とこうして話すのは初めての訳だけれど」口火を切った男が、元々入っている茶の中へ、何処からともなく取り出した酒瓶の中身をどぼどぼと注いで満足気にするのを、朧はじっと観察していた。
「作坊は奥で休んでいるよ」
「…………」
「織田作之助。上の名前で呼ぶのも味気ないと思わないかい、『朧ちゃん』」
「……私、名乗っていないのですが」
ぴくり、と肩を揺らした少女が「ついでに云うなら貴方の名前も聞いていません」と、心なしかじっとりとした視線で睨むようにしているのに大して動じた様子もなく、男は手に持った湯呑みで口元を隠すような動きをした……持ち上がった口の端は真正面からでもばっちりと捉えることが出来ていたので、まるで意味は無かったのだけれど。
その痩躯、ひょろりと縦長に伸びている体つき。
雪のように白い髪は病弱にも見える、涼しげで頼りなさそうな男が、くすりと声を漏らしていた。
よく笑う男だ、そう思う。こんな男が殺し屋なぞ出来るものなのだろうか、出来ているからこそ平然とした平和な顔付きで凄惨な雰囲気を纏っていられるのだろうか。
「何が可笑しいんですか」
「君が気に入ったのさ。──覚えているかい。あの日、僕たちは擦れ違った後に目を合わせていた」
「……覚えていますとも。貴方の格好があまりにも特徴的だったので」
けれど接触はそれだけだった。
それだけだ、と思うかい。男はそう云った。
「それで十分だよ。……元々君の育て親からは話を少々聞いていたのもあるけれど」
「院長先生が?」
「院長先生が、だ。まァ、随分と僕は嫌われているらしいけれどもね。彼に嫌われていたとしても僕は君に興味があったし、近い内に必ず出逢うだろうことも理解していた」
朧は一瞬あの特務課の自称兄弟子を名乗っている、友人の教育係を思い浮かべていた。……あれとはまた異なる系統だけれど、それでも矢張り性格にも相性というものがあるから、お世辞にも良いとは考えられない。それが自然だ。
そもそも朧の養い親は、一匹狼気質だ。誰の手も振り払って背中で拒絶するような。
強いて云うならば、あまり干渉して来ない纏わりつかない、適度な距離感を保ってくれる、そんな人としか一緒に行動出来ない協調性の欠けた人である。
もう理解出来ているのだ。養い親にしては随分な譲歩をして面倒を見てくれていることは自分だからこそで、何だかんだでそれに甘えていると自覚している。
「それで」唇を飲み物で湿らせて、
「私は貴方があの時の人かどうか識りたかったから来たのですが、貴方は?」
「うん?」
「『待っていたよ』と、云っていたでしょう。……こういう事を云うのは好きではないですけど、動向を把握されているのは、妙な気分です」
「それを口にする君も、結構肝が据わってるなぁ」
男は、「そういうことも可能な異能力さ」とさらりと云ってのけたので、それには流石の朧でもぎょっとせずにはいられなかったけれど。
「そんなに驚かなくても、君も持ってるだろうに」
「……異能力は、秘匿されるべきものでは?」
「僕の
異能力が秘匿されることは、公に軍事利用の防止や大衆の混乱を避けることも含まれる。しかし、異能力を持つ個人からすれば何よりも重要なことは、異能力者同士の戦闘においてそれが弱味となるからだ。
男の云うことは、弱点らしい弱点の存在しない、上位の能力を有するという意味である。
だから、支援系統、それも限られた利用しか出来ない朧の異能力は
「『死を告げる男』だよ、僕は」
「…………」
何も気負うことなく云いきるからこそ、怖気が走る。……彼は、こういう人であるのだと。
『告死』と呼ばれる男は目の前に居る。
「怖いかい」
首を振った。
「いいえ」本能的な拒絶は、恐怖までは与えない。一度死を体験した少女は、死の与える恐怖に鈍感だ。
そして、彼女を以てすれば、死への恐怖よりもこの男の浮世離れしている様の方が余程気になるものだった。
「なら大丈夫だ。これからも作坊と仲良くして欲しい、それだけ頼みたかったんだ」
「……これだけ答えて欲しいのですが。彼に云った『近い内に出逢う人』は、私で合っていたのですか?」
その問いには、「僕は人の
「占いですか」
「そんな曖昧なものじゃないよ。もっと笑えないものだ」
「……起こり得る事実?」
「君の想像にお任せするよ」
焙じ茶をごくりと飲み込む。胃の辺りにじんわりたした温かさを感じながら、突然目の前の男が眉を寄せるのに首を傾げて、「どうかしましたか」と尋ねる。
「……朧ちゃん、君の難点は保護者があの人であることだね」
「院長先生が何か?」
「連絡は入れたのかな」
「知り合った人と少し歩いている、と云いましたけど」
「知り合った?ああ、作坊か……じゃあ僕が怒られる案件なのかな、これは」
「……何かしましたか」
「うん、君の保護者様に僕の異能生命体が数発銃弾を撃ち込まれたね。銃弾なんて意味ないんだけど、腹いせかな」
ちゃんと迎えに行かせたっていうのに、気が立ってるものだ、と肩を竦めた。
「……私の電話では『家に戻っている』って」
「こと僕に限ってはということだよ。これでも一応、危険人物なんだ」
「自分で云うんですか?」
呆れた少女に、男は笑う。新雪の白は、朧の居た処とは別の孤児院にいた幼子の、月白の髪とはまた異なっている。
「こんな僕が、あのかわいそうな子に望むことだ。あの子の未熟な人間性は、闇にどっぷりと浸かりきった僕では育めないだろう」
「……あの少年と私は、長い付き合いになるんでしょうね」
「おや、疑問も質問も無いのかい」
「だって、未来を視たんでしょう。私は近しい人に成り得ると」
「あぁ、うん……何というかね。合ってるんだけど違うというか」
「?」
いざ云うとなると勇気が要るなぁ、と男はぼやいて、少女の前で初めて苦笑を見せた。
「年頃の少女にこんな事を云うのは何だか変な気持ちなんだけど」
「何か問題でもあるんですか」
「問題というか……朧ちゃん、僕が君にこれを頼むのはね」
「はい」
「あの子の将来の好い人が君だからなんだよね」
「────は?」
朧はぽかんとして殺し屋の男をまじまじと見詰めた。片肘をついて此方を見ている。この男が少年を大切にしているのは確かなことであったらしい、そこまで他人事のように思って、「え」とまた勝手に口から声が飛び出していた。
**
少年が入った部屋は暗かったが、人の気配があった。同時に嗅ぎ慣れた鉄錆の香りが薄く漂っている。
「疼木」
「……あら」
「血の匂いがする」
「仕事は終ったわ」
立ったままの少年を怠そうに見上げて、女は溜め息を吐いた。
「おいで」
暗闇の中で手招きをする。するりと、猫のように少年は隣に座った。
端から見たら、少し年の空いた姉と弟に見えたのかもしれない。
けれども、女は、少年を名前で呼んだことは無かった。
「もう一人、人が来ている」
「識っているわ」
「知り合い?」
「……いいえ」
嘘だ、と少年には判っていた。
けれども、その嘘が何を思って吐かれたものなのか、何のために、誰を想ってのものかを一分として識らない。
『ひいらぎ』
『情婦と聞いている』
『……』
『疼くの字に木、で疼木』
『……うん、そっか』
「私のことは善いの。怪我は?」
「無い」
「相変わらず優秀ね」
「……」
「喜びなさいな。私の異能は弱者の為のもの。あなたは紛れもなく強者なのだから」
「……じゃあ、明日咖喱を食べる」
「そうしなさい」
────情婦は、拾い上げた写真を眩しそうに眺めて、泣くような表情になって顔を歪めた。
長い……長いよ_(:3」∠)_
後編に続きます。プロットを一行で終わらせる奴はこれだから!!!!(私です)
※最近ちょこちょこと文スト二次が出てきていますね。とっても嬉しいです( ´∀`)
皆、この調子で織田作救済を頑張ってくれてもいいのよ……?
※評価感想お待ちしております。