分かたぬ衣と往く先は   作:白縫綾

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Merry Christmas! 今年最後の投稿になりそうです。


※ギリギリR-18未満の描写があります。
まあお分かりのように織田作とうちのオリ女主がくっついている未来の話なので、解釈違いです!!!!!の方は自衛、速やかに退避を宜しくお願いします。


クリスマス小話 / A Starry Night

 ざわざわとしたテレビの騒めきを、どこか遠くのものの背景として聞いていた。

 ぼうっとしている中に、微かな水音がしている。奥のところに置かれた浴室のシャワーは、今彼女と暮らしている男──朧の半身と云い換えてもいいだろう青年が使用中であった。

 

 強めに設定した暖房が部屋を暖めていくのを肌で感じながら、冷え込みやすい自分の身体を密着させるように膝を抱えた。

 窓の外はちかちかしたネオンの光が一際多く、寒い中でも街はそこそこの活気に溢れている。……私たちにはそうする余裕というか、暇はあまり無かったけれど。

 

 

 クリスマスに年越し、そして新年。

 イベント続きで浮つく時期の、その始め。そういう時こそ悪はこぞって暗躍するものだと、朧は身をもって識っている。

 比例して市警やらも出動する案件の多いこの時期、何故か犯罪者も浮わついているのだった。かくいう朧もその犯罪集団、裏に根を張る大組織、ポートマフィアに属しているとはいえ、同時に取り締まる側であったのだからその面倒さが分かるというものだろう。

 行事ごとにはしゃぐ悪党というのは余裕のある幹部か暢気な小悪党かの両極端で、大抵は後者でありながら、そういうのに限ってしつこい汚れの如く、なのである。割を食うのは何時だって、使い勝手のいい中間の人間である。

 彼女の異能の汎用性の高さ故でもあり、だから急な呼び出しもある。不定期な休みも程々に与えられているとはいえ、恋人こと織田作之助と休みを無理矢理にでも被らせた自分が人のことを云えたことではないかもしれないけれど、そう微苦笑をこぼした。

 

 なんといっても、此処は魔都、横浜なのだ。そしてその影の部分を如実に受けて育ったのが朧と織田作である。

 親しい者たちが集まるクリスマス──何故だか日本人の多くがそれを恋人たちのものとして認識しているが──、なんていうものは表の住人なら楽しいことになるのだろう。

 朧からしたら外つ国からやって来た異人たちによりもたらされた文化の一端、副産物だとそのまま捉えているところだ。日本人ならざる髪の色が頻繁に行き交うくらいには異人は流入していて、様々な民族問わず集まってくる以上は少なからず何かがあるからだろう。

 

 犯罪の温床にたんまりと栄養を注いでおきながら、その後始末の一部をして、副産物としてやって来た外つ国の行事に……それでも時が経てば順応してしまうものだから。そうなってしまっている自身に対して、朧はこういう時の自分の性分にたまに物申したくなったりする。

 今でこそ整備されて、表と裏の区分もしっかりとされてきているけれど、その区分がまるで意味を為していなかったことだってあったのだ。そしてそれはもう、人々の記憶から薄れた過去のことでもあった。

 

 

 何とか互いの予定を合わせて、一緒に帰る。何処か酒場(バー)やらで待ち合わせしてから帰ることは多くても、お互いの就業時間がぴったりと噛み合うのは珍しいことだ。

 途中で、いつもより手の込んだご馳走の並ぶ店の売り場を覗いたり、奮発して甘いものを買ったりしたけれど、そういう細やかな変化だったろう。

 特にからかってくるような人もなく、恋人どうし、家族で楽しげにするような人々ばかりの中を、周囲に特に違和を持たれるでもなく、すれ違いながら肩を並べて帰っていた。

 ……周囲に合わせてはみたけれど、それでもどちらも根が淡白なものだから、互いに過度な期待もないし、特別に何かしようとも話してはいなかった。クリスマス直前のこの時期にレストランの予約など取っている筈もない。

 

 それでも、強い調子で今日は急な呼び出しには絶対に応じないことを宣言するくらいはしている。

 幸いなことに、お陰でともいうべきか、連絡用の携帯は沈黙したままだ。──……それももう、電源ごと切ってしまう心算であった。

 そこまで気が入っていなくても、矢張り折角の休みは、とったのならばゆっくりとしたいものだったので。

 織田作の方は識らないけれど、まあ考慮していたのならおそらくそれなりの根回しをしているだろう。そこまで口を出す程野暮ではない。

 

 買った食事を並べて家でのんびり過ごそう、ということになったのだ。

 帰って、荷物を置いた後に冷えた身体を温めよう。そういうことになって、朧は今、部屋を暖めながら待っていた。

 大きめのソファーに膝を抱えたまま、ことりと倒れるように転がって、浴槽を洗うついでに先に入ると云ってから行ってしまった人が奥に去っていった扉をしばらく眺めていた。

 

 テレビの音を聞き流して、何時の間にかそれだけになっている。水音が一時消えたのなら、もう湯を溜めて入っているらしい。

 

「…………」

 

 朧が自分の冷えやすい体を考慮しなかった訳ではない。先に風呂を譲ったのは、単に何時もの習慣が実際行動にしてしまっただけで、彼から香る硝煙の匂いを流してもらう為である。

 私はどうなのだろうと思って何となく袖を鼻に当てて、すんと吸い込んでみると、煙草の移り香しかしなかった。

 

 おもむろに起き上がって立ち、ひたひたと裸足で歩いて居間を出て、脱衣所に入る。扉の先は、もわりと上がる水蒸気で曇っていて、隙間から熱交じりの空気が漏れだしているからか少し温かい。

 服を手早く脱いで、浴室に突入した朧に、浴槽に入っていた織田作が顔を上げてさして驚いた様子もなく「寒かったか」と云った。何時もの、落ち着いた、或いは平坦と云われるかもしれない声音である。

 頷きだけで返し、最初に湯を被ってから、躊躇うことなしに湯船に足から突っ込んだ。

 

 ざ、ぱん。

 水面が揺れた。冷えきっていた足先が、熱めの湯のせいか温度差でびりびりと痺れる。狭い浴槽の中では泳げる訳もない。もぞもぞと体勢を動かして、二人で入るには些か狭い浴槽なので、結局は織田作を椅子にするような形に収まった。

 当たり前のように二人とも一糸纏わぬ姿であるが、関係が関係であるのだし、実際こういうことが皆無というのでは無かったから、ただこうしているだけならば、そこに気恥ずかしさというものはほとんど無い。

 朧は男の体を背凭れにする形で落ち着いた。

 触れ合う肌が熱く感じるので、やはりというべきか。

「冷えている。先に譲るべきだったな」ひやりと低い体温は、元々の彼女の体質でもあったが、それにしても。

 

「うん、手足の先が少しね。…………何時もの習慣だもの、特に気にすることでもないよ」

 

 一緒に入れる大義名分になると思って、と薄っすらと微笑みすら見せる女が、その証拠とでも云うようにくったりと寄りかかって、体を無防備に預けた。

 

「……朧」

「なぁに」

 

 分かりきったことだが、意図的ではないからより性質が悪い。そういうことも含めてぐう、と男が喉奥で呻いたことにも、おそらく気づいてはいなかった。最初にその気がなくても、後から沸き上がってくるものもあるというのに。

 織田作はひっそりとため息をついてから、ぱしゃりぱしゃりと湯を女の浸かっていない部分にかけ始めることにした。体の端は一際だけれど、そればかりでなく、そもそも彼女の体温自体が低いから。

 触れている肩も織田作の肌とは遥かに違う冷たさでひんやりとしている。

 

 ひた、と濡れた手が暇そうに、そして織田作の気を引くような手つきで頬から顎にかけてするすると擦るように撫で、温かさに目を細めて朧は「髭剃ったんだ」と呟いた。

 特に大きな意味はない、会話の間を埋めるような台詞だった。

 

「厭か?」

「ん……いや、ではないよ。ただやっぱり、髭が無い方が少し幼いね。私の方が歳上なんだなあって思わされる」

「……大して変わらないだろう」

「まあ気持ちの問題だよねえ。お仕事だったら髭あった方が年食ってる感があっていいだろうけれど、私はこっちの方が好きかな」

 

 彼らの少年少女期。早々に背を抜かしてしまってから、ほんの一、二年でしかない歳の差は寧ろ、普段は逆転しているのではと錯覚してしまうくらいだ。その為か、時たま自分が歳上であることを確認してにこにことしている彼女の好きにさせている。

 織田作が改めて視線を向けたところ、朧も寄りかかったまま見上げるようにしていたので、黒混じりの若草の瞳の中に自分を発見して少しむず痒いような気持ちになった。

 

「作之助さん?」

「……いや。大分温まってきたな」

「うん?まあそうだね。おかげさまで、かな」

 

 朧が織田作の鳶色の瞳を好んで覗き込むように、織田作もまた朧の目の色の鮮やかさを好んでいるところがある。安吾は蛍石のようなと云うのだろうし、翡翠にも似ていると形容されるところを聞いたこともある。

 織田作にとっては、萌え出づる若葉の色である。

 

 するり、と当てられたままの手が、何も意図して行ったのではないだろうが、男の奥底に静かに燻っている欲を煽った。

 

 

 

 忘れているかもしれないが、この戯れは互いとも一糸纏わぬ密着状態での話であった。

 特別変に挙動をさせないまま、流れるように頬に添えていた手を掴まえられて、どうしたのかと思ったところに顎を持ち上げられた朧は、薄い唇に噛みつかれてぱちり、と緩くまばたいた。

 

「……」

「ぁ……ん、ふふ」

 

 割とすぐに解放されて、特に官能を感じさせるものでもなかった。

 ただ、それが文字通り甘噛みであり、同時に軽い『お強請(ゆす)り』であることに気づいた朧は、何かが可笑しかったのかくすくすと笑いをこぼす様なので、機嫌を損ねた訳ではないようだった。

 ただ、寄りかかっていた体を捻り、男の首筋に遊ぶように軽く歯を立て「未だ茹だりたくは無いかな」と囁いたその耳が、ほんのりとでも色づいていたので。頭に血が昇るまではないけれど、かといって一方通行で無いことは明らかであった。

 懐に入れる者には特別寛容で、感情も他人が居る時より余程動きやすい彼女は、こういう類いの慣れないことだけは恥ずかしがる。そういうところは、変わっていなかった。

 

 ……まあ、逆上(のぼ)せてしまう前に上がってしまえ、ということだ。

 互いに離れがたいことだけははっきりとしている。もし離れなかったら、それこそそのまま睦み合いの段階になって、出る機会を逸してしまうことは確定だったので。

 

 織田作は大人しく浴槽を抜け出してから、浴槽に一人になって縁に肘つき体を洗っているのを眺めている朧と、ぽつりぽつりと今日あったことの話をした。

 髪を洗って、流して、それから体を泡だらけにしていく。女が面白がっているように見詰めていることはあまり気に留めず、口だけは滑らかに動いていた。

 

「終わりそう?」

「うん?」

「交代。私も洗うから。……少し待っててくれる?」

「もとよりその心算だったが」

 

 ああ、と頷いてからちらりと向けられた目に、何かしらの意図を感じることは容易だ。

 

「……あのね、作之助さん」

「どうした」

する(・・)としても、食事して、その後だからね」

 

「楽しみにしている」そう、一瞬に満たないくらいだが、表情の乏しいこの男が、しかし確かに獣の眼を見せたことを朧が見逃す筈もなく。

 軽く微笑んで、けれども、それだけだった。

 明日の体に心配もあったが、それよりも尚、置いていかれないことの方が、より重要であったので。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 クリスマス、というが、異人が当たり前のように行き交うようになったのがここ数年であるので、聖夜だ何だというよりも、年末としてしまった方がしっくりとくる。

 ただ、商業戦略上、そしてそれに乗せられる世間の流れというものなのか、人気映画の放映や特番がテレビ表を埋め尽くしている。自分も男も、さしてテレビに熱中する性質ではないのだが、と朧はそっと息をつこうとして、食べ物で占められている口の中であったので、大人しくもぐもぐとしていた。

 

 風呂から二人出て、暖まった居間での食事中、互いに食べている間というのはお喋りには興じないことがほとんどであるので、背景音とばかりに流れている番組だけが賑やかだ。

 裏の人間には無縁の代物だし、そもそもそういう殺伐とした中に身を置いている人がこういうのを面白がらないのは、それを娯楽とするゆとりが無いからでもあるし、また自分とはかけ離れた、次元の違う別世界と捉えてしまっているからともいえる。

 彼女の養い親は何となく旧時代然とした雰囲気の抜けない人で電子機器など似合わないし、実際触らない。織田作に縁ある殺し屋も、もしかしたら面白がりはするかもしれないけれど、あれは生身の人間の観察を何よりも好んでいるから興味はなさそうだ。

 太宰はそもそもこの世界自体を斜に構えている節があり、安吾は大体せかせかしていてそんな暇もなさそうである。

 周りがすべてそんな調子であったので、つまり、テレビという家電が何故此処に家財としてあるのかも定かじゃないものであり、かといって使わないのも、ということで流されているだけである。

 敢えて補足するなら、朧は織田作との間にある静寂も好んでいるけれど、たまにならば、こういった静寂の中で聞き流す為の雑音という役割も有りなのかもしれない、とは時に思ったりしている。

 

 ことり、と箸を置いて、手を合わせる。

 男が、少し前に食べ終えていた癖に同じ頃合いに手を合わせて、その後直ぐに椅子から立ち態々向かいの私の席にやって来た。

 手を引かれて、テレビの前のソファーにぼふん、と二人して倒れ込む。

 

「読書は?」

「今日はいい」

「……そう?」

 

 世俗に疎いまま幼少期、少年期を迎え、やっと出来た趣味も物書きというものだったので、食後に得物の銃の整備か読書、または日記の書き込みに勤しんでいるところだが。

 こういう距離感は珍しくないが、それでも、何もしないままにこうしているのも珍しい。

 

 男の胸の辺りに鼻先が当たっていて、ふわりと同じ石鹸が香る。──昔の、殺し屋としての彼ならば、自ら、意図してでは決して許さなかっただろう距離感だ。

 なるべくしてなったものだと、『告死』なら笑うかもしれない。緩やかな変化が、けれども此処まで至ったことには自分ながら感嘆に価するものだ。……今なら毛頭手放す気などないと云えるけれど、最初に『告死』に有るかも判らない未来を語られた時は、全く信じられはしなかったものだ。

 

 寝間着越しにもそれなりに鍛えられていると判る筋肉を感じる背中に手を回して、こつりと額を当てる。動じた様子もなく、男の方からはテレビの画面が見えている筈なので、それを眺めているのだろうか。

 いずれにせよ、警戒することもなしにこんなことが出来るというのは、前の彼なら誰にも許さなかったに違いなかった。……そして、それを引き出したのが他ならぬ自分であるということも、朧には少し優越を感じさせるのだ。

 

 悪の道を邁進──というには語弊があるが、着実にそちらの方へ進んでいたことは確かだ──していた少年は、普通なら悪意に曝されてすれた(・・・)性格になってしまうのが普通である。

そこを、そのくせ誰よりも透明であるのだから、世俗慣れしていない天然の発言やらが改善されていないとはいえ、およそ人間らしさにおける成長が著しくなってきたのは。……明確に二人が恋人と位置づけられるようになったここ数年のことである。

「放っておいたままでもいずれそうなっていたことは分かるけど、どういう過程を経てそうなるのかは想像もつかないね」と云ったのは、その放っておくことが出来ずに手を出して、勝手に橋渡し役をしてきた張本人の言であるし、……実際そういう橋渡しが無かった場合、果して此処までの関係になり得たのだろうか、と朧は思う。

 

「……」

 

 何となく後頭部に視線を注がれて始めているような気がする。テレビなぞ眼中にもないことだけははっきりした。

 吐き出した詞を呑み込むのは今更不可能である。

 素知らぬ顔を決め込むことも出来ないが、かといって、食べてくださいという──内容的には勿論性的に、である──のも、いざ言うのは恥ずかしい。求められれば受け入れるが、誘いかけをするのがすこぶる苦手なのだ。

 ……まあ、既に心身共に捕まっている以上は、注がれ続ける視線に抗うことも、気付かないふりを続けるのも正直限界ではあったのだけれど。

 

 わかりやすい。

 表情が薄い人間も、長い付き合いであるならば、それこそ目は口ほどに物を云うくらいには察せられるようになるだろう。まして目を逸らさない無言の訴えであるならば、なおさら。

 

 朧が人の視線に疎いのは、今に始まったことではない。隠れ狙われ、何かをされるような立派な人間ではないし、何よりも平穏を是とする人間には余分な鋭さである。

 同時に、改めて裏社会に居ることを受け入れた少女期よりは格段に気配に気を配るようになったのもまた、確かであるのだ。

 魔都横浜、異能のせめぎあい。(しのぎ)を削るのは、人間の領域を凌駕した戦場の前線。

 

 ──異能者として矢張り同様に、個人により異なる力を奮う自分は、嘗ての寂しがりな疎外感を最早殆ど持ちえてはいない。

 

 

 孤児院時代、自分が異質であることを悟った少女が、家族同然に愛していた子供たちとは相容れないことがあった。

 外に出てから、引き寄せられるように出会う同類たちの、その一人が正に分かたれた半身同様の存在として居られる幸せが、あの頃抱いた気持ちから変質してしまったことに、気づかない訳がない。

 

 朧に倣うように、彼女の後頭部に添えられた指が、髪の下を潜って、催促するようにやわやわと撫でる。

 近すぎる距離故にか、視線は途切れる。代わりにとでもいうように肌の熱が、熱かった。

 物理的な攻撃力があれば穴が開きそうなほど、じっくりと視線を落としていただろうものがなくなって、少しほっとする。

 

 ……彼は、表面的には淡白なように人の目に映るし、実際そうなのだけれど。

 ただ、それは何か譲れない物をひとつも持たない人間としてのもので、本当に何も無かったのは、彼にはもう昔の話だ。

 

 私と同様に、男の譲れない一点として存在するのが私であった。

 重いとは思わない。苛烈でもない。

 表面に出すことなんてあまりないのだろうし、それを見たとして、目にするのは親しい誰それのもろもろを含んでもきっと当人たる朧くらいなのではなかろうか、なんて思いもする。

 異能は、その人間の本質が形になったものらしいというから───何の根拠もないのだけれど、かといってこれは一蹴されようにもできないことだ。

 彼の異能は、数瞬先の未来を内包している。啓示と思考、選択。生存に関して出来うる限りの最善を()き続けてきた男。

 こんなことを云ってしまうのは、こじつけかもしれない。けれどそういう男だからこそ、私の見る限り、織田作之助は周りが思っている以上に執着心が強いのだ。さながらどろりとしたタールのように重い独占欲であって、時々それが空恐ろしく思うこともあるけれど──もうそれすらも愛おしいと感じてしまう、むしろ安心できる重石だと思うのだから。

 

 先に手を伸ばしたのは私だけれど。すがる相手として選んでもう馴染んでしまったから、逃げられないし、逃げる心算もなくて、ならばもうそれでいいだろう、と。

 

 

 もぞり、と動いて、ごく至近距離の、今まで見上げていなかった男の顔を朧は見上げた。

「作之助さん」と囁いて、その声が自分から出たことにひどく驚いた。かっと頬が紅潮して、これが自分の声だったかと疑う程には、艶っぽい声だったからだ。

 恥ずかしさを隠すようにぺしぺしと背中に回した手で叩いて、緩まった腕から這い出す。密着していたところの熱がひどく名残惜しい。

 ふっと、男が雰囲気だけで笑ったようだった。

 

 腕から這い出した体勢のままに、つきっぱなしだったテレビの電源を消した。ぴ、と音がして、ばちんと画面が黒くなる。背後の気配が動いて、織田作も身体を起こしたようだった。

 少し身を捻って彼を見る前に、肩に手を回されて、そのまま斜めに寄りかかる。

 何の音も無くなって、ひどく静かだった。朧と織田作の息遣いだけが、ひそひそとあるだけ。

 

「良いか」と了承を求める声があって、もう何度かしていることなのに、始まるまでがとても緊張するのは、これからも変わらないのだろう。

 

「食事して、その後にと云った」

「……うん、忘れてないよ」

「……」

「良いか、って云われても──」

 

 

 わたしはもう、あなたの物なのに。

 聞かせた詞は、星の煌めきにも似ていた。

 

 それともこういうことは、結婚した男女が云うべきことだったろうか、と思い至る。愛が重いのはお互い様でもあって、きっと、朧は他の人間よりも強くそれを自覚している。朧が織田作を人生の錨にしていることを。

 悲観的で、人一倍感受性が高くて、傷つきやすい。そのくせ絶対に心を壊すことがない女には、いつか再び、大切なものを失ってしまうのではという疑念が付き纏って離れない。

 解っている。大切なものは、何だって何時しか喪われるものだ。それでも、その未来、得たもの全てを失い、置いていかれることになれば──もう二度と立ち上がれない、そんな予感があった。正気を失わないままに、絶望し続けるという拷問を、朧は耐えきる自信がない。

 

 抱えられるようにして、寝室まで引っ張られていく。見上げれば、男もまた朧を見下ろしていて、鳶色の目を一等気に入っていたので、繰り返し見入られ続けている。

 硝子のような眼をした少年だった。緩やかな変化をして、今はもうとっくに大人で、どろりと熱の籠っているような熱さすら感じそうだ。

 朧は何となく泣きたくなって、ぼんやりと、うつくしいものを見たと思った。

 

 寝台に腰掛けて、掛布団を足元に押しやる。同じように並んだ男が身体を引き寄せて口づけた。

 濡れた高い温度に、それだけで熱に浮かされたような心地になる。口内の奥に、怯える動物のような舌がいて、織田作は、震えているそれを容赦なく絡めとり引きずり出した。

 

「ん……」

 

 鼻に甘くかかる声。息継ぎが下手な人の動きの拙さにでも加減はしない。……云わなければ解らないとばかりに、男は女が限界と肩を押し出す仕草をするまで黙って唇を食んでいた。

 何度か重ねた行為であったゆえに、緊張で固くなりかけた身体をほぐすくらいならば待つ余裕があった、ともいえる。

 

 朧の膝がふるりと震えた。必死になって男にすがりつくような形、自分の体を支えようと力なく胸に手を置いて、そこでようやく口を解放してやれば、どちらのものかもわからない唾液がつっと糸を引いた。

 

 力の抜けた体を横たえさせる前に、寝間着をたくしあげる。胸の大きさのせいか、或いは単に息苦しいものは就寝まで身につけないからか、朧は下着を身につけていない。

 

 体温が低いせいもあるだろう、生白い肌がぼうっと浮かび上がるように光っていた。

 甲斐甲斐しく脱がせたものを後ろへ放った後に、その肢体に織田作は指を滑らせる。──……すべての男がそう感じているのかは定かでは無かったが、織田作は、恋人と肌を重ねる度に、新雪に触れるような気持ちになるのだった。きれいなものを汚しているような、そんな背徳感である。

 

 普段姿勢のいい背中が快楽に丸まっていて、ぴくりぴくりと震えているさまは、余計に神聖な物が手中にあるように思わせた。

 

 指先がつつ、と白い皮膚の上を滑っていく。

 首の後ろから浮いている背骨に沿って、かさついて熱い指が丁寧に撫でさすった。

 熱い息が(うなじ)に掛かって、朧は酸欠でとろりと溶けそうになっていた思考をわずかに戻した。ぶわりと全身の毛穴が開くような反応は、本格的な行為に対する危機感への反射か、或いは興奮だったのか。

 

「……っ」

「朧」

 

 一瞬、力が入らないながらに息を詰めた私の肩を持つようにがっしりと腕が回り、有無を云わさず身体ごと引き倒される。

 言い聞かせるように、あやすような口調。けれど普段の冷静で平坦な声色ではない。……きっと私しか知らない。どろり、耳から流し込まれて、内側から灼かれてしまうのではないかと思うくらいの──ぞっとするくらいに艶を帯びた低い声だ。

 

 なんというか、声がいい。朧の好みど真ん中の、腰を砕けさせにかかっているような低音。全身が性感帯になったかと錯覚さえ抱かせるくらいには弱いのだ。そして、この声に名前を呼ばれるのが弱いと知っていて、耳朶に直接吹き込んでくるのだから、性質が悪いというよりは使いどころをよく理解している。

 朧の方が年上だといっても元々威厳も無かったし、こと今のような状況だと正に今、こういう風に大体の女は男に組み敷かれてその弱点を晒してしまうものだろう。

 

 至近距離の茶褐色の瞳は、食事の時に飲んでいた酒精によって潤んでいるが、それだけでなく、昔には無かった、雄の本能というものをちらつかせており、双眸の奥にゆらゆらと揺らめいているのが見える。

 あぁ、と感嘆混じりに呻いた声は、私のものだった。

 

「綺麗だね」

「……俺が云うことではと思うが」

「私がそれを肯定しても…………んん、ぅ!」

 

 するりと、指が臍の下──胎の、男を受け入れるところをなぞって、身悶えする。幾つか折檻の傷痕のうちの数個が残っている肌は、周りよりも皮膚が薄い為か、敏感に、産毛が逆立つようなもどかしさで受け入れた。

 

 人でありながら、鏡のように素直だな、と思う。

 渡した愛や恋情の類いを、今この時に纏めて返されていることを、勘違いとは思いたくないし、思えもしないのだけれど、幸せだと思う。同時に、私がこの男を果して真に自分のものとして構わないのだろうか、という不安があることも事実だ。

 

 少年期と比して随分と精悍さを増して、子供特有のまろみのあった肌は大人のものに変化した。整った容貌はやはり、溜息が出るほど美しい。

 成長と共に身長はとうに抜かされてしまった。曲がりなりにも貧民街で、様々な脅威を回避しながら生き延びてきたからか、恋人もその例にもれず、日々の中で培われたしなやかな体は無駄なく鍛えられて引き締まっている。

 

「子供の頃の俺は、正に植物のようだったと、今ならわかる」

 

 お前が俺を人間にしてしまったのだ、と。

 相変わらず言葉は足りないが、その詞が結局何処へ向かっているのかは、何への合意なのかは、聞くまでもない。

 止める気など起こさせないまでに追い込んでおいて、一応こちらの意志を訊いてくるあたりは、なんというか可愛げがなく、ふてぶてしい。

 こういう有無を云わさないで、しかし最後の選択を朧に委ねてくるのは、彼女の養い親を彷彿とさせた。ついでに思い出してしまった『告死』は、きっと明日ひょっこり顔を出してきた挙句に「昨夜はお楽しみでしたね」をしてくるのがこれまでのことから容易に想像できる────少し腹が立ってきた。

 別の人間のことをちらりとでも考えたのが伝わったのか、がぶりと耳朶に噛みつかれる。

 されてばかりいるのも癪で、服を着たままでいる男の襟を掴んで引きずり下ろし、今度は自分から口づけた。……もしくは、喰われにいったといってもいのかもしれない。

 いちいち聞かなくても、解るだろう、と。

 

 その了承を理解したのか、完全に「あ、もう逃げられないだろうな」という目付きになって、それに歓喜してしまう自分が奥底に居るのだから、最早救われない。

 心の中だけで、ああ、と何度洩らしたか分からない溜息の中には、きっと感じるには未だ早いとしか思えない恍惚(エクスタシー)すらあったろう。

 

 私には、到底勿体ないひと。

 壊れかけていた少女の心を繋ぎ止める楔にされて、それを何も識らないままに受け入れながら、辛抱強く隣にいてくれた無二。傍に居てくれて、手を離さないでいてくれた。

 気づいた時から自分に頓着したところがなく、自分以外の子供の為に自身を費やすことを是としていた。自分以外の命という、尊いものの為に献身するように生きていて、異能というものが芽生えなければ恐らくそのままだったろう。

 苦しいこともあって、けれど、自分の欲の為の選択とは、誰かの為という免罪符を排している以上はそういうものだ。

 

 目の前の人間と、何も繕うものなしに向き合ってしまえば、私はただの女だ。そうあって欲しいと望まれて、私がそれに否と云う理由がない。

 

 

 邪魔そうに自分の服も脱ぎ捨てた体に、腕を伸ばして朧が招く。織田作が近づいたところにすり寄ってきて、彼女のさらさらとした猫っ毛が首筋を擽ると同時に、ふわりと女の甘い香が石鹸に混じって鼻を掠め、くらりと眩暈を起こさせた。

 同じ物を使っているのに、その体臭には風呂を上がった後でも多様性があらわれる。

 ……若葉の目がとろりと蜜のように蕩けて、ささやかな胸すら(こういうと怒られるので云わないが)色っぽいのは、惚れた者の贔屓目であろうか。

 

 こういう行為の時、ひんやりとした心地好さ、安心を与えてくれるものすらもどかしくて、皮膚すら邪魔なようにこのまま融け合ってしまいたいと思うことが織田作にはあった。低い体温に、それでも確かに生きて動いていることを、服すら取り払っても未だ遠いと思ってしまう。

 

 ただ、そんなことが現実に出来る筈がないので、傷痕を丹念になぞりあげて、涙目での非難と快楽の入り交じった表情に確かな愉悦を感じながら、柔らかな胸元に吸い付いて紅梅を咲かせる。

 時間をかけて、何度目かの体を拓いていく行為は、ゆっくりと緩やかに──最後にはぐずぐずに融かして、色々なものを、理性すら取っ払ってしまうくらいになるにはどれくらいかかるだろう。

 

 夜は長い。その上、過ぎたものに泣いてすがられても、未だ若者といっても差し支えない男の欲を止められる者はこの場にはいない。

 

 

 

 女は自分を卑下するきらいがあるから不安に思うことがあるらしいが、それでも、事実として、何も持たない人生に彩りを与えてくれたのは、他ならぬ朧という少女であった。

 何もないなら、今から少しずつ得れば良いと。遅くはないのだと諭して、そうなった人間の弱さも思い知ったけれど、そんな欠点を覆い隠してしまうくらいには生きるという営みを尊いと思ったのだ。

 少しずつ重ねた年月、会話。対話しようという詞。子供の児戯のような温もりを分けあう触れ合い。──…………何度、救われてきたか。

 

 多分、心を学んで、当たり前のことを知っていき、その過程で、意図せず少年は心を守られた。

 もう自分は、たとえ朧が望んだとしても、逃がしてやるようなことは──離そうにも、そうしてやれそうにはない。

 この女しか求めていないのだと。最早そうでなくては駄目なのだ。

 心を育んでくれた女のことをどれ程に愛しているのかを語る語彙力を、男は持ち合わせていない。

 

 そのくせ、矢張り朧は自分が救われたとばかり思っているのだから、此方の想いの重さを見誤られて不満であった。

「幸せになってもいいのかな」と──初めて肌を重ねたその夜に、熱に浮かされたまま、ほろりと女がそうこぼしたことがあって。だから織田作は、識っている方法で以て愛そうと思ったのだ。

 多分、本当に理性を飛ばしていた時に溢れた本音の一部だったので、実際には、彼女は自分がそう口にしたことを覚えてはいないのだろうが。

 

 

 不意に、ほっそりとした指が湿り気を残す生え際をそろりと撫でてきて、織田作に何を見たのか、女が仄かに笑った。

 熱い吐息で快楽を逃がしながら、淫靡な手つきで手を伸ばし──その上慈しみすら感じさせるのだから、「あなたの隣が欲しいな」と何時か暗がりの中で女が微笑んだあの時から二人、随分と変化したものだなと思う。

 生白い肌に、幾つもの花が咲いて、彼女が自分の愛の丈を正確に識る時が来るのは何時になるだろうかと考える。

 

 

 

 女のさ迷わせていた自由な手を、一つ一つ、指を互いの手の合間に差し込む形で絡めて、ぎゅうと握りしめた。

 末端までひんやりとした、しかし血の通う一人の人間。生きてここにいることを、命の鼓動があって、彼女以上に大切な存在を織田作は識らない。

 

 ──わたしはもう、あなたの物なのに。

 

 その存在に「自分のものだ」と云いきるような、傲慢さに似た勇気をふるうには未だ何かが足らなくて……願わくは、その日が来るのが、遠い先にならなければいい。

 

 お互い理性をどろどろに溶かして、何も考えられないくらいに溺れる夜闇、窓越しに星がちかちかとまたたいていた。

 どちらかが生唾を呑み込んだ音がして、途切れ途切れにでも続いている水音、喉仏が動き……ふと、女が口を開いて云いかけたところを阻止するように口を塞いだのは男の方で。織田作は朧の発しかけた詞を端から喰い尽くしてしまうくらいに深く、舌ごと舐め貪った。

 

 ──わたしがあなたを愛し続けることを、あなたは許してくれるだろうか。

 

 ふわふわとでも辛うじて残っていた理性はついにぱちんと弾けて、女が何を思って何を云いかけたのかをもすべて押し流していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




織田作を拗らせて「誰かと幸せに生きてるのが見たい!!!」で書き始めてから早くも二年、何故いまだにくっついていないんですか!!?!!!!?となって色々と箍を外してしまった結果。取り敢えずこれが今私に書ける最大限の純愛です。
大変だったし鎮火したのでもう二度とR-18に近い作品は書かない……多分。読者の要望と織田作への思いと今回詰め込めなかった性癖を書きたくなった場合は検討します。


※書くにあたって気をつけたこと
・個人的に織田作はR本番直前の準備とかがめっっっっっちゃねちっこいのが性癖。あと朧さんは口づけが好きな印象。
・二人の触れ合いはRいかないまでも割と詳細に:実際やってるの一緒に風呂入って口づけ何回かして服脱いだくらいだしセーフでは???(ガバガバ判定)
・肉欲を含んだ愛について、どれだけ神聖みある風に書けるのかの試み:性に直結する感じに思われるような単語はあまり使っていないつもり。
・黒の時代より少し前の出来事であることを鑑みること。
・本人たちに「愛」という言葉を軽々しく使わせないこと:後半は内容的に無理でした。
・雰囲気は艶やか×淑やか◯に

※※補足
最後ちょっと不穏ですが特にどうといった意味はないです。
朧ちゃんが微妙に、自分が愛されている度合いをきちんと理解していないところがあるのは己を卑下している故。そこのところを織田作はちゃんと承知しています。
なので実際は織田作→→→→←←←(←)朧くらいのつもり。
つまりどっちもどっちではあるけれど、彼の方が実は重い。()の部分は兄を亡くしたことによって朧さんが拠り所としたのが織田作であるという、愛やらは関係ない領域のところです。

……感想貰えたら嬉しいです(´・ω・`)モチベーション的に。



お粗末さまでした!




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