「──救われる? 今更救い何て要らないだろう」
片や哀切が滲み、片や優しげに響いている睦言は、静かな部屋の中で語られた。
暗闇の中、けれどもその暗さに馴れた眼で、または重ね合わせた肌の温かさで互いに認識し合っていた。
暗闇の中、男は女に語る。
くつり、と声が洩れた。
「僕らの行き着く先も、彼らが歩む道も綺麗じゃないなら、それは地獄以外には有り得ない」
ぞくりと、名状し難いものが女の背筋に走った。
彼はきっと、笑みを浮かべている──僕たちは、そう成るだけの業としてそれを背負うべきだろう。
睦言である筈だ。
優しげで、子供をあやしているような、それでいて冷たく取り付く島もない返答に、女は黙って、そっと眼を伏せた。明かりがない故に、勿論それがはっきりと見られることはない。解っていたから、何かに思いを馳せるように、口を慎んだ。
──あぁ、けれども指が自然と己の傷をなぞったのにはきっと気づかれたのだろう。
「…………ええ、そうね」
貴方の痛みを和らげることが出来たとして、結局のところは苦しみに苛まれるに違いないのだから。
殺伐とした空気や話題が一瞬でもあったとは思えないくらいに、和やかな空気になっていると白木は思った。
お互い、切り替えが早いと自信を持って云える訳ではない。それでもぽつりぽつりと、お互いに会話を交わせるだけの心の余裕はある。
空元気もその状態に馴れきってしまえば一周回って余裕が生まれてしまうものらしい。
二人並んで腰かけた分だけの距離だけれど、それに忌避するまでの嫌悪はなかった。白木は自分が愚かで、どうしようもなく矮小だと識っていたから、その嫌悪が隣に腰かけている男に対する本能的な恐怖に起因することを薄々理解していた。
そういう、普通の人間が理解し難いと感じるような人特有の部分を持っている人ではあったけれど。かといってその人間性までも否定しようと思う程の傲慢さなど抱えるような、そういう種類の愚かさまでは持っていない心算だった。
「はー……」
「深い溜め息だね」
「誰の所為だと思ってるんすかねェ……」
息を吐き出したのと同時に、視界でひらりと葉が落ちるのを目にした。さらさらと風に揺らされる音は耳に心地よい。青々としたそれが何だか眩しいように感じ目を閉じて、微かな風が勝手に白木たちの髪を揺らしていく。
生き物が息づく静けさを、きっと妹は好むのだろう。そういう、黙って寄り添うことが泣き虫な子供にも有効であると孤児院の経験から承知していた。彼自身がそれを求め求められ、他の子供がすがりつく頭を撫でている光景を見ていた。
──無理矢理言葉で説明するのなら、それはじんわりとした未練だった。
そしてそんな風に思った途端に、そう思ってしまう自分こそが難儀なものだと憐れんだ。
その未練すら、無くなってしまえば最早自分ではない、人間でなくなってしまうのではないかと思ってしまうくらいには、白木は自分が空虚な存在だと自覚していた。
社会の波に揉まれ、弱い人の心を簡単に磨耗させる。心を削り、擦りきれた中で白木へ向けて導きの灯を掲げたのは他でもない、死神と称されることもある男。
安穏としたぬるま湯の中で、それなりの幼少を白木は過ごした。痛みを伴う仕置きが存在していても、不運ではあったし恨みもしたが、不幸だとは思ってはいない。
結果として裏社会の闇に溺れ、右か左か、そもそも何故こんな澱みに身を沈めてしまったのだったか。ただ、何だってはじまりというのは些末な事が多いのは確かで、そのはじまりを
「君、時間は?」
「残念ながらまだまだ余裕っす」
「そうなんだ」
休憩時間はまだまだ終わらない。
他に何かがある訳でもなかったが、もう少し話していてもいいだろうと白木はぼんやりと思っていた。自分に直接的な害が及ぼされ無い限りは──もちろん例外も存在するのだけれど──自分から何かをするでもなかった。
付け加えるなら、元々仕事量の少ない日を見計らってやって来ているのもあったのかもしれない。
ポートマフィアは、そのブラックな仕事内容に反比例するように善い待遇を受けられる。そうでなければ釣り合いがとれないというものなのだろう。
その代わりとでもいうように物理的な被害とか危ない取引やらが多いので、総評すれば圧倒的ブラックとして輝くのは自明の理ではあるが。…………自ら裏社会の中で過ごしているようにも見える『告死』の男は、果して何を思っているのだろうか、と考えることがある。
考えるだけだ。人知を超えたものを、詮索する気は起こらなかった。
ずるり、と『死魔』が男の中へと引っ込むのを見る。
「君が僕を見つけたのは全くの予想外だけどね──今日は待ち合わせをしているんだ」
かつん。
静けさの中で自分ではない人間の立てる音が紛れていることに気づくのに、そう云われるまで気づかなかった。
咄嗟に広場の中央にある時計盤を見上げるが、その盤面は光を反射している。どこか非現実的な心地で、けれども覗き込もうとしたところで、詳しい時間の正確なところは判らない。
こつん。
人気の無い場所で待ち合わせをするのは、人にあまり見られたくない理由があるからだ。
ぼんやりとしていた顔を戻すと、隣で先んじて気付いたいたらしい男が、知己に対するような気安さでひらひらと手を振っているのを視界の端に確認した。
隣の男は、ただ何もせずに暇を持て余していたのではないようだった。確かにこの男も白木に用はあったのだろうが、今日のことは偶然であって、何も今、というのではない。
かつ、こつん。
靴音を立てて、音が近くなる。白木はちらりと顔を上げて、現れた人のことを然り気無く、不快に思われない程度に観察した。
この、人ならざると云っても過言ではない雰囲気の男の交遊関係など、早々と識れるところにはないのだろうから、ほんの少しばかり、興味があった。
……その人もまた、一風変わった格好で立っている。
姿は、ひたすらに黒かった。それ以外の色などなく、ただ黒のみを身に纏っている。透かしの入った黒の面紗、手に持っている洋物の傘まで黒という徹底振りだ。
『告死』の男と同じような黒尽くめは、一方で、その人の身体にまろみを持たせていた。
「やあ、待ってたよ」
男は笑った。その視線の先で、丈の長い洋物の袴だけが身体に余裕を持たせるように微かに揺らめいている。
それを眺め、余程のこと──識別出来ない程に女装趣味を凝らしたので無い限り、きっと女の人だろうと思った。推測するまでもなく。
余すとこなく黒の装束に包まれ、またその体を縁取っている様は、肌を見せている面積自体が少ないにしては妙な色気と艶があり、醸し出されるのは浮世離れした美しさ。
面紗のせいでよく解らない顔であっても、うつくしい人、なのだろうと思わせる。
圧倒されるような心地でもいる白木は、紅で色付いた唇がくうっとつり上がる様を確かに目撃した。
立ち止まった女との距離は、さほど離れていない。人工的な、芳しい花の香りが漂ってくる。
白木にはほとんど縁の無い話ではあったものの、それが情婦であろうとは理解出来ていた。
「真っ昼間から……?」
「ちょっと、変な邪推はやめて欲しいな」
思わずぼそりと呟いた、というような白木からちらりと胡乱げな視線を寄越されても、男が返してきた詞にはあからさまな色は見えず、寧ろ苦笑混じりでもあった。
白木はあまり大仰な態度もとれず「はぁ」と頷きを返すだけだった。というのも、基本的な知識はあっても、かといって
青少年にあるまじき悟りの境地に至っている訳ではない。
ただ、彼が持つ心で当てはまるものがあるとするならば、肉欲的な面の一切を削ぎ落とした愛だった。
白木の大事なかの娘に、家族愛に限りなく似ていて、違うものを抱いていた。そして、その事を、あの妹は気づいていない、と思う。
きっと、『やや過保護』なと思われる、それだけなのだろう。だからまず間違いなく、気づかれないだろうとも思っている。
彼が抱えた想いは、彼女自身がどう思おうと、彼女の信頼を裏切るものになりうるものだ。
そして、庇護していた存在に向けるにはきっと、随分と重すぎる。
だから、胸の奥、その水底深くに沈めるのが肝要であった。知る者は己と、或いは隣の男だけ。二度と開かぬよう、陽の下に晒されぬよう棺に納めて──水葬されるのが相応しい。
こつり。
靴音は、時計の秒を刻む音のようにもとれた。
女から香る花の香りは、華やかで艶やか、けれど人工的な、つくられた美しさであると思わせる。
彼女が自分と同じような客の一人かとも思ったけれど、何かそれは違うようにも感じて、白木からしては身に覚えの無い懐かしさがあって、そのことに少しだけ困惑もした。
記憶には無い、筈だ。
隣の男を深淵とするなら、女は夜のような、と形容すべき黒さだった。底なしのではなく、まるで此方が包みこまれるような柔らかな夜の色。
それは情婦の艶やかさを出す人にはまるでそぐわないことだっただろう。けれども一方で、白木がぱっとその人を見据えた時──彼女のその美しさに人工的な何かを感じたのは、そういう差異が普通の情婦よりもよく見てとれたからだ。
くうっと
それはどこか落ち着かない気持ちにさせるものだったから、白木は邪推な詞を発した自分の口を慎んで、もぞもぞと座り心地悪くなった。
まず自分から近寄らないだろう人なのに、本能が、慈しまれるべき子供だったかつての精神が求めてやまないのだろう懐かしさがあることに戸惑ってしまう。
揺りかごを揺らしてくれるだろう存在として、目を細めて、そうしたのは彼女の方を見れば逆光で眩しいからだと思いたかった。
──そこに意味があったかは定かではなかったけれども、彼女は手にしていた傘を手元でくるりと一回転させ、眺めていた男はおかしそうに笑う。
「……二人ではなかったの?」
「僕が君に嘘を云ったためしが有るかい」
「…………あなたって、何時もそう」
呟くように云った女が、そこで不意に一瞥してきて、白木は反射のように会釈をした。面紗に遮られて訓しいところは見えなかったが、視線が注がれるのは感じとれた。
「…………」
「…………?」
首を傾げて、その視線が、興味深いというよりかは何か、白木の持つところのどこかを暴こうとしているような──そんな居心地の悪さだった。
邪魔だと思われているのだろうか。
ならば、直ぐ退散するべきだろう。
……何せ自分の話が終わった以上、これから先の男の時間は彼女に予約済みにされている。
「君たちってお互いに人見知りなのかい」と云って微笑んだのだろう、隣の男の空気が少し揺れた。
白木は返事もせずに立ち上がる。懐の銃が服と擦れた。──そうして立ち上がって、女の背が自分よりも高いことに気づく。
「帰るっすね。用事を思い出した」
「そうかい」と男は応えた。
「君に云うのも変だけど、──注意力散漫にならないように」
「少なくともあんたよりは射撃は上手いんですが?」
「ははは、確かにねぇ」
「…………帰る」
(云われなくとも)
少なくとも、この男が「死期が近いことを悟ったからといって自棄にならないように」と暗に念押ししてきたことを察して、自然とふてくされた顔になる。
死んでくれと云ってきた、他でもない本人に命を大事にしろ、と云われる。とんでもなく屈辱感があり、そして、そういう詞は『死神』には似合わないと思った。
自分よりも裏社会に溶け込んでいる男は、自分よりも余程まともに見せることが上手かった。
── 一々そう思ってしまうから、きっと自分は未来で死ぬのだろうと。
立ち上がり、もう一度女へと会釈して──会話を見守るように、女は黙ったままだった──踵を返した。きっとあの男は手を振っているのだろう、それでも白木は振り返りはしなかった。
何かに導かれるように、あるいは気まぐれに歩いて見つけた場所に再び往けるような、そんな期待は無い。だから、道順を覚えることもしなかった。
先程までの場所と、二人の黒尽くめを思い返しながら歩く。
死の匂いを薫らせる痩身の男と、艶やかに口に引かれた紅が際立つ情婦の女。如何にも上手く順応して生きている、そんな二人の姿を、忘れようにも出来ないのが白木だった。
歩いて歩いて、そのうちに見慣れた景色が周辺にあった。
大通りまで足を伸ばす。ざわざわとさんざめく人々の間を縫って歩き、普段よく彷徨いている闇市の方へと流される。
闇市に近くなる程、自然と治安は悪くなっていく。人の笑う顔は心なしか少なくなり、ちらりと人混みに見え隠れするみすぼらしい身なりの子供は、他人の銭を掠め取ろうとする機会を眈々と狙っている。
余程自分よりも小さな子供の方が、余程社会というものに見切りをつけている。そのことに、白木は苦笑を漏らしたのだった。
「……感謝してるわ」
「んー、何のことかな」
「識っているくせに、識らない振りをするのね」
「何時ものことじゃないか」
「本当に感謝してるのよ、わたしの名前を呼ばないでくれて」
「……まぁ、君がそこまで云うなら受け取っておこうか、『
「…………そうしてくれると嬉しいわ」
女は唇だけで笑って、そう云った。
少し迷走中。更新遅れまして申し訳ございません。
文スト一四巻読みました。訳が分からなすぎて顔面の表情筋が死滅しました。
やばいぞこれは、思考が回らん……因果整合性って何……種田長官……
あと、ゴーゴリ氏のキャラが微妙に『告死』さんと被っているような……やばい(´・ω・`)
※評価感想、お待ちしております。