分かたぬ衣と往く先は   作:白縫綾

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ぬるり、と猫が人の形をとる様子を見るのは、何も初めてでは無い。
男はその猫が誰なのか承知していたし、猫の方だって男とは随分と長い付き合いであるからだ。

だが、まるで違う大きさに変化するのは何時見ても面妖以外の何物でもない。
猫……猫であった人は、そんな男を前にして、やや呆れたような口調になっていた。


「ほんに面倒な奴だなぁ、御前(おまえ)は」
「……夏目」


それから交わされた、二言三言の会話。
その後に、「さてな、」と片方が相手にそう応えた。


「だが過保護な御前に、娘を少し観察しただけの儂はこう云おうか──あの子は、御前によく似ているぞ」
「…………」




第二六話 ただしくないひと(前編)

 

 よくやって来る猫が居る。

 

 それは、新しい家に越してきてから数日して、人の気配につられて現れたのだろうと、朧は最初の頃こそはそう思っていた。

 

 それはいやに馴れ馴れしい素振りを見せながらも、一定の距離を置くような獣だった。

 何処か嫌いになれず、見た目は普通そのものだが然し、暫く見ていれば、そこらの野良に紛れていても見分けられるようになってしまう程度には不思議な空気を纏っていたように思う。

 

 

 少女が友人となった少年と、花見を称して逢いに往った少し後のことだった。

 見た目は確かに普通であっても、実は珍しい猫であるのだ、とその時に識った。──希少であろう猫の色は三毛のそれであったが、然し雄猫であるらしいという。

 三毛は総じて雌であることが多い。それの雄ともなれば、かなりの低確率でしか産まれないのだとか。

 最初にそれを聞いた時、先ず何よりも先に首を傾げてしまったのは、きっと間違っていないだろう。

 

 何故野良なのか、或いは放蕩癖のある飼い猫なのか、よりによって何故自分の目の前に、そんな世にも珍しいものが存在しているのか。

 けれどもきっと、それ以上に、猫嫌いな筈の養い親がそれを『雄猫である』と断定したそのことが──ひっくり返して腹を見なければ判らないような情報を識っているのを疑問に思った。

 

 不思議なのは、猫が嫌いであると、過去にはっきりと云っていた筈の養い親についてだった。厭っているとありありと貌に浮かべている男が何故、触らなければ識りえないようなことを識っているのか、であった。

 

 好きの反対は無関心──そう誰かが云っていた。

 それなのに、若し嫌いならば無視するのが普通であるのに、一人と一匹がやたら一緒に居るのを見かけるのは果して、少女の気のせいでは無いのだろう。

 しかもそれは、猫好きなのに微妙に距離を置かれている彼女よりも若干、近いのだ。

 

 

「……その猫、野良の割には人懐こい子ですよね」

 

 

 構わなければいいのに、そう思いながらも今日とて睨み合っている──正確に云うなら肝心の猫の方は寛ぐようにしていて、残念なことに一方的な敵愾心だ──をしている養い親の方へ近づいたところ、その声で漸く気付いたように顔を向けてくるのが珍しいと思わされる。

 

「──ああ、朧か」と一拍遅れた返事に、それまで感知されていなかったのは明白であった。

 ……隠遁は養い親の方が遥かに上手いことを身を以て識っているからこそ、流石に少し看過出来ないというか、そんな感じだ。

 それを云おうか云うまいか。僅かばかりの逡巡の内に、ふと険しかった視線が緩む瞬間を目にして、少女は確かに虚を衝かれたのだった。

 

 

「触ってみろ」

「……この猫を、ですか」

 

 

 朧は猫が好きではあったが、何故か度々目にするこの猫に触れたことは一度だって無かった。

 何故、と、そう問われてしまえば返事に窮してしまうのだが、敢えて云うならば、空けられている一定の距離感に、まるで獣に似つかわしくない理性を垣間見せる獣自身から、立ち入ってはならないと、そう云われているように思われたのだ。

 

 

 ──ただ、もう一つ。

 例えば養い親にそれを見られたら。そんな時に彼がどんな反応をするのかが想像出来ない、少しばかり臆病な気持ちが働いたからでもあるが、彼女がそれを胸の内だけに留めているのは、また別の話だろうか。

 

 ただ結局は、少女は云われたように恐る恐る触れてみたのだった。猫の気紛れか、或いは養い親の詞を聞いて理解したのか、その時は定かで無かったのだが──逃げられることは無かった。

 

 ふわ、とその毛並みに指が沈む。

 けれど、毛並みの感触とか距離を空けられていた猫からの反応とかよりも、その時感じた別のこと(・・・・)に少女はぱちり、と目を瞬かせた。

 

 ……養い親は、その猫を『夏目』と、そう呼んでいた。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 夏目。

 そう呼ばれた猫は、よく養い親と居る場面を多々目にしたが、何もずっとべったりとしている訳では無かった。

 寧ろ日中は仕事で居ないことが多い養い親であったので、朧の周辺にも時々ふらりと現れた──あの初めて触ってみたその日以降、距離を縮めてくれたのは嬉しい誤算でもあると同時に、少し複雑でもあったけれど。

 

 

 ふ、と曇天の空を振り仰いで、その視界の隅に、此方へ真っ直ぐにやって来ているのだろう存在を目に捉えた。

 ぽつり、と額に雫が乗って、直ぐにさあさあと音を立て始める。丁度買い物の帰りだった袋を胸に抱えるようにして、やっぱり喫茶店に寄ったのは間違ったかなぁ、とそんな感想を抱いた。

 

 鍛練が無くなっても自主的にそれを行っている、とはいえ一日を過ごすには時間が余ってしまうのは明らかである。

 

 朧だって何もしない訳にはいかないし、第一鍛練が無くなったのだって自分の意思ではない。

 何かしていないと気が済まない孤児院の身の上としては、何もしないことこそが少女の恐怖であるといっても過言では無いのだから──穏やかな時間を望んでいるとはいえ、それは時間を無為に過ごしたいというのとはまるで別物である。自身がそんな性分じゃないということだけは、朧ははっきりとそう云えるだろう。

 

 そんな考えもあって、朧は求人広告なる紙にまとめられている目録(リスト)に載った場所へ、客としてちょくちょく見に行くことを繰り返していた。今日この日に立ち寄った処もそんな場所の一つで、昼過ぎの今は買い物ついでに店内の観察に向かって帰る、家への道のりを歩む途中だった。

 

 

 

 さあさあ、と細かな雨は何処か霧のようにも思えて、ふ、と意味も無く目を眇めた少女は翳すような形でその掌を額に置いた。

 少しの間に、雨で地面の色が変わっている。

 然し多分、そこまで長くは降らないのだろう。 そう思いながら、川沿いの途を進む。

 

 すぐ横の土手は、雨と草の匂いであふれていた。

 中途半端に刈り取ったのだろう草の匂いは、きっと降りだした雨も相まって強くその存在を主張し鼻をつく。

 流れてくる風は、どこか生ぬるい。

 春先を過ぎ、初夏一歩手前、といった程度の季節は、暑がりな兄ならばきっと暑いと唸るに違いなかった。

 雨のせいか、きっともう散り時であったのもあるのだろうが、桜並木の下にはもうかなりの花弁が散乱するように落ちていた。

 頭に落ちた水滴が顎から滴り、足に落ちた。

 その足下で薄紅の花弁を踏みつけ、黒く汚すようにして歩いていく。

 買い物袋を持っていない方で惰性のように上げた腕は、それでも矢張り雨を防ぐには完璧とは言えない。

 天気の所為か、安吾と共に見上げた時よりもどこかくすんだ色をして見える柔らかな薄紅。その中に、緑の葉が交じっているのを見る。

 

 

 ぴたり、と別の音が寄ってくるのを聞いて、その方へと顔を向けた。この身長よりも高い位置からの音は、道沿いに狭苦しく並び立つ家々の間の僅かな隙間からするすると出てきたモノで、朧はそれを暫し見詰める。

 最早見馴れた三毛猫は、塀の上を器用に歩いていた。時折ぴたぴたと濡れた音をさせながら、少女は何時の間にか自分が立ち止まっていることに気付いた。

 

 どうせついてくるのだろうという想像は、正しかった。

 見詰めていたのから目を離して、少し早足になって進むと、それにも関わらず追い付かれたのには、きっと数分もかかってはいない。

 

 濡れて張り付いた前髪を少し鬱陶しく思いながら、大股についてくる『彼』の気配と心なし大きな足音が近づくのに、人に戻ったのだな、と理解する。

不意に、全身に掛かり続ける筈の雨が無くなった。丁度頭上にはそれを遮る物があり、直ぐ後ろには追い掛けてきた人が居た。

 

 

「濡れるぞ?」

「……『先生』もびしょ濡れですよ。雨の日に散策なんかするからです」

 

 

 傘を傾けてくれた背広姿の壮年に一言だけ返して、少女は、傘をさしかけられたのをそのままに、微妙な顔つきになった。

 

 降り注ぐ雨は静かに傘を叩いているのに、その音が、この空間の中ではやけに大きく響いていた。

 

 

 

 


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