『告死』さんと織田作少年のクッキング講座……の筈が何故か食レポちっくに。
多分実際に食べながら打ち込んでたのがダメだったのだと思われ。
少し時期外れではあります。
殺し屋という職業に、決まった休みというのは無い。
そもそもが頻度の少ないものだし、危険に曝されることも多いが代わりに見返り──その報酬は破格だ。
だから、意外と自由な時間は多い。
少年、織田作之助はその時間の大体を、本を読むことに費やしている。
後は、時折──同業の『生命判断師』がやって来て一緒に食事をとること、くらいか。
だからその日も、一緒に居たのは何の不思議もないことなのだ。
何かにつけて構ってくる男とは、然し案外に色々なことについて詞を交わす。
……まあ、とはいっても、二人の会話のほとんどは男の説明や他愛ない内容の話を一方的に話されるだけで、少年はそれに相槌を打つだけだ。
彼は少年の知らない、けれどもこの世界の何処かに必ずあるような事実をたくさん教えてくれた。逆に云うならそうすることしか話を繋げないとも云えるのだが────話すのが下手らしい少年に、人との会話でそれ以上のものを期待されても困るというもので。
男との奇妙な関係は、自然とそうなってから長いこと続いていた。
──それは例えば、物の名前や、使い方。
外つ国の出来事。
常識的な…………然し、少年に欠落している知識。そんなとりとめもない色々を、つらつらと流れるように話す。
少年に向けて語られる詞は、その醸し出される雰囲気とはまるで違う、柔らかさを感じさせる声音だ。
常識が少し抜けているとはいえ、自分に向けて語られる、そんな男の声を聴くのは。お互いにこんな関係になって長い今であってもなお、とても贅沢なことだろうと──そう思わされているこの思いは、間違ってはいない筈だ。
「作坊」
向けられているのは、柔らかで、温かな声。
普段、必要以上の対話、ということを自らすることは無い。
だからなのか、変に精神が成長した少年にとって、自分に聞かせるためにその音が紡がれているということが──この気持ちは、そんな関係を築き上げて大分経った今だからこそじわじわと染み入るのだと、そこまでは気づけない。
年齢も相まって、成熟していない精神には未だ以て新鮮、という表現しか出来なかった。
一方的に喋り掛けられる。たまにそれに応える。
反応があって、詞が返される。
「──作坊?」
ふ、と。
声が自分の名前を呼んでいるのを聞いて、ゆるりと顔を上げた。どうかしたのだろうか、という疑問の視線を受け止めて、どうやら話し掛けられていたらしいと気づく。
ぼそりと、「少し考え事をしていた」と呟いた。
「話を聞いてなかったかもしれない」
「そっか。別に気にしないよ……寧ろ、普段の作坊は真剣に話を聞き過ぎる」
相対する男の声音は変わらず、咎められるかと思えば何もなく、そんな詞を口にして──思いがけないことだったので、少年は首を傾げた。
よく、解らなかった。
「そうなんだろうか」と云うと、「拝聴、て感じだからねえ」と返される。それから目の前の男は「そうだなぁ」と独り言のように呟いて、
「でも、少し安心したよ。子供ってのは未だそんなに弁える必要が無いのが普通で──きっと、そんなもんだと思うんだ」
「…………」
聞き分けがいい、というのは別に、善いことなんじゃないのかと思った。
善いこと、の筈なのに何か悪いような気にもなって、然しこの男が口にしたのだから恐らくそれにも意味があったのだろう。
少年がじっとそのまま、男を見上げていると、彼はふっと小さく口の端に笑みを浮かべて見せた。
「まあ、この裏の世界で生きている以上そう成らざるを得なかったんだから、僕がどうこうと云えたことじゃあ無いんだけどね」
確かにそうだ。頷く。
詞は出さなかった。
……どう応える可きか少し迷って、そんな迷っている時間の間に応えることの出来る
きっと自分は普通では無いのだろう。
でも、この男も多分同じくらい普通じゃなかった。
同じような者どうしの筈なのに、彼は一体何を自分に求めていたのか、少年にはそれが解らなかった。
少し押し黙ってしん、と静かになった部屋の中に、かちかちと規則正しい音が響く。
男の持っている懐中時計から響いているのを、聞いていた。
「時計の音が気になる? ──今、何時だっけな」
ぱかり、とその蓋を開くのを少年は眺める。何の意味もないが、鸚鵡返しのように「時計」と呟くと、「一四時、三二分だ」と云われた。
「今までの話とは関係なくなるけどさ、一日を一生と例えて考えた人がいるらしいね」と、とりとめもない話の続きのように、何気無く云われた詞が気になったは何故だったのか。
「例えば人の死ぬ時期を六十と仮定しようか──そうしたら、僕の人生は未だ昼前までしか進んでないわけだ」
「うん」
「そんで、作坊の場合で考えたら夜明け前だ。未だ四半分も過ぎてないんだからね」
これは実物を見たほうが早いかな、と笑って、ぽとり、と掌に置かれたのは、小さな丸い、箱のようなもの。
細かな鎖がしゃらりと音を立て、その中身を覆い隠すような蓋は艶やかな金属製である。
今度は少年が、その蓋をぱかりと開けた。
描かれているのは等間隔に並ぶ線と文字とで構成された綺麗な円だ。
その中心からは二本の大小大きさの異なる針と、一本のやたら小刻みに動き続ける細身の針が伸びている。
耳を澄ますと、かち、こち、と規則正しい音。
細身の針が動くのに合わせて、その音が聞こえてきているようだった。
「まあ今は昼過ぎだけどさ──ほら、此処だ」
「うん」
血の通ってないかのような、白く長い指がその文字盤の目盛りを指差して、少年はそれを見ていた。
時を計ると書いて時計と読むのなら、人生を時計に見立てることは不思議でも何でもないのかもしれなかった。
意味なんて、あまりにも身近だったから考えたことがなくて。時を計る、というその詞は何処か聞きなれないもので。
「かちこち、って音がさ。聞こえるだろう」
「聞こえる」
「普通に捉えたら、秒針が動く度に聞こえる音だと済ませるんだろうけど。人生を時計に見立てた人は詩人だったんだろうな…………この音はきっと、心臓の音なんだろう、ってさ」
見詰めていた。
「そうなのか」と呟くように云った。
針が動いている。かち。
ぴくり、と動く。こち。
ぴくり。かち。
ぴくり。こち。
──とくとくと。
その中に、自分の心臓の音を聞いた気がして。
神妙な顔でもしていたのか、おかしそうに目の前の男が吹き出した。
「まあ、人生は長いってことだ。もっと子供らしくても許されるだろうってね、作坊を見てるとよく思うんだよ──人生の一日じゃあ未だ朝飯も食ってないんだから」
返事を返さずにじい、と見詰めたままの体勢でいる少年に、男は首を捻った。
「どうした」
大したことじゃない、と示すように少年は首を横に降った。
「そんなに長く生きてるとは思わない」
「長く────あぁ、ね」
少年が指摘したのは…………それは然し、仮にその寿命を全うできるとすれば、という仮定がついていたということだ。
少年がそれを失念する筈がなく、かといってそれを言い出した男だってあくまでも例として云ったに過ぎないのだ。
──裏の世界で長く生きていられるのは常に強者である。
それが少なくとも要される、最低条件であった。
懐中時計の蓋を閉じると、針の音とはまた違ったかちり、という音が鳴る。
見上げた空は晴れやかで、抜けるような薄青に染まっている。
この空の下の────然し、その陰になるような処でひっそりと、生きている。少年が物心ついた時から、自分の居場所は此処だった。
この、業とも称すべき闇は重く暗く、例えるならば……少し先すらどんよりと澱むように見える、そんな世界。
この世界で、それでも「朝」と呼ばれるような概念は存在している。
そして、こんな自分でもそれを共有する相手を持っていることが、不思議なことだと思った。
この世界には自分しか居ない、そんな訳がないのは当たり前のように識っているのに。
「確かに僕は作坊の死期を識ってる」
「六十、っていうのがほんの例えだっていうのは、僕が一番承知しているさ」と男は微笑んだ。
彼は『生命判断師』である故に。
「ただ、ね。未来は解らないよ、作坊────僕が、僕だからこそ、そう断言しよう。
可能性は運命に限りなく近くても可能性であるには違いない。それに、善くも悪くも人というのは、ずっと同じままではいられないものだ。
後は…………これから出逢う人との関わりが未来を変える力を持つかもしれないし、ね」
意味ありげにそんなことを云った中に、自分が何かの切っ掛けで何時か、若いといえる位で死んでしまう可能性も確かに有るのだ、と。
そう教えられて、然し少年は表情を変えることは無く、ただ数度瞬きをするだけであった。
何も思わない、というのは嘘である。
だが、それを云われたところで何処か遠い処の話であるようにも思えたし、若し自分がその死に直面したとして、きっと何か未練を残すようなことも無いのだろう。
そう、思う。
「僕はね。お前が未だ、人生の夜明けも識らない幼子であってほしい、と──そう思うんだ」
この男が見た未来を尋ねようとしたことは無かった。それを頼りにする者には申し訳無いかもしれないが、興味は薄い。
元々死が蔓延るような処に首元まで浸かっている者が今更生を惜しむ理由が存在しない。
夜明け──朝、というのは。
それは、陽が昇り始める時間だ。
陽が高くなったら昼で、陽が暮れ始めたら夕方で、陽が沈んだら夜。
自身の辿る未来を識りもしないのに。人生に於ける夜明けを迎えても、裏社会の住人である以上自身が陽に照らされることはない。
それは悲しむべきことであるのだろうか。
或いは、残念と思うべきであったのか……そう、思うのは、本来己の内から生じなければならない気持ちの筈だった。それを感じないのは単にそうするのに値しないのだと、少年が何となくでもそう思っていたからではなかったか。
それは、全くもって普通から外れている、と示しているようなものだった。
ぽす、と頭の上に手を置かれて、懐中時計から目を離す。
「柄にも無いことを云っちゃったなぁ」と男は苦笑して、そのまま少年の髪をぐしゃぐしゃとやや乱暴に撫でた。
「こんなことが云いたかった訳じゃないんだ。……まあ何時か話してみようとは考えてもいたけど、何も今、これを話さなくても善かったのになぁ」
なぁ? と云われて、「そうなのか」と、取り敢えず頷いておくことにする。
一段落ついたような雰囲気で、織田作は手近に置いていた数冊の本の中の一番上を手に取った。
返された懐中時計を懐に仕舞った男は、ちょろっと窓の外の陽の高さを確かめてから組んでいる脚を解いた。
よいしょ、と立ち上がって伸びをする。
「作坊、ちょっと買い物にいってくるよ」
頷く。少し伸びてきている髪が鬱陶しく視界を
「夕方より前には帰るさ」
「わかった」
そもそもこの場所は少年が転々としている
どちらかといえば受け身的気質である少年が拒むような理由は無かった。
大体こうして一緒に居る時は食事の時で、何処かの店へ往くか、或いは男が作るのを傍らで眺めていたりする。
今回は後者であったらしい、と今その事を識る。
男は、季節問わず常より羽織っている黒外套に身を包んでから目元深くまで
少年はといえば、狭く殺風景な室内で、長身の男が靴を引っ掛けて扉に手を掛けるまで本を手にしたまま、黙ってその様子を眺めていた。
「いってきます」
「うん」
ぱたん、とドアが閉まった。外からとんとん、と響いている靴音は徐々に遠のいていっている。静かな時間は、眠りに落ちる前の浮遊感にも似た気持ちを思い起こさせた。
部屋の中が急に静かになった。
かち、かち、かち。
男が持っていってしまったから部屋に時計は無いのに、時を刻む音が幻聴のように耳の奥で木霊しているようだった。
少年は座ったままに、再び窓の外を何となく見上げた。
空に輝く陽は、男が帰ってくるまでにどれくらい動くのだろうと、そんなことを思って、手元の本に目を落とした。
仕事を終えるついでによく物を失敬する。織田作の場合それは本であり、あの『告死』の男の場合は意外にも酒瓶であったりする。
手に持っているのは、その内の一冊だった。
未だ読み終えてないのは多くある。中には上巻、中巻とあるのに下巻だけ存在しないのもあって、そういうものは後回しにしている。
何の声もしないのが、自分以外の気配が部屋の中にないのが、不思議と寒々しく、外から射し込む光はどこか眩しいようにも感じる。
「…………」
ぱらり、と本を開いた。
栞を持っていないので、頁の数は自分の記憶のみを頼りとする。
ぱらぱらぱら、と大体の処に見当をつけて捲っていった途中で指先にちり、とした痛みが走る。
「…………」
見ると、紙が肌を僅かに裂いたようで、うっすらと出来た割れ目に血が滲んでいた。
**
──きっと、随分と長い間独りだった。
同じ音質の靴音を聞いて顔を上げた少年が最初に思ったのは、意外にもそんな感想だった。
それは、男が留守にしている数時間のことであったし、同時に今更な話ではあったが……織田作が彼と出逢う前に歩んでいた
前者に対し何故そう思ったのか、少年は自分でも理解してはいなかった。
ただ、後者に関して──時計では計りきれないほどの長い間、今よりも幼い、あの男と出逢う前まで自分が独りで過ごしていた日々を。
実際よりも遥か遠くの、どこか遠い日の出来事のように思っていた。
最低限の生きる術は、その本能の示すように備わっていた。
それ以外の細々とした──云うところの
鍵の掛かっていない扉ががちゃりと、無造作に開けられた。取っ手を外側から回されて、その瞬間に、頭に過っていた思考を隠すように手元に視線を落とした。
陽が沈み始めて、空が赤々と染まり、やがてゆっくりと紺色に染まっていく。その内の、明々とした一筋の光が本の一頁を照らしていた。
「
今気付いたといった風に再び顔を上げ──実際のところ、その職業上隠密や気配察知が得意な少年がまず気づかない筈が無いのだが、買い物袋を持って妙に生活感に溢れている格好を見遣った。
外が暗くなり、部屋の中が暗くなり、ぱちりと電気が付けられた。
窓の外では直に明かりが灯り始めるだろう。
男の詞に対する返事の代わりに、少し大きめな音を立てて本を閉じた。
きゅう、と腹が鳴る。声も無く男が笑って、「丁度らしいね」と云った。
今、一体何時なのだろうか、と思った。
織田作は時計を持っていない。どうにも高価であったし、自身が必要とする局面に出逢ったことがあまり、無かった。
立ち上がってから直ぐそこの玄関まで迎えにいくと、その両手に持っていた買い物袋の片方をおもむろに手渡された。
「おでんでも作ろうかな、とね」
渡された大きな白い袋の中には具材らしきものがごろごろと入っていた。
「おでん」
「そ、おでんね」
復唱して、今は春先の筈であったが、と思う。
「秋頃まで食べれなくなるから、一回この時期に作りたくなるんだよね。店主も、最低十月にならないと作ってくれないから」
「全く、此方は客だっていうのにさ」と思い出したような文句を呟く──男の云う『店主』というのは少年が何度か連れていかれたことのある、男曰くの『何でも作ってくれる料理屋』の
一度頼んで、断られたということらしい。
普通に考えて、殺し屋として畏れられている男にそんなこんな態度がとれる一般人はそうそう居ないものである──まあ、実は一般人では無い可能性もあるのだが、それは置いておくことにする。
そんな場面を少し想像してつい、じぃ、と男を見詰める。首を傾げられた。
既に
**
「さて、作ろうか。まあ切って混ぜて煮込むだけなんだけど。あ、普通に作ると時間かかるから短縮するけどね。おいでー、『
「…………」
いきなりで何だが、違うだろう、と思った。
いや、現実は違わないのだが────調理開始とでも云うように手を叩いた男の後ろでぽんっ、と、いきなりに顕現した異能生命体があり、それが手に持っているのは鎌では無かった。
それは、死神である。
心なしか大きさが小さめであるのは、気のせいではない────死の匂いは、変わらずであったが。
それだけに、別方向の
因みに、調理用なのか丁寧に
抱えている何らかの機械を異能生命体から受け取った男は、一瞬微妙な顔を見せて苦笑した後に「よいしょ」と云ってそれを台所の一角に設置した。
「解らない、って顔をしてるなぁ」
その顔が此方へと向けられて、少年はそれからかくかくしかじかと、話を聞いた。
その機械…………この男の持ち物であるらしいそれは、聞くと調理用具の一つである。詳しい名称は定かじゃないが、どうやら蒸し器、であるらしい。
何でも使うと出来上がりが早くなる、とかなんとか。
手を洗って、大きく野菜類を切り分けて。
日の入り通りにくいものを水と一緒に蒸し器に投入する。強火力で、一気に加熱。ぼ、と橙の焔が揺れる。
その間におでんの汁を作成する。
昆布、
ふつふつと、金色にも見えるような薄茶の色に沸くのを見詰めて、それから丁度善い位に軟らかく蒸された野菜を、他の具より僅かに早く投入する──これで汁が染み込みやすくなるらしいが、原理はよく識らない。
蓋をして、暫く待機する。
作業は思いの外あっさりと終わり、拍子抜けしたようにも感じた。
「じゃーん」
「おー」
男に合わせるようにぱちり、と手を合わせ拍手をやりかけたのに、「別に無理して反応しなくてもいいよ」と云われた。
ぱかり、と蓋をあけると、ふわと湯気が昇る。
漠然と、これが良い匂いだと解る。
ぐる、と腹が再び鳴る……いろんな匂いが混じっている。
ほんのりと甘い、ような。柔らかい匂い。
じわじわと染み入るような、それでいてつい引寄せられてしまうような香り。咖喱とはまた異なったものだ。
「取り敢えず、全部一種類はとろうか」と、出してきた深皿の中に入れていく────卵、出汁まき、大根、人参、竹輪、
次々と分けていって、それでもなお、具は鍋の中に沈んでいた。それだけの量があったらしいが…………男が確認した時計を一緒に覗き込むと、調理の開始から一時間もいってない程度の時間しか経っていなかった。
最後に鍋を慎重に傾けて、皿の中にとぷとぷと、金色の澄んだスープが注がれた。
ふわっと湯気が香って鼻を擽る。
「よし」
出来た、という声に現場監督の『
あくまでも生命体を掌握しているのはその異能保持者である、という証左でもあった。
男が手を合わせて見せて、少年もその真似をするようにした。
どんな掛け声をするのかは、流石に少年も把握しているのだ。
「いただきます」
「うん、いただこうか」
箸をひとしきりさ迷わせてから顔をあげると、男が厚みのある茶色い楕円──詰まるところ、大根を頬張っているところだった。
織田作も、大人しくそれに倣う。
汁を吸い込んで、持ち上げてぽたぽたと落ちているところの
じわ、と口の中に感じる熱。
とろけるように柔らかいのに、しゃくしゃくとわずかに残る微かな繊維の感触。
甘いのは汁のせいか、或いは素材そのものか……または、どちらでもあるのかもしれなかった。
咀嚼すると、甘さの中、少しほろ苦い味わいが混じりだしている気もするが、美味しいことに変わりはなかった。
はふ、と、咥内の熱を逃そうと息を吐く声が聞こえる。それでも食べるのは止められないのだ。
短時間で作った割には上出来過ぎる結果であった。
無言のまま、出汁まきへと手を伸ばす。
薄く茶色がかった黄色みの強い物体が箸に挟まれ、ゆらゆらと揺れている……たっぷりとスープを吸って、柔らかそうだった。
噛みつく。しっとりと柔らかな味わいが口の中にふわふわと広がっていく。
まろやかで柔く、優しく、それでいて先の大根と同じ味。
でも、もっと甘くて、濃厚だった。
合間に、皿に湛えられた汁にちろ、と舌を出すように飲んでみる。
「……」
何味だ、と云うのはきっと相応しくは無いのだろう。数多くの味が混ざり合って、調和のとれたような味。
一口分残していた出汁まきの残りを食べきる。
皿の中には、丸ごと入れられた卵も入っているのだ。
卵は善い。
基本的に何にでも合うのだ────もちろん、咖喱にも、だ。
無言で卵にかぶりついた。
つるり、と卵が逃げるのを無理矢理押さえ付け、歯でぐっと圧をかけ……ぶつりと噛みきる。
ぷにぷに、とした食感である。
つるりとした白身は淡泊な味がする。
けれど、更に噛み進めていけば、やがてその中から現れるのが鮮やかな橙色をしていることを、識っていた。
赤みを帯びた鮮やかな色合い。口に含むと濃厚な味わいが咥内にはりついて、喉に貼り付きそうな感触でいつまでも呑み込めない。
そこに僅かなもどかしさを感じつつも、噛み締める。一緒に汁を少し飲むと、口の中にまとわりついていた卵がほろほろとその中にに溶けていった。
「……卵が、好きかもしれない」
「嫌いな人ってあんまり居ないと思うよ。でも、確かに僕も同感かなぁ」
ずず、と啜ってから、心なしか幸せそうな息を吐き出した。
確かに、ほっこりと身体の芯から温まる。
今は春だが。
「次は……これ、いこうか」
最初からこの形だったのは、聞けば『店長』に頼んでしてもらったらしかった。
しっとりと柔らかそうな塊になって、皿に心持ち大きく横たわっている。薄い茶色に染まっていた──噛みつく。と口の中に柔らかな旨味が広がる。
見た目からしても柔らかそうなそれが、口の中で蕩けるように消えていく。
噛むまでもない。
舌と口蓋の間で軽く抑えるだけで汁の味わいがほどけていくのだ。ほのかに甘みが強くなるのはそれそのものの味なのかもしれなかった。
ぶつ、と一瞬、食感が変わる。紐を千切ったような…………いや、実際そうなのだろう。
「なるほど」
この柔らかなものが甘藍で、内側にまた違う味を閉じ込めるのに紐を使っているらしい。じわりと、異なる旨味が口の中に広がっていく。
こってりとした濃厚な味わいはどこか少し先ほどの卵にも似ていた。鶏の肉だった。
卵が育つと、鶏になる。ならばその味付けが似通ったものになるのは自明であった。
舌が肥えてしまったと、自分でも思った。
この男に連れていかれる店は大体自分の識らない味で、然し時にはこうやって何か懐かしさのある物に巡り逢わされる。
──何故、懐かしいと思うのだろう、と思った。
無言で咀嚼を繰り返しながら、そんなことを考えた。
「作坊作坊、そろそろこれ、入れてみない?」
男がそんな考えを識る由も無く、じゃーん、そう云って、小さな瓶を取り出した。
「それは?」
「ふふふ、柚子胡椒は至高なのだよ作坊」
ふふふとわざとらしい笑みのまま、男は蓋を回して、薄く黄緑がかった塊を汁に投入した。
落ちたそれを、箸の先ですりつぶすようにして溶かし込み、ふと、鼻先を掠めた香りがあった。
とぽんと、同じように入れられて、同じように溶かした。薄く透き通っていた汁が少し濁りを帯びている。
爽やかな香り。小さく一口分を、飲み下した。
「……!」
柔らかな味わいに入り交じるぴりっとした刺激と、爽やかな香りが遅れるように口の中で広がった。
甘さに慣れた処に訪れた、新鮮な刺激。
黙々と食べ進めていく。
気づけば、お互いの皿に残るおでんは一つ、しかも同じ具材だった。
「やっぱり
見た目は厚揚げの表面のようだ。
きゅっと縊れた部分に結ばれている紐で、その先は膨らんでじっとりと汁を吸っていた。
齧りついて、中に閉じ込められていた餅がどろりと溢れだす。
熱い食感で、舌が痺れていく。口から溢れ出さないように注意しつつ、伸びる白い餅を口の中へと納めた。
どろつく餅の甘みと、ぴり辛い柚子胡椒の爽やかさが絶妙であった。
綺麗にお皿の中身を空にしたところで、「ごちそうさま」と向かい側が手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
それに倣う。
すっかり空っぽになってしまった皿と、ずっしりとした充足。
吐きだす息は心なしか温かい。
────或いは、こういうのが幸福というものなのだろうか。
そんなことを思いかけて、少年は薄く唇を引いて笑みを浮かべたのだった。
告死さん「因みにこの残りを使ってカレーも作れるぜ」
織田作「!」
みたいな余談。肝心の後半が若干やっつけになったような気もする……
そんな感じの、春先ぐらいの二人のお話でした。おでん美味しいよね。柚子胡椒は至高です。
文スト公式スピンオフ『文豪ストレイドッグス わん!』①を参考に、おでんでした。
因みに、その『わん!』にて紹介されていた太宰治風おでんレシピ。
①中島敦に材料を買ってきてもらう
②国木田独歩を呼ぶ
お、おう……(´・ω・`)
時短で蒸し器としましたが、この時代に電子レンジに相当する物がそれぐらいしか思い付かなかったからです。因みに、レンジを活用すると大体三十~四十分くらいでいい感じに仕上がれます。
※いつもの。
ましろんろんさん、狐拍さん、高評価ありがとうございます!
ランキングにも一瞬載っていたらしいですね。ランキングの威力、恐るべし……!