安吾は目の前の二人がするやり取りの間に、自分の上司の男を見ることにした。
目を向けた先では気持ちを落ち着ける為にか、その人の目は閉じられている。
此方が視線を向けたことに気付いているかどうかは定かでは無い。うなだれているのも、それで静かであるのなら正直どうでもいい──と、いうか。
仕事中にそんな風になる方が悪いのである。あと日頃の行いとか。
然し、まあ……対面する白装束の男が云った「暫く使い物にはならない」というのには確かに同意だったから、黙ったまま暫くはそっとしておこうかと、そんな気遣いらしいことを思ったりもする。
今ばかりは彼を責めるのは酷であろう──少なくとも好ましいとは云えぬだろうことは、理解していた。
この一回り以上年上である上司は、然し感情を押さえ込むことを不得手としている。
手っ取り早く種を明かせば、常から軽い調子である者にもそれなりの過去があって、云われた台詞の一部をその記憶が許容出来なかったと。安吾からすればそれだけのことだ。
だがその物事に対する思いの大きさなんてものは当人が決めるもので、本当は部下であるというだけの自分が決め付けられるようなことでは無かった。
それはそれに直面した、当人だけが持ち得る権利だ。
目の前で見た訳ではない──その時の安吾の年齢を考慮すれば当然である──が、それは割と有名で、かつ内容もこの御時世なら案外普通な話だから自然と耳に入ってきて。
ポートマフィアと他勢力との抗争に巻き添えを喰らった人々の中。
そこに、この上司の恋人が居たという。
こんなことを云うのはやや冷淡かもしれないが……聞くだけならば世の中に溢れているだろう、極々ありふれた悲劇であった。
よくあることだ。
だから当たり前のように識ることになって、当然のような
そのことを自分に識られていると気付いた本人が「つまんない話だろ?」と云ってきて、けらけらと笑い飛ばすのに対して真顔で頷くくらいの出来事だった……まあ、どうやら今回は許容出来なかったらしいのだけれど。
彼ら二人が顔見知りであったことに関係、或いは起因しているのだろうなと推測出来るのみだ。
白装束の男、通称『
下手すれば一個軍隊の息の根を止められよう──早くから剣を棄てた故にその名を賜ることは無かったが、“五剣”と同等の力を持つような才覚に恵まれた剣客、否怪物である。
白装束を身に纏うのは、それまでに対峙し切り伏せてきた相手へ向けてか、或いはその白地に返り血一つ浴びぬという完璧なる技量に因るところか。
そんな相手にキレないでほしい。
というか何故放逐していたのか、それが解らない。
そんな諸々の内心での文句を口にすることなく飲み下しながら、様子を窺った。
その間にも放たれていた殺気は徐々に収まりつつある。一度薄くなった空気は元に戻り、身体が軽くなるような感覚を覚えた。
時間の流れが正常になる錯覚に陥って、少し息を吐き出す──相手側に悟られないように努力をすることにする。
血を通わせるように右手を握ったり開いたりを数度繰り返ししつつ同様に青年の手元を見れば、握り締めた掌は白くなっていた。
俯きがちであるせいでもあるのだろうが、顔には陰りがあり、眉間に皺を寄せて唇は微かにわなないている。
何かに耐えているようだと、安吾はそう思った。
事実そうであるのだろう。
大丈夫、と此方へ言い聞かせるように呟いているのが聞こえたが、説得力は全くもって無い。
「あー」と小さく呻いて、こんなことを云う。
「落ち着いてる。落ち着いてるって、安吾」
目をぱちりと開いて最初の、そんな詞が発せられるのに呆れ果て、寧ろ感心さえした。
「ただ怒りがあるだけだかんね」
「……いや、それ落ち着いてないんで。もうちょっと頭冷やして下さい」
思わずそう云ってしまうくらいに、説得力が無かった。
**
之からの説明くらい僕にだって出来ますから。
そう云った少年が「ホント、お前は出来た奴だなぁ」とその頭を又撫でようとする手を払いのけてから──残念がるような顔に露も反応していないのに、話し掛ける前から友達になぞ成れるのかという疑問が頭を擡げてきた──改めて此方を向き直ってきて、朧も又表情を正した。
丸眼鏡をくいと上げて、少年が何時の間にか手にしている書類を一枚めくる。「大体の内容は其処に書いてあるとは思いますが」と云い、その紙の上の文字列をおさらいでもするようにさらさらと追い掛けた。
その手にしているものが、院長へ渡されたものと同じであると気づくのに数瞬を要して、もう一度養い親の手元にあるそれを覗き見る。
「最初の確認からしましょう。其方がポートマフィアに下ったことにより政府の後ろ盾は既に消失しております──把握していますか」
「戦後以降は在って無いようなものだったからな。構わん」
本当、全面的に悪いのは此方であるのは気のせいでは無かろう────そんなことを思いかけたのを打ち消し「…………では」と咳ばらいをした。
「伴って先程申し上げましたように、政府管轄の孤児院総轄からの辞令が下りました。それを以て先ず、その名が返還されることになります」
朧は院長の顔をこっそり見ようとして──何故かばっちり視線が合ったので、そっと顔を戻して見なかったことにした。
少女にとって男は『院長先生』であり、それ以外の何者でも無い。
それなのに、使われることの無い名前という最早符合にもならない代物が、然しこの養い親の本名なのだと。そう思うと、何ともし難いもやが胸の内に広がるようであった。
「同時に、識っているかいないか判りませんが……先月、貴方の兄にあたる旧家の当主が逝去されています。その手続きを踏んでもらわねばなりません」
「ふん…………成る程、そういうことか」
「居ないことにされている筈の
世情に疎い朧には識る機会も無いことであったが、この戦後の混乱に於いて幾分か落ち着いたとはいえ──
好都合でもあったのだろう。それ故の今、であった。
安吾がその内心でわずかながら慄いたように、確かにこの男は“五剣”に匹敵する天稟の持ち主であるが、同時に
理由は偏にその異能が特務課の抹殺対象に成り得ないと、いうことだ。
異能者による犯罪は後をたたないし、組織化された異能犯罪集団は特務課を困らせる
殺意に対しては無力化することで応じるだろう。然し裏返せば、それさえしなければ何もしない、災厄を振り撒くことも無かった。そんな存在に人員を割いておける程、当時の特務課に余裕は無かった。
然し最大の理由は──何より、つい数年前までその異能によって、軍はぎりぎり持ちこたえてきたのだということだ。
政府には負い目があった。
この男が少年であった頃、軍部へその力を提供する際、少年はこう云った。「きっと私は私の有用性を以て、着いた先が此処だったのだ」と。
その欲求は時と共に薄まりつつあったが、少年は青年になり、それすら過ぎて尚、完全にその、自身に伴う
戦後に於いてもそれを追い続け、嘗て軍部でやっていたことと全く同様のことを、その力が利用出来る所ですることに何を以てしても政府にそれを止めさせるだけの十分な理由が見つからなかったのだ。
戦後の混乱が冷めつつある、そして
ある程度事情を識る者からしたら、小さな面倒事はいっぺんに済ませてしまえ、というような魂胆が透けて見えるようでもある。
抑もの話、対応が遅くならなければこんな事態に発展もしなかったのかもしれないが……最早過ぎたことを云うのは仕方ないことだ。
敢えて弁明するなら、真逆異能特務課も、政府が男の次の行き先を決める前にこの男の眼鏡にかなうようなところが現れるなぞ考えもしなかったので。
しかも、ポートマフィアだ。阿鼻叫喚である──まあ戦線の維持拡大を唱えていた好戦派の官僚の方へ乗り換えられるよりは遥かに
「家を出てから一度も遭いはしなかったし血を分けた他人のようでもあったが──兄か」
静かに、死因は何だと問う壮年に「肺を患っての喀血、と聞いています」と応じる──少なくとも書類上はそう記されている──矢張り表情に変化は見られなかった。
「そうか」と云い、それっきりであった。
傍らの、神妙に聴き入っている少女の方へ「ポートマフィアの手の者が政府へ影響を与えるなんてことはあってはならないだろう」と補足するようにして男は頷いた。
いやにあっさりとしたものだった。
然し諸々を理解したのだろうことは明らかであったから、安吾も確信できた──同時に、自分よりも年上の少女が場所の所為もあるとはいえ、識らないことの方が多いのだろう、ということも。
少年の内心を読み取ったかのように一瞥してきて、その薄ら寒くさせる黒々とした瞳がじいっ、と見詰めた。
「──この小娘は」と口が動いて、続けて云った。
「
「その能力の開花が無かったのなら、本来は識る必要の無いことだからな」という詞に、驚かなかったといえば嘘になる。
「無知で愚かな娘だが、多少のことは目を瞑ってくれ」
「…………」
この、噂に聞く限りで武に於ける強さは化物としても善いだろう男の、そのお墨付きを貰えるというのは──この少女も又一般から逸脱しているという、何よりの証左であった。
はっとしたのは安吾だけでは無かった。
隣で身じろぎをするのを感じて横を向けば、青年も顔を上げて二人を見ていた。主に少女の方を。
視線に晒されたからか、少女は神妙に聞いていたそれまでの表情を崩してうっすらと微笑んだ。…………その曖昧な微笑がやっぱり苦手だと、そう思った。
それは少年から見た、彼女の最初の印象だった。はっきりとしない表情は何を考えているのかよく読み取ることが出来ない。
……まあその最初でさえ、笑みの裏側で何を考えていたかなんてのは、朧からしたら友人がどうとかというだけでそう大したことでは無かったのだが。
安吾がそれを識るのは未だ先のことになるだろう。
不意に「……ふん、落ち着いたか糞餓鬼」と呟いた壮年の台詞に、その様子を観察されていた青年はわずかに唇を歪める。
然しそれだけで「仕事中に
「或いは貴様もやったことのある鍛練を思い出して我に返ったか」
「まぁそんなところで……そっかぁ、考えてみれば妹弟子みたいなものか、君は。僕もたまに稽古付けてもらったよ」
まじまじと朧を見詰めて、「あの連続試合はきついよね」と感慨深げな表情をした。
この青年が院長に対していやに馴れ馴れしい、納得の理由であった。……かと云って、出来るかと問われれば別の話だが。
少女のうっすらと笑んだ顔が一瞬、少しだけ引き攣った。
自分なら当たり前のように出来ない、そう思ったので。
「貴様がやって来たのも縁、か」
「そんなモノに頼るようなあんたじゃ無いでしょうに」
「不確かな物に頼るのは性に合わんが──善い機会だったかもしれんな。朧」
何ですか、と彼の方を向く養い子へ向けて「貴様には二つの選択肢が提示されるだろう」と壮年は云った。
「すなわち、だ──
「人員的にたまには引き入れもするからね! よく解ってるじゃないすか『
なんだか自棄気味に云う青年に「あ、元に戻ったな」と思ったのは、きっと本人以外の全員の見解であった。
院長がぐっと眉を顰めた。
「偉そうに云うな糞餓鬼が──小僧、貴様はこんな莫迦になるなよ」
「なりたくないので大丈夫です」
安吾はさらっとそう云ってから、少女の方を向く。
好意的では無い視線に内心で傷ついて、そうしながら、そんな重大な
とはいえ。そんな重大なことこそ前触れなど殆ど無いのだと、彼女は身を以て識っていた。
──君には、未だ時間が有るのだから、その時迄に決めれば善い。
柔らかくそう云った
選ぶと云っても、それは正道から外れた道の上での選択であることには違いない。
本当に今更な話だし、それについて
そんなことを冷静に、当たり前に思ってしまうあたり……既に自分も戻れないところ迄やって来てしまったらしい。
朧はそんなことを思って、遠くの兄へ向けてもう十何度目かの謝罪を心の中で行った。
絶対に届いてはいないだろうが、こういうことは誠意が大事なのである。きっと。
「私は…………」
まあ、云うなれば。
恐らくは之も分水嶺の一つだった。
そしてこれ以降にそれが現れることは無いのだろうなと、当てにならない直感がそう云っていたのだった。
さくさくと終わらせた脱・孤児院編。大体、こんな感じ。
次回原作主人公(幼)との邂逅。