分かたぬ衣と往く先は   作:白縫綾

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第一一話 薄氷の上で踊る(前編)

 

 

 私と院長の朝は早い。

 

 未だ陽も出て来ていない中、院長が此処(・・)へやって来る前から、私は瞑想を始める。床の上に蓮華座の形で座し、冷えて固い床を感じながら、深く息を吐く。

 

 

 

 

 しん、としていた。

 

 どんな音も、咳ばらい一つさえ拒絶するような沈黙が、水面のように広がっていた。

 

 腰を丸くしないように、背骨が長くなったような心持ちで。一本の棒が突き抜ける想像(イメージ)をする。脚を数回揺り動かし、一番収まりの善い体勢を探す。息を吸う。膝の辺りに両手の甲を置いた。

 

 

 

 

 

 薄暗い館内。

 一人分の、未だ潜まっているとは云えない息遣い。

 開けられた窓から入り込む風の音────半眼で開けていた目を、閉じる。

 

 

 視界は閉ざされた。視覚を失い、頼りになるのは聴覚、嗅覚、触覚、味覚……他の感覚頼みの状態に置かれている。

 私は音を立てずに息を深く吸い、吸ったそれを薄く引き伸ばすように吐きだした。

 

 

 周囲に同化するように、自身が空気に溶けて、周りも自分そのものになるのだと、そういう未来を夢想する──実際はそんな考えも無用であり、直ぐに頭の中から消え去ると、解ってはいるが。

 

 

 身体の意識を希薄にすること。

 身体とその外側という境界を消し去るよう、心掛けるということ。

 

 肉体と精神を限りなく遠い処迄引き離し『無心』の状態を形作る。

 

 

 ── 一、二、三、四、五……

 

 

 此れをするにあたって先ず始めるのが、数を数えることだと、院長は最初にそう云っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『数を、数える…………?』

 

 

 首を傾げている少女が居る。

 栗色の柔らかな猫っ毛に翠の瞳をぱちり、と瞬かせたのは──過去の私だ。

 

 その目の前に居るのは勿論、私の養い親である壮年。相変わらず絶望的な迄に服装が似合っていない。

 そんな思いも露知らず、何処か拍子抜けした、とでも云うように鸚鵡返しにした少女に対して男は鷹揚に頷いた。

 

 

(そうだ)──正確には息を、だが』

 

 

 吸ってから吐く迄の一巡り(サイクル)を一つと数えるのだ、と彼は云う。

 

 

『自分の心を支配するものが只“息を数えることのみ”という処へと持って往くことが理想だ。土台と迄はいかんが、心積もりとしてそれが無くば、最初の足掛かりにも届かん』

 

 

 冷厳とした顔付きで院長は蓮華座に脚を組んでみせた。

 

 よく覚えている──私も同じ様に真似しようとした直後、何とも云い難い痛みに襲われて「……先ずは柔軟からか」と呟いた院長の微妙そうな表情が物珍しかったので。

 

 

 今ではそんな痛みも存在しない。馴れた今と成っては寧ろ蓮華座(こちら)の方が楽なのだった。

 

 

『自分の動作を意識することに囚われるなよ。思考や感情とは同列で無いのだ』

『…………? はい』

『理解してる者なら首を傾げて「はい」とは云わん、──おい、それで戻しても変わる訳が無いだろう』

『……先ず遣ってみてもいいですか? 少し混乱してる気がします』

『…………好きにしろ』

 

 

 一番初めは理解出来なかったが、それを乗り越え他のことにも着手している今だからこそ、彼の云っていたことに素直に頷くことが出来る。

 

 無心に入ると云うのは、考えることでは無いが、同時に考えないことである、という訳でも無い。

 只ひたすらに、ひたむきに今此処にある『今』を見詰めることなのだと思う。

 

 過去へ向かう回帰でも、未来へ向かい往く将来でも無く、自身が今、人生という(みち)に足を踏み締め立つ『ある一点』だけを想う。

 きっとそれが無心であった。

 

 そして、だからこそ無心(それ)は、何れ研ぎ澄まされた集中に到るのだろうし、それを以て行うことが、此れからのことに必要になるのだろう。

 

 

『随分と深く潜っていたな──喜べ、一先ず第一段階は越えた。ならば次だ』

『……全部で何段階なんですか』

『其れは今貴様が識ることでは無い』

 

 

 

 

 

 回想も、瞑想を始め暫くすればふっと、溶けるように消えていった。

 

 只息を吸う。吐く。

 数を数える。息をする、当たり前の一連を数え続ける。

 

 

 ── 一、二、三、四、五……

 

 

 心の中で、それだけを念じるかの如く呟いた。

 

 他に考えることなど無い──果てには数を数える、ということも意識しなくなるのであるから、この詞も正しいとは言い切れないのだが──それこそを目指すのだ。

 

 

 風の音がした。

 ぴろろ、と遠くか近くかも判らぬ何処かで鳥が鳴く。

 鼻から吸い込んだ息が、ぴんと伸ばした背骨を伝い臓腑に染み渡るような、そんな錯覚を抱く。

 座している床は、外ならぬ自身の体温で温もれていた。

 

 息を吐く。吸う。

 数を数える。

 呼吸の音が耳に入り込み、そして流れていく。

 何時からか心臓の鼓動が耳の奥で響き始めていた。

 息を吸う。吐く。

 どこか水中に潜り込んでいる様な、不思議な心持ちに成る。

 

 何も無い。

 私は『今』を静かに見詰めている──それすらも自ら意識することは無い。

 深い、海のようだ。濃く暗い青に身を沈めていく。

 

 息を、吐いた。もう一度、吸った。

 深い。何処までも。

 まるで底が無いかのように、嗚呼だからこそ海であるのか。

 深く、沈み続ける。

 何時までも何処までも────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──どれだけの間、そうして『潜って』いたのだろうか。

 

 

 過度に拡大されている知覚。波の無い水面の如くあったところに、一石を投じるような……自分では無い、何か別の気配を感じた。

 

 別の存在が生じることによって、只数を追い掛け、何時の間にかそれすら放棄していた、あの夢のような何か(・・)から目覚めた。

 眠っていたのでは無い……只、随分永い間であったように思う。時間感覚は当てにはならないと経験的に理解していたが、そんなことを考える。

『あの状態』に成ると、時間が引き延ばされたかのように感じるのは毎度のことだった。

 

 

 最早意識は元の通りに成り、ややしてから改めて、感覚的に感じた違和感の正体が放つ気配を感じ取る。

 

 誰なのか、なんて問いは必要無い。

 どうせ直ぐに解ることだろうし────、やって来るのは、こんな時間に態々(わざわざ)その設定をした本人一人に外ならないのである。

 

 

 

 

 

 瞼を開いた。

 薄暗く普段よりもくすんだように見える筈の館内は、然し何故か、どこか色鮮やかにも感じる。

 

 気のせいなのかもしれぬと、理解している。然しそれでも、同時に──そうして改めて吸う空気、それまで当たり前にしていたことは何て素晴らしいことなのかと、そんなことを思うのだ。

 

 ……私がこの瞬間を嫌いになることは多分、無いだろう。

 まるでもう一度生まれなおすような、或いは余計なものが全て洗い流されるような、そんな清々しさは。又味わいたいと考えさせるには十分なものだった。

 私が之からも生きていて善いのだと──まあ今迄、そんな類の否定も肯定も、面と向かってされたことは無いのだけれど──そう云われているような気にもなる。

 

 

 目を数回しばたたき、その気持ちすらも直ぐに振り払うことになった。

 そんな感慨に永く浸ることは出来ないのだ。

 閉じることで暗闇に馴れた瞳にも、人影があるのを認めている。気配を感じたのだから、何よりこうして眼前に居るのだから、錯覚でも見間違いでもない。

 

 

 開け放しになる出入口、彼は当然のように立っていた。

 

 丁度やって来たのか、それよりも前にもう居たのかは定かではない。

 見た限りの様子ではそれを読み取ることは出来なかった。

 

 

 色合いのまるでない、真っ白な衣を身に纏う長身痩躯だ。

 癖一つない黒髪に、同様の色をした黒々とした瞳。皴の無い白装束を着て、かちりと眼が合った。

 

 

「おはようございます、院長先生」

「…………」

 

 

 数瞬互いに見詰め合って、然し何の返事も返されなかったが、特段気にすることでは無い──何時ものことだ。

 靴を脱ぎ、裸足に成って此方に近付いて来るのを、私はその座した状態の侭眺めていた。

 

 

「朧」

「──はい」

 

 

 立て、と院長は云った。

 

 この一人でする瞑想の後、私は鍛練……と云うべきなのかは判らないが、そう形容すべきことをするからだ。それもこれも全て、何れ私が一人に成る何時かへ向けての為である。

 

 

 

『準備期間』。

 之まで二年近くの間、みっちりとやって来たが、それでもまだまだ足りない、と思わせる……そんなに簡単に武術を修められるのであれば誰も苦労しない筈なので、当然といえば当然なのだけれど。

 

 歳を数えれば、私ももう十四になろうとしている。

 兄、白木がこの孤児院を出たのが十五の頃──もう時間はあまり、無い。

 

 

 私は組んでいた脚を解いて、ゆっくりと立ち上がった。すぐ横に置いていた得物を取ることも忘れない。

 

 その体勢が楽であっても矢張りずっと同じ様に居るのはそれなりに身体を強張らせたらしく、膝を曲げた時にこきり、と小気味よい音が鳴った。

 背の中程迄伸びているのが邪魔で、髪を紐で結わえていたのだが、その分首筋が冷気に曝されているので一瞬、震えが走る──顔が勝手に顰めっ面になった。

 

 

 私は正面に院長と向かい合う。

 無機質な黒目に、顰められて、直ぐに元に戻った私の顔が映り込んでいる。……何故だか解らないが、微かに頷かれたような気がした。

 私は又数回目を瞬かせ乍ら、気のせいだろうか、とそんなことを考えた。首を傾げているのは内心だけで、院長を見上げていた。

 この養い親の計らいにより善くなった食事環境の御蔭なのか、或いは単に成長期なのだろうか。私はこの二年でかなり身長が伸び、院長を見上げていた首も少し上向ければ善い、そんな程度になっている。

 

 

 

 

 互いにずっと黙っているのは無為な時間だった。

 先に口火を切ったのは私では無かった。

 

 

「何時も通りだ。先ず歩法、刀の扱いに少しの打ち合い、合気の型。最後に(おれ)と試合を数回」

「解りました」

「貴様が型をする間に己も少し、調えておこう(・・・・・・)

 

 

 ではな、と云って端の方に歩いて往く──先程の私同様に瞑想を始めるのだろう──のを見送ってから、私も又する可きことをしなければならなかった。

 

 

『何か一つでも善い、強く成れ──其れが、生き残る者の条件だ』

 

 

 何時のことだったか、一度だけ、そんなことを云われたのを思い出す。

 

 院長だって私たちと同じ血の流れる人なのだと感じた、初めての瞬間だった……何だかんだで寝食を共にし、同じ異能力者である私に、何かしら思うところが有ったのか、そこ迄は解らない。

 然し、そうで無くば、こんな事をするまでも無く、私を打ち棄てることも可能だったのだから、そう考えざるを得ないというのもあった。

 

 

 

 

 私は多分、取り立てて長所の無い、普通の子供であった。

 意図せずして…………然し最終的には、その領域(・・・・)に足を踏み入れたのは自分だと、理解している。

 

 手にした得物を握り締める。

 握っている箇所がじんわりと熱を孕みはじめて、私は少しの間だけ目を閉じて、呼吸を整えた。

 

 

 先程迄潜っていた、無心の──虚無の海とも云える何処かが、ちらついていた。

 

 

 

 

 




追記(2/10):バレンタイン小話更新。織田作出しました。微恋愛要素。

同志の友人に「そろそろタイトル詐欺じゃない?」という厳しい言葉を頂いたので、こねこねしてた朧と織田作の絡みというか、そんなのを書いてみました。

オリヒロイン×原作キャラなので、苦手な方も居ると思いますが、織田作が好きでこのオリジナル要素だらけの作品を読んでくれてる同志なら、きっと大丈夫だよね‼








次回、戦闘有り。朧の異能力も此処でやっと明らかになる予定。
期待はしないで下さい。


※いつもの。
cedar7150さん、高評価ありがとうございました。
あと誤字報告も頂きました。感謝が尽きない……(´- `*)


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