其の部下が、曰く付きの
勿論仕事で私的な事について話すこと等無いのだから其れ迄識らなかったことが当たり前で、正しい。
解ってはいたが、真逆こんな身近に転がっているような事だとは思わなかったのである。
ある意味で有名な其処は、一見すれば何の変哲も無い場所だ。
敢えて云うなれば、図書館であった所をある程度の人数が住めるように整理した、そんな建物が建っているらしい。
生憎見る機会は無かったので、話に聞いているだけだが、それだけならばさして気にも留めぬような、そんな場所だ。
…………然し、其処を城とする男、孤児院の院長である彼は割と名の知れた者である――善い意味でも悪い意味でも、大戦に関わってきた異能者にとっては。
それに自分も含まれるのは、云うまでもない。
──そういうことを説明した筈なのだが、此奴はそれを受け入れきれていないらしい。
まあ、識っている人が、そんな側面を持っていたと、直ぐには認められないという気持ちも解るのだが。
広津柳浪はそんなことを内心で思いつつ……然し、溜め息を隠しもせずに吐き出した。
事の発端と成ったのは、隣を歩く此の青年であった。
幼さの滲む風貌だが、此れでも実力はそれなりで、
入隊歴は短くとも部下からの信頼は篤く、何より広津自身がその実力を認めている。
…………冗談が多いのが玉に瑕であるが。
「俺だって知らなかったンですよ、抑も
「……使えん奴め」
「それは横暴と思うんスけど」
広津の隣を歩くのは、白木といった。
長袖の上下に丈の短めな上着を羽織る、至って普通の青年である。
やや小柄な体躯で、広津の横を早足に歩いているのは単純に歩幅の差でそうでもしなければ広津と並んで歩けないからだ。
まあ、其れもそうか、と広津は云った。
「使えない」と云いながらも、果してそうだろうことは広津にも判っているのだ。
仮にその院長とある程度友好な関係を築けたとしても、その事実は得られなかっただろう。
院に居る数多の孤児たちの一人である、至って普通の若者が其の事実を識っているならば、異能者が秘匿される様な扱いをされる訳が無いのだ。
……その男は、別に軍を易々と制圧出来るような異能を持っていた訳ではない。
極めて稀な、人を癒す異能を所持する訳でもない。
だが大戦において、軍部に重宝される人材には違いなかった。
終戦と相成った今でも、未だ男の有用性は生きている。
軍部という後ろ盾を失いつつある男に目を付けている組織は少なくないだろう──
まあ其れとは別に、一個人として多少興味を持っている、というのも無きにしもあらずであるのだが。
広津の同行の目的を理解し、何よりその下で働いている白木も既に状況は知らされている。
広津がそれを伝えた時、彼は「俺は只、ちびたちに関わりが無ければ問題在りません」と、即座に一言、それだけを云うのみであった。
孤児院育ち、お互いに助け合って生きてきただろうことは、弟妹たちに与えるのだと背負った大荷物から窺えた。
どうやら院長はその枠からは外れているらしい。
殺風景に過ぎる
「…………
「あれっスね。何だか懐かしいなぁ」
未だ遠くに見える建物。
粒のようにも見えるが、人の確認くらいは出来た。遊んでいるのだろう頻りに動いているのは子供たちだ。
……暫く眺めて居れば其処からやや離れた場所で二人、此方を向いているようにも思える人影が在るのを認める。
広津は
「あれは……朧かなぁ。ああ、俺が手紙を送った妹ですけどね、今ちび共を纏めてる子っスね」
其んな説明を聞き流し乍ら、此んな兄を持っている妹はさぞかし大変だったろう、と──広津は、何時も以上に元気に為った部下が手を振っているのを眺めてそんな事を思った。
それまで暇潰しのように煙を燻らせていた葉巻の火を、ゆったりした仕種で消す。懐の
落ち着かなげに成っている白木が、その仕種を待っていたかのように弾んだ声を出した。
「あ、広津さん俺先に行ってて善いっスか!」
「…………好きにし給え」
「よっしゃ、あざっす! 朧ー、今から
広津は再び溜め息を吐き出し、それを綺麗に無視して走り出した部下の後ろ姿を眺めた。……多分、溜め息も聞こえていなかっただろう。今火を消したばかりにも関わらず無性に葉巻を吸いたくなった。
新しい葉巻を又一本取り出そうとして──止める。
目的地へ到着して火を消して仕舞うならば、此の距離で新しいのを無駄にしてしまうだろうと、そう考えたからだった。
既に大分近く迄近付いていた。
白木が大荷物のまま二人の子供の方に倒れ込むのが見えた。
一人は上手く抜け出して、さっさと中に荷物を運び込んでいるのを確認する。
時間としては、白木よりも少しばかり遅れた程度であったろうか。
到着すると、其処には部下に未だ抱き着かれるようにされる少女が居た。
逃げられなかったのは彼女であったらしい。
少女は抱き着かれた体勢で困った様にし乍らも、広津に小さく会釈した。
何処か大人びたようにも見える子供だった。
風に靡く栗色の猫っ毛を押さえつつ、黒みがかった
然し、他に特筆すべき何かは無い。
そんな普通の少女、探せば幾らも居そうな子供だ……此の部下はどうやらその子を滅法可愛がっているようだったが。
ポートマフィアの構成員らしからぬ姿に思わず額を押さえる。
何も云わずには居られなかった。
「……白木、そろそろ離れてはどうかね」
「妹が足りません。もう少しこのままで善いっスか」
「…………兄さん」
即答する白木に少女が呆れた声を上げ、「すみません」と何処か諦めたように呟いた。
「判るけど、後でね」
「朧、お前…………立派に為ったな」
「前と変わってないと思うよ? 其れ、多分大分前の話だと思うんだけど……本当に、すみません」
無理矢理に白木を引きはがした少女は、「朧です。兄がお世話になってます」と改めて頭を下げた。されるがままに為っていたのは、抜け出せないからでは無かったらしい。
白木を放り出し礼をすれば、交織りの生地で造られているだぼついた裾がちらりと揺れた。
気付けば他の子供たちは居なくなっている。
「弟が中に入れました。見苦しかったら申し訳ないので」とその疑問に答えるように云う少女に対して、広津は此の少女が「朧」なのだろうと推察した。
心なしか静かに思える中、広津は少女に向かって手を差し出した。
「私は広津……広津柳浪と云う。出迎えまでさせてすまないね」
少女はいいえ、と微かに首を横に振り、広津の手を取り握手をした。
──その時の違和感を、何と表現したらいいか、広津には解らなかった。
至って普通な少女であった故に、それは不意打ちのようにも思われた。
それでつい【異能】を出してしまう程驚かされた訳でも無いが、それでも少し、驚かされるものがあった。
只それが初めての感覚であったのは解る。
そして、広津がぴくりと眉を動かしたと同時に、少女の表情に驚きの混じるそれが在ったのを認めた。
手袋越しに、少女の手が強張ったのを感じ取る。
「………………⁉」
「之は────」
思わず手を離した少女に思わず漏れた詞を、果して聞いていたのかいなかったのか。「広津さん」と、何時の間にか白木が起き上がって、割り込むように身体を差し込んでいた。
遮るように云われたのはきっと、気のせいでは無かった。
然しそれを広津がそれについて言及するより前に彼は「朧、又後でな」と云って進む事を促した。
「────うん、後でね」
「……………………」
手を離し、不自然に急かす白木に連れられ乍らも広津が振り返れば。
握手した方の手を離した状態は変わらず、中途半端にその手を持ち上げたままに少女も又、広津のことを見詰めていた。
どうやら、見かけ通りの普通の少女では無かったらしい。
見誤ったのは、異能者が醸し出す特殊さを感じなかったからであった。
或いは、彼女が
その口元が、声を出さない状態で何と云われたのか、その握手を経たからこそ理解できた。
い、の、う──。
【異能】。
少女はそう云って、何処か真剣にも思える表情で広津を見送った。
**
「……何故止めた?」
何処か部屋に押し込んだのか、子供たちは見当たらなかった。
問い掛けに、白木は広津の隣、苦笑ともとれる表情で、「
単に広津の表情から、何かを察しただけなのだろう。
恐らく位置的に、少女の顔を捉えられなかったというのもある筈だ。
それで善いのだ、と広津は思った。
識らない方が善い、寧ろ識る可きでは無い。
見えない罅が今の関係を未だ壊さないでいるのならば、それに越したことは無いのだから。
「広津さん、興味が湧いたみたいな顔してましたけど、朧は普通の子です。普通の子で、俺の妹だ」
「……否定はせんがね」
────然し此れからどう成るかは判らないだろう。
そんな言葉は、胸の内に留めた。
自身が彼女と同類たる
『そうすれば出来る』のだと、曖昧に、殆ど感覚で用いているもの。
然し限りなく自分に近く、或いは自分そのものである何かが作用して表れた超常。
異能…………広津自身完全に把握しきれぬ其れに『何か』が触れたような、否、明確に干渉されるものがあったのを感じ取っていた。
それは明らかに、異能であった。
あの少女が、内側に抱えているものは。
そして残念なことに、大体にして、
──曰く、異能がそれを所持する本人を倖せにするとは限らない。
自身の身の内が招いたことを受け入れられるか否か? それは、本人次第だ。
どちらにせよ、異能力者は必然的に
自身がそれを真正面から見据えることが出来る者であるのか、或いはそこから目を背け不本意を抱え乍ら生き続けるのか。
その選択を迫られる、只それだけのことだ。
殺風景な外の景色を臨みつつ進む先に、扉があった。
『院長』──その男が居るという部屋の前で、白木がノックをする。
「院長、入るっスよ」
「失礼する」
そうして、扉を抜けて進んだ先へと踏み踏み出した先──狭苦しいくらいにびっしりと本に覆われる小さな部屋が、其処に在った。
正に城だと、そう云い表して善いだろう。
本。
視界を埋め尽くすように、ひたすらに其れだけが、目についた。
見渡す限りに有って、そのうちこの部屋からもはみ出してしまうのではないかとも思えてくる。此処までくれば、いっそ壮観と云って善い位だ。
狭い部屋でこの様相の割に圧迫感があまり無いのは、大きめの窓から外を眺められるからだろうか。カーテンは古びたもので、所々の解れが目立つ様に在る。
足の踏み場も無いような場所で、然し通り路の様に連なる隙間を縫うようにすれば、丁度部屋の真ん中に来た辺りで、奥から声がした。低く平坦な男の声だ。
「狭き門より入れ、滅に至る門は大きく、その路は廣く、之より入る者多し………………」
入ってから、出迎えとも云うべき言葉は其れだった。
開口一番、本から顔を上げもせずに、其んなことを男は云う。
広津は立ち止まって辺りを覆う本を退かし、またその内の一冊を徐に拾い上げ乍ら言葉を引き継いだ。
「生命に至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者少なし」
神は信じていないが、有名な一節を識らぬ程学が無い訳では無かった。
「は」と云った白木の呟きを無視して広津は眉を僅かに上げ、まじまじと彼を観察した。
広津よりも幾分か年齢は上だろう壮年だ。
本の塔の陰にあってよく見えていなかったが、声の方向を改めて見遣れば、白尽くめの装束を身に纏い本の山のその更に奥に座しているのを見ることが出来る。
「手紙は見た。大体の想像はつくが……貴様等からは未だ其んな話を貰ったことは無かったな」
「態々機会を設けて頂いたことは、感謝している」
目が、その黒々とした眼差しで以てゆるりと上向き此方を見詰め、広津は其れに正面から相対する。手に取った本を近くにあった本の塔の、其の更に上の天辺に乗せれば、僅かに足の踏み場が増えた。
向かい合っている男は、にこりとも笑わなかった。
手に持つ其れに手を置いて、誰に聞かせるでも無い様な呟く声で、その実明確に、正面の広津へと語り掛けていた。
「此の一節を読むと何時も思う……大体の者が至る路を過ちとするならば、いっそ
「……返事は必要かね?」
「
改めて、とでもいうようにもう一度広津を見遣った。
…………白木が遠ざけるのも解る気がした。
どこか無機質で、一見底の見えないようにも見える目だった。この冗談好きな部下とは絶対に気の合わないだろう、そんな人種であると察した。
「話が有るらしいな、聞こう」
男が切り出し、広津は頷いた。
もとより此の時の為に来たのだった。其れが今回広津に課せられた役目である。
広津は口を開いた。
「では────」
思わず出してしまった『狭き門』。云わずもがなアンドレ・ジッドの『狭き門』から。
ジッドのメジャーなのは狭き門だよなあと思いつつ、文スト小説『黒の時代』にて織田作と語り合い(?)をする最期で敢えて『一粒の麦もし死なずば』を引用してくる作者さんには脱帽と云うしかありませんです、はい。
※
やっと
原作開始時は50歳らしいので、原作十数年前の本作においては30代半ば位の素敵なおじさまで想像して下さい(キリッ
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お気に入りがじわっと増えてて感激。
皆、織田作が好きなんだね。思わずにっこりしてしまいました。