輪道、始めます
「はっ、はっ、はっ、はっ……」
四月。
爽やかな朝焼けの街並みが動きだそうとしていた。
傍らを抜ける長距離トラックの尻を追い駆けるように、黒のセーラー服の少女がペダルを踏む。
しかし、意気込みとは裏腹に、安物のシティサイクルは容易く前には進んでくれない。
ここから先、斜度10度を越そうかと言う勾配が、延々と500mは続く。
激坂とまでは言わずとも、茨城県立大洗はまぐり高校に通う新入生たちの自転車通学を再三に渡り阻んで来た、難所中の難所である。
「ぬぎぎぎぎ」
それでも少女は必死の立ち漕ぎで、意地でも自転車を降りようとはしない。
年頃の女の子にあるまじき形相で歯を喰いしばり、健康的に焼けた太腿をぷるぷると震わして。
学生鞄を入れた歪んだ買い物カゴが、踏み込む度に右に左にふらふら揺れる。
知っているのだ。
この地獄の心臓破りを乗り越えた先に何が待つのか。
「ううぅうううぅぅぅ~~~~~……」
キィィ、とチェーンを軋ませて、とうとうママチャリが踏破に成功する。
ベクトルが動き、車体が前傾となり、やがて、緩やかに加速を始める。
「みだあああああぁぁぁぁ―――――――っ!!」
困難を乗り越えた少女の前に、瞳一杯の水平線が広がっていく。
頬を撫ぜる風の中に、仄かに潮の香りが混じる。
ここから先は、海岸線を望む緩やかな下り坂がどこまでも続く。
少女の朝が始まるのだ。
「いぃやっほ~ぅ!」
まるで新たな冒険でも始まるかのように、なだらかな勾配をブレーキも握らず加速していく。
スカートの裾が翻るのを気に留めず、亜麻色の二つ編みのおさげがバタバタと風に跳ね上がる。
雪に埋もれた北海道の山裾から越してきて一か月。
この海岸線の風景が、少女は好きだった。
大家族に囲まれて暮らして来た田舎者の女の子にとって、下の兄との慣れない二人暮らしは少々寂しくもあるのだが、そんな日々の中でもこの時間帯の海岸線は、とびきりお気に入りの風景の一つであった。
「ありゃ?」
集合住宅の前に差し掛かった所で、きょとん、と少女が目を丸くした。
高校経由のバスが停まるフードの中に在ったのは、鞄を下げて文庫本に目を落とす、日本人形のような前髪ぱっつんのボブカット。
少女のクラスメイトだ。
話しかけた事こそ無いが知った顔である。
人懐っこい猫目から悪戯の虫が湧き出し、再び少女が愛車のペダルを踏み締める。
「コ~バ~ヤ~シ~さぁ~ん」
彼方からの呼び声に、ふと、ステップに乗りかかった足が止まる。
文庫サイズの書籍から顔を上げ、ぱっつんの文学少女が声の方を振り返る。
「おっはよぉ―――――――――ぅっ!」
「えっ? あ、ひゃあっ!?」
その鼻先を、気合いの入ったママチャリが、びゅおんとドップラー効果をきかせて通過する。
一陣の風が、吹き抜けた。
「えと、マ、マユヅキ、さん……?」
嵐のように過ぎ去って行く同級生の背中に、ぽつり、と少女の呟きがこぼれた。
やがて文学少女は、はっ、と思い出したように、いそいそとバスへと乗り込んだ。
・
・
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マユヅキ・ミカ(繭月実夏)、15歳、牡羊座のO型。
趣味:レトロゲーム集め、憧れの男性:シルヴェスター・スタローン。
北海道は四男二女の農家の生まれで、三つ上の兄の大学進学にひっついて遠路はるばる大洗までやってきた、生粋の道産子である。
天真爛漫、好奇心旺盛で万事において物怖じしない性格で、無邪気で素朴な妹系キャラとして、大洗はまぐり高校1年C組の人気者となっている。
盛夏の十勝平野に降り注ぐ太陽のような眩い日差しの少女。
終始引っ込み思案で、友達を作るのが下手な自分とは真逆の存在、と。
前髪ぱっつんの文学少女、コバヤシ・ヒロミ(小林ひろみ)は、教室での彼女を遠目に見ながら、一人ため息を吐いていた。
しかし、はま校入学から一週間。
今朝の彼女は、これまで全く接点の無かったミカの事が非常に気になっていた。
なぜならば……。
(……まだ、ついて来てる)
ちらり、と後部座席より歩道を見下ろす。
件のママチャリは、未だ通学バスの斜め後方に喰らい付いていた。
こちらの視線に気が付いて、車上のミカがぶんぶんと片手を振るう。
何が彼女をそうまでさせるのか?
変速機構も無い10,800円のシティサイクルで必死に。
『――次は、大学病院前、大学病院前』
車内にアナウンスが響く。
降りる客はいない、バス停をスルーして車両がいよいよスピードに乗る。
ディーゼルエンジン、対、どさんこエンジン。
否応なく引き離され、ミカの姿が徐々に小さくなっていく。
と、そこでいつもの気紛れが出たものか、ふっ、と不意にミカの自転車が脇道に逸れた。
路地裏に消える少女の姿に、ふう、と小さな溜息が漏れる。
それが安堵の溜息なのか、それとも別のものなのか。
とにかくヒロミは膝の上の文庫へと視線を戻した。
文学少女、コバヤシ・ヒロミにとっての日常が、ようやくここに還ってきたのだ。
『――次は、大洗はまぐり高校前』
活字の海に集中する事、十五分。
ブザーの音にかろうじて我に返り、慌てて網棚の上の鞄を手に取る。
やがて、ゆっくりとバスが停車し、校門までの長い長い坂が見えてくる。
「おっはよ! コバヤシさん」
「ひゃあっ!?」
ステップを降り立った瞬間、不意に真横から声をかけられ、手にした文庫を取り落とした。
「マ、マユヅキ、さん、どうして……?」
「へへ、びっくりした? びっくりした? びっくりした?」
ぱちくりと目を丸くしたヒロミの前で、喜色満面、汗だくのマユヅキ・ミカがにひひと笑う。
初めて間近で見た十勝の太陽は、また一段と暑苦しかった。
「え、ええと、どうやってバスよりも早く?」
「ん、町中をまっすぐ突っ切ってきたらすぐだよ」
「
「そ、自転車かついで境内をショートカットすんの。
最近見つけたルートなんだけどさ」
「は、はあ……」
あまりの育ちの違う屈託の無い笑顔に、思わずヒロミが間の抜けた返事で応える。
と、そこでミカは足元に落ちた文庫に気が付いた。
「ありゃりゃ、ゴメンゴメン。
ほら、本、落としてるよ……って、アレ?」
「ふぇ、あっ! ひゃ、ひゃあっ!?」
見上げるミカの瞳に疑念の色が浮かぶ。
それもそのはず、本を落としたはずのヒロミの手の内に、もう一冊、別のハンドブックがある。
慌てた彼女が表紙を押さえるも、時すでに遅し。
「えっちじー、ガンプラ名鑑200選……? ???」
「は、はぅぅ」
ジャック・ヒギンズが傑作戦争小説の偽装の下から現れたタイトルを、まじまじと読み上げる。
前髪ぱっつんな文学少女気取りの頬が、たちまち耳まで熟れた林檎のように真っ赤に染まる。
コバヤシ・ヒロミ、16歳。
茨城県立大洗はまぐり高校入学から一週間、クラスメイトにガノタがバレた。
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「へえ、ヒロミさん、ガンプラが好きなんだあ」
「は、はい、そうなん、です」
校門に向かう緩い上り坂。
活気に満ちた登校風景の端っこを、いかにも肩身狭そうに文学少女(偽)が歩く。
その傍らを、安物のシティサイクルを押して、ドラ猫のような気紛れな少女が追って来る。
大洗はまぐり高校入学から今日まで、まともに口を聞いたことも無いクラスメイト同士である。
だがどうした事か?
一冊のハンドブックの存在が、今日の猫目の少女には、とびっきりの玩具に映ったようであった。
ふーむ、と一息ついて、曰くありげにミカが唸る。
「ふーん、なーんか意外だなぁ。
ヒロミさんってさ、いかにも『活字の虫!』って感じだと思ってた」
「えっと、あの、おかしい、でしょうか?」
「ほぇ? なんで?」
「その、年頃の女の子が、プラモデルなんて」
「うんにゃ、そうでもないっしょ、普通だよフツー。
あ、そうそう、ガンプラバトルって言えばさ、昨日の特番見た――」
「普通……、うん、ですよね」
再び一方的に語り始めたミカを横目に、ほっ、とヒロミが胸を撫で下ろす。
この突飛がセーラー服を着て歩いているような少女にとっての『普通』がどの程度のラインなのか、ヒロミには分からない。
だが、少なくとも数少ない知人に奇異の目で見られるリスクだけは回避できたようであった。
(――!
ううん、違うわヒロミ。
考えようによってはこれはチャンス、チャンスなのよ)
とくん、と一つ、ヒロミの鼓動が跳ねる。
新天地、大洗はまぐり高校での生活の始まりより今日で一週間。
天啓は向うからやって来た。
いい加減、己を殺して壁の紙魚のように息を潜める日々とは、ここでおさらばするべきなのだ。
そう意を決して顔を上げ、傍らのおしゃべりなミカに向き直る。
「――でさ、そこでやっとこさレディー・カワグチが到着。
真っ赤なチェンソー担いだファルシアで、居並ぶゲストをぎったんばったん……」
「あ、あのっ! マユヅキさん!」
「うん、なぁに?」
「え、えっと、マユヅキさんはその、ガンプラバトルは……?」
ガチガチに緊張した声色で、コバヤシ・ヒロミが問いかける。
きょとん、とミカが猫目を丸くして首を傾げる。
「あたし? いやあ、それがあたしは全然でさ。
一度お兄ちゃんとバトルした事はあるんだけど。
なんて言うか、二本足のロボットを動かすってのが性に合わなくって。
あたし、他人と競い合うのもあんま得意じゃないしね」
「そ、そう、ですか……」
しゅん、とたちまち決意が萎える。
しおれた花のように肩を落とす文学少女(偽)の姿を、ぱちくりと猫目が見つめ続ける。
「……けど、ヒロちゃんがガンプラ動かす所なら、ちょっと見てみたい、かな?」
「えっ?」
「行こっか、プラモ屋? 今日の放課後。
授業もちょうど早く終わるしね」
「きょ、きょきょ、今日、ですか?」
「きーまりっ、ねっ!」
はっ、と顔を上げたヒロミの前で、猫目の少女がにっかりと笑みを見せる。
校門を抜けると、ほどなく予礼のチャイムが聞こえて来た。
「いっけない! あたし、自転車置いてくる」
「あ、マユズキさ……」
「ミカでいいよ、ヒロちゃん!
続きは教室でね」
ぶんぶんと片手を振って、おさげの少女が生徒たちの群れの中へと消えていく。
はま校の一日が始まるのだ。
「……ヒロちゃん?」
一人残された学び舎の前で、ヒロミはぽつり、と馴れ馴れしい少女が付けた自分の名を呼んだ。
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茨城県立大洗はまぐり高校。
生徒数ジャスト300名、生徒の平均学力は県下で中の中。
飛び抜けてこれといった部活も無いが、大洗の後にはまぐりと続く安直なネーミングセンスや、太平洋を望む港町と言うロケーションが、生徒たちからそれなりに愛されている、どこにでもある普通の普通高校である。
普通の普通高校であるがゆえに、在校生たちは進学校特有の緊張感や体育会系ノリの縦割り社会に悩まされる事もなく、何とは無しのゆるい空気の中で、それぞれに青春を謳歌している。
生温い四月の午後。
終業を告げるHRのチャイムが鳴り、教室のそこかしこで雑談の華が咲き始めた。
「え、ええっと!
じゃ、じゃあ私、一度、ガンプラ取りに戻りますから」
「うん、それじゃヒロちゃん、4時にアウトレットモールで」
短い挨拶を交わし、ヒロミが小走りで教室を後にする。
ほうっ、と一つあくびして、ミカもまた、おさがりの男モノの学生鞄に教科書を詰め始めた。
「……おい、ミカ、今のは何だ?」
「ん、三バカじゃん、どしたの?」
ふと横合いから声をかけられ、ミカがちらりと猫目を向ける。
視線の先にいたのは、それぞれに個性的なキャラ立ちをした、どことなくバカっぽい三人のクラスメイトであった。
三バカ。
マイ、カオリ、ギンガの幼稚園時代からの付き合いだと言う三人組に対し、入学三日目にして周りから付けられた呼び名である。
年頃の女子高生に付けるにはあまりにも惨いネーミングセンスだが、当の本人たちがその名を気に入っているので誰も止める者がいない。
「マユヅキ大尉!
いつからコバヤシ氏とあのように親しげに挨拶をかわす仲になったのでありますか?」
「うん、今日だよ、これから一緒に遊びに行くんだ」
癖の強いモジャモジャ頭を揺すり、三バカ一番手、オリハラ・マイ(折原舞)が身を乗り出す。
本人は秋山優花里嬢のような愛され系技術中尉を目指し邁進しているつもりだが、その落ち着きの無いちんまりとした姿ゆえ、周囲からは『タマちゃん』『二等兵』などと渾名されており、本人の希望よりむしろ階級は下がっている。
「いやいや、あの無口なコバヤシさんを口説き落とすとは、やっぱミカはすげえわ」
三バカの参謀役、イイツカ・カオリ(飯塚香織)がニヒルに笑う。
片目が隠れるほどの長い黒髪に、スレンダーな長身が映える時代錯誤のロングスカート。
いかにも神隼人がTS転生でもしたかのような二号機系パイロットの風格を醸す少女であるが、その実態はさりげなくミカを褒めるのが趣味と言う、どこにでもいる普通の女子高生である。
「三バカも来る?」
「フハハハハ、ミカの初めてのデートを邪魔するほど小生はバカではないぞ。
それに小生たちにとっても、放課後は貴重な……」
三バカの御大将、ヨロズヤ・ギンガ(万屋銀河)が、ピンとアホ毛を突き上げ高らかと笑った。
トレードマークの右目の眼帯について、入学早々、担任のデコちゃんから呼び出しを喰らった伝説を持つ分かりやすいバカであり、三バカのバカの部分を担うリーダー的存在である。
なお高校デビューのため、バカっぽい見た目ほどにはバカでもない。
ついでに視力は両目とも2.0ある。
「そんな事より大尉、時間の方は大丈夫でありますか?」
「平気平気、新しいショートカットを使うからね」
「あのママチャリで行く気か? タフだなあミカは」
「っておいい、少しは小生の話も聞いてくれよ~!」
ぐずり出した御大将を二人がなだめている合間に、鞄を背負ってミカが教室を後にする。
いつも通りの学校、いつも通りの授業、いつも通りの友人たち。
「そんじゃ、まったね~」
そして、いつもとは少し違う、ミカの放課後が始まろうとしていた。