東京のショッピングモールの小さな広間。まだ高校生の私は学校の制服ではない紺色のブレザーを着て小さなステージに立っている。私の立つ小さなステージの前には百人前後のお客さんたちがマイクを両手で握り締める私だけを見つめていた。私に向かって必死に手を振ってくれる人、たった一人でステージに立つ私を勇気づける笑顔を送ってくれる人、そして私の名前を何度も何度も呼んでくれる人――……。
それは何度も何度も私が憧れた、夢のような世界だった。この世界の主役は私で、ここにいる人たちは私の歌を聴くためだけに集まってくれた人たち。そんなことが脳裏を掠めると思わず目頭が熱くなってしまった。涙を溢さないようにと一度だけ強引に鼻を啜ると無理矢理お客さんたちから目を逸らそうとわざとお客さんたちの埋め尽くす広間の後方へと視線を逃がす。だがそんな私を逃がさないと言わんばかりに、大勢のお客さんたちの後方には大好きな後輩たちが私を溢れんばかりの笑顔で見つめていた。
「何してんのよ。もしかして緊張してる?」
舞台袖から突然聞こえてきたのは律子さんの声。律子さんは少し意地の悪そうな表情で私を見つめている。
「みんなちひろ君の歌を待っているんだ。早く君の綺麗な歌声をお客さんたちに届けてあげなさい」
律子さんの隣で腕を後ろで組み、まるで我が子を見守るかのような暖かな眼差しで私を見つめてくれているのは高木社長だ。
その暖かな眼差しに応えるように私は頷く。そしてもう一度だけ鼻を啜るとマイクを少しだけ強く握り締めたのだった。
Episode.5
「皆さん、今日のライブでご不明な点とかありませんか?」
恵子の結婚式からあっという間に時間が流れた。あれだけ鬱陶しいほどに振り続いた雨が恋しくなるくらい、最近は暑い日が続いている。私が運転するこの車の中もクーラーが効いているのに関わらず、外の唸るような暑さのせいかどうにも涼しい気がしない。バックミラー越しに見える後ろの若い三人もさすがにこの暑さには苦戦しているようで少しばかり疲れた表情を浮かべていた。
「だ、大丈夫です! 今日も頑張ります」
「しまむー、頑張るのは良いけど頑張り過ぎて倒れないようにね」
「はい! 頑張り過ぎないように頑張ります!」
卯月ちゃんの言葉に少々疲れた表情を見せていた未央ちゃんと凛ちゃんは頬を緩めた。
今日は卯月ちゃんと未央ちゃん、凛ちゃんの三人のユニットであるニュージェネレーションズのミニライブが予定されていた。プロデューサーはクライアントとの打ち合わせもあったため先に現場入りしており、今日は私がこうして三人を会場に連れていくことになっていたのだ。
ミニライブが行われる今日の会場は東京のショッピングモールで、私が最後のアイドル活動を行った場所だ。そのせいか、今朝は久しぶりに懐かしい夢も見てしまった。あの日以来足を運ぶ機会がなかった場所に、八年が経って今度は私がアイドルを連れて行く側として足を運ぶことになったのだから縁とは本当に不思議なものだ。
だが八年前と今とでは全く状況が違う。私と違ってニュージェネレーションズはそれなりの集客率を計算できるほどのユニットだし、何より今日はあの日のような大雨も降っていない。そもそもニュージェネレーションズのような人気のあるユニットが極端にキャパの狭いショッピングモールでライブを行うことになったのも、今年の十一月に開催が決まった346プロのアイドル部門設立五周年記念ライブのスポンサーにこのショッピングモールが名乗り出てくれたからであって、今のニュージェネレーションズと八年前の私とではこのショッピングモールでライブを行うそもそもの理由が違っていたのだ。ようは今回のミニライブは秋のライブの宣伝を兼ねたライブであって、それなりに人気のある今のニュージェネレーションズからすれば少しばかり不似合いな会場と言っても過言ではないのだから。
高速を降りて五分ほど車を走らせ、記憶の中の姿より少しだけ広くなったショッピングモールの駐車場に車を停めた。数年前の舗装工事によって広くなったこの駐車場、まだ新しい真っ黒なコンクリートの上に私は降り立つと色々な情景が目に浮かんできた。初めてこのショッピングモールで『お願い!シンデレラ』を歌った日の帰りの車の中で凄く律子さんに褒められたこと、ここでの二回目のライブでは沢山の人がミニライブ後に物販に並んでくれて温かい言葉をかけてくれたこと、そしてあの大雨の中が降り注ぐ中で殆ど人の居ないショッピングモールで律子さんと必死になって声を出し続けたこと――……。
ここでライブを行う度に毎回応援に来ては先頭で私を見ていてくれたあの青年は今どうしているだろうか。私のことを憧れと言ってくれた小さな女の子は今はどんな女性になったのだろうか。
そんな、今まで思い出しもしなかった沢山のことが私の脳裏に浮かんできたのだ。
「……ちひろさん? どうしたの?」
感傷に浸っていた私ははっと我に返った。いつの間にか車を降りていた凛ちゃんがギラギラと私たちを容赦なく照らす太陽の光に目を細めている。
今日は仕事で来たんだからしっかりしなきゃ――……。私は知らぬ間に額を流れていた汗を、軽く右の手の平で拭った。
「ごめんなさい。あそこの関係者入り口から入ってプロデューサーさんと合流してください。私は事務室にこれを持っていきますから」
「りょーかいですっ! じゃ、プロデューサーのとこに早く行こうよ」
未央ちゃんは一度だけ私が右手に握った十一月のライブの告知ポスターなどが詰め込まれた紙袋に視線を落とすと、すぐに卯月ちゃんと凛ちゃんと顔を合わせ暑さに負けない笑顔で関係者入り口の方へと走り去っていった。そんな未央ちゃんに遅れまいと、慌ててついて行った卯月ちゃんと凛ちゃん。暑さに負けない元気な若い三人を見て思わず笑みを浮かべると、私は車が閉まっていることをもう一度だけ確認して三人が走り去った方とは逆の方へとゆっくりと歩き出した。
駐車場とは違い、建物の中は八年前とあまり変わっていないような気がした。入館手続きを済ませ、階段を登った先の二階の倉庫のドアが並ぶ薄暗い廊下に私の足音だけが鳴り響いている。窓がなく太陽の光を遮断しているせいか、この薄暗い廊下の空気は少しばかりひんやりとしていた。先ほどまでの暑さとは真逆で、薄着だった私の身体には小さな鳥肌が駆け抜ける。
暫く歩いて事務室の灯りが見え始めた頃、私は壁のコルクボードに貼られたポスターを見て足を止めてしまった。ポスターにはニュージェネレーションズの定番となった赤い衣装を着た三人が溢れんばかりの笑顔で映っており、その三人の下には『突如現れた新時代の三人組!』のフレーズが添えられている。私の頃はこんな立派な告知ポスターなんてなかったのになぁ、なんて心の中で呟いてしまい、思わず苦笑いをしてしまった。
「あら、346プロの方ですか?」
ポスターに目を奪われていて、人の気配に全く気付かなかった私は咄嗟に肩を上げて振り返ってしまった。振り返った先には胸元に小さくショッピングモールのロゴが入った白いポロシャツを着た少し猫背の年配の女性が私を見つめている。慌てて右手に握っていた紙袋を冷たい廊下の上に置くと、ポケットから銀色の名刺ケースを取り出した。
「み、346プロダクション、シンデレラプロジェクトのアシスタントをしています千川ちひろと申します。本日はよろしくお願いします!」
慌てて名刺を取り出したせいか、少しばかり口調が早口になってしまった。何だかそれが恥ずかしくなって顔が熱を帯びていく感じがした。そんな顔を隠すように両手で名刺を差し出し、勢いよく頭を下げる。だが、名刺はいつまでたっても私の手に握られたままだった。
恐る恐る顔を上げてみる。そこには名刺がまるで見えていないかのように、驚いたようにして見開いた目で私だけを見つめる女性の姿が目に映った。
「……ちひろちゃん? ちひろちゃんじゃない!」
「…………え?」
次の瞬間、年配の女性は嬉しそうに両手を広げると小さな細い腕で私を力いっぱい抱き締めてくれた。
何が何なのか、全く状況が理解できていない私は思わず名刺を落としてしまい、ただただ女性に抱き締められて固まっている。暫く熱い抱擁を交わしてくれた女性が突然パッと手を離すと、私から少し離れて怪訝そうな表情で私の眼を覗き込んだ。
「もしかして私が誰か分からない?」
「え? え、えぇ……。すみません……」
私の口から出た言葉は思っていた以上にか弱い声になってしまった。そんな声を聴いて女性は腰に手を当てて苦笑いをしている。
「ホント、声が小さいとこはあの頃と変わらないのね。あなたのCD、まだ私持ってるのよ?」
「CD……? ま、まさかあの時の!?」
そこまで言われて、ようやく思い出した。私がアイドルを辞めた日の前日、このショッピングモールで全く売れなかった私のCDを買ってくれた人の顔を。あの時は私以外にもう一人だけ買ってくれた人がいて、その人こそ今私を抱き締めてくれたショッピングモールの社員さんだったのだ。
あの頃から随分と姿が変わってしまったように思えた。背中は猫背になっているし、髪も白髪が多くなってしまっている。何より記憶の中の姿より遥かに増えたシワが八年の月日が流れたことを証明していた。だけど、暖かくて優しい眼差しと人懐っこい性格だけは八年前と何も変わっていなかった。
「ようやく思い出してくれたようね。美人さんになっててビックリしたわ」
女性はそう言ってあの頃と変わらない優しい笑顔で私にそう言ってくれた。
☆☆☆☆
「そう、アイドルを辞めた後は大学に行って346で働いてたのね……」
ニュージェネレーションズのミニライブまでまだ時間もあり、こうして半ば強制的に事務所の隅にある応接室に連れてこられた私はあの雨の日から今日までの事を簡潔に話した。お喋り好きの女性だったが、私の話を聞いている間は何も口を挟まずにただただ黙って聞くことに徹し、一言も口を挟まなかった。そして一通り話し終え、私の前で氷が入った麦茶のグラスを握り締めた女性は静かに呟く。女性の表情は少し寂し気な表情にも見えた。
「後から秋月さんから聞いてはいたけどビックリしたわ。突然辞めちゃったんだもん」
「お世話になったのに挨拶もせず、すみません……」
「いいのいいの、今こうして元気な姿を見られて安心したわ」
寂し気にも見えた表情を崩し、何度も見慣れた優しい笑顔で女性はそう言ってくれた。そんな女性を見て、私の生まれ育った田舎町を思い出す。私の故郷のように人口が少ない町では住人同士の距離が都会より遥かに近く、私が小さい頃も近所のおじさんやおばさんたちがまるで我が子のように私を可愛がっていてくれた。あの都会にはない、田舎町の独特の暖かい雰囲気が私は好きだった。
そんな、昔私を可愛がってくれた近所の大人たちの姿と目の前の女性の姿が重なって、懐かしい気持ちになったのだ。懐かしい気持ちを思い出したあまり、久しぶりに地元に帰りたいなぁ、なんてことまで考えてしまう。
「ちひろちゃんね、此処の従業員の中でも評判良かったのよ?」
「そ、そうなんですか?」
「えぇ。結構こういうショッピングモールに色んな有名人たちがイベントで来るんだけどね、中には態度が悪い人もいるのよ。でもちひろちゃんは礼儀正しかったしちゃんと挨拶もするし愛想も良いし。みんな言ってたわ、『765の子は本当に良い子ね』って」
「そんな……。そもそも私は『アイドル』って言っていいのか分からないほどの無名でしたから」
女性の言葉が妙に照れ臭くて、私は苦笑いをしながら前髪を弄った。当時の私からすれば小汚い都会の路上でも、ショッピングモールの小さなミニライブでも、私の歌を聞いてくれる人がいる場所が私にとっての幸せな場所だった。だから私は感謝をしていたのだ。私に歌わせてくれて幸せを感じさせてくれる機会を作ってくれた沢山の人たちに。
暫く黙ったまま温かい眼差しで私を見つめていた女性はふと小さく笑うと、ゆっくりとソファから腰を上げる。付いて来なさい、と言わんばかりの瞳で私を見ると、そのまま黙って応接室から出て行ってしまった。慌てて私も立ち上がり、事務室の中を歩く女性の後を無言で付いていく。事務室には数人の若い社員たちがパソコンを睨んでおり、静かな事務室にはキーボードの音だけが響いていた。そのうちの一人の若い男性が私に気付き、キーボードを叩いていた手を止めてチラッと一度だけ私を見ると、軽く静かに一礼して視線をパソコンの画面へと戻した。その男性にならって私は思わず立ち止まって頭を下げてしまい、女性との距離は広がってしまった。少しばかり開いた女性との距離を縮めようと早足で女性の後を再び追い始める。
そしてようやく女性に追いついた頃、私の少し前を歩く女性はその足を止めた。女性の前にあるのは他の席とは少しだけ雰囲気の違う、座り心地の良さそうな椅子が特徴的な机だった。
「ちひろちゃん、これ覚えてる?」
女性の言う“これ”が何を指しているのか分からず、私は首を傾げた。そんな私を見て、女性は静かに微笑むと、猫背の背中を伸ばし、小さな指先で壁に貼られた何枚もの色紙の一番右端にある色褪せた色紙を指さした。
その色褪せた色紙には少し乱れた書体で『ちひろ』と書かれている。そしてサインの右下には日付も添えられていた。
――……二〇〇七年、四月十日。
肺の奥に潜む何かかが震えた気がした。
この日付は忘れもしない、私が初めて人前で私のデビュー曲である『お願い!シンデレラ』を歌った日だったのだから。
「可愛くて誰にでも優しくて礼儀正しくて――……、そんな貴女の事を此処のみんなが応援してたわ」
私は何も言わずに隣に立つ女性を見ていた。女性は私が書いた色紙だけを真っすぐに、何処か遠い過去を遡るような眼差しで見つめている。
「だからこそ……、ちひろちゃんには成功してほしかった」
眉を八の字にして、女性は寂し気な表情でそう呟いた。
そんな寂し気な表情を横目に、私は何も言えなかった。なんだかとても大きなことをやらかしてしまい、親から怒られるどころか呆れられてしまった子供のような、何とも言えない心苦しい気持ちになってしまったのだ。
☆☆☆☆
「それじゃあ、最後は私たちのデビュー曲、『できたてEvo!Revo!Generatin!』です!」
「みんなも一緒に付いてきてねー!」
卯月ちゃんと未央ちゃんの声。
そしてその二人の声に呼応するかのようにショッピングモール中に鳴り響く沢山のお客さんたちの熱狂的な声援。私と律子さんだけの声だけが響いていた時とはとてもじゃないが同じ場所には見えないような光景が広がっていた。
小さな子供も、若い男女も、そして年老いた年配の方々も、この狭いショッピングモールに押し込められたお客さんたちは皆楽しそうに三人のステージを見つめている。そしてそのお客さんたちの笑顔にも負けないくらいの輝かしい笑顔で、三人は小さなステージで踊って歌っている。
「良い子たちじゃない。さすがちひろちゃんが面倒見てる子たちだけあるわね」
「もうっ、私はただのアシスタントなんですってば」
私と女性は並んでステージから少し離れた場所からニュージェネレーションズの三人を見守っていた。どうやら私の言葉はお客さんたちの大歓声で掻き消されたようで、隣に立つ女性は楽しそうにステージを眺めたまま私の言葉に反応は示さなかった。私も何も言わず、暫くそんな女性の横顔を眺めて再び三人が輝くステージへと視線を戻した。
八年前、私は確かに此処に立っていた。あの三人と同じくらいの歳で同じように歌を歌って踊っていた。三人と同じ“アイドル”として、有名になることを、もっともっと輝く自分を目指して、前だけを見て進んでいた。
だが私は夢を諦めてしまった。当時は前を向いて走る事だけで必死で、気付けなかった沢山のことに夢を諦めて八年が経った今、初めて気付くことができた。どれだけ沢山の人たちが私の事を応援してくれていたか、そして突然消えた私の事をどれだけ心配していたのか――……。そのことを考えると複雑な想いになってしまう。私はこれだけ沢山の人に応援してもらいながらも夢を諦めた、それはあまりにも無責任なことなのではなかったのかと。
だが今になってそう思ってももう遅いのだ。いつも気が付いた時には手遅れで、どんなに願ってもどうしようもないことばかり。大切なことに気が付くのは決まって何かを失った時だ。長く生きれば生きるほどそういった後悔は付き物なのだと、いつか美城専務が私に話してくれた。
今でも私はあの時の決断が間違っているとは思わない。だけど未練がないかと言われれば、私はないとは言い切れない。たらればだがもしあの時、隣に立つ女性のように本当に私を応援してくれる人たちの気持ちをもっと理解していたのなら――……。もしかしたらあの時の決断は違っていたかもしれないのだから。
八年前に私が立っていたステージに今はニュージェネレーションズの三人が立っている。その三人の姿が八年前の私に重なって見えた。
――やっぱり良いなぁ。
歌いたい。三人のように大勢の人の前で私も歌いたい。
この時、八年前に私が立っていたステージで楽しそうに歌う三人を見て、私はあの決断から初めてアイドルを辞めたことを後悔したのだった。