【完結】Innocent ballade   作:ラジラルク

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Episode.3

 

 

 

 夕暮れ時を迎え、朝から変わらずに一日中どんよりとしていた空は少しだけ暗くなり始めている。小さくて細かい雨がアスファルトを叩く音、湿ったアスファルトの独特な匂いが私の鼻の奥まで伝わってきた。

 765プロを辞めたあの日もこんな天気だったな、なんて思わず振り返ってしまう。最近は何故だか昔の事を思い出す機会が増えた。仕事中にふと一息ついた時、こうして独りで帰路を辿ろうとしている時、そして東京の騒がしい騒音の中の小さなワンルームマンションで眠ろうとしている時――……。気が付けば私は無意識に二度と帰ってこない青春時代を振り返っている。

 過去に未練があるわけでもないし今からもう一度夢に向かおうだなんてことも考えていない。だけど―……、それでも私は765プロにいた頃の自分を思い出す度に胸の奥が締め付けられるような思いを感じていた。

 

 

 

 

「あら、ちひろさん。今帰り?」

 

 

 

 

 雨がアスファルトを叩く音の中、私の名前を呼ぶ声。

 傘をさしたままの私はその声の方へと振り向く。私の後ろ、正門の前では二人の女性が一つの傘に入ったまま、振り返った私に向かって笑顔で手を振っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやー、久しぶりね! ちひろさんも最近は忙しかったでしょ?」

 

「この時期は毎年大変ですよ。まぁ最近になってようやく落ち着きましたけど。お二人とも今日はお仕事なかったんですか?」

 

「私は午後からの取材だけで瑞樹さんは収録あったけど午前中で終わったんです」

 

「早苗ちゃんはバラエティーの収録で関西行ってるんだけどね」 

 

 

 

 

 私たち三人――……、私と川島瑞樹さん、高垣楓さんの三人は並んで薄暗いカウンターテーブルを前にして座っている。お客さんの数もまばらで静かなクラシックが流れているこのお店は楓さんに教えてもらった346プロ近くの路地裏にあるバーだ。店内には小さなステージが設置されており、時々この小さなバーが小さなライブ会場へと姿を変えているらしい。そんなお店に私と今一緒に並んでいる瑞樹さんと楓さん、そして今日は関西で収録を行っている早苗さんは頻繁に足を運んでいる。十代後半が多い346プロのアイドルたちの中で、数少ない私たち二十代半ばから後半組はいつからか自然と仲良くなり、こうしてプライベートでも頻繁に会ってはお酒を飲んだりしているのだ。

 

 

 

 

「今日は菜々さんは一緒じゃないんですか?」

 

「誘ったんだけどね、『菜々は十七歳だからお酒はー!』って断られちゃったわ」

 

「こ、この前は来てたのに……」

 

 

 

 

 瑞樹さんの言葉を聞いて思わず苦笑いをしてしまった。菜々さん本人は十七歳と言い張っているが、事務員でありアシスタントの私は菜々さんの本当の年齢を知っている。それは私だけではなく、ここにいる瑞樹さんと楓さんも、今は関西にいる早苗さんもだ。勿論、皆暗黙の了解で口には出さない。

 

 

 

 

「でも昨日私、仁奈ちゃんから聞かれたんです。『どうしてこの前菜々ちゃんは誕生日迎えたのに十七歳のままなんですか?』って」

 

「あはははは! 楓ちゃん、その話面白いわ! 仁奈ちゃん純粋過ぎでしょー、犯罪級の純粋さね。早苗ちゃんに逮捕してもらわないと」

 

「そんな話聞かされたら菜々さんをここに連れて来れませんね。仁奈ちゃんみたいな純粋な子の夢を壊しちゃ悪いですし」

 

 

 

 

 私たちが思わず声をあげて笑ってしまったタイミングで、カウンター越しで無言でお酒を作ってくれていたマスターが静かに私たちの前にカクテルを差し出してくれた。一礼しカクテルが入ったグラスを受け取るとマスターは無言で頷き、再び黙々と違うお客さんのカクテルを作り始める。

 私たち三人はマスターが作ってくれたグラスをそれぞれ手に取り、それぞれのグラスを軽くぶつけあった。カクテルが入ったグラスに口付けをすると、甘味のあるお酒が私の喉元へと流れ去って行く。一気に飲むのは勿体ない気がして、私はすぐにあまり減っていないグラスをカウンターの上へと戻した。

 

 

 瑞樹さん、楓さん、早苗さん、この三人はある意味特殊な経歴を持っている。三人ともスカウトされてアイドルになったのだが、今年で二十九歳になる瑞樹さんは二十六歳まで大阪でアナウンサーとして働いており、私と同じ歳の楓さんは二十四歳までモデルをしていたらしい。早苗さんに関しては二年前まで新潟県で警察をしていたという異色のキャリアの持ち主だ。

 この三人は私のようにスカウトされるまでアイドルになることなど考えたこともなかったらしい。それにスカウトされたのが瑞樹さんは二十六歳、楓さんは二十四歳、早苗さんは二十七歳と、世間一般的に見るとアイドルを目指すのにはあまりにも遅すぎる年齢だった。それこそ、何よりも“時間”の重さを知っている美城専務からすれば到底考えられないタイミングでのアイドル転向だったのだ。

 だが三人は私と違って、常識や前例をことごとく覆して見せブレイクすることができた。今となっては三人とも346プロを代表するアイドルとしてその名を世に知らしめている。

 

 

 安定した立場の生活を捨て、臆せず挑戦し夢を叶えた三人を私は本当に尊敬していた。そして、そんな三人がちょっとだけ羨ましくもあったのだ。

 

 

 

 

「……ちひろさん、黙り込んじゃってどうしたんですか?」

 

 

 

 

 楓さんの言葉で我に返った。私の隣の楓さん、その奥に座っている瑞樹さんは揃って私の顔を覗き込んでいる。どうやら私は二人を忘れ、自分だけの世界に入り込んでしまっていたらしい。

 

 

 

 

「ごめんなさい、ちょっと考え事してて……」

 

「考え事?」

 

 

 

 

 驚いたように首を傾げる瑞樹さん。

 はい、考え事です。そうとだけ返すと私は二人の視線から逃げるようにしてグラスを握り、再び冷えたグラスにそっと口付けをした。そしてそのまま初めの時よりもほんの少しだけ多くカクテルを喉元へと流し込む。その際に少しだけ上を向いた私の瞳に入って来たのは薄暗いオレンジ色の灯り、そして耳にはタイトルは分からないが何処かで聞き覚えのある静かな曲調のクラシックが響いていた。

 グラスから唇を離し、静かにカウンターの上へと戻した。その間も私は横目に二人の視線を感じていて、二人は何も言わずに私の次の言葉を静かに待ち続けていた。そんな二人の視線に逃げられそうにもないことを察し、私は苦笑いを浮かべながら二人の方へと視線を戻す。

 

 

 

 

「ずっと気になってたんですけど、お二人共どうしてアイドルになろうと思ったのですか?」

 

 

 

 

 私の唐突な質問に二人は揃って顔を見合わせた。そして眉を八の時にして困ったような表情を浮かべている。

 

 

 

 

「“どうして”って聞かれてもねぇ……。私はただ単純に楽しそうだと思ったから、かしら?」

 

「私もスカウトされるまではアイドルになることなど考えたことありませんでしたから、正直今でも良く分かりません」

 

 

 

 

 困ったような表情で眉を八の時にしたまま、二人は苦笑いを浮かべていた。

 ですが……、楓さんはそう静かに付け加えると笑顔を浮かべる。そんな楓さんの表情は私が今までで一度も見たことがないような幸せそうな表情をしていた。

 

 

 

 

「私、今本当に幸せなんです。歌うのも踊るのも楽しいし、何よりそんな楽しい事をしている私を見て嬉しそうにしてくれるお客さんの方々が沢山いてくれて。毎日が楽しくて刺激的で、本当に幸せなんですよ。だから、アイドルに転向して良かったと私は思っています」

 

 

 

 

 ボブカットの髪を揺らし、幸せそうにグラスを握っている楓さんは私にそう言って笑って見せる。そんな楓さんの瞳――……、不思議な力を持つ楓さんのオッドアイに私は吸い込まれてしまい、何も言うことが出来なかった。

 

 

 

 

「ふふ、楓ちゃんらしいわね。私もアイドルに転向して良かったと思っているわよ。ここだけの話、かーーーなり身内には反対されてたんだけどね、でもその反対を押し切ってまでアイドルに転向したのが間違いじゃなかったって今なら自信を持って言うことが出来るわ」

 

 

 

 

 そう答えてくれた瑞樹さんの瞳にも、楓さん同様に一ミリの迷いも感じられなかった。二人にはアイドルになる時に明確な理由や目標がなかったとしても、二人はそれで良かったのかもしれない。例え目標や夢がなかったとして、こうして二人は何の迷いもなく今の人生を「幸せ」だと胸を張って言う事ができているのだから。周りの人間が何をどうこう言おうと、本人が心の奥底から幸せだと言うことのできる生き方が間違っているはずがないのだ。そんな、今の自分が「幸せ」だと自信を持って言い切れる二人がなんだかとても眩しかった。

 二人だけじゃない、346プロのアイドルの殆どがそうだ。明確な目標がある者、そうじゃない者、色々な事情を抱えた人たちがいるが皆本当に楽しそうにアイドル活動を行っている。そんな皆の幸せそうな表情を見てると私まで幸せな気持ちになれるのだ。そんな皆の笑顔を私はとても眩しく感じていた。

 

 

 

 

「ちひろさんはどうなの?」

 

 

 

 

グラスを口元へと運んでいた瑞樹さんがグラスから赤い唇を離したタイミングでそう問いかけた。瑞樹さんの肘をついた右手に握り締められているグラスの中のカクテルはもう三分の二ほどなくなっており、オレンジ色のカクテルを染み込ませた氷が薄暗い灯りに照らされて輝いている。

私は瑞樹さんの質問の意味がよく分からず、思わず首を傾げた。

 

 

 

「え? 何がですか?」

 

「ちひろさんは今を楽しんでる?」

 

 

 

 

 咄嗟に瑞樹さんから振られた質問に、私は言葉を詰まらせてしまった。私は今を楽しんでいるなんてこと、今まで一度も考えたことがなかったのだから。

 アイドルになる夢を諦めて346プロのアシスタントとして働くことになり、今は昔の私のようにアイドルになる夢を追いかけている若い子たちのお世話をしている。そんな日常を私は気に入って生きていた。

 だけどそれは本当に私にとっての「幸せ」なのだろうか。ただ単に私は自分が叶えられなかった夢を346プロの若い子たちに照らし合わせ、現実逃避をしているだけではないのだろうか。

 今までそんなことを考えたことがなかった。だけどよく考えてみれば346プロの若い子たちの夢はその本人たちの夢であって、私の夢ではないのだ。だとしたら私の夢とは何なのだろうか……。悲しいことに、何も浮かんでこなかった。

 

 

 

「私たちみたいに好き勝手生きてきた人間が偉そうに言えることではないと思うけどね、ちひろさんはもっと自分の為に生きた方が良いわよ。自分の人生なんだから、人のことよりも自分がしたいと思うことをしなさい」

 

 

 

 

 瑞樹さんの言葉に私は何も言えなかった。自分のしたいと思ったことに躊躇いもなく飛び込めて心の底から幸せだと言える今を送っている二人に対して、自分がとても小さな人間に思えたのだ。

 765プロの後輩たちの活躍を見て自分のことのように喜び、346プロの若い子たちの夢を応援している今の生活を私は幸せだと思い込んでいた。だけどそれはあくまで他人の人生であって私の人生ではないのだ。具体的な夢や目標がないためか、私はそうやって人の夢に自分の過去の夢を重ねて自分と向き合うことから逃げ続けているだけではないのだろうか。

 分からなかった。私自身が本当にやりたいことが。自分のことのはずなのに、自分でも分からなかった。

 

 

 

 

「あ、そうだ! ちひろさんも今からアイドル目指してみたらどうですか?」

 

「ちょっと楓さん、もう酔ったんですか? 私にはアイドルなんて無理ですよ」

 

 

 

 

 楓さんの提案を私は笑って誤魔化した。勿論、二人とも私が昔アイドルを目指していたことは知らない。

 もう二十六歳なんで遅いですし、なんて言おうと思ったが言わなかった。遅すぎると言われる年齢からアイドルを目指し、そして夢を叶えた二人を見ているとそんなセリフが惨めな言い訳にしか聞こえないと思ったからだ。

 楓さんの提案に笑って誤魔化し、そして私の本心を隠すようにして再びカクテルを喉元へと流し込んだ。少しだけ溶けて小さくなった氷が、私の唇へと当たって唇がひんやりとする。再び目に入ってきたオレンジ色の薄暗い灯りは私に様々な思い出をフラッシュバックさせた。初めて『お願い!シンデレラ』を貰ったあの日、それを人前で初めて歌ったあの日、そしてアイドルを辞める前日に律子さんとお客さんのいないショッピングモールでがむしゃらに声を出し続けたあの日――……。

 今となっては遠い日の思い出になってしまったあの日の日常が走馬灯のように駆け巡ったのだ。

 

 

 

「ただ――……、皆のステージを見てると時々思いますよ。あんなに大勢の人たちの前で歌えたら幸せだろうなーって」

 

 

 

 

 唇に当たっていた冷たい氷を離し、私は冗談交じりにそう呟いた。その呟きを聞いた二人は何も言わず、ただただ得意げに笑っているだけだ。

 嘘だった。時々なんてものではなく、毎回のように思っていたのだから。小さな街頭の路上ライブでも、ショッピングモールで行うミニライブでも、大きな会場の大勢のお客さんの前で行うライブも、どんなライブでも舞台袖からステージを見る度に胸の奥に潜んでいるあの頃の私が渇望しているのだ。何度も何度も自分に言い聞かせても、この渇望は消えることがなかった。そしてそんな渇望を感じる度に、私はあの頃を思い出して胸が締め付けられるのだ。

 

――もう一度だけでも、皆みたいに大勢の人前で歌えたらなぁ。

 

 胸が締め付けられる度に、そんな想いが私の胸を駆け巡る。歌うことは今でも好きだし、昔は今の皆のように本気でアイドルになりたいと思っていた。だけど私はその夢を叶える為に必ず通らなくてはならない道から逃げてしまった。765プロの後輩たちが好きで、そんな後輩たちを蹴落としてまで自分の夢を叶える勇気が私にはなかったのだ。

 私は甘かったのだと思う。私も夢を叶えて、765プロの後輩たちも皆が夢を叶えて――……、そんな上手くいく話なんてないのだから。そんな都合の良い話を考えていた時点で私に夢を追う資格なんてものはなかったのだ。

 この世の人間、全員が幸せになることはできない。誰かが幸せになるためには誰かが不幸にならなくてはならない。仮に私があのままアイドルを続けて765 ALL STARSに入れたとしたら、きっと今テレビで見ているような美希ちゃんの幸せそうな笑顔は見ることができなかったはずだ。だからこそ、私はテレビで美希ちゃんを見る度にあの時の判断は間違ってなかったのだと自分に言い聞かせてきた。大好きな後輩の幸せが、私にとっての幸せなのだと。

 

 そうやって八年もの月日を生きてきて、今、私は瑞樹さんの問いに答えることができなかった。私は今、瑞樹さんと楓さんのように胸を張って幸せだと言い切ることができなかったのだ。

 

 

 

 

(私にとっての幸せって、何なんだろう)

 

 

 

 

 私はあの時、確かに高木社長に言った。「大学でやりたいことを見つける」のだと。その言葉の通り、私は大学の四年間で自分の新たなやりたいことを見つけた。見つけたはずだと思っていた――……。だけどそれは、自分と向き合うことから逃げていただけではないのだろうか。

 私の隣に座る楓さん、瑞樹さん、そして今はこの場にはいない早苗さん。安定した生活を捨ててまで自分のやりたいことに挑戦している三人と比べると、三人のように自信を持って「今の生活が幸せ」だと言う事のできなかった自分自身がとてつもなくカッコ悪い人間に思えて仕方がなかったのだった。

 

 

 

 


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