【完結】Innocent ballade   作:ラジラルク

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Episode.1

 

 

 まだ冬の肌寒い風が残っていながらも、次第に殺風景な状態で厳しい冬を乗り越えた木々の枝の先には小さな蕾が宿り、それがやがて春の訪れと冬の終わりを告げるピンク色の桜へと花開く。

 新たな環境へと進学する若者、新社会人として社会に出て行こうとする新品同様のスーツを着た若者、旅立って行く先輩たちを名残惜しく見送る残された後輩たち。そしてそんな若者たちの旅立ちと別れを微笑ましく見守り、若かりし頃の自分を思い出しちょっとばかりノスタルジックな想いになる大人たち――……。

 通勤のため毎日のように利用している、見慣れたこの電車。この狭い電車に乗っている乗客一人一人にもそういったドラマがあり、この季節は車内に寂しいような、でも何処か新たな世界への旅立ちに心躍らせているような、そんな様々な乗客が抱える想いが交錯して毎年のように独特な空気が流れている。いつもとは少しだけ雰囲気の違う電車を降りて駅を出た私を出迎えてくれるのは桜の花びらが降り注ぐピンク色一色に染まった並木道だ。

 一直線に伸びたこのピンク色の並木道の入り口の前で私は思わず足を止めてしまった。毎年のようにこの風景を見ると思い出してしまうのだ、もう二度と戻ってこない一度きりの高校時代を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「アイドルになる」というあの頃の私の夢は結局叶わなかった。

 あの頃の私は確かにキラキラしたアイドルになることを夢見ていた。そのことに嘘偽りはなかったのだが、そんな自分の夢を叶える為に誰かを蹴落とすということが私にはできなかった。高木社長が言ったように誰かを蹴落とすことだけが全てではないが、実際にはアイドルとして生き残るためには必然的に誰かを蹴落とさなければならない。どんなに綺麗事を並べても、それはアイドルを目指す上で避けては通れない道なのだから。だが私はそのことを理解してはいながらも765プロのみんなが大好きで、とてもじゃないが大好きな人たちを蹴落としてまで自分の夢を叶えようと思うことができなかったのだ。

 私はもうその時点でアイドルには向いていなかったのかもしれない。だから「叶わなかった」なんて、そんな本気で頑張った人が言うような言葉を私は口にしなかった。私は戦うことすらしないで自らの意志で辞めただけなのだから。

 

 夢を諦めた私は高校を卒業後、高木社長に話した通り大学へと進学し平凡な時間を過ごした。勉強、バイト、サークル、そしてたまに大学で出来た新たな友人たちと飲みに行ったり――……、765プロでアイドルをしていた頃とは比べ物にならないくらいありふれた平凡な日々。刺激がないと言えばそうなのかもしれないが、私はそんな平凡な時間も嫌いじゃなかった。そう思えたから、アイドルになる夢を諦めても未練がましく引きずることなく切り替えて平凡な日常を生きる事ができたのかもしれない。

 そして大学四年生の時にこの346プロダクションの求人を見つけ、すぐに応募した。結果は採用。アイドルになれなかった私がアイドルを目指す若い子たちが集まる場所で働くのも何かのご縁なのかなと、そんなことも考えたりしたものだ。

 あの頃憧れていたアイドルにはなれなかった。だけど、私と同じように夢に向かって頑張る若い子たちの手助けが出来たらと思う。これが私の大学生活で見つけた新たな「やりたいこと」だったのだから。

 

 

 

 

「ねーねー、しまむー。今度駅前のお店行ってみようよ!」

 

「新しく出来た喫茶店ですよね? ちょうど私も行きたいと思ってたんです!」

 

 

「だからさ、ここはもっとカッコよくロックに決めた方が良いんだって」

 

「何言ってるにゃあ? どう考えても猫耳付けて可愛く行くのが良いに決まってるにゃ!」

 

 

 

 

 いつものように賑やかなみんなの笑い声がプロデューサーオフィスで一人書類の整理を行っていた私の元まで聞こえてきた。思わず笑ってしまうと私は作業をする手を止め、目を瞑り耳を澄ませると、本当に楽しそうな皆の声が私の頭の中でこだまする。そしてそんなみんなの笑い声と昔の私を照らし合わせて、765プロにいた頃の自分を思い出していた。

 春香ちゃんに勉強を教えたり千早ちゃんと一緒に自主トレに励んだり、何か失敗するたびに落ち込む雪歩ちゃんを励ましたり真ちゃんと休みの日に一緒に洋服を買いに行ったり――……。もう八年前のことなのに、二十六歳になった今でもあの頃の日々は何一つ欠けることなく鮮明に覚えていた。

 

 暫くして閉じたままの瞼を開き、手に持っていた書類を机に置くとそのままゆっくりとプロデューサーの机の裏側へと回った。大きなガラス窓から見下ろした街並みはピンク色に染まっている。去年の今頃もこうしてこの部屋から春の街並みを見下ろしていたな、なんて思い出し一人で苦笑いしてしまった。

 

 

 早いものでシンデレラプロジェクトが始動してもう一年が経過した。ちょうど今のように桜が満開で東京の街並みをピンクで染めている頃、不安と緊張を抱えて346プロにやってきたシンデレラプロジェクトの十四人。こうして一年が経った今振り返ってみると、本当に色々なことが起こった一年間だったと思う。

 デビューの目途が立たないことに反発してストライキを行ったみくちゃん、ミニライブ後にアイドルを辞めると言い出した未央ちゃん、ようやく落ち着いてきたかと思った矢先のシンデレラプロジェクト解体の噂、そしてニュージェネレーションズのクリスマスライブ直前にスランプに陥った卯月ちゃん――……。アイドルになる夢を諦めた過去があるからか、あの時の卯月ちゃんを見ているとまるで自分の事のように胸が痛んだのだ。

 

 実は数年前にも同じようなことがあった。ある日突然週刊誌で大々的に報じられた千早ちゃんの壮絶な過去。あの時、千早ちゃんが精神的ショックのせいで声が出せなくなりそのまま引退するのではないかというニュースを見た私はジッとしてられず、スクープから間もなくして行われた765プロの定例ライブに足を運んでいたのだ。もう765プロを辞めてしまった私に出来る事なんて何もないのかもしれない、だけど私はジッとしていることができず、765プロを辞めたあの日から一度も行かなかった765 ALL STARSのライブへと駆け付けた。

 ライブの終盤、一人でステージに上がった千早ちゃんはやはり声を出すことができなかった。でもすぐに舞台袖から春香ちゃんたちが飛び出してきて、千早ちゃんを支えるような形で千早ちゃんのためにみんなが作った「約束」を歌って見せた。そしてみんなの支えによって、千早ちゃんは無事いつものような美しい歌声を取り戻すことができたのだ。 

 そんな千早ちゃんの復活劇を見届けた私にはいつの間にか立派になっていた後輩たちを見て嬉しく思う反面、少しばかり寂しい気持ちにもなった。もう私の出る幕はないんだなと、この時になって今更ながら痛感させられたのだから。

 

 そして卯月ちゃんも自分自身の力でスランプを乗り越えて見せた。いつの間にか私たちの知らないところで立派に成長していたみんなを見て、千早ちゃんの時と同じような感情になってしまっていたのだ。

 若い子たちの成長速度は本当にあっという間で、時には大人の予想以上のスピードで逞しくなっていく。なかなか人に心を開けなかった千早ちゃんが少しずつ自分の殻を破れるようになって、いつも失敗ばかりで落ち込んでいた雪歩ちゃんが大勢のファンの前で笑顔でダンスを踊れるようになって、そして周りのメンバーたちに劣等感を感じて自分を見失っていた卯月ちゃんが自分を信じれるようになって――……。みんな予想を遥かに上回るスピードで逞しく成長して私たち大人を驚かせてくれた。きっとこうやって人は成長して、いつしか私たち大人の助けが必要ないくらい立派な大人になるんだろうなと思う。まるで我が子が自立していく姿を見守る親のような心境で、私は陰ながらこうしてみんなの成長を見届けてきたのだ。

 

 

 

 

 そんな感傷に浸っていた時、控えめにドアをノックする音が三度ほど聞こえてきた。私は「どうぞ」と返事をすると少しばかり名残惜し気に桜が彩っている街並みから視線をノックの音が聞こえたドアの方へと向ける。

 静かに開けられたドアノブを握っていたのは美波ちゃんだった。ドアノブを握る手とは反対の手には小さな紙袋が握り締められている。

 

 

 

 

「プロデューサーさんは……、今日はお休みでしたっけ?」

 

 

 

 

 ドアノブに手をかけたまま、美波ちゃんは私しかいないプロデューサーオフィスをキョロキョロと見渡している。

 

 

 

 

「えぇ、明日は出社すると思うけど。プロデューサーさんに用事?」

 

「コレ、返しに来たんです。舞踏会のライブDVDなんですけど、みんな見たみたいだから」

 

 

 

 

 美波ちゃんは左手に握っていた紙袋を肩の位置くらいまでに上げて私に見せると、ドアノブを握ったまま礼儀正しく一礼して私の元へと歩んできた。ドアが静かに閉まり、私と美波ちゃんしかいないプロデューサーオフィスには美波ちゃんの白いヒールの音だけが鳴り響いている。

 冬に行われたシンデレラプロジェクト存続を賭けた舞踏会。その時の映像がDVD化され、もう間もなく一般販売されることになっている。毎回こうして自分たちが出たライブが映像化されて販売される時は、販売前に会社から何本か試作品を受け取りシンデレラプロジェクトのみんなで順番に回して映像を見ているのだ。

 美波ちゃんが持ってきた紙袋を受け取り、中身を確認する。試作品の状態だからまだカバーなどはなくシンプルな透明なケースに入っただけのDVDには「試:舞踏会ライブ」と書かれたラベルが貼られているだけだ。

 

 

 

 

「美波ちゃん、ありがとう。明日プロデューサーさんに渡しておくわね」

 

「ありがとうございます、ちひろさん」

 

 

 

 

 美波ちゃんはもう一度だけ礼儀正しくお辞儀をすると再びヒールの音を鳴らし、プロデューサーオフィスから出て行ってしまった。

 バタンっ、とドアが閉まる音が聞こえるまで出ていく美波ちゃんの背中を見送った私は再びこのプロデューサーオフィスで一人になった。再び静まり返ったこの部屋で壁に掛けられた時計を見ると二本の針はもうすぐ一直線になろうとしており、昼休憩の時間が近づいていることを報せていた。今日はプロデューサーもお休みで今西部長も出張で会社を離れている。仕事もそれほど溜まっているわけでもなく、特別急ぎの仕事があるわけでもない。

 

 

――ちょっと早いけど、もう昼休憩にしようかな。

 

 

 自分に言い聞かせるようにしてそう呟くと、私は軽く息を吐き両腕を思いっきり天井へと伸ばした。暫くそうやって疲れた身体を解すと、プロデューサーの机に設置されたデスクトップパソコンの電源をそっと付ける。暫くしてデスクトップの画面になったことを確認すると大きなディスプレイの隣に置かれた本体機器の右端にある長方形のボタンを押した。カチッ、という小さな音と共に出てきたトレイ。先ほど美波ちゃんから預かった舞踏会のライブDVDをセットし、軽く親指でトレイを押し戻す。DVDを飲み込んだ本体機器から少しばかり鈍い音が響いたかと思うと、すぐに大きなディスプレイに舞踏会の時の映像が流れ始めた。

 確かこの時はアンコール前に歌っていたはずだから……。慣れた手つきでマウスを操り、スクロールバーを動かしながら映像を確認する。そして全体の三分の二ほどの位置で私が探していた場面を見つけ、スクロールバーからポインターを離した。

 

 

 

 

『それでは聞いてください、お願い!シンデレラ』

 

 

 

 

 アップで映る白いドレスを着た美波ちゃんが汗を流したままの笑顔でそう叫ぶと、すぐに聴き慣れたイントロが流れてきた。そのイントロを聞いた観客席からは溢れんばかりの大歓声が上がっている。それから少しカメラアングルは離れ、ステージに立つシンデレラプロジェクトの十四人全体を映す。画面の下の方には『お願い!シンデレラ』の文字と、この曲の作詞をしてくださった方の名前が字幕として表示されている。その字幕を見て、私は高木社長の事を思い出した。

 

 

――私のお願い、ちゃんと聞いてくれたんですよね。

 

 

 あの日の涙ぐむ高木社長の姿を思い出してしまい、私は思わず頬を緩めてしまった。

 

 大学を出て346プロで働き始めてからの四年目の昨年、私は新たなに新設されたシンデレラプロジェクトのアシスタントとして抜擢されることとなった。そしてどんな偶然があったのか、シンデレラプロジェクトのデビュー曲として私の最初で最後の持ち歌であった『お願い!シンデレラ』がカバーされることになったのだ。

 シンデレラプロジェクトがこの曲をカバーするまでの過程で高木社長や作詞家の方とどのようなやり取りがあったのかは私は何も知らされていない。唯一私が分かったのは、高木社長があの日の私のわがままを聞いてくれたことだけだった。

 『お願い!シンデレラ』が私の曲だったなんて、きっとみんなが知ったら驚くだろう。私はシンデレラプロジェクトのメンバーどころか、プロデューサーにさえ過去に私が765プロでアイドルをしていた事を話していない。そしてこれからも話すつもりもない。だからきっとシンデレラプロジェクトのみんなは何も知らないまま、私が昔ずっと歌っていたこの曲を歌い続けるのだろう。

 でも、私はそれで幸せだった。私の大好きなシンデレラプロジェクトのみんなが私の大好きな曲を歌ってくれて、あの日の私の願い通りになったのだから。私のような売れないローカルアイドルには勿体ないこの曲を、シンデレラプロジェクトのみんなが歌ってくれたおかげでこうやって沢山の人に聞いてもらうことができたのだから。

 

 そしてもう一つのお願いも高木社長は聞いてくれていた。私が765プロを辞めて間もなく公式発表された765 ALL STARSへの新メンバーの加入。金髪の長い髪を揺らし、笑顔でみんなとステージに立つ美希ちゃんをテレビ越しで見て、私は何度も何度も心の中で高木社長にお礼を言ったのだった。

 天才肌の美希ちゃんはすぐにブレイクし、瞬く間にハリウッドにまで進出した。今ではモデルにタレント、芸能活動にと幅広いジャンルで活躍するアイドルにまで成長している。超が付くほどの売れっ子になりながらも、天狗になることなくあの頃と変わらないマイペースなまま自分の道を行く美希ちゃんを、私はずっとテレビ越しで応援していた。

 

 テレビでは昔の後輩たちが変わらず元気に活躍していて、会社に来ればあの頃の春香ちゃんたちのような真っすぐで素直な可愛いシンデレラプロジェクトのみんなに会うことができる。

 だから私は今の生活に満足していた。遠い世界に行ってしまった765プロの後輩たちも、シンデレラプロジェクトのみんなも、私は本当に大好きなのだから。

 

 

 私の夢は叶わなかった。だけど、私は今の平凡な日常を気に入って楽しんでいる。例えそれが昔憧れていた自分の生活とは違っていたとしても、私は心の底から満足できる生活を送れているのだから幸せなのだと。私は平凡に流れていく日々の中で、そんなことを考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 そうは思ってはいるものの、そんな私の本心とは裏腹にこうしてシンデレラプロジェクトのライブDVDを見る度に私の身体はウズウズしていた。大学を卒業してから仕事ばかりで運動する機会もなく、こうして鈍った身体と持て余した体力が燻り続けているのだ。

 

 

――誰も、いないよね?

 

 

 確認するかのようにプロデューサーオフィスをぐるっと見渡してみる。当然だが部屋にいるのは私だけで、部屋の外からは変わらずシンデレラプロジェクトのみんなの楽しそうな話し声が聞こえてくるだけだ。その事実を何度も何度も確認して、私はディスプレイに流れているシンデレラプロジェクトのみんなが歌う『お願い!シンデレラ』の映像を見ながら少しばかりパソコンから離れた位置に移動した。そして少しばかり恥ずかしい気持ちを持ちながらも、軽く膝を曲げて腰に手を当ててみる。

 

 

――確かここはこうで、この次がターンで……。

 

 

 私の身体は意外にも記憶力が良かったらしい。あの頃、毎日のように踊っていたこの曲の振り付けを八年が経った今でも錆びることなく身体に染み込んだままだったのだから。

 当然だがシンデレラプロジェクトのみんながカバーすることになり振り付けもだいぶ変わってしまっていた。だから私はシンデレラプロジェクトの映像を見て踊っているはずなのに、画面の中のみんなとはまるで違うダンスをしているという奇妙な行動をとっている。だけどこの部屋には誰もいなくて、私のこんな奇妙な行動に不信感を持つ人もいなければ不愉快になる人もいない――……、私だけの世界なのだ。だから私はいつの間にか昔を思い出し、身体に染み付いて取れることのなかったこのダンスを一人で踊って楽しんでいた。

 久しぶりにこうして踊ると不思議なことに気分が良くなって、思わず歌詞まで口ずさんでしまう。歌詞はカバーされても何一つ変わることもなく、曲調もほぼほぼ同じだったから私はパソコンから聞こえてくるみんなの声とズレることなく、懐かしい歌詞を歌うことができた。

 

 

 

「なみだのあーとには……」

 

 

 

 いつの間にか自分の世界に入り込んでしまっていて、制服のままターンまで決めてしまった時だった。反転した先に立っていたのはドアノブに手をかけたまま固まってしまっている凛ちゃん――……。凛ちゃんは驚いたように目を見開き、その見開いた目で黙って私を見つめていた。

 あまりにも夢中になり過ぎて、私だけの世界に侵入してきていた凛ちゃんの存在に全く気が付いていなかったらしい。恥ずかしげもなくノリノリで歌詞を口ずさみながらターンまで決めてしまった私は、そんな私を見ていた凛ちゃんの姿を見て思わず身体全体に熱が駆け巡り始めた。数秒前まで久しぶりなのに思っていたより身体が動くなー、なんて我ながら感心していた私の身体だったが今はまるで金縛りにあったかのようにその場で固まってしまっている。

 

 

 

「ごめん、邪魔しちゃったかな」

 

「あ、いえ。全然大丈夫です、あははは」

 

 

 

 凛ちゃんの言葉で私の身体に懸けられた金縛りは一気に解けた。解けたかと思うと、また蘇ったように私の身体中を熱が帯び始める。あまりに顔が熱くて、私は思わず両手の小さな手で必死に扇ぐ。凛ちゃんはそんな私を物珍しそうな瞳でジッと見つめていた。

 

 

 

 

「プロデューサーに用事があったんだけど、今日は休みなんだよね」

 

「そ、そうですね! 急ぎだったら私が伝えておきましょうか?」

 

 

 

 身体が熱いせいか、上手く呂律が回らなかった。

 だが一人で慌てている私とは対照的に、凛ちゃんはいつものように高校生とは思えない落ち着き払った態度のままだ。

 

 

 

 

「いや、いいよ。明日直接言うから。それよりちひろさんって歌、上手いんだね」

 

「え、あ、えっ!? そ、そうかなぁ……。あははは」

 

 

 

 

 もうどうすれば良いのか分からず、私は熱で赤くなっているであろう表情を隠すように前髪に手を伸ばした。やはり、一人の世界に入り込んだ私を凛ちゃんは見ていたようだ。

 

 

 

 

「ダンスも素人じゃないでしょ? もしかして昔、何かやってたの?」

 

 

 

 

 少しだけ驚いたような表情で首を傾げる凛ちゃん。

 凛ちゃんは勘の鋭い子だった。とても高校生とは思えない落ち着いた雰囲気、そして特徴的な翠色の眼差しで見つめられると、私の心の奥底まで見透かされているような気になってしまう。勿論、当の本人は私が昔アイドルをしていたことも、この曲を歌っていたことも何も知らない。そうは分かっていても、本当は私の全てを知っているのではないかと錯覚してしまうほどに凛ちゃんの澄んだ翠の眼差しは不思議な力を持っているのだ。

 そんな翠の眼差しから逃げるようにして視線を逸らすと、私はプロデューサーオフィスの隅に置かれた私の茶色いバックを手に取る。もう一度だけ窓からピンク色に染まる東京の街並みを見下ろすと、手に取ったバックをゆっくりと肩にかけた。そして小さく深呼吸。

 

 

 

 

「……昔、趣味程度でやってただけよ」

 

 

 

 

 それじゃ、私はお昼に行ってくるから。

 そう言い残して凛ちゃんの傍を通り過ぎた。凛ちゃんは私とすれ違うギリギリまで何か言いたげに翠の眼差しで私を見つめていたが、結局それ以上は何も言わなかった。

 

 そのままシンデレラプロジェクトのオフィスルームを出てエレベーターへと乗り込む。何処も昼休憩時のようで少しばかり窮屈になったエレベーターを降りると、私はそのまま会社の外へと出た。会社の外も上から見下ろした景色と同じように、満開になった桜が綺麗に咲き誇っている。太陽も出て気温もそこまで寒くない今日は、コートを脱いでベンチに座りながら昼食をとっている人も沢山いた。そんな光景を見る度に、またこの季節がやってきたんだなぁ、と思う。

 今年も沢山のアイドル候補生たちが胸に不安と期待を抱え、346プロへとやってきた。少しばかり不安げで落ち着かない雰囲気の若い子たちを見ると私まで初々しい気持ちになってしまう。

 

 そして初々しい気持ちになる度に、私は思い出すのだ。今年も346プロにやってきたアイドル候補生のような頃が自分にもあったことを。

 

 

 

 お世辞にも施設が充実しているとは言い難い765プロダクション。今私がいる346プロとは比べ物にならないくらい貧相で、とてもじゃないが知らない人にアイドルを抱える会社だって言っても信じてもらえないような小さな会社だったのかもしれない。だけど私にとってはとても大切で貴重な時間を過ごした、何にも代えられない思い出の場所なのだ。

 

 あの古びた雑居ビル、狭い廊下に閉まりの悪いロッカー室のドア、狭くてもみんなの温かい笑顔と優しさに溢れかえっていた小さな事務所、そして誰よりも優しくアイドルを見守ってくれていた高木社長――……。

 

 

 

 

「懐かしいなぁ」

 

 

 

 

 綺麗な桜の木々を見上げ、私は静かに呟いた。

 毎年この桜が咲き誇る中、これから始まる新たな世界での生活に胸躍らせてやってくるアイドル候補生たちを見るとこうして765プロのことを思い出してしまうのだ。

 そして桜の花びらが春風によって舞うこの場所で懐かしい過去を思い出す度に、私の胸は何とも言えないような甘酸っぱい想いでいっぱいになってしまうのだった。

 




ちなみに明日はちひろさんの誕生日だとか。

おめでとうございます(-_-)

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