【完結】Innocent ballade   作:ラジラルク

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Prologue

 

 

「綺麗な、澄み切った歌声だね」

 

 

 

 男性はそう言うと静かに私を見つめていた。

私の生まれ育った地元の小さな田舎町で行われた小さな夏祭り。その夏祭りののど自慢大会で歌い終わった私の元に真っ先に駆け寄って声をかけてくれたのは友達でもなく親でもなく、見知らぬ男性だった。

 ドンドンと、遠くからは和太鼓の音が聞こえてくる。その和太鼓の音を掻き消すかのように響き渡っているのは夏休みに入ったばかりで興奮冷めやらぬ子供たちの元気な笑い声。そんな騒々しい賑やかなこの場所でも、耳をすませば夏の虫が奏でる綺麗な音色や生温い夏風が揺らす木々の音が聞こえてくる。

 夜とはいえ真夏日が続く最近は暗くなっても項垂れるような暑さが続いており、今日も例外なく蒸し暑い気温がこの小さな田舎町を包み込んでいた。それでも私の間に立つ男性は少しでも暑がるような素振りをも微塵も見せずに、それどころか少しばかり涼しそうな表情さえ浮かべている。お世辞にも若いとはいえる風貌ではないが、だからといってそれほど歳を取っているようにも見えない男性は暖かな眼差しで私の瞳だけを見つめていた。吸い込まれるようなその男性の瞳に、私はなすすべもなく吸い込まれて行く。

 

 

 

「私のところでアイドルを目指す気はないかね?」

 

 

 

 そう言うと男性は胸ポケットから小さな銀色の薄いケースを取り出し、そのケースの中から一枚の紙を両手で私の胸の前に差し出す。私はその紙を男性の顔色を窺うようにしてギクシャクしながら両手で受け取った。

 男性の分厚い手から私のか細い白い手へと渡った一枚の白い長方形の紙。その紙には『765プロダクション 代表取締役社長 高木順二郎』と書かれていた。

その文字列を何度も何度も読み返し、もう一度高木順二郎と名乗る男の元へと視線を戻す。高木順二郎と名乗る男性は変わらず、私を暖かな優しい眼差しで見つめていた。

 

 

 これが私と高木社長の出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 

Prologue

 

 

 

 

 

 

 

 高校進学と同時に私は高木社長の765プロダクションへと入社した。私の実家からは少し離れた場所に事務所を構えていたため実家からは電車で一時間もの時間がかかってしまうものの、事務所近くの高校に進学したためそれほど通うのは苦にならなかった。

 そして何より、今まで生まれてから小さな田舎町で平凡に過ごしてきた普通の女の子だった私にとってアイドルの世界は新鮮でとても刺激的な毎日で、学業とアイドルの両立は大変だったが楽しくて仕方がなかったのだ。もちろん、アイドルの世界はとても厳しい世界で養成所に通っていたわけでもなく、ボイストレーニングをしてきたわけでもなく、ただ趣味として歌を歌ってきただけで寧ろ高木社長にスカウトされるまでアイドルになるなんて考えたこともなかった私にとって765プロで受けるレッスンはどれも難しくて大変なものばかりだった。全くの素人としてアイドル候補生になった私はゼロどころかマイナスからのスタートで、結果として入社してからの一年は表立ったアイドル活動をする機会は全くなく、一年間ずっとレッスンを受け続けるだけで終えてしまっていたのだ。

 でも高校二年生になった頃から徐々に表立った活動も増え始めると、梅雨が終わり唸るような暑さが戻ってきたころには私だけの曲が与えられローカルの中でもかなり無名の部類に入るレベルではあるがローカルデビューを果たすこともできた。

 この時は本当に嬉しかった。数は少ないしその数少ない中で本当に私のファンだと言ってくれる人がどれだけいるかも分からなかったが、私の歌を聴くためにお金を払って見に来てくれた人たちの前で私の為だけに作ってくれた歌を歌って、まばらながらも拍手を貰ったりサインを要求されたり――……。

 

 

――去年の努力も無駄じゃなかったんだ。

 

 

 そう思えると同時に「もっと大きな舞台で歌いたい」、「もっと沢山の人に私の歌を届けたい」、そんな欲も私の中で芽生え始めていた。

私の元に後輩たちがやってきたのはそんな頃だった。

 

 

 

「私、アイドルになるのが夢だったんです! まだまだ未熟だとは思いますが、精一杯頑張ります!」

 

「アイドルにはあまり興味がありません。世界的な歌手になりたいと思っているので」

 

「わ、私、引っ込み思案なとこ治したくて……。よ、よろしくお願いします!」

 

「ボク、ダンスには自信があるんです! 昔から色んなスポーツやってきたので」

 

 

 

 春香ちゃんに千早ちゃん、雪歩ちゃんと真ちゃん。

入社した理由も違えば年齢も違う、オーディションを勝ち抜いてきた子もいれば高木社長自らスカウトしてきた子もいる。そんな何もかもがバラバラの四人だったが、皆目指しているものは私と一緒のもだった。皆、「キラキラしたい」、「もっと輝きたい」そういった想いを胸に765プロへとやってきたのだ。

 四人とも私より年下だったせいか、四人が入社したばかりの頃は先輩の私が四人の面倒を見ることが多かった。そして何より四人ともとても素直で優しくて私を慕ってくれて、私たちが仲良くなるのに時間はさほどかからなかった。

 

 

 

「私、家から事務所まで遠いんですよね。だからあんまり家で勉強する時間がなくて……」

 

「なら電車の中で勉強してみるのもいいんじゃない? 分かる範囲であれば私も教えれるから!」

 

 

「サビの部分はもう少し力を抜いてみたら? 千早ちゃんの声質なら多少力を緩めても大丈夫だと思うけどな」

 

「確かに、そうかもしれませんね……。ありがとうございます、次のレッスンで試してみますね」

 

 

「私だけダンス下手だから皆より遅れてるし……。やっぱり私にアイドルはまだ早かったんじゃ……」

 

「私も初めは全然ダンスなんて出来なかったら雪歩ちゃんも大丈夫よ。それに雪歩ちゃんは可愛んだからもっと自信もってやらないと」

 

 

「姉さんの私服って可愛いですよね。良いなぁ、ボクもそんな可愛い服着こなせたらいいのに」

 

「真ちゃんだってきっと似合うわよ! そうだ、今度の休みに一緒にお洋服でも見に行かない?」

 

 

 

 もともと人のお世話をするのが好きだったし、何より四人の後輩たちが皆素直で良い子だったからこうして接する機会が私は嫌いじゃなかった。真ちゃんは私の事を「姉さん」なんて呼んで実の姉のように慕ってくれて、小恥ずかしい気持ちもあったが嫌な気もしなかった。私自身も一人っ子で兄妹がいなかったから、四人が実の妹のように思えることもあって楽しかったのだから。

 

 

――いつまでもこんな時間が続けば良いのにな。

 

 

 時々、私はこんなことを考えていたと思う。

まだまだ無名中の無名ではあるがデビューも出来て、高木社長や律子さんのような優しい大人に囲まれ可愛い後輩たちにも恵まれ、この時の私は本当に幸せだった。事務所に行けばいつも大好きな人たちがいて、そんな人たちと一緒に夢を追いかけていけて、そんな風に充実感を毎日のように感じて私はアイドル活動を続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから一年後。

 

 

 

 

 

 

「あ、先輩お疲れ様です!」

 

「春香ちゃん、久しぶりね。お疲れ様」

 

 

 

 小さなレッスンルームを出た直後、私は春香ちゃんの声に呼び止められて振り返った。おでこの両端に私が去年の誕生日にプレゼントしたリボンを結んだ春香ちゃんの傍には千早ちゃんに雪歩ちゃん、真ちゃん。四人の後ろには四人が入社して間もなく765プロへとやってきた七人の新たなメンバーたちが嬉しそうな眼差しで私を見つめている。

双子の亜美ちゃんと真美ちゃん、やよいちゃんに伊織ちゃん、響ちゃんに私より少し年上のあずささん、年齢は公表されていなから分からないがおそらく私と同じか少しだけ上の貴音さん。

 新たに加わった七人も四人と同じように良い子たちばかりで私はすぐに仲良くなることができた。だからか、今でもこうして皆私を見ると嬉しそうに駆け寄ってきてくれて温かい言葉をかけてくれる。

 

 

 

「明日、ですよね? トークショーとミニライブ。私たちは応援に行けないけど頑張ってください」

 

「ありがとう千早ちゃん。頑張ってくるわね」

 

「姉さんが来るの、ずっと待ってますから! ボク、姉さんと一緒のステージで踊るのが夢なんです!」

 

「真ちゃんもありがとう。私も皆に負けないように頑張ってすぐ追い付くから、楽しみに待っててね」

 

 

 

 右手で握った拳を力強く掲げると真ちゃんは嬉しそうに頷いて笑ってくれた。

私の後輩たちは半年ほど前にメジャーデビューを果たした。『765 ALL STARS』の名でユニットデビューした後輩たちは瞬く間に大ブレイクし、今では事務所で顔を合わせることが珍しいくらいに多忙な毎日を送っている。毎日のように事務所で顔を合わせては他愛もない会話をしていた頃が遠い過去のように思えるほど、後輩たちは遠くに行ってしまった。

 一方で私は未だにローカルアイドルとして細々とアイドル活動を続けている。テレビや雑誌で見る機会が増えた後輩たちを見て悔しい気持ちがないと言ったら嘘になってしまうかもしれない。でも悔しいといった気持ちよりも、後輩たちの活躍を心の底から祝福する私がいた。

 こんなことを言ったら偽善者と言われるだろうか。でも本当に私はまるで自分の事のように、いや、もしかしたらそれ以上に後輩たちの活躍を喜んで応援していた。みんな本当に良い子たちでみんな必死に頑張っていたから――……。だからこそみんな成功してほしい。頑張ったからと言って成功が保証されていないというアイドルの世界を理解してはいたが、それでも素直で優しくて謙虚で、それでいて真っ直ぐな私の大好きな後輩たちには誰一人として挫折してほしくなかった。

 そんな想いが私の中で何よりも一番だった。自分自身のことより、大好きな後輩たちの成功の事ばかりを願っていたのだ。

 

 

 

「それじゃ、皆も頑張ってね! 私応援してるから!」

 

 

 

 そう言って手を振ると後輩たちに背を向けて廊下の一番端にあるロッカー室へと向かった。

 これが765プロで大好きな後輩たちと交わす最後の言葉になるとも予想もせず、私はいつものように何度も振り返って私に向かって手を振ってくれる後輩たちに手を振り返していたのだった。

 

 

 

○○○○

 

 

 

 薄暗いロッカー室に着き、私は手探りで壁に備え付けられたスイッチを探す。何度か感触のないひんやりとしたコンクリートの壁の上を手が泳ぎ、スイッチを捕まえた。カチッと鈍い音が薄暗い部屋に響き、暫くして弱った電気が薄暗い部屋を照らした。

 

 

 

「あら、美希ちゃん。いたのなら電気付ければ良いのに」

 

 

 

 薄暗いロッカー室には先客がいたらしく、狭い部屋の隅のベンチにはパーマが掛かった金髪の髪が特徴的な女の子が座ってイヤホンで音楽を聴いていた。美希ちゃんも私に気付くと嬉しそうにイヤホンを外し、ベンチから勢いよく腰を上げる。

 

 

 

「お疲れ様なの! 今日はもう帰り?」

 

「美希ちゃんお疲れ様。私はもう帰りよ。それより美希ちゃん、またこの曲聞いてたのね」

 

 

 

 私の前で可愛らしくぴょんぴょんと飛び跳ねる美希ちゃんの右手に握ったままになっている黄色のウォークマン。その小さな画面には765 ALL STARSのデビュー曲である『Ready!!』のジャケットが映っていた。ウォークマンに繋がったままのイヤホンからは小さな音ではあるが私の大好きな後輩たちの声が聞こえてくる。

 美希ちゃんは恥ずかしそうに頭を掻くと、ウォ―クマンの画面の下に備え付けられた丸いボタンを押して『Ready!!』を止めた。そして慣れた手つきでイヤホンをウォークマンに巻き付けていく。

 

 

 

「うん、美希毎日聞いてるよ! 早く皆と一緒にこの曲歌いたいなーって思ってるの。そしたらハニーもきっと私の事を好きになってくれるだろうし」

 

 

 

 美希ちゃんが言うハニーという単語に私は思わず苦笑いをしてしまった。

ハニーと呼ばれているのは一カ月ほど前に765 ALL STARSのプロデューサーとしてやってきた赤羽根プロデューサーのことだ。もともとは律子さんが担当していた765 ALL STARSだがその中の亜美ちゃんとあずささん、伊織ちゃんの三人が『竜宮小町』として新たなユニットを組むことになり、そして私のようなローカルアイドルも数人担当していた律子さん一人ではとてもじゃないけど手が回らないから、という理由で765プロにやってきたプロデューサーだ。

 私は直接喋ったことはないが何度かすれ違ったり見かけたりしたことはある。まだ若い男性プロデューサーは遠目から居ても人の好さそうな雰囲気が滲み出ている、優しいプロデューサー。そんなプロデューサーに美希ちゃんは恋心を抱いているのだ。

 

 765プロの中では一番最後にやってきた美希ちゃんは高木社長がスカウトしてきたらしいが、いかんせんマイペースな性格と飽きっぽい性格が災いしてお世辞にも熱心にアイドル活動をしているようには見えなかった。レッスンのドタキャンはいつものこと、暇さえあれば事務所のソファで寝ているし、起きたかと思えばおにぎりを食べてまた寝たり。

 そんな自由気ままな美希ちゃんだったが、赤羽根プロデューサーがやってきてからは見違えるように精力的に活動を行い始めた。もともとスタイルもルックスも歌唱力も、全てを高いポテンシャルで誇っていた天才肌の美希ちゃんが本気になり始めたのだから、最近は結果が目に見えるように出始めていたのだ。

 

 

 

「だってあと一人あの中に入れるかもしれないんでしょ? 絶対その一人に美希がなりたいだもん」

 

 

 

 数週間前から流れ始めていた噂。765 ALL STARSに新たなメンバーを加えるという話が出回りだしたのだ。提案者は律子さんだというから信憑性も間違いない。そして765 ALL STARSに加われるのは一人だけ。

 薄々勘付いていた、その一人が私か美希ちゃんのどちらかから選ばれるということを。私を見ていてくれている律子さんや高木社長の最近の言動を見て私はある程度察していたのだ。

 だが美希ちゃんはそんなことに気付いていないらしく、今もこうして誰か分からない見えない相手に闘志を燃やしている。

 

 

 

「美希ちゃんなら大丈夫よ。絶対765 ALL STARSに入れるから」

 

「ホントに? 先輩にそう言ってもえると本当に入れる気がするの~」

 

 

 

 美希ちゃんも凄く良い子だった。純粋無垢で、私より遥かに可愛いし持っている才能も桁違いにずば抜けている。頑張り始めた動機は不純でも、ここまで熱心になれるのなら理由はなんだっていいのだと思う。

 春香ちゃんたちもだが、美希ちゃんのように必死に頑張っている人には本当に成功してほしい。目的や目標は違っても、本当に頑張っている人の姿はとても美しくてカッコいいのだから。私はそういった人たちを見るとどうしても応援したくなるのだ。自分の幸せよりもそういった頑張っている子たちの幸せを願ってしまう。それがこうして私を慕ってくれる可愛い後輩なら尚更だ。

 

 

 

「それじゃ、私は帰るね。美希ちゃんもレッスン頑張って」

 

 

 

 ロッカーから荷物を取り出し、私はそう言った。

 美希ちゃんは眩しいまでの笑顔で元気に頷いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

○○○○

 

 

 

 

 

 昔から765プロと交流のあったとあるショッピングセンター。今まで何度もここでお仕事をさせてもらったことがあったが、未だかつてこれほど空気が重い日はあっただろうか。私の横で腕を組む律子さんは唇を噛み締めているし、その横で自分の名前が書かれた襷を掛けた私もどうしても憂鬱な表情を拭うことができなかった。

 今日のトークショーとミニライブがどれだけ重要な物か、私は理解していた。恐らく今日のイベントの結果次第で私が765 ALL STARSに入るかどうかが決まるのだろう。律子さんも今まで以上に気合が入っているのがひしひしと伝わってきていたし、私自身もここが正念場なのだと、このイベントが決まってから今まで以上にレッスンに力を入れ万全の状態で臨んでいた。

 

 だがそんな私たち二人の前には週末だというのに平日以上に人通りが少ない店内の寂しい世界が広がっている。

 

 

 

「ホントにもうっ、なんで今日に限ってこんなことになるかな……」

 

 

 

 律子さんの悔しさが滲み出たセリフだ。

昨晩から降り始めた雨が朝方になるにつれその強さを増し、東京はここ近年で最大ともいえる大雨に見舞われたのだ。激しく振り続ける土砂降りの雨の中、律子さんの運転で何とかショッピングモールに着いたものの、ようやく辿り着いた店の中に人影はほとんどなかった。遠くに見える入り口からは大雨に曝され白くなった外の世界が見える。遠く離れたこの広間にも届く雨音がこの雨の強さを嫌というほど私たちに思い知らせていた。

 

 

 

「とりあえずお客さんは少ないけど、予定通りにいきましょう。目の前を通り過ぎるお客さん一人一人に声をかけていく感じでね」

 

「分かりました。私のデビュー曲である『お願い!シンデレラ』好評発売中です! 午後からはトークショーとミニライブも予定していますので是非ご参加ください!」

 

 

 

 律子さんと一緒に何度も何度もお客さんの少ない店内に向かって声を出し続けた。だが誰一人として立ち止まってくれる人はおらず、私の方をチラッと見てはそのまま通り過ぎていく数少ないお客さんたち。

 何度も何度も私は声を出した。それこそ、午後からのイベントでの体力も使い果たすほどに声を出して呼びかけた。だがそんな私の健闘もむなしく、相変わらず私たちの前に置かれた沢山の椅子に腰かける者は現れなかった。

 

 

――あぁ、これが私の限界なんだな。

 

 

 この時、私はそう悟った。

 これが私の限界なのだと。お客さんが少ないせいかいつもより少しだけ広く感じる店内に響く私と律子さんの声。そのステージの横に設置されたCD販売ブースには朝から一枚も減っていない私のデビューシングル、『お願い!シンデレラ』が山積みになって積んである。たまに通り過ぎるお客さんは私を見て冷ややかな目を浮かべたり、憐れむような目を浮かべたり。何度も心が折れそうになったが私は必死に声を出し続けた。

 

 それから間もなく、街に避難警告が発令されたのと同時に私たちはステージを降りた。当たり前だが午後からのイベントも中止。私たちは無言のまま荷物をまとめ、車に乗り込んだのだった。

 この日、売れた私のCDは三枚。一つは私が買って残りの二つはショッピングモールの社員さんが買ってくれた。

 

 

「この雨じゃ仕方ないわよ。またお願いね。私、765プロさん応援してるから」

 

 

 帰り際にCDを買ってくれたショッピングモールの女性がそう言ってくれた。私たちは力なく、「ありがとうございました」と言うのが精一杯だった。

 

 

 

 

 

 

○○○○

 

 

 

 

 

「律子君から話は聞いてるよ。昨日は大変だったそうだな」

 

 

 

 次の日、日曜日だというのに私は事務所へと向かい高木社長にイベントの報告を行った。高木社長は私の手短な報告を受け、初めて出会った時から僅かにしわが増えた表情を歪ませ、唇を噛むと静かにそう呟いた。

 高木社長の座る椅子の向こう側、大きな窓からはどんよりとした鼠色の空から細々と雨が降り注いでいる。昨日よりは雨はだいぶ弱まったが今日も朝から細かな雨がこうして振り続けている。古びたこの雑居ビルの下には色とりどりの傘が行き交っていた。

 

 

 

「それで、話とは?」

 

 

 

 高木社長が私の心の奥底を必死に探ろうとし、背もたれに付けていた背中を起こし両肘を付くと顎を両手の上に乗せて前かがみになる。「高木社長にお話したい事があります」、そういった旨のメールを昨晩送ったのは私だ。日曜日は休みにもかかわらず、高木社長はいつものようにキッチリとスーツを着てネクタイを締め、嫌な顔一つせず事務所まで来てくれたのだ。

 

 私は一度目を瞑り深呼吸をした。その瞑った瞼の裏に映ったのは私の大好きな可愛い後輩たち。笑顔で私の名前を呼んで、慕ってくれた大事な後輩たちの姿だった。

 

 私はゆっくりと目を開ける。高木社長は私の言葉を黙って待ち続けていた。

 

 

 

「私、今日限りでアイドルを辞めようと思います」

 

 

 

 私の言葉に高木社長は黙ったままだった。薄暗い社長室に響くのは外の世界の雨音だけ。昨日より遥かに弱まったはずの雨音が昨日より遥かに大きく聞こえる。

 高木社長の言葉を待ったが高木社長は何も言わなかった。まるで私の次の言葉を待っているように、ただただ両手の上に顎を乗せたまま、私を真っすぐに見つめていた。

 

 

 

「昨日のイベントも確かに天気のせいもあったと思います。でもそういうのも含めて私の実力なのだと、そう思うんです。運も実力のうちって言うじゃないですか。運も含めて、私には実力がなかったのだと思います」

 

「……そうか。分かった」

 

 

 

 社長はゆっくりと言葉を吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。

 そして私の背中を向け、どんよりとした雲が覆う外の世界を眺める。背中しか見えないから高木社長の表情は見えない。だが、その高木社長の背中がほんの少し寂し気な感じがしていた。

 

 

 

「君の歌声を初めて聞いた時、すっかり私は君に惚れ込んでしまった。歌声も勿論だが君にアイドルになる為のとてつもない才能を感じたのだから」

 

「そんな……、勿体ないお言葉です」

 

「だが君にはアイドルを目指す上で決定的なものが欠けていた……」

 

「分かってます、でも私には……、誰かを蹴落として上に行くことなんてできませんでした。ここにいるみんなが大好きですから」

 

 

 

 

 高木社長は驚いたように私の方を振り返った。私は目を見開いた高木社長に笑って見せる。

 

 

 

「……気付いていたのか」

 

「自分のことですから。自分が一番分かっているつもりです」

 

 

 

 私の笑顔に釣られ、高木社長は力なく笑った。

 そしてすぐにまた私に背中を向け視線を外の世界へと戻す。窓で遮られた外の世界、その隔たりである白い窓に高木社長は優しく触れた。

 

 

 

「蹴落とすことだけが全てではない、そして誰かを蹴落とすことが正しいとは私も思わん。だが、誰かが幸せになるためには誰かが不幸にならねばならん」

 

「そう……、ですね」

 

「それが嫌で黒井と決別したはずなのに……。皮肉なもんだな」

 

 

 

 高木社長の声が微かに震えていた。そのせいか、私の目に映る大きな背中も少しばかり震えているような気がする。

 

 

 

「ここにいるみんなが君の事を慕っている。天海君たちの今があるのも君のお陰だと思っている。だからこそ、君だけは何とか成功させてあげたいと思っていた……」

 

 

 

 背中を向けたままの社長はいつの間にか優しく窓に触れていた右手が力のこもった拳に変わっており、反対の左手では力なく目元を抑えていた。

 

 

 

「本当に申し訳ない、君をブレイクさせてあげれなかったのは私の実力不足だ。本当に申し訳なかった……」

 

「やめてください、社長。私、社長に感謝してるんですよ? ここに連れてきてもらえなかったらみんなとも出会えなかったんですから」

 

 

 

 私は静かに高木社長の元へと歩みより、高木社長の大きな背中を小さな細い手で擦った。ついに我慢できなくなったのか、高木社長は声を上げて泣き始めている。それでも私は何も言わず、静かに高木社長の背中を擦り続けた。

 本当に高木社長には感謝していた。あの時声をかけてくれたこと、ここで素敵な仲間たちに出会わせてもらったこと、そして泣くほどまでに私の事を大切にしていてくれたこと――……。もしあの時声をかけてくれなかったら、きっと私はあの小さな田舎町にいたままでこんな素晴らしい出会いと経験をすることができなかったのだから。

 

 この気持ちを伝える最適な言葉が見つからなくて、私は高木社長の背中を擦ることしかできなかった。

 

 

 

「高木社長? 私、勉強して大学に行こうと思います。今はまだ何もないけど、大学で私のやりたい事を見つけるつもりです。そして私の最後のわがままを二つだけ、聞いてもらえませんか?」

 

 

 

 高木社長は私に丸めた背中を向けたまま、頷いた。溢れ出る涙が左手を伝って薄暗いこの社長室にポツポツと流れ落ちている。

 

 

 

「私のデビュー曲である『お願い!シンデレラ』ですが、いつか私よりもっとあの曲が似合って歌いこなせる子が現れたらその子に与えてあげてください。あの曲を私は歌いこなせなかったけど、凄く良い曲なので私みたいな売れないローカルアイドルだけで終わらせるのは勿体ないと思っているので」

 

「……分かった。作詞家の人も私の古い友人だ。頼んでみるとしよう」

 

「ありがとうございます。そしてもう一つのお願いですが、765 ALL STARSの最後の一人に良ければ美希ちゃんを入れてあげてください。あの子は素晴らしい才能を持っています。私みたいな人間が意見するのも図々しいとは思いますが、是非ご検討ください」

 

「……そうだな、分かった。君の言う通り検討させてもらうよ」

 

 

 

 高木社長の言葉に私は背中を擦る手を止め、深々とお辞儀をした。高木社長はようやく私の方を振り向いてくれたが、溢れ出る涙を止めるのに必死で目元が左手で覆われたままになっている。

 そんな高木社長を見て、私は静かに笑った。そして、一歩だけ後ろに下がるともう一度だけ深々と頭を下げたのだった。

 

 

 

「それでは高木社長、本当に今まで長い間お世話になりました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから八年の月日が流れた。

 

 八年という長い時間が流れ、二十六歳になった私は――……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「プロデューサーさん、お待たせしました。来週のニュージェネレーションズのライブの最終資料です」

 

「ありがとうございます、千川さん」

 

 

 

 私――……、千川ちひろは346プロダクションのアイドル部門のアシスタントとして働いていた。

 

 

 

 


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