ダタッツ剣風 〜悪の勇者と奴隷の姫騎士〜   作:オリーブドラブ

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第4話 ハンナの恋

 生い茂る緑と青空に包まれた草原の中に、一筋の砂利道がある。

 帝国と王国を繋ぐ、その長い道程の上を、一台の馬車が悠々と進んでいた。さらにその前後には、馬に跨った騎士達が何人も配置されている。

 

「やはり、王国の景色はいつ見てもいいものだな。城塞に固められた帝都に居ては、お目に掛かれぬ情景であろう」

「そうですな。戦争により焼け野原となってしまった地域も多くあるそうですが……この辺りは城下町が近いこともあり、戦前の美しさを保っているようですぞ」

「……ああ。焼き払ってしまったのは我々、だがな」

 

 その馬車の中で。

 地平線まで広がる広大な草原を、二人の男が見渡している。そのうちの一人は、逞しい口髭をなぞりつつ――悔いるように呟いていた。

 

 ――元々、大陸統一による世界平和を目指していた帝国は、大陸全土に資源を分配する体制を作るために、豊富な資源が集中している王国と同盟を結ぶことを目的としていた。

 が、平和を謳歌していた王国にとって、それは侵略行為でしかなく……事実上の属国とされる事態を危惧した王国は強く反発し、それにより生じた緊張が武力衝突に発展してしまったのだ。

 平和のための戦争。王国は、その矛盾の犠牲となったのである。

 

「……戦争とはそういうものでしょう。勝てば正義。負ければ悪。それだけのことです」

「そうだ。だからこそ、我々は強者の側に立つ者として、弱きを助ける名君であらねばならん。……そうでない者が権威を保てないことは、歴史が証明していよう」

「ババルオのことですな」

「ああ。……力による王国の蹂躙など、帝国貴族の風上にも置けぬ男だ。皇帝陛下の教育係だった大臣の息子でなければ、とうに位を剥奪されている愚物よ」

「しかし、バルスレイ将軍が自ら出向かれるとは……」

「……あんな男でも、陛下にとってはかけがえのない恩師の息子。奴の悪事に気づいているがゆえに苦しまれている陛下をお救いするには、私が直接出向いて引導を渡す他あるまい。そのために、我が帝国軍選りすぐりの精鋭部隊を連れてきたのだからな」

 

 バルスレイ将軍。その名で呼ばれた男の全身は紅の甲冑で厳重に覆われており、頭部以外には露出している部分など微塵もない。

 傷だらけの精悍な顔立ちからは、歴戦の勇士としての貫禄が窺える。

 

「しかし――アンジャルノンは腕力のみなら、勇者に匹敵すると言われるほどの武人。私も面識はないが、相当の使い手と見ていいだろう。……皮肉な話だが、明日は戦時中より過酷な戦いになるかも知れんな」

「奴はその実力にものを言わせ、多くの女性を言いなりにさせてきた経歴もある男。……ババルオがいなかったとしても、どこかで手を打つ必要はあったでしょう」

「ああ。奴らに王国が蹂躙される前に、お灸を据えねばなるまい。この国を統べる責任を、背負う者として」

 

 窓から入り込む風に、銀色の髪が靡く。その揺らぎに撫でられた彼の瞳は、鋭く研ぎ澄まされていた。

 これから始まる、壮絶な戦いを予見しているのだ。決して避けられない、死闘を。

 

「私が出した勧告を気にも留めず、王国をいたずらに傷つけ陛下を苦しめる。――奴の罪は、果てしなく重いぞ」

「ええ。……しかし、将軍殿が奴の暫定統治まで引き継ぐというのは本当なのですか? 帝国軍最高司令官の座を、後進に譲ってまで……」

「私も、もう若くはない。王国の資源を得て、帝国の安泰が揺るぎないものとなった今、私にできる役割など高が知れている。己の力で立ち上がっていく国を見守る余生というのも、悪くはあるまい」

 

 草原を見つめる、バルスレイ将軍の鋭い瞳は――地平線の彼方に聳える、王宮の影を目にした時。

 光り輝く聖剣の如く。鋭利に冴え渡り――狙う先に在るものを貫いていた。

 

(……「ダタッツ」よ。お前が案じていた、この国の未来――今こそ私が切り開いてみせよう)

 

 ――その、城下町の運命を変える一団が近づいて来る頃。

 

 ルーケンの料亭は「いつも通り」の激戦に見舞われていた。

 

「ハンナちゃあん、ビールおかわり!」

「もー、さっき飲んだばかりでしょ! 昼から飲み過ぎてちゃダメ!」

「おーい、ハンナちゃん! こっち来て一緒にお茶しない〜?」

「私仕事中なんだってば!」

「へっへへ……ハンナちゃん、相変わらずいいケツして――あだだだだ!」

「お触り禁止ッ!」

 

 その原因の一つである看板娘のハンナは、常連客との日常会話に興じつつ、着実に注文をこなしていく。

 長い経験により培われた、その迅速な立ち回りを遠巻きに眺めながら――ダタッツは皿洗いに奔走していた。

 

「……いつ見てもすごいですね、彼女」

「ま、元気だけは誰にも負けないって専らの評判だからな。それしか取り柄がない、とも言うがね」

「ルーケンさん聞こえてるッ!」

「うひっ、こえーこえー」

 

 彼の隣で料理しているルーケンはのんびりとした口調で喋る一方、手は全く止めておらず、ハンナのツッコミを受け流しながら猛烈な速さで料理を次々と完成させていた。

 

 大量の注文を的確に消化し、流れるようにご馳走を並べていくルーケン。それを手早く、客が待つテーブルへ運んでいくハンナ。

 無駄のない、洗練され尽くした彼らの動きを目の当たりにして、ダタッツは強く息を飲む。そして、自ずと悟るのだった。

 ――これが、プロフェッショナルの動きなのだと。

 

「ダタッツさん! ぽけっとしてないで早く持ってきて!」

「ほらほら! 女の子を待たせてんじゃねーぞ新入りウェイター!」

「は、はいただいま!」

 

 ハンナと常連客の声に驚き、我に返るダタッツは大慌てで料理を運んでいく。そんな彼の姿を、若い男性客達は嫉妬心を滲ませた表情で見つめていた。

 

「おい、なんだよアイツ。あんな奴ここで働いてたか?」

「十日くらい前に入ってきた新人だよ。旅人だったらしいけど、帝国兵の連中からハンナちゃんを庇った縁で就職したって話だぜ」

「けっ、庇うだけなら誰にでも出来るっつーの。ちょっと顔がいいからって、調子こいてハンナちゃんに近寄りやがって」

 

 そんな彼らの険しい表情に気づかぬまま、ダタッツはぎこちない動きで食事を運んでいる。一方、歳を重ねた常連客は若い男性客達とは違い、大らかに笑いながらダタッツを見守っていた。

 

「ハッハッハ! 頼りねぇなぁ兄ちゃん! もっとキリキリ働かなくちゃダメだぞ!」

「は、は、はいっ!」

「おーいあんちゃん、ビールおかわりまだなのかい!?」

「す、すみません! すぐに――」

「――だぁかぁらぁ! おじさんはもう飲んじゃダメだってば! ダタッツさんを振り回すのはやめてっ!」

「うひょっ、恋する乙女は大変だねぇ。彼氏のために毎日大わらわ!」

「うるさ〜い!」

 

 常連客達が新人のダタッツをおちょくり、それを注意するハンナをからかう。そんな光景を、ルーケンが微笑ましげに見つめる。

 それが――この数日間、料亭で絶え間無く繰り返されるやり取りであった。

 

 加えてハンナ自身が、怒りながらもダタッツへの好意を否定しなかった部分も、常連客の煽りに燃料をくべる結果を招いている。そうなってしまえば、弄られないはずがないだろうに。

 

「……おい新入りぃ! こっちの皿下げてけよ!」

「はいっ! た、ただいま!」

 

 ――そして。そんな光景を見せつけられて、苛立ちを募らせたのか。

 若い男性客達のうちの一人が、声を荒げてダタッツを指名する。その声を背中に浴びた彼は驚くように飛び跳ねると、緊張した表情で若者達のテーブルに向かった。

 

「で、ではお下げしますね……」

「なにチンタラしてんだ、さっさとしろよ!」

「は、はい!」

 

 ダタッツはたどたどしい手つきではありながらも、一つずつ丁寧に皿を重ねていく。しかし若者達は、そのゆっくりとした動作に怒りをぶつけていた。

 それを受けて、ダタッツは「チンタラしている」ことだけが理由とは思えない苛立ちに戸惑いながらも、せっせと皿を回収してテーブルを離れようとする。

 

 ――が。

 

「ふいっちっ!?」

 

 突然、ダタッツはつんのめるように前に倒れ、顔面から床に激突してしまった。さらに、その後頭部に重ねた皿が墜落してしまったのである。

 そこを中心に、重なった皿が破片となって飛び散ってしまうのだった。

 

「ダタッツさん!? 大丈夫っ!?」

「お、おいおい兄ちゃん大丈夫かよっ! 怪我しちまったんじゃねぇか!?」

 

 その瞬間を目撃したハンナは大慌てで持ち場から離れ、ダタッツの側へと駆け寄っていく。彼女に放置された常連客も、自分の注文より倒れたダタッツの方を気にかけていた。

 

「……おーおー、困ったもんだ。仕事がトロい上に店の皿まで割っちまって。こんな奴雇ってたら、この店潰れちまうんじゃねーの」

「ははは、言えてる言えてる」

「おいあんた、これ以上迷惑かけないうちに辞めといたら? ハンナちゃんが可哀想だと思わないわけ?」

「……!」

 

 一方、若者達は冷やかすような口調でダタッツをなじり、彼を見下ろしていた。彼らの嫌らしい視線は、徐々に倒れたダタッツから――彼の側に腰を下ろしたハンナの胸元へと向かっていく。

 

「おいおめーら! 兄ちゃんに対して随分な言い草じゃねーか」

「本当のことだろ! だいたい、こんな使えない奴のせいでこっちは怪我しそうになったんだぜ!」

 

 若者達の言葉遣いに、常連客達は眉を吊り上げて反発する。そんな彼らに対し、若者達は悪びれる様子もなくさらにダタッツを罵倒した。

 

 ハンナも無言で彼らを睨みつけたが、ダタッツが店の皿を割ってしまったことも仕事の能率が芳しくないのも事実であるため、何も言えずにいた。

 

 ――しかし彼女は、ダタッツが転倒した原因が若者達にあることには気づいていない。

 彼らはダタッツが背を向けた瞬間、後ろから彼の足を引っ掛けていたのだ。ハンナからは見えないように、彼女が目を離した瞬間を突いて。

 

 目撃者がいなければ、罪は立証できない。皿を割った原因が若者達にあると、証明する術はない。

 ハンナは直感で彼らの仕業であると勘付いてはいたが、その証拠がないことに唇を噛み締めていた。

 

(……とにかく、ダタッツさんの方を見なきゃ)

 

 犯人をとっちめることは出来なくても。せめて、ダタッツの怪我だけは処置しなくてはならない。

 そう思い立った彼女は、彼の容体を見ようと、皿が直撃した黒い髪に手を伸ばす。

 

 ――すると。

 

「もも、申し訳ありませんお客様! お怪我はありませんでしたか!?」

「きゃああぁあ!?」

「どわぁあぁあ!?」

 

 大量の皿の破片に当てられ、切り傷だらけになったダタッツが――頭から血を流したまま、勢いよく立ち上がったのである。

 その姿に仰天したハンナと若者達は、驚きのあまりひっくり返ってしまうのであった。

 

「な、ななっ……!」

「本当に申し訳ありません! ぼんやりしてたみたいで……。すぐに掃除しますから!」

「ダ、ダダ、ダタッツさん! それより頭! 血!」

「あ、すみませんハンナさん! 大事なお皿を……」

「そんなの別にいいから! 怪我してるんだから動いちゃダメだよぉ!」

「ジブンなら心配いりません、それより破片を片付けなきゃ、皆さんが怪我をしてしまいます!」

「怪我してるのはダタッツさんでしょっ!」

 

 自分の怪我を全く意に介さず、せっせと皿の破片を拾い始めるダタッツ。そんな彼の姿に、ハンナは困惑して声を上げていた。

 その一方で、足を引っ掛けた自分達に恨み言の一つも言わないダタッツに、若者達は言い知れぬ不気味さを覚えていた。

 

「け、けっ! てめぇみたいな木偶の坊、掃除を済ませたらさっさと消えちまえ! 目障りなんだよ!」

「そうそう! あんたみたいな女目当てのゲス野郎には、靴磨きがお似合いさ」

「全くだぜ、お前がいると思うと飯が不味くなるんだよっ! 何よりハンナちゃんに迷惑だろうがっ!」

「……あ、あなた達いい加減にっ――!」

 

 その不快感が、さらに彼らを迫害へと駆り立てていた。口々にダタッツに罵声を浴びせる若者達に、ハンナがついに逆上する――直前。

 

「ほう、お前達には靴磨きがお似合いなのか?」

 

「……!?」

 

 地獄の底から唸るような声が、辺り一帯に響き渡る。

 

 本能に恐怖を叩き込むような、その声色に――若者達は震え上がり、咄嗟に振り返った。

 

 そこには鬼――ならぬ、ルーケンが立ちはだかっている。

 

 ……そう。彼はしっかりと若者達の犯行を見ていたのだ。

 彼らがハンナの気を引くために、ダタッツに恥をかかせようとしていることに、早くから感づいていたのである。

 若者達も、ハンナに見られないようにすることに気を配り過ぎたせいで――自分達が彼女に近付けない一番の原因だったはずのルーケンの存在を、失念してしまっていた。

 結果――彼らは、一番バレてはならなかった相手に、犯行の一部始終を見られてしまったのである。

 

「さぁて……奥でたっぷりと聞かせてもらおうか。お前達がどんな靴を磨きたいのかを、な」

「ひ、ひぃいぃ……!」

 

 逃れられない地獄を予感し、若者達は顔面を蒼白にして震え上がる。その内の一人はこの空気から逃れようと、テーブルを蹴り倒して店の外へと走り出すが――

 

「待ちなさいっ!」

「あぎゃっ!」

 

 ハンナに後頭部をフライパンで叩かれ。

 

「逃がさねーぞ若造!」

「ぐえっ!」

 

 常連客達のヒップドロップを浴び、敢え無く御用となってしまうのだった。

 その流れを目の当たりにして、残った若者達はさらに震え上がる。そんな彼らの様子に気づく気配もなく、ダタッツは未だに破片を拾い続けていた……。

 

「お、終わった……! 皆さん、お騒がせしてしまい申し訳ありませんでした! 破片は全部回収しましたので、ご安心くだ――あれ? どうされたんですかお客様?」

 

 ……その作業が終わる頃には、既に若者達がげっそりと痩せ細るまで絞られていたことは、言うまでもない。

 

 ルーケンに締め上げられた若者達は、泣く泣く店を去り――再び料亭に平穏が戻るのだった。

 

 そして、その夜……頭に包帯を巻いたダタッツが、散らかった床を掃除していた時のこと。

 

「ね、ダタッツさん。頭の怪我、どう?」

「あっ、ハンナさんお疲れ様です。おかげさまで、随分と良くなりましたよ。ルーケンさんは?」

「ルーケンさんならゴミ捨てに行っちゃったよ。それにしても、大したことなくて良かったぁ……」

「ええ、ハンナさんのおかげですよ。ありがとうございます」

「だけど、あんまり無理しちゃダメよ。あとは私が片付けとくから、ダタッツさんはもう休んでて」

「いえ、ジブンは全然平気ですから。こうしてお世話になっていることですし、もう少し手伝わせてください」

「……」

 

 厨房の皿洗いを終えたハンナが、不安げな面持ちでダタッツの側に歩み寄っていた。彼女の手当てを受けた彼は、その心配を他所に笑顔を浮かべ、働き続けている。

 

「……私が休めって言ったら休みなさい! 上司としての命令ですっ!」

「わっ!?」

 

 そんな彼に業を煮やしたハンナは、爪先立ちになってダタッツの両肩を掴むと、無理矢理に椅子へ座らせてしまった。彼女の行動に抵抗する間も無く、ダタッツの腰は最寄の椅子に沈み込んでしまう。

 

 間髪容れず、ハンナは彼から箒をひったくり、掃除を再開していく。彼女の迅速かつ強引な手段に翻弄されるダタッツは、唖然とした表情で彼女の背中を見つめていた。

 

「あ、あの……」

「私がいいって言うまで席は立たないこと! いいわね!」

「は、はい!」

「……よし」

 

 さらに振り向きざまに釘を刺され、彼はその椅子から動けなくなってしまう。そんな彼の様子を一瞥した彼女は、深く頷くと箒がけの作業へと戻っていく。

 そうしてダタッツの仕事を強奪した彼女は、手際よく隙間の埃や汚れを掃き出していくのだった。

 

 やがてダタッツよりも遥かに速いペースで掃除を済ませた彼女は、息つく暇もなくコーヒーを淹れて戻ってきた。

 二つのカップを手早くテーブルに置き、ダタッツの隣の椅子に腰を掛け――ようやくガスを抜くように息を吐いたのである。

 

「ふぅ〜……。終わった終わった」

「……ホントに手慣れているのですね。お見事でした」

「べ、別にこんなの特別なことじゃないわよ。ダタッツさんが大袈裟過ぎるの」

「だとしても、ありがたいのは本当です。それにコーヒーまで淹れて頂けて……」

「私が飲みたかったから淹れただけよ」

 

 ハンナは憑き物が取れたような表情でカップを手に取り、穏やかにコーヒーを口にする。その様子を見届けてから、彼女に続くようにダタッツもカップへ手を伸ばしていた。

 ただ、ハンナのように静かに飲むことは出来ておらず、度々ズルズルと音を立てては眉を顰めている。

 そうやって飲み方を試行錯誤している彼の横顔を、彼女は苦笑いを浮かべて見守っていた。

 

「……んっ、んん?」

「ふふっ、ダタッツさんたらホントに不器用なんだから」

「す、すみません。なるべく早く直しますから」

「大丈夫なのかな〜?」

「大丈夫ですってば!」

 

 頬杖をついて微笑むハンナに対して、ダタッツは頬を赤くして反論する。その姿を、彼女は懐かしむように見つめていた。

 

「……ルーケンさんが言ってた通り。本当によく似てるのね、お兄ちゃんに」

「お兄ちゃん?」

「うん。ほら、前にルーケンさんが話してたでしょ。ダタッツさんと同い年の息子がいた――って」

「……!」

 

 ハンナが何を思って自分を見つめていたのか。それを悟ったダタッツは、唇をきつく噛みしめる。

 その様子を見遣る彼女は、少しだけ寂しげな表情を滲ませていた。

 

「……大丈夫。そんな顔しないで。さすがに六年も経ったんだもん、そこまでメソメソしてないよ」

「――そうでしょうか」

「うん。お兄ちゃんもきっと、生きて帰ってくれてたら……ダタッツさんみたいに助けようとしてくれたと思うの。不器用なところもお人好しなところも、本当にそっくりだから。――まぁ、お兄ちゃんほど悪戯好きじゃなさそうだけど?」

「あ、あはは……」

 

 だが、重い空気にさせないためか、彼女は一転してからかうように笑みを浮かべる。それに釣られてダタッツも、苦笑いするようになっていた。

 ――その中で彼は確かに、実感していた。これが、ハンナという少女の持つ優しさなのだと。

 

「だから……何があっても、ダタッツさんは死なないこと。いいわね?」

「……はい、わかりました」

 

 自分の胸を小突く、彼女の小さな拳。その温もりが、ダタッツの胸中へと深く染み付いていく。

 

「それでよし。じゃ、明日は店もお休みだし、一緒にダイアン姫の親善試合見に行こうよ。景気付けに!」

「ええ。ジブンも一度、見てみたいと思ってたんです」

「でしょでしょ! じゃあ、今日は早く寝ないとね。大事な日なんだから、寝坊しちゃダメよ!」

「はは、了解しました」

 

 ハンナは軽くウインクすると、飲み干されたコーヒーカップを手にテーブルを立ち去っていく。その背中を見つめるダタッツの目は、彼女自身ではなく――その先にある何かを、見据えているようだった。

 

 ――ルーケンが、窓の外から覗いていたのである。ニヤニヤと、嫌らしく口元を吊り上げて。

 

「お熱いねぇ、相変わらず」

「んなっ!? ち、ちっが〜う!」

 

 それに気づいたハンナが、お決まりのリアクションを見せている頃。ダタッツはふと、明日の親善試合のことを思案していた。

 思い浮かべているのは――主催者の名。

 

(帝国貴族のババルオ……か)

 

 心の中で、その名を呟く彼の瞳は――どのような剣よりも鋭く、研ぎ澄まされている。

 


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