軍用車から降り立つその女、戦場に場違いなレースの白いメイド服を着こなし、頭には対毒兵器用のガスマスクという異様な風貌。ミスマッチなその組み合わせは、毒ガスで覆われたこの場に何故か馴染んでいた。その姿に苦笑を覚える。
.....まるで死神だ。ガリア軍の兵士アルデンが私を指してそう例えたが断然目の前の女の方が異様な姿と相まってその名に相応しい。
毒ガスの影響を受けて体を動かせない、寝転がった状態のセルベリアは口を開く。友人に掛けるような気安さで。
「......来てくれたのか、すまない。正直救助は間に合わないと覚悟していた....」
「セルベリア様の要請を受けて、言われた通り要塞の傍で待機しておりましたので。変わらず後方で待機していたら、先程の救難信号を危うく見逃すところでした....」
「賭けだった。咄嗟の事だったし伝わるかどうか分からなかった。だがお前はそういう意図に敏感だろ?....なにせ元は暗殺者だからな。そこに賭けてみることにしたんだ.....」
結果は成功だったな。と笑うセルベリアを、どこか呆れた雰囲気で。
「それは何というか.......御見それしましたわ。流石はセルベリア様です。よくこの状況でそこまで判断して行動に移せたものですね」
「ああ、それは簡単なことだ。殿下の事を考えていたからな」
「はい?」
なぜそこでラインハルトの名前が出てくるのだろうと云った風に。
不思議そうにガスマスクが小首を傾げる。
「殿下もまたレニイ村での一件の時、狼煙を上げて私に危険を知らせた事がある。その事を思い出したんだ......ゆえに私は殿下に救われたと言っても過言ではないだろう....!」
「......成る程....」
なぜか目をキラキラと輝かせているセルベリアを見て、
マスクで分からないが
そう、覆面の正体であるエリーシャは、懐に手を忍ばせ、倒れるセルベリアに向けてある物を取り出した。
カプセル型の機械。容器の中から蒼い光を木漏れ出しているソレは、医療用ラグナイト。
通称『ラグナエイド』である。
「今からセルベリア様の体内の毒素を取り除きます、少しの間だけ我慢してください」
「.....分かった、頼む」
何やら微妙そうな表情で了承するセルベリアに、エリーシャはラグナエイドを使用した。
ラグナイト特有の青い光がセルベリアの体を優しく包み込む。セルベリアは耐えるように目を瞑っていた。
すると毒によって受けていた体の不調が瞬く間に治っていく。
数十秒後、すっかり体の痺れも良くなったセルベリアは、腕や足を動かして、後遺症が残っていない事を確認すると立ち上がった。
「感謝する、それで状況はどうなっている?」
「突如として発生した毒ガスは、要塞中央のほぼ全域を覆い尽さんとしています。前部に居た部隊は多くが避難できたようですが建物中部の被害者数は不明。現在、要塞に収容していた衛生兵が総出で治療に当たっていますが、手が回っていない状態です、かなり絶望的と言っていいでしょう」
ガリア方面軍が先んじてギルランダイオ要塞に収容した兵士の数は約二万人。前部に待機させていた部隊が六千人程。要塞に取り残された兵士は一万四千、要塞に居た衛生兵百余名で全てを治療することは不可能に近い。
なにより.....。
セルベリアは沈痛な面持ちで広場を見渡した。既に事切れた人々で埋め尽くされた広場を....。
「要塞後部は壊滅状態だ。毒ガス発生源に近い事もあって、直ぐに此処は毒ガスで埋め尽くされた」
どれだけの人間が死んだ?恐らく帝国人だけでも一万人以上の死傷者が出た筈だ。そこにガリア人も入れれば考えたくもない悲惨な数字になるだろう。
「......恐らくは毒ガスの発生元が集積広場に近かったのは意図的でしょう。此処に大勢の部隊が集まることを想定して、最も被害を出せるようにと」
エリーシャの言葉を聞いて敵の意図に気付く。
「そうか、だからガリア軍はさも戦闘意志があるように要塞前の平原に大軍を展開させていたのか。直ぐには攻撃を仕掛けて来なかったのも、防衛する為に配置するであろう帝国軍を待っていたのか......!」
冷徹なまでに敵を殺すことだけを考えて作られた作戦だ。怒りがこみ上げてくる。
「この作戦を考えた者はどれほど悪辣なんだ!陸戦条約を反故にしただけでは飽き足らず自国民をも巻き添えにするとは......!」
歯を噛みしめて、怒りをあらわにするセルベリアを見てエリーシャが落ち着くように言った。
「まだ無理をするべきではありません。ラグナエイドが毒を中和している間に要塞から撤退するとしましょう。十分程は持つはずです」
しかしセルベリアは首を振って、
「ダメだ、まだ撤退できない。........エリーシャ、頼みがあるんだが聞いてくれないか?」
険しい表情で言った。
「なんでしょうか?.....あら」
何事か聞くエリーシャにセルベリアは頭を下げる。
「頼む!私の愚考によって要塞の中に取り残されている部下を助けてくれっ.....!」
希望的観測に過ぎないが、要塞内部であればまだ毒ガスが入り切っていないかもしれない。
それに、数多くの修羅場を共に潜った戦友だからこそ、彼らが簡単に死ぬとは思えない。
必ず生きている筈だ。そんな確信がセルベリアにはあった。
そして、彼らを救える者は目の前の女を置いて他には居ない。
「顔をお上げくださいセルベリア様、そのような事をせずとも命令とあらば動きます。
「.....すまない、本来であればお前達の存在はあまり人目に付かせたくはなかったのだが....」
「大丈夫、この毒ガスの中なら逆に隠れ蓑になるかもしれません、早速動くとしましょう」
パチンと軽やかに指を鳴らす。
それが合図だったのか軍用車の荷台から人影が現れる。体つきの分からない黒装束に身を包み、異様な雰囲気を纏った者達だ。
総数二十人もの黒装束は主の傍に付き従うかの様に整然と並ぶ。
その全員がエリーシャと同じくガスマスクを被っていて表情を隠していた。
言っては何だがかなり不気味だ。
「私が選抜した手練れの者達です。彼らにも遊撃機動大隊の救助を行わせます」
異様な姿に目を引かれがちだが、その気配の薄さにセルベリアは内心で驚いていた。
直ぐそこに居るのに、幻影を見ているかの様な。まるで影が実体を持っている様な感覚を覚える。
......本当に人間なのか?
思わずそう疑ってしまうぐらい人間味が乏しい黒装束達を、背に控えるメイド服の女。あげく周囲は毒ガスに覆われている。
知らない者が見たら奇妙な世界に迷い込んでしまったと錯覚しそうだな。
そんな事を考えているセルベリアを黙って見ているメイドと黒装束。
と、そこで彼女等が命令を待っている事に気づく。
セルベリアは号令をかけた。
「それではお前達にオーダーを頼む。私の部下を、遊撃機動大隊の仲間達を助けてくれ!」
「仰せのままに」
優美に礼を取るメイドの背に控える黒装束が、瞬間―― 一斉に掻き消えた。
セルベリアの目を持ってしても、何が起きたか分からなかった。
気が付けば毒煙の中に消える彼らの姿を僅かに視認できたくらいだ。初動が見極められなかった。恐らくそういう歩法の技なのだろう。ラインハルトが『ジュウジュツ』なる武術を伝授してくれた時に、独特な呼吸と足捌きで間合いを詰める術があると、教えてもらったことがある。もしかしたらそれに近しい技術なのかもしれない。
「――それで、セルベリア様は何をなさるおつもりですか?」
職業柄、技の分析をしていたセルベリアに一人残っていたエリーシャが問いかける。隠す事ではないし正直に答えた。
「私は.....これより要塞前で戦いを続けているガリア方面軍の救援に向かう。恐らく今、戦場では両翼のガリア軍が帝国軍を挟撃しているはずだ。背後は毒ガスで覆われて退路を失った状態にある。このままでは全滅は必至だろう.....」
戦略的な観点から見てもこれ以上の被害を出す訳にはいかなかった。別にガリア方面軍の司令官ではないが、兵士として最善を尽くす義務がある。
薄々セルベリアの意図に気が付いていたのだろう。エリーシャに驚く様子はなかった。だが『わたくし、心底あきれてます』とでも言いたげな仕草でヤレヤレと首を振った。
「ラグナエイドを使用したとはいえ、応急処置程度の治療でしかありません。常人であればとっくに失神している程のダメージを体は受けている筈なのに、まだ戦おうというのですか」
「これが私の性分だ、戦いでしか役に立てない。故にあの御方の槍であり盾になると決めたのだ。その槍が折れてしまっては存在価値すら無くなってしまう。だから私はどんな痛苦を被ろうと決して折れる事はない」
今日だけで、どれほどの戦いを行った。精神は限界を超えている。体力とてもう殆ど残っていない。
だがそれでも、私は戦場に身を置こう。
セルベリア・ブレスという存在価値を証明する為に。
「.......分かりました。説得は諦めます、どうせご主人様の命令でしか意志は曲げないでしょうし....」
「すまない。.....だがそれだけじゃないんだ。このまま黙って引き下がれない理由がもう一つだけある」
それは.....
「ガリア軍最高司令長官ゲオルグ・ダモン!あの男に一矢報いねばこの戦場で死んでいった者達が浮かばれん!!」
その怒りは決して散っていった同胞たる帝国軍だけを思い覚えた感情ではない。自分が相手をした勇敢なるガリア兵士達を思って感じた怒りでもあった。
国のため、仲間の為に戦った彼らの誇りや、想いが、たった一人の男の手によって汚された事に対して憤りを覚えていた。
セルベリアは広場に倒れ伏した大勢の人々を見渡す。
これは私の一方的な価値観から勝手に怒りを覚えているだけだ。彼らの声を直接聞いたわけではない。だが、それでもこれだけは分かる。それは、非道なる毒ガスによって死んだことが、彼らの本望であるはずがないという事だ。
.....彼らの無念を晴らせるのは私しかいない!
怒りによって総身から溢れ出す蒼いオーラが強まりを見せた。
佇むエリーシャに背を向ける。
「.....行ってくる」
「ご武運を.....」
ほんの一節の会話の後に、セルベリアは要塞の門に向かって駆け出した。あっという間に毒煙の中に消えていく。
その背中を見送ったエリーシャは、
「......必ず生きて戻って下さいね、セルベリア様。私が死のうと幾らでも替えはおりますが、貴女を代用できる者など居ないのです。決して死んではなりません」
貴女だけが御主人様を救うことが出来るのですから.....
どこか寂しげな声音で紡がれた独白。誰も聞く者は居ない、死が渦巻く場所で立ち尽くす彼女は、やがて自らの職務を思い出したように動き出す。
軽くポンと両の手が打ち合わされ。
「さて、物思いに耽るのは良い女の条件ですが、私は出来る女でもあるので仕事に移るとしましょう」
改めて毒ガスが立ち込める風景を眺めて。
「大隊の皆さんには申し訳ないですが。本当に、この状況は私にとって好都合ですわ。彼らを助けつつ、
濃密な死の気配の中を、花畑でも歩く様に鼻唄を歌いながら建物の中に向かう。
「あら.....?」
入る直前、視界の端で人影が走って行くのが見えた。セルベリアと同じく、外に繋がる要塞の門に向かって行く。
この毒ガスの中を突っ切っていくと云うことは、衛生兵だろう。いったい何者だろうか?
まあ、どのみち敵ではないようだった、問題ないだろう。
そう判断したエリーシャは、いつの間にか両手に握っていた