ニュルンベルク城の朝は早い。
日が昇る頃には城内の者達は起き出して自らの仕事を始めている。
中でも厨房は今、一番忙しく稼働していた。
城の人間全ての食事を作っているのだから当たり前である。
現に食堂内では既に衛兵や下男下女がごったがえし、彼ら彼女らは思い思いの食事をとっていた。
しかも後続がゾロゾロと入口から入って来るのだ。
これら全員分の食事を作り出すのだから厨房内は作業する者達で、てんやわんやしていた。
「......ふんふふ~ん」
しかし、その一方で奥の部屋にある厨房で一人の女性が鼻唄混じりに料理を作っている。
スパイスの香る部屋の中で、背中にかかる長い銀髪を後ろで結い上げポニーテールにしたセルベリアは、可愛らしいフリルの付いたエプロンを付け、手にしたお玉で火にかけた鍋をかきまわす。
程なくして出来上がった光沢のある褐色のスープを小皿に移し味見をする。
「よし、良い出来だ。これなら殿下も喜んでくれるだろう」
満足そうに頷くと敬愛する主君の喜ぶ姿を想像して口元が弧を描く。
もうお分かりだろうがセルベリアは自分ではなくラインハルトの為に料理を作っていた。
もちろん専属のシェフが居るのだが、時々こうしてセルベリアが作っているのだ。
仕事を奪う事になるシェフにはセルベリア自身が頼み込んで許可を貰っている。
彼も「セルベリア様なら問題ありません!」と快く承諾してくれた。
セルベリアの美貌で申し訳なさそうに頼む姿にデレデレした訳ではないのだ。
「....褒めて、いただけるだろうか.....」
思った事をつい口にしてしまったという感じで出た言葉に、恥ずかしいのだろうか、ほんのりと頬を染める。誰も見ていないと云うのにだ。
「またあの頃のように頭を撫でてくれないものか.....ふふ」
いや、違った。
どうやら何かを思い出して興奮した頬の朱さだったらしい。
瞳を閉じて夢想するようにして幸せそうに笑っている。
少しだけ不気味だ。
「おっといかんな、こんなことをしている場合ではない」
ふと我に返ったセルベリアは火を止めた鍋を持って料理を載せるサービスワゴンの上に置く。食器や銀のスプーンに添えつけの白パンを付けると専用の部屋を出る。
階段のないスロープ状の螺旋階段を上がっていくと長い廊下をつき進む。
途中何度も見張りに立つ衛兵とすれ違うがセルベリアを見咎める事はない。それどころかセルベリアに敬礼をして過ぎるのを待っている。
セルベリアもまた当然のように頷くと「ご苦労」とねぎらう。
.....可愛らしいフリルのエプロンを付けたままでだ。
高潔な騎士の如き凛々しい表情とフリフリの格好はあまりに違和感がありすぎた。
しかし、男心を絶妙に突いてくる姿に衛兵達はセルベリアが通り過ぎた後。興奮した様子で談義に花を咲かせたりしている。
後で「今日の担当で俺達が一番ラッキーだった」と他の男仲間に自慢するのだった。
衛兵達の間で人気が鰻登りであることをつゆ知らぬセルベリアは、目当ての扉の前に着いていた。
横の壁に掛けてある鏡で軽く身だしなみを確認するとゆっくりと扉を開け、城主の部屋にしてはあまりにも簡素な部屋に入ると、さらに隣の部屋に繋がる扉に向かい、起こしてしまわないようこれまた静かに開けた。
この瞬間がセルベリアの人生において幸福な時間の一つである。
その部屋は三十人以上が入れそうな程に広々としていた。円卓と二人分の椅子が置かれており、そこに料理を並べていく。マナー通り完璧に配膳し、部屋の奥にある天蓋つきのベットに近寄ると、静かに眠る部屋の主を起こした。
「ラインハルト殿下....」
そっと肩に触れると優しく揺り起こす。
穏やかに眠る彼の横顔を見ていると心の中が温かな気持ちになるのを感じる。
幸せと云うのはこういうのを言うのだろうな。
奉仕している側のセルベリアが幸福そうな表情で微笑むのは可笑しな話だろうか。
それは彼女自身にしか分からない。
「ん....」
優しく揺らしているせいか中々起きなかった彼が軽く声をもらす。
やがて、長い整ったまつ毛が震え、蒼氷色の瞳が露わになる。
寝起きでトロンとした目でセルベリアを見て、
「.....母上?」
ぼうっと幼げな表情を見せるラインハルトはそう呟いた。
完全に寝ぼけている。意外と低血圧なのだろうか。
「っ....!」
いつもは不敵に笑みを浮かべた豪放な態度の似合うラインハルトが、今は寝起きの子供のような反応を見せるのだ。そのギャップにセルベリアは悶えた。
同時に母を見る目がセルベリアの母性を刺激する。
....卑怯です殿下っこんなの耐えられない。
必死に理性を保たせていると、ラインハルトがようやく意識を目覚めさせた。
キョトンとした後に、
「.....なんだ、リアか。もう朝なのか?」
「は、はい。眠っているところを申し訳ありません殿下」
「いや、起こしてくれと言ったのは俺のほうだ、お前こそ昨夜の
「そんなことありません!疲れなら殿下の御蔭でどこかに行きましたので」
「そうか.....?」
♦ ♦ ♦
昨夜は将校達が集まる将校会議が開かれていた。ラインハルトが戻ってすぐに開かれたそれは自分を含めた計七人で話し合いが行われる。
まず刺客達に襲われた事を伝えれば、ある者は驚き、ある者は意味深に頷き、ある者は笑みを浮かべる。それぞれが違う反応を見せ、すぐに対策が話し合われた。
「.....と云う事でこの件についてはエリーシャに一任する」
「お任せください旦那様」
侍女服を纏った黒髪の女性が恭しく一礼するのを見届けて次の議題に移る。
次の話し合いは帝都から来た使者の事についてだ。
「使者がニュルンベルクに訪れたほぼ同日に俺が暗殺者に襲われたのには恐らく何らかの関連性があると思われる」
「そして指令書にはガリア方面軍と合流せよと書かれていた事を踏まえれば.....」
「やっぱりマクシミリアン殿下が黒幕ってことですかねえ」
ラインハルトの言葉に反応を見せたのは二人。『突撃機甲旅団』団長のオッサー・フレッサー准将と先に言葉を紡いだ細面の顔をした男である。
女性と見まがうこの男の名はシュタイン・ヴォロネーゼ。階級は准将であり、『
本来であればラインハルトを守る役目を負った部隊である。帝都に行く際も同行する予定であったがラインハルトの厳命によりニュルンベルクにて待機することになっていた。
そして案の定、刺客襲撃の報を知り。真面目な気質のこの男はラインハルトに辞任の許しを乞うた。
すなわち、殿下の命を危険に晒させた罪は重く、相応の罰が必要であると。
それに対してラインハルトは一蹴した。
「全ての責任は俺にある。であればお前が死ぬ気ならば俺も死のう」
「っ!」
ギクリとシュタインの顔が強張る。胸の思いを完全に看破されていた。
ラインハルトは腰の剣を引き抜きシュタインに突きつけた。
「この剣でお前を突き殺した後に、俺もこれを自らの心臓に突き刺す.....どうだ、心変わりしたか?」
笑みを浮かべてそんな脅迫をしてくる。
いや、脅迫とは名ばかりの存命処置に痛く感激したシュタインは涙を流しながら突きつけられた剣で新たに忠義を示し剣を掲げる。
「それにあれは必要な事であった。お前達を連れて行けば親父は無理やりにでも俺を兄上のところに行かせただろう。セルベリア一人だったから諦めたのだ.....」
ラインハルトの言う通り、もし護衛を引き連れて行っていれば、皇帝は有無を言わさずラインハルトをガリア方面軍に加入させようとしただろう。だが、まさか供回り一人(しかも女)しか連れて来ないとは思っておらず皇帝は呆れてものも言えなかった。ラインハルトの企みは成功したわけだが今回の襲撃はそこを突かれてしまったと云うわけだ。
そして話は戻る。
『やっぱりマクシミリアン殿下が黒幕ってことですかねえ』
「――――いや、まだそうと決まった訳ではない」
オッサーの疑問にラインハルトはそう答えた。
「というと?」
「フランツ兄上に属する貴族連中が最近きな臭い。何やらコソコソと企んでいるようだ」
「なるほど。俗にいう『フランツ派』と呼ばれる者達ですね」
「そうだ。有名所で言えばロックハート家、ウィップローズ家、クロードベルト家だな.......いや、クロードベルトは数年前に爵位を剥奪されたのだったか....」
「ウィップローズ.....?」
小さく呟くセルベリア。その名前に既視感を覚えたのだ。
はて、どこかで聞いた名前の気がするのだが、はたしてどこだったろうか?
なぜか少しだけ不愉快な気持ちになり考えるのを止めた。
まあいい、どうせしょうもない貴族なのだろうからな。
「.....それでフランツ派の貴族たちがどうされましたか」
「奴らめ、どうも最近になって軍備を増強し始めているのだ」
「ですが大将、今は連邦と戦時中ですぜ。軍備増強ぐらい普通じゃないですかい....」
「その軍備が連邦に向かうのならよいのだがな.....」
意味深に呟くラインハルトの言葉に首を傾げるオッサー。
「んん?どういう意味ですかい」
「まさか.....」
シュタインが目を細めて声をもらす。
「ああ、探らせてみたところ造った軍需物資を西方戦線にも南方戦線にも送らず。自分達の領地に貯めているようだ」
「はあ!?なんじゃそりゃ!軍規違反じゃないですか!」
驚きの声を上げるオッサーの横でシュタインが静かに言った。
「.....
「わからん。だが、その可能性は高い」
シュタインの言葉に首を振るもその可能性を認めるラインハルト。
誰かの息を飲む音が響いた。
貴族たちによる武力蜂起。そんな事になれば戦争なんてしている暇はない。
続けてラインハルトは卓上に一枚の封書を置いた。帝都からの使者が携えて来た例の指令書だ。
「この封書に押された印はまず間違いなく正規のものだ。つまり敵は.....
一気に室内の空気が緊迫した。
「マジかよ....」
呻くのはこの場で最年長のオッサー。
薄々感づいてはいたが実際に言われるとでは緊張感が違う。長年軍に居たオッサーだからこそ強くそう思う。
「怖いか?オッサー.....」
「ッ!」
心中を当てられた気分になって思わずラインハルトを睨む。何か言ってやろうかと思った。
しかし見つめ返すラインハルトの蒼氷の瞳に、吞み込まれるぐらいの力を感じ口を閉ざす。
ラインハルトは部屋にいる全員を見渡して言った。
「お前達には先に言っておくが俺の元を離れるなら今の内だぞ、もしかしたら敵は帝国軍一千万からなる大軍勢になるかもしれん。そうなると凡そ勝ち目はないだろう。今ならば離れるなら止めはせん....」
そう言って目を閉じるラインハルト。この間に離れるならば退出せよ、という意味だろう。
やはりと云うべきか最初に口を開いたのはセルベリアだった。
「この命は既にラインハルト様の為にあります。この身は御身の敵を討ち滅ぼす槍となりましょう」
次に言ったのは
「私どもの役目は殿下を傍で守る事にあります。命尽きるその日まで忠義を尽くさせてもらいます」
「お?じゃあ次は俺さんだなあ」
その横にどっかりと座ってニヒルに笑うその男。戦術迎撃兵装部隊『バジュラス・ゲイル』の隊長リューネ・ロギンス少佐は言った。
「と言っても俺さんの部隊はお前さんの方がよっぽど知ってるだろうからなー。まあ、敵は俺さんの部隊がまとめてぶっ潰してやるよ。ほれ、今度はお前さんだ」
「ぼ、僕ですか」
簡潔にそういって次に回す。
更にその隣に座る青年はどつくリューネに押され、緊張の面持ちで言った。
「えっと僕たちはみんなを守ったり補佐するのが仕事なので、みんながヤル気なら当然僕もヤル気というわけで.....えっと、とにかく僕は殿下と共に戦います!」
言い切った後ハアーと息を吐く青年は『中央相互支援連隊』の連隊長を務めるウェルナー・ロイエンタール中佐だ。ほっと安心する彼の目は左と右で違う色をしていた。
「あら、この流れはもしかして私でしょうか?困りましたね、私はただの侍女長なのですが....」
困ったように頬に手を当てるエリーシャ・ヴァレンタインの言葉に全員が白けた目で見る。
それに気付いてコホンと咳き込むと柔らかい笑みで言った。
「旦那様の影で生きる
コテンと小首を傾げるエリーシャを無視して将校五人が最後に残ったオッサーを見る。
オッサーは震えていた。
わなわなと大きな体を......怒りによって。
「っだれがビビッてるだあ!突撃機甲旅団が一番に突撃しないでどうするんだっつうの!!俺はなあ、はなから大将に
「.......フ」
目を開けたラインハルトが気炎を上げて立ち上るオッサーを見た。
「怖気を感じるのは恥ずべき事ではない。それだけお前が優秀な指揮官だと云う事だ、俺は良い部下達を持った。ありがとう.....」
それは心からの笑みだった。
この中の誰かが死んだとしてもおかしくない戦争が近い未来で起きるだろう。その為の準備をしてきたつもりだが、これからの戦いに全員が生き残れると言えるほどラインハルトは無責任になれない。
「我らの命お好きに使いください。もはやこの六人は貴方以外に仕える気は毛頭ないのですから」
そう言ってラインハルトの前で一斉に跪き、彼らは無二の忠誠を誓うのだった。
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「本当に酔狂な者達だ。俺なんかを.......む?」
昨夜起きた事を思いだしながらフッと笑い、
ベッドから立ち上がったラインハルトは芳しい香りに気付き鼻をひくつかせる。
この匂いはもしや.....。
弾みだす心を隠しながら料理の置かれた円卓に近づき椅子に座る。
蓋に隠された鍋を見ながらセルベリアに聞いた。
「リア、もしかしてこの料理は....」
「はい、殿下」
笑みを浮かべたセルベリアが蓋を開けると勢いよく蒸気が逃げていく。
露わになった中身にラインハルトは感嘆の声を上げる。
その料理の名前は。
「
「やはりか....!」
まだ寝ぼけているのか子供の様に嬉しがるラインハルト。
それを見て内心でガッツポーズをとるセルベリアはお玉を掴み鍋からカレーを掬う。
並べていた皿に盛りつけていった。
「どうぞ、ご賞味下さい」
「いただきます」
無意識の内に手を合わせてそう言うと湯気を立てるカレーを銀のスプーンで掬い口に持っていく。
口に入れた瞬間。カレーの旨みと共にピリッとした香辛料の程よい辛味が舌を刺激する。
得も云えぬ幸福な時間を味わい、その時間が失われぬ内に白パンを食べる。
優しい素朴なパンがカレーの辛味を受け止めてくれる。完璧な調和だった。
「美味い....」
それからも息つく暇もなく食事を進めていくとあっという間に皿の中身は無くなった。
「おかわりを頼む」
「ありがとうございます」
心底嬉しそうな表情で差し出された皿を盛っていくセルベリア。
....まるで、そうまるで新婚夫婦のようなやり取りではないか。
そう思いながらカレーを盛った皿を手渡す。
そんな心中は知らぬとばかりにカレーに夢中なラインハルトは一心不乱に食べていく。
その勢いは収まらず鍋に入っていたカレーを全て平らげてしまったのである。
「....ふう」
満足そうに背を椅子にもたれる。ふとセルベリアに問いかけた。
「しかし知らなかったぞ。リアがこの料理を作れるなんて。傭兵時代に南方諸国で覚えて来たのか?」
それを聞いたセルベリアはキョトンとした後ややあって微笑んで答えた。
「お忘れですか?これは幼少の頃に殿下が考案した料理ですよ。たしかに各種の香辛料は南方諸国から取り寄せた物ですが」
「......そうだったか?いや、リアが言うのだからそうなのだろうな。そうか、また忘れていたのか....」
そう言って物憂げにカレーの入っていた皿を見詰めた。
この皿のように空っぽになっていた記憶を思い出そうとする。
すると今まで思い出せなかった記憶がスルリと頭をよぎる。
......そうだ、あれはまだ俺達が出会ったばかりの頃の事だった。
帝都の別館で暮らしていた俺達は二人だけで居る事が多かった。
ある日、幼いセルベリアは俺の為に何か出来ないかと言ってきて、俺はそれならばとその時にふと思った料理を作ってくれないかと頼んだのだ。なぜそんな物を作ってくれと言ったのかは覚えてないが、確かに俺がセルベリアに作り方を教えた気がする。
わかりました!と強いヤル気に溢れていたセルベリアが印象的でソッチの理由は忘れてしまった。
とにかく、腕をまくり上げ厨房に入るとセルベリアは料理を作り始めたのだ。
しかし、結局は......
カレーに必要な材料がなくて失敗したんだ。
それでも懸命になって作ってくれて出来上がったのはカレーもどき、と云うよりそれはまごうことなくポトフで。
俺はそれを苦笑しながら食べたんだった。なぜ忘れていたんだろう。
ポトフも美味しかったのだが、それでも幼いセルベリアは自分が許せなかったらしく、泣きそうな顔になって立ち尽くしていた。
だから俺は、こうやって頭を撫でてやったんだっけ。
「で、殿下.....?」
その声にハッと記憶の旅から現実に戻る。気が付けばラインハルトはセルベリアの頭を無意識の内に撫でていた。
「.....すまない。考えごとをしていた。嫌だったろう....」
「嫌じゃありません!」
思いのほか強い言葉で少しだけ驚く。離そうとしていた手がピタリと止まる。
「殿下は覚えてないかもしれませんが....私は、この手にどれほどの温もりを与えられたか.....!」
目に涙をうっすら滲ませながらセルベリアは微笑む。とても大切な思い出を語るように。
......ああ、俺も思い出したよ、大切な思い出を。忘れていた記憶を。
.....大切なお前の温もりも一緒に。
ラインハルトは思い出すようにセルベリアの頭を優しく撫でる。
今だけは.....あの頃の少年と少女に戻ったように。
ゆっくりと、時間は流れていくのだった.....。