「お、お待ちください殺生丸様!?」
息も絶え絶えに訴えながら邪見は必死に主である殺生丸の後ろについていく。対して殺生丸は全く気にするそぶりなく進んでいくだけ。はたから見れば殺生丸が歩いているのに勝手に邪見が付いて行っている様に見えるだろう。だがそれがこの二人の主従関係。
「殺生丸様……先ほどの戦、この邪見、感服いたしました」」
ようやく追いつき、人頭杖を支えにしながら自らの主である殺生丸様に媚びへつらう。それは先ほどの妖怪たちとの戦。愚かにも殺生丸様に喧嘩を売ってきた妖怪の一団は一瞬で消え去ってしまった。ただの剣の一振りによって。改めて自らの主である殺生丸様の偉大さに感動するしかなかったのだが
(ああ……やっぱり答えて下さらない……)
殺生丸様は何も答えて下さらない。間違いなく耳には届いているはずなのに全く聞こえていないかのように無視してしまわれる。その変わらぬ後ろ姿から漂う高潔さに惚れ惚れしながらも、いつも通りの対応に肩を落とすしかない。そう、これはいつものこと。自分の問いかけに応えて下さることの方が稀なのだから。
(いや、何を落ち込む必要がある! これは口にしなくとも自分の意志をくみ取れという意味に違いない! 以心伝心……この邪見、精進してまいります!)
そう、殺生丸様は寡黙なお方。そこが魅力でもある。決して無視されているわけではない。未だに全然殺生丸様のお考えになっていることが悟れないが、それはわしの至らなさのせい。以前までならうなだれているわしだが今は違う。
(この人頭杖にかけて、この邪見、どこまでもお供させていただきます……!)
この手にある杖こそがわしが殺生丸様の家来に認められた証。思い出すのはかつての自分の姿。手下を従えていた頃。自分はその頭領として活躍していた。しかしそんな中、手強い妖怪との戦いによってついにわしが命を落としかけた時、この方が現れた。
『邪魔だ、失せろ』
そうつぶやいた瞬間、自分たちがあんなにもてこずっていた妖怪を爪の一振りで殺生丸様は屠ってしまわれた。まさに闘神。自分たちなど目に入っていないかのようにその場を立ち去る後ろ姿に自分はただただ見惚れるしかなかった。思えばあれは天啓だったに違いない。
『貴方様にはそのつもりはなかったかもしれませぬが……命を救われました! 何卒、何卒わたくしめを家来に……!』
それからはただただ頭を下げたまま殺生丸様の後についてゆく日々。殺生丸様にとってはわしを助けた気など毛頭ない。それでもわしはその後ろに付き従い続けた。雨の日も風の日も。ついに精根尽き果て倒れかけた時
『使えるなら、預けておく』
殺生丸様はそのまま、滝壺の中に隠されていたであろうこの杖をわしに与えて下さった。あの時の感動は忘れることなくこの邪見の胸にある。思えばあれがわしが殺生丸様の家来として認められた瞬間。まだそれから半年も経っていないが、遠い昔のことのように感じる。
そんなこんなで、自分は晴れて殺生丸様の家来として旅に付き従うことができるようになったのだが
『ん? 何じゃ、邪見まだ付いてきておったのか。お前も物好きなやつじゃなー』
「やかましい! お前こそ殺生丸様に仕える身であるなら身の程をわきまえんか!」
唯一の不満が目の前で気だるげにあくびをしている妖怪、鞘。殺生丸様の家来第一号になったつもりがこいつのせいで台無しになってしまった。しかもいつも寝ていることに加えて何よりも殺生丸様を全く敬おうとしない。不敬極まりない奴。
『わしは殺生丸に仕えておるわけではないぞ。わしが仕えておったのは御館様じゃ。今はもうおらんがの。叢雲牙を抑えるために仕方なくこうしておるだけじゃ』
「っ!? 貴様、言うに事欠いてそんなことを……!?」
『わしとしては骨喰いの井戸に放り投げてくれた方が気が楽じゃったんじゃが……それよりも殺生丸、お前また叢雲牙を使いおったな? 前にも言ったであろう。あれは……』
そのままくどくどと鞘の奴は殺生丸様に向かって愚痴を漏らし始める。命知らずにもほどがある。唯一の救いは全く気にしていないのか、それとももう慣れてしまっているのか。殺生丸様は完全に鞘のことを無視して歩き続けていること。もしわしが同じことを口にすればただでは済まないだろうに、やはり自分は二番手なのだろうか。
「いい加減しつこいぞ、鞘! 殺生丸様が刀をどう扱おうが殺生丸様の自由であろう! 殺生丸様、先ほどの刀……叢雲牙ですか、真に恐ろ……ではなく! 素晴らしい御力でした!」
鞘の奴に負けじと自分も割って入る。鞘にはできない褒め殺し。思わず本音が出かけるもなんとか誤魔化しながら殺生丸様のご機嫌を取る。しかし脳裏には先ほどの恐ろしい光景が蘇り、冷や汗が止まらない。
(しかし、鞘ではないが本当に恐ろしい力じゃった……危くわしも巻き込まれるところじゃったし……)
叢雲牙と呼ばれる刀の力は凄まじく、この世の物とは思えないもの。一振りで一面の大地が死の大地に変わってしまった。あの刀を扱えるのは間違いなく殺生丸様だけ。
「しかし殺生丸様……あのような妖怪にお使いにならずとも、他の二本の刀で十分であったのでは……?」
鞘ではないが、あの叢雲牙という刀はできればあまり使わないでくれると助かる。その代わりに残りの二本をお使いになられればどうかと提案してみる。未だ見たことはないが、流石に残りの二本まで叢雲牙と同じような代物なんてことはないはず。しかしそれは
『はて? 邪見、お前はまだ知らんかったのか? 殺生丸は残りの二本を使わんのではない、使えんのじゃ』
「は?」
ある意味鞘以上に踏んではいけない犬の尾を踏みつけるに等しい言葉だった。
「それは一体どういう……」
『残りの二本……鉄砕牙には誰かを守りたいという気持ちが、天生牙には誰かを慈しむ慈悲の心がなければ扱えんのじゃ。そのどちらも殺生丸はもっておらんからのー……叢雲牙を使うしかないというわけじゃ』
やれやれと何でもないことのようにとんでもないことを口走っている鞘だが、その内容については自分も同意するしかない。
(なるほど……殺生丸様がお使いになれないはずだ。そんな物、天地がひっくり返っても殺生丸様が持てるはずがないだろうに……)
誰かを守る気持ちに慈悲の心。およそ考える限りで最悪の組み合わせ。何故殺生丸様の父君はそんな刀を遺されたのか。
「――――」
「っ!? わ、わたくしめは何も考えておりません!?」
瞬間、殺生丸様の視線が自分を射抜く。反射的に誤魔化そうとするもこちらの心は完全に見抜かれてしまっている。まさかこんな形で初めて以心伝心を体現するなんて冗談にもほどがある。
『そういえば鉄砕牙といえば……犬夜叉は元気にしておるのかのー? 殺生丸、一度ぐらい様子を見に行ってやったらどうじゃ? 遊んでやる約束もしておったろう?』
「犬夜叉……? 一体誰の事じゃ?」
『それも知らんかったのか? 殺生丸の弟じゃよ。鉄砕牙も元々はその犬夜叉に遺されたものじゃったんだが色々あって今は殺生丸が持っておるわけじゃ』
「弟……殺生丸様には弟様がいらっしゃったのですか?」
さらっと明かされる衝撃の事実。しかし殺生丸様の弟。一体どんな方なのか。想像するだけで恐ろしい。
「…………」
しかし殺生丸様はそれに答えることなく、そのまま歩き始めてしまう。どうやら刀同様、その話題も禁忌だったらしい。
「あ、お、お待ちください殺生丸様!? その先の山は今、赤鬼青鬼という二匹の妖怪が縄張りとしております。何でもかなりの強さらしく、人間はもちろん妖怪も立ち入ることが難しいと……」
慌てて自分がこの数日で集めた情報をお伝えする。付き人、家来として情報収集も大きな役目。この先の山に住んでいる鬼の兄弟は数百年を生きた強力な妖怪。さしもの殺生丸様も。だがそんな懸念は
「それが?」
氷のように冷たい殺生丸様の眼光と言葉によって消し飛ばされてしまう。
「い、いえ!? 何でもございません! お供させていただきます!」
ははー、とその場で頭を下げながら無礼を詫びる。そう、この方の身を案じるなどありえない。むしろ案じなければいけないのは相手の方。それに加えて巻き込まれないように自分自身。慌てて後をついていこうとしたときにふと思い出す。鬼の情報を手に入れる中で聞いた妙な噂。
「そういえば、その山の近くで妙な噂が……何でも半妖の子供が最近うろついているとか。人里や妖怪の縄張りに入り込んでは追い出されているらしいのですが……」
つい独り言のように呟いてしまう。だが仕方ない。半妖だけでも珍しいのに子供がうろついているというのだから。もっとも殺生丸様にとってはどうでもいい話。とにかく今は鬼たちとの戦いに備えなくては。そんな考えは
「っ!? せ、殺生丸様!? お、お待ちください、いったいどこに行かれるので!?」
風のような速さでその場から飛び立ち、山へと向かってしまう殺生丸様によって断ち切られてしまう。呼び止める間も付いていく暇もない早業。あとに残されたのは自分だけ。しばらく呆然とするも、慌ててその見惚れてしまうかっこいい後ろ姿を追いかけることになるのだった――――
「ハァッ……ハァッ……!! せ、殺生丸様……一体どこに……?」
肩で息をしながらとりあえず一息つくことにする。ここは鬼たちの山の中。そこに入っていかれるまでは見えていたのだが完全に殺生丸様を見失ってしまった。自分は殺生丸様のように鼻が利くわけではない。はぐれてしまえば探し出すのは至難の業。
(ま、まさか殺生丸様は、この邪見をお見捨てに……!?)
その可能性に気づき、顔が思わず青ざめていくのを感じる。精一杯お仕えしていたがやはり粗相があったのか。どだい自分のような妖怪では殺生丸様に付き従うのは無理だったのか。最悪に近い絶望に落胆しかけたその時、近くの茂みで何かが動く気配があった。
(な、なんじゃ……!? ま、まさか鬼どもが……!?)
心臓が飛び出そうになるのを必死に抑えながらすぐさま立ち上がり人頭杖を握りしめて息を飲む。もし噂通りの奴らなら自分では敵わないかもしれない。殺生丸様ならいざ知らず、自分では。
(い、いや……わしだって妖怪の端くれ! 殺生丸様の家来として鬼なんかに後れを取るわけにはいかん!)
己を奮い立たせながら覚悟を決める。さあ、どこからでも出てくるがいい。しかしそんな決意は
ぴょこん、と茂みから飛び出している犬耳によって無駄になってしまった。
「……耳が見えておるぞ」
「えっ!? くそっ!?」
思わず呆れながら突っ込んだ瞬間、本当に気づいていなかったのか。隠れている相手は手で耳を抑えながらその場から逃げ出そうとしている。とりあえず先回りしてやるとそこには
「なんじゃ……? 妖怪の子供……?」
銀髪に赤い着物を身に纏った、人間で言うなら五、六才ほどの子供がいた。警戒しているのか、いつでも逃げ出せるように構えたまま。その頭には先ほど隠しきれていなかった犬耳がある。
「…………」
そのまま思わず互いに見つめ合ってしまう。子供からすれば睨んでいるのかもしれないが全然威圧も何もあったものではない。こっちにあるのは溜息だけ。鬼だと思って右往左往していた自分が馬鹿のよう。そんな中、ようやく思い出す。目の前の子供の正体。
「そうか。お前がこの辺をうろちょろしておるという半妖だな?」
噂になっていた半妖。よく見れば頭の上にある犬耳は半化け。人間と妖怪の混ざりものの証。ここが鬼たちの縄張りだとも知らず迷い込んだのだろう。自分と同じに。そんなことを考えていると
「うるせえ! 半妖だからなんだって言うんだ! この小妖怪!」
「なっ!? しょ、小妖怪じゃと!? 半妖のくせにわしに向かってそんな口を利くとは!」
「さきに馬鹿にしてきたのはそっちだろ! 半妖の何が悪いってんだ! 妖怪や人間のほうが偉いなんて誰が決めたんだよ!」
さっきまでのしおらしさ、怯えはどこに行ったのか。まるで子供のよう……ではなく、子供そのまま。思わずこちらも言い返してしまう。よりにもよって小妖怪など……! た、確かに自分は小さいがこんな半妖の小僧に言われるほど落ちぶれてはいない。
(それにしても何でこんな子供が一人で……?)
一旦心を落ち着けながら改めて半妖に目を向ける。それだけで十分だった。よく見れば顔はやつれ、顔色は悪い。着物はボロボロで今にも破れてしまいそうな有様。こちらを警戒して睨んでくるその眼はまるで飢えた子犬のよう。
「なんだよ……おれは食い物なんて持ってないぞ」
「頼まれたってそんな食い物いらんわい……」
後ろ手で食べ物を隠していたのか、半妖はうー、と犬のように自分を威嚇してくるがどうでもいい。見ればまともに食べれそうな食べ物はわずか。山での食べ物の捕り方すら知らないのだろう。親を亡くして一人彷徨っている、といったところか。
「もうよい、わしは忙しんじゃ。さっさとどこにでも行くがいい」
「なんでおれが。お前がどっか行けよ、小妖怪」
「やかましい! はあ……それにしても殺生丸様はどこに行かれたのか……」
他人の話を聞いていなかったのか、まだ小妖怪扱いしてくる半妖にげんなりしながらもここにはいない殺生丸様のことを考える。本当にどこに行かれてしまわれたのか。知らず黄昏ていると
「せっしょうまる……?」
なぜか目をぱちくりさせながら半妖の小僧が呆然としている。今までの痩せた犬に雰囲気ではない、本当に年相応の子供のような顔。それに目を奪われているも知らず、辺りが暗くなってしまう。
「やけに騒がしいと思ってきてみれば……てめえら、ここで何してやがる?」
「え?」
思わず振り返り見上げた先には鬼がいた。大木のような、こちらを影で包んでしまうほど巨大な赤い鬼がこちらを見下ろしている。そう、見下ろされるほどに自分と半妖の小僧は小さかった。
(こ、こいつが赤鬼……つ、強そう……)
思わず小妖怪にでも成り下がった気分。分かってはいたが目の前にするとその迫力は桁外れ。今もっとも会いたくない相手が目の前に現れてしまった。
「ここは俺と兄者の縄張りだ。勝手に入ってきて、ただで帰れると思ってんじゃねえだろうな」
「な、なにを! わしを誰じゃと思っておる! 恐れ多きはかの大妖怪、殺生丸様の」
「いいじゃねえか、こんなに広いんだからちょっとぐらい」
「き、貴様、わしが口上を上げているところだというのに……!?」
己を鼓舞しながら名乗りを上げようとするもまたしても半妖の小僧に邪魔されてしまう。なんだろうか。こう、致命的にこの半妖と自分は相性が悪い気がする。
「ほお、吠えるじゃねえか。その身なり……てめえ、この辺りを荒らして回ってる半妖のガキだな?」
「っ!? あ、荒らしてるんじゃない! おれはただ食べ物を分けてもらおうと思って」
「それを荒らしてるっていうんだよ。人里も妖怪の縄張りもお構いなしとは……所詮は半妖だな。人間か妖怪か知らねえが、こんなガキしか生めねえんじゃ、てめえの親もよっぽど馬鹿だったんだな」
心底可笑しいとばかりに赤鬼は笑い飛ばしている。それを前にしてどうするか必死に考える。この場をどうするか。戦うべきか。逃げるべきか。迷いながらも赤鬼の隙を伺うも
「……するな」
「ん? なんだ、怖くてどうにかなっちまったか? とにかく俺たちの山に踏み込んだ以上、生きて帰れると」
「母上を……馬鹿にするなああああ!!」
何を血迷ったのか。半妖の小僧はそのまま鬼に向かって殴りかかっていく。自分の何倍もある相手に向かって。正気ではない。頭に完全に血が上ってしまっている。
「何をしておる!? さっさと逃げん」
か、と制止うするまもなく、半妖はそのまま鬼の爪によって引き裂かれてしまう。呆気なく、まるで木の葉のように。鮮血と共にまるでゴミのように半妖は地に落ち、動かなくなってしまう。あまりにも無様な最期。逃げれば助かったかもしれないのに、かなうはずのない相手に向かって言って返り討ちにされてしまう。本当に馬鹿でしかない。
「か、勝手にわしのことを小妖怪呼ばわりして勝手に死ぬとは……お、おい!? 小僧、そのまま死ぬなど許さぬぞ! まだわしは謝ってもらっておらんのだからな!」
なのに知らず杖を持つ手には力が籠っていた。とにかく生意気で礼儀を知らない子供だが、まだ自分は文句を言っていない。
「なんだ……てめえもそこの半妖みてえに殺されてえのか?」
馬鹿なやつだとばかりにこちらを見下してくる鬼に思わず体が震えるも、何とか踏みとどまる。脳裏に浮かぶのはあの時の光景。自分の危機を偶然とはいえ救ってくださったあの方の姿。あの方に仕える自分がこんなところで死ぬわけにはいかない。いざ、尋常に。叫びと共に人頭杖から火炎を放たんとした瞬間
鬼は一瞬で、物言わぬ骸に姿を変えた。
刹那。瞬きすらできない間に鬼は八つ裂きにされてしまった。その爪によって。あの時と同じ、圧倒的な力。大妖怪に相応しい力と格を持った自らの主。
「――っ!? せ、殺生丸さ……ま……?」
驚きと共に喜びの声を上げようとした瞬間、体が固まってしまった。まるで時間が止まってしまったように体が動かない。ソレを前にして、微動だにすることができない。
そこには自らの主の姿はなかった。代わりに主には似ても似つかない存在。血だらけの身体。だがその血は自らの物ではない、鬼の返り血。その爪は深紅に染まっていた。その真っ赤な瞳が自分を捕らえる。まるで、心臓を鷲掴みにされたかのような悪寒が全てを支配する。
ようやく邪見は理解した。なぜ自分がソレを自らの主だと間違えたのか。
目の前にいる半妖の子供。それが放つ妖気が殺生丸のソレと同じだったから。
それが邪見と犬夜叉の出会い。そして犬夜叉の本性が初めて解き放たれた瞬間だった――――