「何だ貴様は? ここが俺たち鬼の縄張りだと知らないのか?」
「ここから立ち去れ! でなくば八つ裂きにしてくれる!」
今にも襲い掛からんとする勢いで二匹の妖怪が声を荒げている。それは鬼だった。頭にはその名の通り角があり、人間の何倍もあるような体躯。言葉通り相手を八つ裂きにして余りある爪と牙をちらつかせている。だがそれを前にして
「…………」
表情一つ変えず、殺生丸はその二匹の鬼の間を素通りしていく。声を出すことはおろか一瞥することすらない。まるで鬼たちなど最初から眼中にないといわんばかり。そしてそれは正しかった。なぜなら殺生丸にとって目の前のいる鬼など道草に落ちている石と変わらないのだから。
「っ!? 貴様、我らを誰だと――」
憤怒の表情と共に二匹の鬼は殺生丸へ襲い掛かる。自分たちの縄張りを無視した挙句にこの屈辱。どんな妖怪であったとしても同じようにするだろう。ただ幸運だったのは、鬼たちは自分たちが死んだことにすら気づけずにこの世を去ったこと。
「邪魔だ」
断末魔を上げる暇もなく、鬼たちはただの肉塊へと姿を変えていた。一瞬、殺生丸がその指先を動かした瞬間に鬼たちは絶命した。皮肉にも自分たちが八つ裂きになりながら。そこに理由はない。妖怪であろうと人間であろうと。女子供であろうと例外はない。ただ邪魔だったから。あまりにも単純であるが故に恐ろしい。だがそれだけでは終わらなかった。
二匹の鬼が殺されてしまったことを悟ったのか。無数の鬼、この森を縄張りにしている鬼たちが殺生丸に向かって集まってくる。殺生丸は臭いだけですべての状況を把握する。多勢に無勢。仲間の敵を討たんと雄たけびを上げながら鬼が迫る。その事実に殺生丸の目がわずかに細まる。焦りなどでは決してない。ただ不快を、煩わしさを表しただけ。同時にその手が自らの腰にある刀に伸びる。
「消えろ」
その刀を抜き放った瞬間、全てが消え去った。
それは黒い龍だった。殺生丸の持つ刀からこの世の物とは思えない強力な妖気と邪気を孕んだ黒い龍が生まれ、すべてを飲み込んでいく。鬼たちだけではない。周りの木々も、動物も、大地すらも。生きとし生けるもの全てを飲み見込みながら黒い竜巻は死を降り注がせる。後には何もない、破壊しつくされた死の大地だけ。
『獄龍破』
それがその技の名前。鉄砕牙の奥義である爆流破をも超える奥義。殺生丸が持つ天下覇道の剣、叢雲牙の真の力だった――――
殺生丸はただ無表情に自らが放った獄龍破の惨状を見つめている。これだけの惨状を生み出しながらも眉一つ動かさない。ただその胸中にあるのはただ一つ。
『どうした……浮かない顔をしているな、殺生丸?』
そんな中、どこからともなく声が響き渡る。地の底から聞こえるような重苦しい声。だが殺生丸以外にこの場には誰もいない。全て先の一撃によって消し飛んでしまっている。しかしその場には殺生丸以外に意志を持つものが確かに存在していた。それは
「……私の許しなく話しかけるなと言ったはずだが」
『我に誤魔化しは聞かぬ。我を手にしている限り貴様の心はお見通しだ』
叢雲牙。そこに宿っている太古の悪霊が使い手である殺生丸に向かって話しかけている。だがそれは決して友好的なものではない。その証拠に叢雲牙は嘲笑うかのように声を上げ、その柄にある宝玉が妖しげな光を放っている。
『鉄砕牙……未だに形見の刀に執着しているな、殺生丸。憐れなことよ、譲られなかった刀に囚われているとは』
「……黙れ」
叢雲牙は見抜いていた。殺生丸の心の内にある鉄砕牙への執着を。その先にあるものまで。同じ兄弟でありながら自分には譲られなかった鉄砕牙。半妖でありながらそれを手にした犬夜叉。その負ともいえる感情を叢雲牙は嘲笑う。殺生丸はただ否定するだけ。だがその表情は険しさを増している。触れられたくない、自らの心の内を覗かれるに等しい無礼。
『鉄砕牙のことなど忘れよ、殺生丸……鉄砕牙も天生牙も貴様には必要ない。この叢雲牙さえあればいい。我に全てを委ねよ、そうすれば殺生丸、貴様をこの世の覇者にしてやろう』
殺生丸の心の隙に付け込むように叢雲牙は囁く。全てを自分に委ねよ、と。そうすればこの世の全てを、覇道を与えると。それは決して世迷言ではない。その全てを叶える力が叢雲牙にはある。
瞬間、凄まじい妖気と邪気が叢雲牙から溢れだしてくる。それが刀から殺生丸に向かっていく。それが叢雲牙の力であり、恐ろしさ。使い手に天下覇道の力を与える代わりにその心と体を蝕む邪剣。それに飲み込まれれば最後、死ぬまで、否、死してなお叢雲牙に操られる人形と化してしまう。だが
「……ただの刀の分際で、この殺生丸に逆らえると思っているのか?」
殺生丸はそれを己の妖気によって力づくで抑え込む。瞬間、叢雲牙が震えながら力が拮抗するも殺生丸の力と気迫によって叢雲牙の邪気は抑えられていく。それが殺生丸が叢雲牙を持つことができる理由。人間はもちろん、妖怪を含めて叢雲牙を扱うことができるのはこの世には存在しないだろう。
『ふん……親子揃って愚かな奴らよ……後悔するぞ、殺生丸。貴様は奴と同じく、惨めな最期を……』
抑え込まれながらも不敵に叢雲牙は呪詛を残す。それはまるで予言だった。戯言だと断ずることができない不吉を孕んだ言葉。それに耳を貸すことなく殺生丸は乱暴に叢雲牙を鞘へと納める。それが新たな厄介者を起こすことになるのを忘れたまま。
『っ!? な、なんじゃ!? ここはどこじゃ? よ、黄泉の国か……!? 寝ている間に儂は死んだのか……!?』
まるでたたき起こされたように叢雲牙の鞘から白い幽霊のような妖怪が飛び出してくる。寝ぼけているのかきょろきょろと辺りを見渡しては意味不明なことを口走っている有様。しかしようやく目が覚めたかと思えば目の前には死の大地。あの世だと勘違いするのも無理はないかもしれない。
『こ、これは……殺生丸、お前また叢雲牙を使いおったな? 何度も言っておるじゃろう、叢雲牙はめったやたらに使うものではないと!』
ようやく事情を悟った鞘は困った顔をしながら殺生丸にそう諭す。鞘が叢雲牙と共に殺生丸と預けられてもう三年。鞘は何度も殺生丸に叢雲牙を使うことを控えるように忠告してきた。その理由の一つがこの惨状。叢雲牙はその妖気と邪気によって使った後の土地を蝕んでしまう。向こう数百年は人間はおろか妖怪すら住むことができない死の大地に変えてしまう。
『御館様も叢雲牙を使ったのは飛妖蛾と竜骨精との戦いのときだけじゃ。それ以外の時は儂が封印しておったんじゃからな。たまに寝過ごすこともあったがその時はちゃんと御館様が叢雲牙を抑えておってくれたからのー』
懐かしみながらも鞘は告げる。殺生丸の父である闘牙王はほとんど叢雲牙を使うことはなかったのだと。闘牙王が叢雲牙を持っていたの自分が使うためでなく、叢雲牙を他の物の手に渡らせないため。いわば封印していたに等しい。そんな闘牙王であっても叢雲牙を使わざるを得ない戦いが二度あった。
一つが元寇と呼ばれる大陸の妖怪の軍団がこの国に攻め込んできた時。その頭である飛妖蛾との戦い。
もう一つが天下分け目と呼ばれる三年前の戦。東を支配する竜骨精との戦い。
そのどちらも闘牙王に匹敵する大妖怪との戦い。それ以外では決して叢雲牙を鞘から抜くことすらなかった。鞘が苦言を呈すのも無理はない。もっとも自分の負担が増えるので止めてほしい、というのが一番の本音だったのだが。
『それに今は鉄砕牙もないしの……天生牙はあるが、どうしても御館様に比べると頼りないというか何というか……』
溜息を吐きながら鞘はぐちぐちと愚痴り始める。鉄砕牙と天生牙。二本の刀にはその能力以外にももう一つ役割があった。それが叢雲牙を抑えること。二本が近くにあることで叢雲牙は力を封じられ本来の力を発揮できない。いわばもう一つの鞘。しかし今は天生牙しか傍にはなく、殺生丸もいるが闘牙王に比べれば実力は大きく落ちる。鞘からすれば心配になるも当然。だが
「……父上にできたことが、この私にできないとでも言う気か」
それは殺生丸にとっては禁句に等しい言葉。目は見開き、鞘を持つ手には万力のような力が加わっている。そのままではへし折れてしまうような剛力。余計なことを言えばへし折るとその眼光が告げている。
『分かった! 分かったから手を離さんか!? まったく……年寄りは労わらんかい。御館様の気持ちが分かるわい……』
「黙れ。貴様が父上を語るな」
やっぱり骨喰いの井戸の方が、とぶつぶつ言いながらも鞘はしぶしぶ黙り込む。後には殺生丸一人きり。そのまま殺生丸は自らの腰にあるもう一本の刀、天生牙に目を向ける。父が自分に残した刀。だがそれは何も答えることはない。ただ静かにそこにあるだけ。まるで自分には使い手の資格がないのだと告げるかのように。それは父に認めてもらえていないにも等しい屈辱。
ただ殺生丸はさまよい続ける。力を、鉄砕牙を求めて。その先に己の覇道があるのだと。未だに追い越せぬ父の背中を見ながら――――
――ただ屋敷の中を走り続ける。特に理由はなかった。ただ走っているだけで楽しい。屋敷の中はいろんなものがあって探検しているみたいで楽しい。いつもなら叱ってくるお手伝いも今はいない。なら今の内にいっぱい遊ばなくては。
「わっ!?」
思わず着物を踏んづけて足が滑って転んでしまう。びっくりしたけど大丈夫。どこも痛くないし、泣いたらまた母上に心配をかけてしまう。
「うーん……やっぱり大きいかな……?」
ぶるぶると頭を振った後、自分が着ている着物を見てみる。真っ赤な着物。本当はおとなの大きさだけど、自分に合うように織り込んでくれている。だけど重くて動きにくいけど、この着物はお気に入りだった。
(父上もこれ、着てたのかな……?)
それは父上が持っていた着物だから。父上は自分が生まれる前に死んでしまって顔も知らない。でもよく母上は聞かせてくれる。父上はとっても強く、とっても優しかったって。この着物も、父上が母上を助けるためにくれたもの。自分にとっては一番の宝物。これを着ていれば父上と一緒な気がする。
そのままくんくんと赤い着物、ひねずみの着物の臭いを嗅いでみる。自分と母上以外の臭いがする。きっとこれが、父上の臭い。嗅いでいると安心できる、大好きな臭い。そんな中、どこから声が聞こえてくる。耳を動かして耳を澄ましてみる。それは庭の方からだった。たくさんの人が楽しそうにしている声。それが気になって走っていくと
「わあ!」
そこにはおとなやこどもが一緒に遊んでいるところだった。丸いものを蹴って遊んでいる。確か、けまりだったっけ。見ていると何だが体がうずうずしてくる。いてもたってもいられなくなってしまった。
「まぜてー!」
自分の前にたまたま転んできた玉を拾いながらみんなに向かっていく。一人で屋敷の中を探検するのも楽しいけど、こっちのほうがもっと楽しそう。でも、自分はすっかり忘れてしまっていた。
――――自分が、みんなとは違うんだってことを。
自分が出て行った瞬間、みんな遊ぶのをやめてどこかに行ってしまう。あんなに楽しそうにしていたのに、まるで嘘だったように。ただ嫌な目でこっちを見てくるだけ。みんなが一緒のことを言ってくる。
はんよう。もののけ。あやかし。
それが自分がみんなから嫌われている理由。自分はにんげんじゃないから、みんなとは遊んでもらえない。どうしてだろう。どうして自分はにんげんじゃないんだろう。ようかいなら自分と遊んでくれるだろうか。仲良くしてくれるだろうか。
「犬夜叉」
後ろから呼ばれて振り返る。そこには母上がいた。綺麗で優しい、大好きな母上。
「母上!」
嬉しくて母上に近づくと何故かそのまま抱きしめられた。すごくあったかくて、いい臭いがする。でも顔を上げるといつもの笑っている母上はいなかった。
「ごめんなさい……犬夜叉」
母上は泣いていた。母上は何も悪くないのに、謝っている。自分だって悪くない。なのになんでかなしいんだろう。自分のせいで母上が泣いているのが一番かなしい。そのままがまんできなくなって泣いてしまいそうになった時、気づいた。
それは男の人だった。鎧を着て、腰の刀をさしている男の人。その髪は自分と同じ銀色。いつからそこにいたのか、離れたところからこっちを見ている。
ただずっとその姿から目を離せなかった。その人が見たことない人だったからではない。ただ、その人の臭いを知っていたから。それは
「父上……?」
自分が知っている、父上の臭いとそっくりだったから。
それが幼い犬夜叉と殺生丸の出会い。そして殺生丸にとっての覇道の始まりだった――――