「っ!? ま、待ってくれ!? 俺が悪かった! もうあんたには逆らわねえ……! だから命だけは」
自分に向かって何事かを叫んでいる者を爪の一振りで葬る。黙っていれば見逃してやってもよかったが耳障りこの上ない。一瞥すればもうそれだけで青い鬼はこと切れている。爪の一振りも耐えられないとは。そういえば邪見が鬼たちのことを何か言っていたが何のことはない。やはり邪見の戯言にしか過ぎなかったということだろう。
『相変わらず容赦がないの、殺生丸。もう少し相手の話を聞いてやっても』
「邪魔だから消した。それだけだ」
いつも寝ている癖に、こんな時は起きていたのか。鞘が自分に向かっていつものように無駄なことを口にしてくる。この私に説教しているつもりなのか。耳障りという意味では鬼よりも鞘のほうが勝っている。本当ならへし折るか、本人の言うように骨喰いの井戸とやらに捨てても構わないが、叢雲牙を収める鞘としての一点のみは価値がある。邪見の奴は鞘が寝ていることに不満があるようだが自分としては寝ていてくれた方が良い。起きていても耳障りが倍になるだけ。
「…………」
手に残っている汚らわしい鬼の血を振り落としながら耳を澄まし、鼻を利かせる。これで邪魔な鬼の臭いがすることはもうない。いつもなら臭いだけで何が起こっているかは掴めるが今はそうはいかない。ぬかるむ土と水を滴らせている木々。つい最近降った雨のせいで臭いを辿ることが難しい。
『殺生丸、お前もしかしてさっき邪見が言っていった半妖が犬夜叉だと思っておるのか? そんなわけなかろう。犬夜叉はあの……えっと何と言ったか……そう、十六夜と共におるはずじゃ。こんなところにおるわけがないじゃろう?』
「黙っていろ。お前もその鬼のように切り裂かれたいのか」
変わらず的外れな戯言をほざいている鞘を黙らせる。この殺生丸がそんな愚かな真似をするとでも思っているのか。あの半妖、犬夜叉がいると思っているのではない。いるのだと分かっている。雨のせいで正確な場所までは分からないが、この山にいるのは間違いない。この私が臭いを嗅ぎ間違えることなどない。ただ不自然なのは
(あの女の臭いはない……犬夜叉一人、ということか……)
犬夜叉の母である人間の女の臭いはどこにもないということ。自分が会った時からまだ数年。人間だろうと寿命が来るような月日ではない。妖怪ではない半妖と言えども、まだあの時とそう変わらぬ年頃のはず。それがなぜ一人でこんなところにいるのか。
(鉄砕牙……?)
瞬間、鉄砕牙が騒ぎ出す。何かを感じ取ったかのように震えが収まらない。自分がこの刀を手にしてから全く何の反応も示さなかったにも関わらず。その答えに考えが巡るよりも早く、それはやってきた。
それは臭いだった。雨程度ではかき消すことができない、圧倒的な臭い。妖怪が持つ、妖気の臭い。
『鉄砕牙……? これはもしや……っ!? せ、殺生丸一体どこに行くつもりじゃ!?』
気づけばその場から駆けていた。目指しているのは妖気の臭いの元。鉄砕牙に導かれたわけではない。その妖気の強さに惹かれたわけでもない。ただその妖気の臭いが、もうこの世にはいないはずの誰かと似ていたからこそ。
ただ駆ける。知らず鼓動が早まっている。抑えきれない感情が私を支配している。自分には似つかわしくないもの。その正体を知る間もなく、その場所へとたどり着く。
そこでまず目にしたのは邪見。なぜこんなところに奴がいるのか。変わらず何かに怯えている様は間違いなく邪見そのもの。その手に人頭杖を持ちながら何かと対峙している。その先にいる影を目にした瞬間、すべてを理解した。
「邪魔だ。どけ、邪見」
「っ!? せ、殺生丸さ……へぶ――――っ!?」
そのまま、勢いに任せて瞬時に邪見を蹴り飛ばす。いつもより力加減は強くなったが仕方ない。いつもとは違う意味で加減をする暇はなかったのだから。
その汚らわしい鬼の血で染まった半妖の爪から逃がすためには。
邪見を蹴り飛ばした瞬間、まるで獣のような爪が自分と邪見の間を通り抜けていく。獲物として捉えていた邪見を見失ったのかその爪はただ地面を切り裂いていく。その威力は並みの妖怪なら八つ裂きにされて余りあるもの。邪見であれば粉々になっていただろう。
「こ、これは……!? もしや、殺生丸様、わたくしめをお救いに」
「そこから動かず黙っていろ、邪見。お前は邪魔だ」
「っ!? は、はいっ!?」
目を輝かせている邪見を無視し、改めてソレと対峙する。邪魔されたからか、それとも私の方が強いと本能で悟ったのか。恐らくはその両方。
「――――」
声にならないうめき声を上げながら犬夜叉はこちらを凝視する。火鼠の衣よりも赤い返り血で真っ赤になった身体。鋭さを増している爪と牙。何よりもその形相と眼。およそ人間でも妖怪でもあり得ないような変化。あまりにも醜悪で無様な、獣そのもの。
『い、いかん!? あれは変化じゃ! 戦ってはならん、殺生丸! 今の犬夜叉は』
「あああああああ!!」
獣のような咆哮と共に犬夜叉がこちらに襲い掛かってくる。鞘の言葉によって一瞬反応が遅れるも問題はない。たかが半妖如き、ましてや子供の爪など何の問題にもならない。しかしそんな考えは
確かな爪痕と共に舞う、自らの鮮血によって消え去った。
「……っ!」
「せ、殺生丸様っ!?」
犬夜叉の爪が、応じようとした私の爪よりも早く腕を切り裂いた。端から見ればかすり傷にも等しいもの。だがそれは私にとっては許しがたい屈辱。
(この私が一瞬とはいえ、恐れを感じただと……?)
傷ではなく、それこそがあり得ない。犬夜叉がこちらに向かってきた瞬間、その妖気によって自分は動きを鈍らせてしまった。鳥肌が立つような、体が震えるような感覚。今まで自分が感じたことのない、恐れという感情。覇道を目指す、父の血を継ぐ自分が最も抱いてはいけないもの。
『よ、よすんじゃ殺生丸! 犬夜叉は今、自分の体に流れている妖怪の血で正気を失っておるんじゃ! 半妖では御館様の妖怪の血は抑えきれん、ここは』
鞘の言葉を全く聞くことなく、犬夜叉は再び襲い掛かってくる。その眼には獲物である私しか映っていない。だがようやく理解できた。目の前の犬夜叉の変化。浅ましく父の血を受け継いでおきながら、半妖などという存在であるがゆえに獣になり果てている無様。その妖気によって一瞬とはいえ恐れを抱いてしまった自分。何よりも
「この殺生丸を、なめるな――!!」
自分を獲物だなどと勘違いしている獣を許すわけにはいかない。そのまま完全に動きを捉え、今度は自らの爪をもって獣を引き裂く。毒華爪。毒を含んだ、加減なしの一撃。間違いなく致命傷となるもの。
「あ、がっ……ああ……!?」
そのまま獣は無様なうめき声を上げながら地面に転がり落ちる。所詮は獣。自分に敵うはずもない。あとは這いずり回りながら死ぬだけ。にも関わらず
「ううう……あ、あああ……!!」
四つん這いになり這いずりながらも獣は変わらずこちらに向かってくる。間違いなく自分の本気の一撃を受けたにもかかわらず。あり得ない。驚愕しながらもようやくその理由を悟る。一つがその再生力。変化の影響か。爪の傷が徐々に回復しつつある。もう一つが
(こいつ、痛みすら感じていないのか……)
痛みを感じていない。あるのはただ目の前の相手を爪で切り裂き、葬ることだけ。獣以下。自分の身体がもう限界であることにすら気づくことができない。憐れな存在。
『そ、そうじゃ! 殺生丸! 早く鉄砕牙を犬夜叉に持たせるのじゃ! 早くせんか!』
「……鉄砕牙を、だと?」
いつもからは考えられない鞘の必死さを訝しみながらも腰にある鉄砕牙が騒いでいることに気づく。それに導かれるように腰の鉄砕牙を犬夜叉に持たせた瞬間、妖気は霧散し消え去っていく。獣のように蠢いていた犬夜叉は動きを止めそのまま微動だにしなくなってしまった。辛うじて息はあるようだが、瀕死も同然。
(なるほど……刀々斎が言っていたのはこのことか……)
ようやく理解する。かつて刀々斎が言っていた言葉の意味が。
『守り刀』
犬夜叉の守り刀が鉄砕牙であると。半妖である犬夜叉を妖怪の血を抑えることが鉄砕牙の役目。同時に父が鉄砕牙を犬夜叉に遺した本当の理由。
「…………」
そのままただ地面に倒れこみ、鉄砕牙を抱いたまま眠っている犬夜叉を見る。そこにはもう先ほどまでの獣のような顔はない。穏やかな、子供そのままな寝顔。母の背に背負われながら眠っていたあの時と同じもの。
だがそれもまたまやかし。半妖という、人間でも妖怪でもない半端者。父の刀に縋りつかなければ、血を抑えることすらままならない脆弱な存在。
『ううん。でもこれあげるから、かわりにぼくとあそんでほしいの』
自分を恐れるでもなく、疎むわけでもなく、ただ刀を差し出してきた姿。未だに理解できないもの。それがこれから無様を晒すぐらいならばいっそ――――
「せ、殺生丸様……?」
恐る恐る隠れていた木の後ろから顔を出し、様子をうかがう。見ればもう戦いは終わっていた。半妖の小僧は地面に倒れ伏し、殺生丸様はそれを見下ろしておられる。半妖の小僧の変化は恐ろしかったが殺生丸様に敵うはずもない。安堵しながらも頭を悩ます。いったいあの半妖は何なのか。しかしそれを口にする前に
殺生丸様はその爪を振り上げ、半妖に振り落とさんとされていた。
「っ!? せ、殺生丸様、それは――!?」
思わず声をあげてしまう。確かに殺生丸様に襲い掛かるなど万死に値する行い。殺されても仕方ない。しかし相手はまだ幼子。慈悲があってもいいのでは。そんな恐れ多い進言をするべきか悩む間もなく、その無慈悲な爪が振り落とされようとした瞬間
「……母、上……」
半妖の口からそんな言葉が漏れてくる。まだ眠ったままの寝言。見ればその目からは涙が流れている。恐らくはここにはいない母のことを想っているのだろう。それによって一瞬、殺生丸様は手を止めてしまわれる。それがいつまで続いたのか。ついに殺生丸様の右手は半妖の首を――――
まるで犬のように掴んで持ち上げてしまった。
「…………は?」
思わずそのまま言葉を失って呆然としてしまう。当たり前だ。あの殺生丸様がそのまま半妖の首根っこを摘まみ上げたまま歩き出してしまわれる。止めを刺すわけでもなく捨てるわけでもなく。まるで捨て犬を拾っていくかのように。
「はっ!? お、お待ちください殺生丸様!?」
そのまま置いていかれていることに気づき、いつものように殺生丸様の後ろに付いていく。慌てている邪見は気づくことができなかった。
殺生丸の腰にある天生牙が震えていたのを――――
犬夜叉、お持ち帰りされる。