「じゃあ、行ってくるよ」
「はい!行ってらっしゃい春斗さん!」
普段通り、春斗さんを見送る。玄関の扉が閉まり、鍵が掛かると静寂が残るのもいつもの事である。
寂しくない訳ではないが、幼子が父親に駄々を捏ねるような事をする私ではない。それに、私にも掃除等の家事が有るため、春斗さんが帰ってくるまでの時間はあまりに長く感じないのだ。
今日もまた何時ものように家事をこなすべく、濡れた雑巾で壁を黙々と拭き続ける。
ふと、壁に掛かったカレンダーが目に入った。
あ~、2月ももう中盤ですかぁ……。月日の流れとは早いもの……って、
「あれ?14日?ん~、何かあったような……」
確か、女の子に関係ある内容だったはずだが、全く思い出せない。思い出せないと言うことは、あまり重要な事では
なかったのだろうか。
「……まあ、そのうち思い出しますよね」
私は中途半端にしていた掃除を再開した。
そこから、洗濯や食器の洗浄をこなしていたらいつの間にかお昼を回ってしまっていた。
春斗さんが用意してくれた昼食を完食し、ほんの気まぐれにテレビをつける。平日の昼と言うこともあり、放送していたのは昼ドラかニュースくらいだ。
番組をニュースに合わせ、ただボーッと眺めていると、そういえばと思い出す。結局、何も思い出せなかったな……
私が溜め息をつくと、まるで狙っていたかのようにニュースキャスターが言った。
『本日はバレンタインデーです』
もちろん、キャスターはそこで終わらなかったが、目を見開いたまま硬直していた私には続きは聞き取れなかった。
「どうして忘れてたのでしょうか!?」
私は大急ぎでエプロンを身に纏い、材料を確認した。
冷蔵庫にはチョコ、牛乳、生クリーム、それと少量のあんこが入っていた。いや、食材もちゃんと入ってますよ?
とりあえず材料が揃っていることに安心のあまり胸を撫で下ろす。
でも、いったい何を作ろう……
真っ先に思い付いたのはトリュフチョコだった。
それなら、早く、そして多く数を作れるだろう。よし、今回はトリュフチョコに決定です!
「えと……確か、始めに湯煎をしてチョコを溶かすんでしたよね」
初めに包丁でチョコを刻む。時間がかなりギリギリなのでキャベツを千切りしてるみたいな刻みかただが、大丈夫でしょう。
「痛!」
勢い余って指を切ってしまった……。絆創膏貼ってきましょう……
台所に戻り、作業を再開する。
刻み終わったら鍋でお湯を沸かし、そのなかにボウルに入れ、刻んだチョコを投入する。
あれ?これって火を止めるんでしたっけ?
少々不安になるが、何とか調理を続ける。
チョコが溶けてきたら中に室温まで温めた生クリームを注ぎ、よく混ぜる。溢さないようにするのは当然で、中に水滴が入らないようにも気を付けなければならない。
約30分続けると、全体的に艶がでてくる。そこですかさずスプーンで掬ってみた。掬える程の硬さなら、もうすぐ出来上がる。
一口サイズにチョコを分けて金属バットにならべ、冷蔵庫で冷やします。
「……だいたい出来上がりですかね」
案外、時間が掛からないものだな……
少し物足りないが、材料もないし……
「……あ」
私は冷蔵庫を開き、あんこを取り出した。瓶に詰められたそれは、昔春斗さんに作ってもらったたい焼きのそれと同じメーカーの物だ。
そのあんこをスプーンにのせ、チョコを付けて食べてみた。
「これなら!」
考えた通りに事が進み、私はもうひとつチョコを作った。
ふふ、春斗さんの帰りが楽しみです。
「あ~、今日も疲れたぁ……」
何時もの裏路地を通り、ぼやきながら俺は足を進める。
そう言えば、今日の職場は、何故か男性職員が妙にそわそわしていたな……。同僚も課長は誰に渡すんだろうなとか行ってたし。
はて、今日は何かあったっけ……?
まあ、いい。帰ってからアズキに訊くとしよう。
ドアノブを捻り、ドアを押し開ける。
「ただいま」
「お帰りなさい!」
アズキは、すぐに出迎えてくれた。
ただ、何故かエプロンを身に付けている。
晩御飯の準備か?いや、普段は俺がやってるし、帰りが特別遅かった訳でもない。
俺が理由を聞こうとすると、その前にアズキが教えてくれた。
「春斗さん!私、チョコ作ったんです!食べてみてください!」
アズキは冷蔵庫からお皿を取り出した。そこには、きれいな丸い形のチョコが沢山乗っていた。
ああ、そうか。今日はバレンタインとか言う非リアにとっては辛く、悲しい日だった。俺も今まで一つももらった事が無かったため完全に記憶から抹消去れていた……
「あの、どうしても箱がなかったのでお皿に並べたのですが……食べて頂けますか?」
恥ずかしいのか頬を赤く染め、少しモジモジしている。その姿が本当に愛らしすぎて、ついつい見とれてしまう。
しばらくアズキに見とれていると、あの、とアズキが問いかけてきた。
しまった。放置しすぎてしまったようだ。
「じゃあ、頂くよ」
一口サイズのチョコを一つつまみ、口にする。
生唾を飲んだのか、アズキの喉が動く。緊張しているのだろうか?
「……おいしい」
俺がそう言うと、アズキは表情を輝かせ、胸に飛び込んできた。
突然の衝撃はなんとかこらえるがこのあとどうすれば良いのかは全く分からない。
抱き締めればいいの?頭撫でればいいの?このままでいいの?
「春斗さん!」
俺のそんな思考は、アズキの顔を見て止まった。
抱きついたまま俺を見上げて笑っているのだ。
「ありがとうございます!」
一粒の雫がアズキ頬に伝う。
「俺の方こそ、ありがとう」
片手でそっと腰を抱き、空いている手で頭を撫でる。
尻尾をはたはたと振る姿は、とても犬のようだった……とは言わない方が言いかな。
しばらく撫でていると、アズキがハッとしたかのように冷蔵庫に駆けていった。
「お、おい。いったいどうしたんだ?」
「実は、もうひとつあるんです」
持ってきたのは一粒だけ小皿に分けられた丸いチョコだった。
「これ、分量とか分からなかったので、うまくできているかは……って、もう食べたんですか!?」
アズキの話している途中にチョコをつまみ、食べてみた。
風味等はさっきの奴と同じものだ。
「……ん?」
咀嚼してみると、チョコとはまったく違う甘さが口に広がった。
「これ!あんこじゃないか!」
あまりにも驚き過ぎて、自分の味覚を疑う程だ。
なるほど、チョコにあんこは意外と合うんだな……
「……あんこは、私にとって特別な物なんです。あんこが……小豆が春斗さんと私を繋げてくれた……。大好きな春斗さんとの、初めての思い出の物なんです」
目頭に熱いなにかが溜まるのが分かる。
「春斗さん、私を拾ってくれて、ありがとうございました」
視界が霞む。
涙が頬を伝い、拭っても拭っても、こぼれ落ちてしまう。
アズキがもう一度俺の腰に腕を巻き付けてきた。
「アズキこそ、俺を選んでくれて、ありがとう」
今度は両腕で、強く、強く抱き返した。
俺たちは、玄関のドアが開くまで二人で身を寄せあっていた。
今回の話は、本編より未来を描いたものとなっております。
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2月17日 タイトル修正