月の魔物の伝説   作:愛崩兎

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第八話 竜王国王都の崩壊と赤き月の夜について

 それはある晴れた日のことだった。

 偉大な英雄によって、ビーストマンに怯えずに済むようになった竜王国。その王都に巨大な黒い半球が浮かび上がった。

 

 それがなんなのか、人々は一瞬理解しかねた。呆けたように、人々は巨大な黒い穴を見る。その反応は様々だったが、皆総じてなんとなく、その穴に恐怖を抱いた。

 

 半球が浮かび上がった数瞬後、半球から獣の叫び声が聞こえた。

 それは低く、重く、何よりも恐ろしい獣の鳴き声。

 

 その鳴き声が消える頃に、半球から、それは現れた。

 

***

 

 巨大な咆哮が聞こえた。それはおぞましき獣の咆哮。王都において聞こえてはならない、おそろしき咆哮。

 

 王城の自室にてくつろいでいた僕は、その咆哮を聞いてすぐさま外へ出た。

 

 外では、絶望の光景が広がっていた。

 

 それはあり得てはならない光景。

 破壊され、火の手が上がる街、民衆を襲うビーストマン、助けを求め逃げ惑う民衆。

 そして、暴れ回る天を衝く二頭の巨躯の狼。

 

 燃えるような赤い瞳を持つ、神々しいほどに美しく、覇気に満ち溢れた、十階建てのマンションほどの体高をもつ二頭の巨狼が、その巨体を惜しみなく使い、王都を破壊していた。

 

「何が、起こった……!?」

 

 思わず驚愕の声が漏れ出る。その声を聞きつけたのか、同じく外に出ていた衛兵が答えた。

 

「巨大な黒い半球が突如出現し、そこからあの怪物どもが出てきて、街を破壊し出したようです!」

 

 その言葉を聞いて僕は原因を直感する。

 

「なんだと!? 黒い半球、〈転移門/ゲート〉か? ということはプレイヤー!?」

 

 〈転移門/ゲート〉は、魔法の一種であり、第十位階魔法に当たる。超位魔法を除けば最高位の魔法であり、それが使われたということは相手に高レベルの魔法詠唱者がいるということだ。

 そしてそんな高レベルな魔法を使える存在といえばプレイヤー、あるいはそれに類する存在しか思いつかない。

 

「あれを知っているのですか?」

「わからない。だが僕の予想した存在だとすれば君たちが戦うのは無理だろう」

「ではどうされるので!?」

「僕が行く。おそらく戦闘になるだろう。民衆の避難を急げ」

「はっ! ……ご武運を」

「ああ、ありがとう」

 

 僕は衛兵との話を終わらせると、全速力で移動し、今尚街を破壊している二頭の巨狼の前に躍り出た。

 僕のスキルによれば、二頭のレベルは100。一体だけならまだしも、二体のレベル100相手に戦うとなればきつい。しかし、僕は戦わなければならない。

 

 僕が二頭の前に立つと、二頭は動きを止め、僕を赤い眼球で見つめた。

 僕は二頭を見つめ返し、口を開いた。

 

「プレイヤーか?」

「否、我らは『えぬぴいしい』だ」

 

 狼の片割れがそう答えた。NPCが自我を持って動いているというのはいささか驚きだった。しかし今はそんなことを考えている余裕はない。

 

「何が目的だ?」

「その問いに答える前に聞こう。ビーストマンどもの軍勢を光の津波で滅ぼした人間は貴様か?」

 

 狼の片割れが問いかける。その問いに一瞬悩むが、正直に答えた。

 

「……そうだ」

 

 僕がそう答えると、二頭の巨狼は裂けた口を大きく歪めて笑った。それは嘲るような不遜な笑みであり、故に不快だった。

 

「ならば最初の問いに答えよう! 我らの目的、それは!」

 

 狼の片割れはそこで一度区切ると、声を荒げた。

 

「貴様の命だ!!」

 

 ビリビリと叩きつけるような声量で発せられたその声は、おそらく王都中に響いただろう。

 半ば予想していた答えだったこともあり、僕は平静を保つ。

 

「交渉の余地は?」

「貴様が我らに味方するのならば」

「それは……!」

 

 到底飲める条件ではない。彼らに味方するということは竜王国を滅ぼすということだ。以前ならば命惜しさに頷いた可能性もあるが、今はあり得ない。

 

 最愛の伴侶の顔が脳裏をよぎる。

 

 僕はアイテムボックスから月光の聖剣を取り出した。

 

「交渉決裂だな」

 

 狼の片割れが言う。

 

「そのようだ」

 

 僕がそう返すと、二頭の巨狼はにたりと笑った。

 

「我は偉大なるヴァナルガンド様のしもべ、スコル」

「我は偉大なるヴァナルガンド様のしもべ、ハティ」

「これより」

「蹂躙を」

「「開始する」」

 

 二頭の巨狼——スコルとハティは前口上を終えると、スコルは業火の鎧を、ハティは冷気の鎧を身にまとった。

 燃え盛る巨狼と凍てつく巨狼となって絶妙のコンビネーションで突進してくるスコルとハティ。

 魔法的な炎と冷気は、中和することなくあたりを破壊する。

 属性に対する耐性に乏しい僕には荷が重い敵だ、が。

 

「負けるつもりはない!」

 

 僕は叫び、その突進をスキルによって転移し、避け——ようとして。

 

「がっあぁ!?」

 

 転移することができずその突進をもろに食らった。

 爆炎と冷気が僕を襲う。焼き尽くされる痛みと体が氷結する痛みが僕を襲い、たまらず呻き声をあげる。

 HPが大幅に削られたのがわかる。

 転がるようにスコルとハティから距離を取った。

 

「何が……!?」

 

 僕の思わず漏れ出た疑問に、スコルが答える。

 

「不思議か? 人間よ」

「何をした?」

「なに、簡単なことよ」

 

 スコルとハティが嘲るように笑う。面白くてたまらないと言うふうに。弱者をいたぶる強者のように。

 

「——転移封じ。主より賜ったマジックアイテム。かつて主たち至高の方々が滅ぼしたギルドより奪った『デッドロック』なるそれは、範囲内のありとあらゆる転移を封じる!」

「なっ——!」

 

 それは。

 それはとてつもなく『やばい』。

 僕の戦闘は転移と時間操作に主軸を置いている。

 雑魚との戦闘なら基礎能力と攻撃スキルでごり押しできるが、同格相手ならばそれは通じない。

 転移は僕の戦闘の主軸の一つであり、それを封じられたと言うことは、片手を封じられた状態で戦うようなものだ。

 転移阻害対策のスキルは持っている。しかし、それは本来の姿でしか作動しないスキルだ。

 その上僕のステータスは今、80レベルにまで落ち込んでいる。

 

「さて、命乞いでもしてみるか?」

「残念だが、僕の転移を封じた程度で勝った気になってもらっては困る」

 

 ハティの挑発にハッタリを返しつつ、戦略を練る。転移ができないとなればいつもの戦法は通じない。

 

 しかし戦略を練る時間をくれる相手ではなく、ハティの冷気のブレスが僕を襲い、それをすんでのところでかわしたところにスコルの牙が迫る。

 僕は月光の聖剣でスコルの顎をかち上げ、牙をかわす。

 凄まじい衝撃に手が痺れ、危うく月光の聖剣を取り落としそうになる。

 そして、牙自体をかわしても、余波の炎が僕を焼く。

 

 息をつく間も無くハティの冷気を纏った爪が繰り出され、それを慌ててかわしたところにスコルの炎のブレスが吐き出される。僕はそれを月光の聖剣から光波を飛ばすことで、それを一瞬の盾として使い、わずかな時間を稼いで転がるようにブレスをかわした。

 

 スコルとハティの絶妙のコンビネーションで繰り出される怒涛の連続攻撃をなんとかしのぐものの、余波として与えられる属性ダメージが痛い。

 

 HPがじりじりと削られて行く。

 このままではジリ貧だと思うものの、打開策は見当たらない。

 

 僕は襲いくるハティの巨大な爪を避け、お返しとばかりに月光の聖剣から光波を放つ。それはハティに直撃するものの、冷気の鎧に減衰され、有効打とはならない。

 

 強力な時間操作スキルは使えない。あれは本来の姿でなければ使えないのだ。

 元の姿に戻ることはできない。僕は人間であらねばならない。

 

 時間加速などの下位の時間操作スキルは使っているが、焼け石に水だ。

 

 さらに僕は青き月の奔流を放てない。あれは広範囲にわたるスキルであり、今使えば国民が巻き込まれるからだ。

 

 僕はスコルの爪をかわし、ハティのブレスを避け、スキルを発動させる。

 

「〈炎血濁流〉!」

 

 炎を伴った鋭い鮮血の奔流がハティを貫く。螺旋を描く血の奔流はハティの血肉を抉った。HPを対価にした強力なスキルだけあって、ハティのダメージはそれなりに大きかったようで、ハティはたたらを踏んだ。

 

 僕は勢いに乗って月光の刃を何度も飛ばし、スコルとハティを牽制する。

 牽制によってわずかにできた隙を見て、炎で焼かれるのも気にせずスコルに肉薄し、スコルの右前足に勢いよく剣を突き立てた。

 そして炎の鎧に焼かれながらも、突き立てた剣から月光の散乱を解き放つ。収束した月の光が爆発し、スコルの肉を大きく削った。

 あたりに飛び散るスコルの血は、地面に落ちることなく僕に吸収される。これは僕のパッシブスキル、〈血液回収/リゲイン〉の効果だった。

 このスキルは攻撃した際、返り血を浴びることでHPを回復することができるスキルだ。

 強力なスキルだが欠点もあり、血液を持たない種族に倒しては効果がない。

 

 スコルは足を振り僕を振り払おうとするが、僕は剣を楔にスコルにしがみつく。

 そしてもう一度、月光の散乱を解き放った。

 

「ぐぉおっ!」

 

 たまらずスコルが声をあげる。

 スコルの肉が大きくえぐれ、骨が見えていた。

 僕はスコルの声に笑みを漏らし、その隙を突かれ振り払われた。

 

 振り払われた勢いに乗って僕は一気に距離を取り、一つのスキルを発動する。

 

「〈彼方への呼びかけ〉!」

 

 それは高次元暗黒への接触。星界への接触の失敗作。もたらされるのは星々の欠片。

 天へと掲げた手の内で小規模な宇宙を発生させ、それを爆破することで無数の光弾を放つスキルである。

 それは対象を追尾し、大きなダメージを与える。

 

 無数の光弾がスコルとハティへと叩き込まれ、しかしスコルとハティは痛みを無視しているかのように平然とこちらへ突っ込んできた。

 

「〈噛み砕く大顎〉!」

 

 スコルがスキルを発動する。その後ろではハティが冷気のブレスを発射しようとしている。どちらを避けてもどちらかに当たる。

 ならばせめて耐性のある物理攻撃を受ける——!

 

 僕はスコル側に体をそらし、そして——

 

「がっぁああぁああああ!」

 

 全身に激痛が走る。今僕はどうなっているのか?

 とにかくひどいことになっているのは間違いない。

 

 僕はスコルに咀嚼された。巨大な牙を体に突き立てられ、全身をズタズタにされた。

 僕の耐性を強引に突破する圧倒的な暴力は、僕の体を完膚なきまでに破壊し、HPを死亡寸前まで減らした。

 

 僕は激痛をこらえながら引きずるように全身を使って距離を取り、自己再生のスキルを使った。

 巻き戻すように全身の傷が治っていき、HPが全回復する。

 

 荒い息をつく。自己再生系のスキルは日に三度しか使えない。

 貴重な一回がこれで消えた。

 

「ふむ、なかなかにしぶとい」

 

 スコルが言う。そう言うスコルも自己再生系スキルを持っているようで、抉った前足が徐々に治っていた。

 

 僕はスコルの言葉に返答せず、月光の聖剣を構えなおし、二頭へと走り出した。

 

***

 

「……一体何が起こった?」

 

 落ち着いた調度品に彩られた執務室にて、ファールイロンは伝令に問いかける。

 伝令の男は表情を硬くし、その問いに答えた。

 

「今日正午ごろに黒い半球が突如として出現し、そこからあの怪物とビーストマンが出現しました。現在王都ではおびただしい数のビーストマンが市民を襲っています。憲兵や騎士たち総出で対処しておりますが、おそらく壊滅的な被害になっているかと」

 

 伝令の報告に思わず手で顔を覆う。一体なぜそんなことになってしまったのか。

 ファールイロンは歯噛みする。

 ビーストマンたちがこんな隠し球を持っていたとは予想すらできなかった。

 否、そもそもただの転移ですらクルーシュチャが実演するまでは伝説だと思っていたと言うのに、あんなに大規模な転移など、予想できるわけもない。

 

 ファールイロンはなんとか気を落ち着けて、次の質問をする。

 

「あの巨狼はなんだ?」

「わかりません。……あの巨狼については、現在クルーシュチャ様が一人で戦われています」

 

 その言葉にファールイロンは目を見開く。

 

「なっ! 兵たちは何をしている!」

「クルーシュチャ様の指示で市民の避難に全力を尽くしています。クルーシュチャ様は、通常の兵ではあれと戦うのは無理だと判断されたようで、あれとの戦いは一人でする故に兵たちは市民の避難に全力を尽くせとの指示をされたようです」

「クルーシュチャがそう判断したのか……」

 

 ファールイロンは気を落ち着ける。そもそも、戦いにおいて圧倒的な個は群に勝る。あの超級のクルーシュチャが兵の助けはいらないと言ったのならば、あの戦いに群が入り込む余地はないのだろう。

 

「クルーシュチャの勝利を祈りながら、民をビーストマンから守ることに専念するしかないようだな」

 

 ファールイロンはそう判断する。

 

「引き続き民を一人でも多く救えるように行動しろ」

「はっ!」

 

 伝令が退室し、執務室の中はファールイロン一人になった。

 

「頼むぞ、旦那様よ」

 

 ファールイロンは静かに、夫の勝利を神に祈った。

 

***

 

「がっあぁあああぁあ!」

 

 雄叫びをあげながら、ハティの牙を刃で受け止める。

 戦いからしばらく経ったが、未だスコルとハティは健在で、僕は徐々に追い詰められている。

 

 牙から立ち上る冷気のダメージがじりじりとHPを削り、僕を死の淵へと追いやろうとする。

 僕はそれを拒絶する。なんとかハティの顎を弾き、距離を取った。

 

 肩で息をする。疲労無効により疲労はないが、しかし体が酸素を求めていた。

 

 息を吸い、月光の聖剣を横薙ぎに振るう。すると光波が飛び出し、青き月の光を撒き散らしながらハティへと突き進む。

 ハティに直撃するが、しかしハティはそれを無視して僕に飛びかかってくる。

 

 僕はあえて避けることはせず、時間加速などのスキルを使い、タイミングを必死に合わせハティの目に〈武装血刀〉で作り出した刺突剣を投擲する。

 

 空気を咲いて突き進む刺突剣。ハティは慌てて目を閉じ、顔を捻る。そして僕はその隙をついて、すれ違うようにハティの腹の近くへと移動し、ハティへとスキルを放つ。

 

「〈瀉血激流〉」

 

 伸ばした手の先から、膨大な血液が無数の刃の激流となって射出された。血液によって形作られた冒涜的な刃たちは、ハティへと全弾直撃し、ハティの腹を穿った。

 飛び散るハティの血が降りかかり、僕の傷を癒す。

 

 しかしハティの傷はすぐさま癒えはじめる。弱体化した僕では、有効打と言い切れるダメージを与えることができない。

 

 僕は追撃を加えるために月光の聖剣を振り上げて——その剣を背後から迫る爪への盾にした。

 

 巨大な金属音が響き、僕は吹き飛ばされる。爪の主はスコル。スコルは唸り声をあげ、僕に追撃の炎のブレスを吐く。

 

 僕はそれを建物の陰を転々とすることでやり過ごした。

 

 スコルのブレスを浴びた建物は皆溶解し、跡形もなく消えた。

 僕はその威力に顔を引きつらせながら、建物の陰から躍り出て、再び回復中のハティへと狙いを定める。

 しかしそこにスコルが間に割って入り雄叫びをあげる。

 

「おおおおおお! 〈爆炎灰燼〉!」

 

 掛け声とともに、スコルは全身から爆炎を解き放った。地を舐め尽くすように広がった、太陽のごとき灼熱が、周囲一帯を灰燼に帰す。

 

 今まで一度も使われなかったその大技を、僕は予測することができず、もろにくらい、吹き飛ばされた。

 

 全身が焼けている。苦痛に顔が歪み、うめき声が漏れる。細胞の一つに至るまでが痛みを訴え、僕を苦痛で満たそうとする。

 

 僕は必死に自己再生のスキルを使う。

 

 自己再生のスキルを使うのはこれが三度目だ。

 これで打ち止め。あとは隙が多く、しかし回復量はさほどではないポーションを使うか、〈血液回収/リゲイン〉しかない。

 僕は距離を取り、再び〈彼方への呼びかけ〉を使う。

 

 無数の光弾が飛翔し、星々の欠片が強かにスコルとハティを打ち据えた。

 

 スコルとハティを牽制してる隙に、僕は今使える大技を準備する。

 

「〈黒きハリ湖の風〉よ!」

 

 それは狂おしき神性、超常の神秘たる名状しがたいものの祝福。職業、〈這いよる混沌よりの使者/アポストル・オブ・ナイアルラトホテップ〉のスキルであり、おぞましき神性の力を借受ける狂気の業だ。

 

 黒く、冒涜的な凍てつく狂気の暴風が吹いた。それはスコルとハティを襲い、その生命力を大きく奪う——!

 

「ぐぬぅうう!」

 

 たまらず声を上げるハティ。先ほどのダメージからも完全には回復していないのだろう。そこにこのスキルをもろに食らったのだ。そのダメージは結構なものになるはずだ。

 

 いまが好機と見て僕はハティへと飛びかかる。

 

「〈極氷全凍〉」

 

 しかし僕がハティへと飛びついた瞬間、ハティの全身から凄まじい冷気が噴出した。

 

 周囲一帯を完全に凍結する極寒の波濤が僕を襲う。

 僕は時間加速などのスキルをフルで使い、全速力で範囲内から逃れ——!

 

「ぐっぁあ!?」

 

 腹に激痛が走った。僕はスコルの牙に囚われたのだ。僕はスコルの牙に腹を貫かれ、その口に咥えられた。

 

 まずい、このままではまた噛み砕かれる!

 僕は剣を振り上げ、スコルの目に突き刺した。

 血飛沫が吹き出し、スコルは痛みに顔をしかめた。

 

 しかしスコルはそれでも僕を離さず、スキルを発動させ——

 

「〈獄炎牙牢〉」

 

 灼熱が僕を焼いた。

 

「がっぁあぁぁああぁああぁああああ!!!!」

 

 全身が灰になる。灼熱が僕を舐め尽くす。熱という熱が僕の体を焼き尽くし、炎という炎が僕を焼き焦がす。

 苦痛という苦痛を煮詰めた純粋な苦痛が僕の脳髄を支配した。

 

 噛み付かれたまま、炎のブレスを吐かれたのだ。

 ブレスは外に逃げることなく、口内で圧縮され、僕のみを焼いた。

 

 全身の感覚が徐々になくなって行き、僕という個人が現世から剥離していく。

 HPがガリガリと削れ、死への坂を転がり落ちて行く。

 

 死。

 

 脳裏によぎる言葉。

 

 そんなバカな。何を言っている。僕は死ぬはずがない。僕は死んでない。死ぬはずがないのだ。なぜ痛みがあるのか? 僕は死なないのに。死なない。僕は死なない。でも痛いんだ。体が焼けてる。誰か助けてくれ! 自己再生自己再生自己再生! ああ! できない! 再生スキルは使い切った! 嘘だ! 僕は死ぬのか? 死にたくない! 死にたくない! 死にたくない!

 

 嫌だ!

 

 嫌だ!

 

 嫌だ!

 

 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!

 

 

 

 そして、

 

 僕は、

 

 スキルを、

 

 発動した。

 

 

 

「〈赤き月の夜〉」

 

***

 

 それまで柔らかい太陽の日差しが眩しかった王都は、一瞬にして夜に閉ざされた。

 

 人々は時空を超越した現象に名状し難い恐怖を抱いた。

 それはあり得てはならぬ光景。見てはならぬもの。禁忌。タブー。狂おしき混沌の儀式。下劣な奇跡。

 

 子供が泣き出す。犬が吠える。鼠は必死に逃げ、鳥は飛び立とうとする。

 

 しかしそれは、もう、遅い。

 

 そして王都にいた全ての人は、ビーストマンは、犬は、猫は、牛は、豚は、鶏は、雀は、烏は、鼠は、虫は、おおよそありとあらゆる生命体は。

 

 赤き月を、見た。

 

***

 

「うえぇ、うえぇ」

 

 赤子の泣き声が聞こえる。

 鈴を転がすような、赤子の泣き声が。

 

「うえぇ、うえぇ」

 

 しかしそれはどこか恐ろしく、名状しがたい狂気に満ちているように感じた。

 

 ああ、気づいてはいけない。

 

 そう、これは赤子の声なのだ。可愛らしい、柔らかい、暖かい赤子の、寂しがる声なのだ。

 

「うえぇ、うえぇ」

 

 それは決して、目の前の、狂った虫と歪んだ蛸を混ぜ合わせたような、奇怪で破滅したありえざる怪異から発せられている声ではないのだ。

 

***

 

 脳髄の奥から、水音が聞こえる。

 

 ぴちゃり、ぴちゃり。

 

 それは呼び声だ。底なしの呪いに似た、久遠に狂おしき海からやってくる、呼び声なのだ。

 

 私は知っている。それに答えてはならないと。

 知っている。知っているのだ。

 

 だというのに、ああ!

 私は答えたくてたまらないのだ。

 あの優しい呼び声に、母なるハイ■ラの声に!

 

『私の可愛い赤子。こちらにおいで』

 

 ああ! 私には理解できる。できてしまう! あの水音を、脳髄の奥から響く声を!

 

 あの月を見たのが全ての間違いだったのだ。あの赤き月を! 愛しき狂気の象徴を!

 

 そして私は顔を覆うために、手を持ち上げて気づいた。

 

 私の手は、青黒く変色し、水かきがついていた。

 

 なあんだ。

 

 私はもうとっくに、声に答えていたのだ。

 

***

 

 狩らねばならない。おぞましき(ビーストマン)を。人喰いの化け物どもを。

 私は歩く。獣を探して。狩るべき獲物を探して。

 右手に握られた剣は、無数の獣を殺し、血糊に塗れていた。

 

「ああ、獣はどこだ。獣がいては、息子が安心して寝られないだろう」

 

 喉の奥から出た声は、嗄れて、耳障りな声になっていた。それは獣の声に似て、ひどく下劣だった。

 

 ギョロギョロと眼球を動かし、獣を探す。歩けど歩けど、獣はいない。

 

 ああ、ひどく体が熱い。弾けてしまいそうだ。

 ふと右手を見れば、その手は随分と毛深かった。

 

 不意に唸り声が聞こえた。まるで喉の奥から発せられていると勘違いしそうなほどに近くから。

 

「獣の声だ。どこにいる! 出てこい!」

 

 嗄れた声で叫ぶものの、獣は唸り声を上げるばかりで、姿を見せぬ。

 

 ああ、獣はどこだ。獣を狩らなくては……。

 

***

 

 とある男の手記

 

 この街は狂った。狂ってしまった。

 この手記を見るものがいたら、どうか何にも気づくことなく、すぐにこの場から離れなさい。

 それがもう無理なら、せめて人のままに死になさい。

 赤い月があなたを捉えないうちに。

 

 私はダメだった。赤い月を見てしまった。今も、私の体は変質している。脳髄の奥を蜘蛛が走り回っている。白い、ぶよぶよとした体と無数の青い目、歪な足を持つ蜘蛛が。

 彼らはいずれ私を食い破り、地に広がるだろう。

 

 ああ、娘の声が聞こえる。可愛らしい呼び声だ。

 娘は先に蜘蛛になってしまった。

 私の目の前で、ぐずぐずと崩れて蜘蛛になった。

 

 ああ、私もすぐそちらに行くとも。

 

 愛してるよ、メアリー。

 

***

 

 赤き月の夜。

 

 それはアヴァター・オブ・ナイアルラトホテップの切り札たるスキル。

 クールタイム百六十八時間という規格外のクールタイムを誇る、超級のスキルである。

 

 その効果は、フィールドエフェクトの改変。

 超位魔法たる〈天地改変/ザ・クリエイション〉と似て非なるスキル。

 ザ・クリエイションがフィールドエフェクトを別のフィールドエフェクトへと変更するのに対し、赤き月の夜はそれ専用の特別なフィールドエフェクトへと変更する。

 そのフィールドエフェクトこそは赤き月。一定時間世界を塗り替え、フィールドを強制的に夜にし、赤き月を登らせる。そして赤き月の光が差し込むエリア内において、使用者には攻撃力や耐性に絶大なバフが与えられ、さらに一秒ごとに回復が与えられる。それ以外の存在には、抵抗に失敗したとき、ランダムなレベルのクトゥルフ系モンスターへと変異させる特別なダメージを毎秒与える。

 

 クールタイム七日に等しい、絶大な効果だ。

 

 そしてその効果は王都全域に及び、王都は地獄と化した。

 

 なんの耐性もない王都の住人たちは与えられる狂気のダメージに耐えることができるはずもなくクトゥルフ系モンスターへと変貌した。

 それは人間もビーストマンも動物も昆虫も植物も例外ではなかった。

 

 ああ、世界は狂った。狂ってしまった。神話に語られるおぞましき生物たちが地を這い回り、空を飛び、水路で蠢いている。

 

 狂気的な月の光が世界を照らし、どこからか獣の鳴き声と、冒涜的な魔の呼び声が聞こえてくる。

 

 その惨状を作り出したクルーシュチャは、人間の姿からおぞましき神性の姿へと戻っていた。

 

「貴様、人間ではなかったのか!」

 

 ボロボロになったスコルは叫ぶ。

 真の姿を取り戻し、赤き月の夜によって絶大なバフを受けたクルーシュチャは、スコルを一方的にいたぶっていた。そしてその左手には、引きちぎられたハティの首が握られている。

 

 引きちぎられたハティの首は、虚ろな表情を浮かべている。クルーシュチャはそれを投げ捨てた。

 するといかなる業か、ハティの首は地面に落ちることなく宙に浮く。

 そしてその首からずるずると無数の触手が生え、首を覆い尽くした。その光景はあまりにも冒涜的で、スコルは思わず身をすくませた。

 そしてそれはやがてコールタールのようにどろりととけ、そしてその中からずるりと、巨大な、狂った白色の蛆虫のような存在が生まれた。それは悍ましい円盤のような顔面に青白い裂けた口を持ち、寄った眼孔から眼球のような赤い球体をこぼれ落としていた。

 

 それはスキル、〈上位眷属創造〉を三回分消費することで作ることができる、レベル90の下僕。

 氷結の魔狼ハティの死体を材料とした、おぞましき神性、〈ルリム・シャイコース〉。

 

「貴様!」

 

 スコルは怒りをあらわにする。しかしルリム・シャイコースはそれを無視して、主たるクルーシュチャの思念に従い、スコルに青白い光線を浴びせた。

 炎の鎧に減衰されつつも、青白い光線はスコルに確かなダメージを与える。

 

 スコルはもはや抵抗することすらできず、その場に崩れ落ちた。青白い光線によりHPを削られすぎたスコルは、立ち上がる力すらないようだった。

 

「愚か者め。命惜しさに自らが守る都市を滅ぼすか。貴様は畜生以下の愚者だ」

 

 スコルの言葉に、クルーシュチャは何も言わない。

 

「ここで我らを殺そうと、我らは偉大なる主によって復活させられる。貴様が行ったことは無駄だ」

 

 スコルの言葉にわずかな反応も示さず、クルーシュチャはゆったりとスコルに近づいて行く。

 そしてへたばっているスコルの頭を持ち上げ、その首を捩じ切った。

 恨みがましい視線を向けるスコルの生首を持ったまま、クルーシュチャは立ち竦んだ。

 

 空には、赤い月が爛々と輝いていた。


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