第一話 異世界転移とそれに伴う歓喜について
暗闇に揺蕩う意識が、徐々に浮上する。それは眠りから覚める様な心地よさと、わずかな億劫さがあった。
意識が完全に浮上し、ぼんやりとながら覚醒した。意識の覚醒とともに、目が開く。
開かれた目に映るのは、満天の星空。幾億の星々が浮かぶ、無限の宇宙。底知れぬ広がりを見せる空は、現実では決して見ることができない絶景であり、名状し難い感動を僕に与えた。
僕は仰向けに寝転んでいた様で、体を起こせば、目に映る景色も変わった。
周囲に広がるのは、雄大な草原。名も知らぬ草たちの絨毯。遮るものなく広がる草原は、風に靡いて不規則な文様を描いていた。
これもまた現実では見られぬ、失われた光景であり、僕の心を震わせた。
まるで天国の様な景色に包まれ、感動に打ち震える僕は、しかし唐突に一つの現実を思い出した。
耐え難い苦悶。心臓に走る激痛。鉛のように重くなる体。
そして、心臓が止まる瞬間。
それらの記憶が脳を駆け巡る。
僕は死んだはずではなかったか?
急速に、感動に打ち震えていた心が冷えて行く。
僕はつい先ほど、耐え難い苦痛とともに命を手放したはずだ。心臓が止まった瞬間というものをしっかりと体験したし、僕の命は確かに失われた。
だというのに僕は今こうして意識がある。
わけがわからない。自分はなぜ生きている?
次に、ここはどこか?
アーコロジーのなかでさえ、満天の星空と雄大に広がる草原なんてものはない。ましてや僕の様な下層階級に位置する人間が、自然に触れられるわけがない。
ならばここはどこか? 地球上にはもはや、この様な自然など存在しないはずだ。まさか死後の世界などとでもいうつもりなのだろうか?
意味不明な現在の状況についていけない。僕は一体どうなったのだ?
思考に行き詰まり、頭を掻くために手を持ち上げて、今度こそ僕は凍りついた。
僕の手であるはずのそれは、異形の手だった。
奇怪に節榑立った細長い五本の指と、骨張った手のひらは黒い皮膚に覆われ、指先からは異様な角度によって構成された鋭い鉤爪が生えていた。
五指にはそれぞれ豪奢な指輪がはまっている。
『なんだこれは!?』
喉の奥より出る声もまた異形。おぞましき外宇宙の声。僕の声は万物を嘲笑するような異形の怪異の声だった。
その声に驚き、思わず口を押さえる。
筆舌に尽くし難い不安に襲われた僕は、雨が降っていたのか近くにあった大きな水たまりに自分を映す。
そこにあったのは異形の怪物だった。
万物を嘲笑する様な、歪に捻じくれた穴だらけの仮面の様な貌。頭部から無数に生える、ぬらめく黒に赤いラインの入った奇妙な触手。四肢は狂った人骨じみて、歪な獣の様に細長い。えぐれた様な胸は、鋭い肋骨がむき出しになり、冒涜的な恐怖を醸し出していた。腹は完全に肉がこそげ落ち、わずかな血肉と、皮膚がこびりついた背骨のみによって構成されている。尾のように揺れるのは、腰から生えた触手。
その姿はまさに偉大なる上位者。這い寄る混沌。無貌の神。大いなる使者。月に吠ゆるもの。
その姿は、僕のユグドラシルにおいてのアバター、〈クルーシュチャ〉のものだった。
***
僕の姿は今クルーシュチャのものになっている。ということはつまりここはユグドラシルの中なのか? という疑問が、僕の脳裏によぎる。
それが事実であるとして、僕はログアウトするために、コンソールを呼び出そうとする。しかし、コンソールは一向に呼び出されず、ログアウトもできない。
システムの強制終了や、GMコールなどを試してみるものの、どれも効果はなく、ただ虚しさのみが広がった。
ここがユグドラシルの中と仮定して、それが事実ならばアイテムボックスを使用できるか試してみることにした。
アイテムボックスを開くように虚空に手を伸ばすと、水面に沈むように手が消えた。驚きつつもその手を横にスライドすると、ユグドラシルのアイテムボックスに限りなく近いものが空中に浮かび上がった。
仕様変更、というには少し過ぎたものを感じる。まるでゲームが現実になったようだ。
考えつつもアイテムボックスから、店売りの串焼きを取り出してみる。肉と玉ねぎ、パプリカが交互に刺してある美味しそうな見た目だ。鼻腔をくすぐる焼けた肉の香りが食欲を刺激する。
香り?
そう、香りである。DMMOにおいて、五感のうち、味覚と嗅覚は厳しく制限される。それは技術的な問題はもちろん、例えば現実においての空腹をDMMO内での食事によって紛らわせてしまい、現実での食事をとったと脳が勘違いして餓死するといったことを防ぐために法律でも厳しく制限されている。
であるというのに、右手に持つ串焼きからはいい香りが漂ってくる。
これは絶対にありえないことだ。
恐る恐る口に含めば、肉の程よい歯ごたえと、野菜のしゃきしゃきした食感。溢れる肉汁と塩味の調和が口の中に広がった。
嗅覚に続いて、味覚までもが。
ここは現実なのだろうか?
だが、だとすればアイテムボックスや自分の容姿はどうなる?
言い知れぬ恐怖から逃げるように、僕は検証を続ける。
ここがユグドラシル、あるいはそれに類する何かならば、スキルが使えなくては困る。
ここは見た所街でもなんでもない。つまり、非安全地帯ということだ。それはモンスターが襲ってくる可能性があることを示す。
モンスターに襲われた際に、スキルが使えなくては困る。何もできずに死亡する可能性がある。
ここがユグドラシルの中ならば拠点に復活できるが、しかしここがユグドラシルでないとすれば、復活できる確証はない。
周囲にどの程度の危険があるかわからない以上スキルが発動できるかどうかは死活問題だ。
僕のビルドは近距離火力兼遊撃型。転移と時間操作を使い、大火力を確実にヒットさせていくスタイルだ。サイオニクスによる小技も使えるが、基本は転移して火力をぶちかまして逃げるのが僕の戦法。アインズ・ウール・ゴウンでも、最上位に近いDPSを誇った自慢のビルドだ。
特に転移と時間操作が使えなくなっていると痛い。それらこそが僕の戦法の要になっているからだ。
僕は実験のため、一つのスキルを発動する。
まず最初に転移系スキルや時間操作系スキルを発動しようかとも思ったがそれらに致命的な変化が起こっていた場合、下手をすれば転移して「いしのなかにいる」なんてことになりかねないため、別のスキルから使うことにした。
『〈武装血刀〉』
スキルを発動した瞬間、手のひらから血が抜ける感覚と共に鮮血が沸き立つ。
それは流れ落ちることなく手のひらの上で奇怪に蠢いて、徐々に何かを形作る。
冒涜的な血液の蠢きがおさまれば、そこには一本の、鮮血によって形作られたナイフが創造されていた。
その結果に、僕は驚愕に目を開く。
武装血刀は、その名の通り血によって武装を作るスキルだ。僕の修める職業、〈鮮血の狩人/ブラッドハンター〉のスキルであり少量のHPを対価に、派手なエフェクトと共に瞬間的に鮮血でできた武器が出現する。本来ならば低レベルの武器しか作ることはできないが、僕の修める職業、〈死血喰らい/ブラッドイーター〉や〈流血の主/ロード・オブ・ブラッド〉などのスキルによって強化されたこのスキルでは、なんと
ともかくそんなスキルだったのだが、しかしたった今発動したところ、まるで違う結果になった。
血の抜けていくリアルな感覚と、血が蠢くありえざるエフェクト。
それらはどちらもユグドラシルでは存在しなかった要素だ。
特に、血が抜けていく感覚についてはありえないと断言できる。
DMMOに置いては、痛みやそれに類する感覚に厳しい制限がつけられている。
これは技術的な問題はもちろん、法的にも痛みについては厳しい制限がある。
現実の痛みや肉体の異常を、ゲーム内の異常であると勘違いさせないためだ。
そこまで考えて、まさかと思い自分の触手を引っ掻いてみた。
その結果、ピリピリとした痛みが走る。
自分の触手にまで感覚がある。
試しに動かそうとしてみれば、名状しがたい感覚と共に、触手が自由自在に動いた。
これもまたありえないことだ。
DMMOで、本来の人間にはない器官、つまり、僕の触手などを自由に動かすのは、非常に難しい。一部のエスパーなんて呼ばれるような人間が、自由自在に動かすことができるらしいと聞いたことはある。そのエスパーも、その本来の人間にはない器官で感覚まで感じることはできない。
ここがDMMOの中という線はいよいよなくなりつつあり、ここが現実世界に近いなんらかの世界であるのではないかという不安が押し寄せる。
ここが現実に近い世界だとして、僕はどうなる?
ふと、死の恐怖がぶり返す。
恐ろしい、自らの命がこぼれ落ちていく感覚。
死ぬことだけは避けなくてはならない。
この世界で死んで、生き返れる保証などどこにもないのだから。
情報が必要だ。
ここがいかなる世界であるにせよ、情報がなければなにもできない。
まずは戦闘能力、つまり自分についての情報確認。
武器を作るスキルは正常に作動したが、戦闘系スキルはどうか?
僕は虚空に向けて、ナイフを持っていない方の手を伸ばし、〈上位者の先触れ〉というスキルを発動した。
伸ばした手の先から、ごく小規模な宇宙へのつながりが開く。
開かれた繋がりから、偉大なる上位者、狂おしき旧支配者の欠片が出現する。
それは太く、うねる無数の触手。
勢いよく飛び出した無数の触手は、絡みつくように虚空を穿ち、そして再び宇宙への繋がりを通して戻っていった。
こちらのスキルも正常に使えたようだ。
宇宙への小規模なつながりの感覚や、触手のリアルさが大幅に変わっていたが、スキルの根本的な部分は変わっていない。
上位者の先触れは、僕の種族、〈星界からの使者〉のスキルであり、敵対者にダメージと共に強力な吹き飛ばし、確率で朦朧化を与えるスキルだ。ダメージは高いが、朦朧化の成功率はそこまででもない。
今、発動した感覚によれば、正常に敵を吹き飛ばすことができる威力を感じた。朦朧化もおそらくは大丈夫だろう。
ナイフを持って軽く体を動かしてみるが、なんの問題もない。むしろ以前より触手などを自由に使える分戦闘の幅が広がったかもしれない。
次に転移系のスキルを発動したが、これも感覚が変わっている以外に、特に問題はなかった。
検証したのは一部のスキルだけだが、とりあえずどのスキルも問題なく使えそうだ。
この調子ならば、すべてのスキルが問題なく使えると仮定してもいいだろう。
さて、問題は周辺についてである。この近辺が一体どういう場所でどんな脅威があるのかを知らねばならない。
しかしそれを自分で調べるのはあまりにリスクが高い。
ゆえにこそ僕は一つのスキルを発動させる。
『〈眷属招来/
このスキルは自らの眷属たるモンスターを呼び出すスキル。これによって呼び出した眷属に周囲を探索させようという作戦だ。
そのスキルが発動した瞬間、虚空より何者かが出現する。
それは外宇宙に揺蕩うおぞましき怪異の招来。狂おしきユゴスより呼び出されたそれは、時空を超え、這いずるように出現した。
ユグドラシル時代には、あまり洒落ているとは言い難いエフェクトともに一瞬で出現していた。虚空から這い出るように出現するなんてことはなかった。これはやはり現実化によって変異している可能性が高い。
出現したそれは草原を踏むことなく宙に浮く。
その姿はおぞましき怪物。
それは1.5メートルほどの体高で、その体は気味が悪い薄赤色のキチン質の甲殻に包まれている。それは鉤爪のついた足を多数持ち、一対の鋏状の手を揺らしながら、蝙蝠のような不快な翼で宙に浮いている。そしてそれの顔は、ありえざる超常の菌類のよう。渦巻く文様と奇怪な触覚によって構成された常に色を変える冒涜的なその顔はまさに怪異。
不気味に佇むその姿は、ユグドラシル時代を鼻で笑うほどに現実的な恐怖であり、おぞましく発狂するリアリティがそこにあった。
そんな凄まじい光景を見て、僕の心に浮かぶのは歓喜だった。
僕はクトゥルフ神話が大好きだった。愛してると言ってもいい。僕がユグドラシルを始めたのも、三次元世界でクトゥルフのモンスターたちを見たかったからに他ならない。
しかし僕はユグドラシルのクトゥルフ系モンスターたちを実際に見て、わずかな落胆があった。
それはリアルであるからこそのリアルさの欠如。
しかし、もちろんユグドラシルは当時最新のゲームであり、グラフィックは最高峰。僕が良くプレイする、百年前のゲームなんかとは比べ物にならないほどにリアルだ。
けれども、僕にとってユグドラシルのクトゥルフ系モンスターたちは、リアルには映らなかった。
クトゥルフの怪異は、もっとおぞましいはずだ! もっと恐ろしいはずだ! もっともっと! 狂気的であるはずだ!!
目の前に現実のクトゥルフ的な怪異がいるのに、僕は発狂しない。本来なら、正気を保つことはできず、その意識は混沌にとらわれ永劫を彷徨うことになるはずなのに!
そんな感情が、僕の心を支配した。リアルであるからこそのリアルさの欠如は、僕にどうしようもないもどかしさを感じさせた。
だからこそ僕はユグドラシルにのめり込んだ。完璧なクトゥルフの世界、完璧な狂気を再現するために。
仲間たちと手に入れた、地下大墳墓。莫大な課金と、時間を費やして作った、全十階層の墳墓。その第六階層の一部を借りて作った領域『悪夢』。
古今東西のありとあらゆるホラー作品。現代に至るまでのクトゥルフ神話やそれにあやかる作品群。それらを徹底的に調べ尽くして参考にした、クトゥルフ神話とゴシックホラーを融合させた、新たなる発狂する外宇宙。
そここそが僕の理想の地。仲間たちとともに築いた、クトゥルフ神話の世界。
しかしそれも、完璧に納得のいくものではなかった。
だが、今ならば?
目の前のミ=ゴは、ありえざる超常の狂気を発している。
これならば、この現実となった世界ならば!
あの遠き理想郷は現実のものとなり、真のクトゥルフの世界がそこにあるのではないか!?
ああ! 叶うならばあそこに帰りたい! 仲間たちと、アインズ・ウール・ゴウンとともに作り上げた、ナザリック地下大墳墓に!!