プロローグ
不気味に灰色な世界で、僕はゆったりと死んでゆく。
アスファルトに倒れ伏した僕は、もはや立ち上がる事すらできず、ただただ緩慢に死すべき時を待つのみだった。
過労によりぼろぼろになった身体は、とうに限界を越していた。それに気づいていながらも、しかし僕は働き続けた。そうしなければ生き残れないからだ。
汚染された世界、果てなき空さえも分厚い雲に常に覆われ、自然という自然が失われたこの世界で生きるには、高額な人工臓器を購入する必要があり、それも定期的に取り替えなければならない。故にこそ金が必要で、金のためには、死ぬほど働かなければならない。
下層階級が、寿命で死ぬのは難しい。皆、過労やそれに伴う病気、あるいは貧困により死んでゆく。
そして僕も、そんな下層階級に位置する人間の一人だ。故に僕が過労で死ぬのも、当然の事と言える。
道行く人々は、僕を見ては目をそらす。誰も僕を助けようとしない。当然だ。僕を助ける事に時間を割けば、上司からの心証が悪くなり職を失う。職を失えば、待つのは死だ。自分の命よりも重いものはない。僕を見捨てるのは、生物として正しい。
それでも僕は諦めがつかず、助けを求めるため声を出そうとする。
しかし、口の端から漏れ出るのは、喘ぎ声にも似た呼吸音だけ。
僕の身体はもはや、満足に声を出す事すらできないらしい。
誰か助けてくれ、と祈るものの、祈りは届かず。人々は僕を避けて歩き続ける。その姿は機械的でもあり、奇妙に人間的でもあった。
死への坂を転がり落ちる僕の心に浮かぶのは、一つの後悔。
DMMOのひとつ、YGGDRASIL、高い知名度を誇り、高すぎる自由度とクリエイト要素によって爆発的な人気を博したゲーム。
僕はそのゲームにはまり込んでいた。
不自由に縛られた僕の人生の中で、唯一自由を得られた場所だったが故に。
いつの間にか友人と呼べる人間も得て、その友人たちのいるギルドに参加し、得られなかった青春の時をゲームの中で過ごした。
もっと遊んでいたかった。
それこそが僕の後悔。
ユグドラシルが始まって八年。ユグドラシルは他の新たなゲームに押されてなお、未だ人気を誇り、活気があった。
せめてユグドラシルがサービス終了するまでは生きていたかった。
もっと冒険がしたかった。四十の仲間とともに、九つのワールドを隅々まで踏破したかった。まだ見ぬダンジョンを攻略したかった。もっと馬鹿をやりたかった。阿呆をやって笑いあいたかった。
それはもはや叶わぬ夢。
僕は今、黄泉比良坂を越えようとしている。
じわじわと寒さを感じる。血流が滞る。心臓の鼓動が弱くなっている。
ああ、寒い。魂が体から剥がれていく。
心臓が杭を打たれたように痛い。頭がぼんやりする。視界が霞み、走馬灯が駆け巡る。
体が鉛の様に重い。それに反して意識はふわふわと軽く、今にも飛び立ちそうだ。
ひときわ強い激痛が全身に走り、僕の心臓の鼓動が止まったのを感じる。
血流が止まり、脳が軋み、そして、僕の命は失われた。
ああ、これで自由になれるのだ。
***
僕が思い出すのは、数日前の最後のユグドラシルの記憶。
ギルドの拠点である大墳墓の奥。僕の自室。
ゴシック風の、どこか奇妙な角度によって構成された、家具や調度品に彩られた、幻想的なその部屋にて。
暖炉の前にあるテーブルと、それを挟む様に置かれたソファに、僕と、向かい合う様にもう一人が腰かけていた。
部屋の家具たちは、僕のアバターの大きさに合わせてどれも巨大であるがためにソファも相応に大きい。それに腰掛けているもう一人は人間サイズであり、故に子供が大きな椅子に座る様な、奇妙なアンバランスさを醸し出していた。
僕の対面に座るもう一人の姿は骸骨。
豪華な紫と金に縁取られたローブと巨大な赤い宝玉のついた肩当を身につけ、十指に九つの指輪をはめた姿はまさに万物に死を与える死の支配者。
魔法詠唱者の最高峰に位置するオーバーロードたるその骸骨は、しかし恐ろしい見た目に似合わず、明るく丁寧な口調で僕に喋りかけた。
「クルーシュチャさん、明日からログインできないとのことでしたが、何かあったんですか?」
「いや、単純に現実世界での仕事が忙しくなりすぎるというだけだ。全く嫌になる」
骸骨の丁寧な口調に対し、僕の口調はやや乱暴だ。しかしそれが僕のロールプレイの一環であると知っている彼は、それに機嫌を悪くすることもない。
ちなみにクルーシュチャというのは僕のユグドラシルにおいての名前だ。適当につけた名前ではあるが、今では結構気に入っていた。
「ああ、お仕事でしたか。大変ですよね。ヘロヘロさんなんかも今デスマーチでログインできないみたいですし」
「ああ、彼もまた現世のしがらみが強い者だからな。……すべてを投げ出してこの幸福な夢にすべてを委ねたくなるよ」
「それができたら一番いいんですけどね」
僕は机の上に置かれた紅茶の入ったカップを口元へ運んだ。仮想世界の食物に味はなく、紅茶を飲む意味など全くないのだが、しかし気分を味わうために、僕は紅茶を一口飲んだ。
予想通り紅茶には味も何もなく、虚しさだけが僕の心に広がった。
「こんな話はやめよう。この夢の中でくらい、現実のことは忘れたい。……今日は何を狩るんだ?」
僕はロールプレイの一環で、ゲームの世界のことを夢と呼んでいた。
「今日はムスペルヘイムで炎の巨人狩りですよ。先週から決まってましたからね」
「ああ、先週の会議で決まったんだったな。我がギルドの誇る最高戦力たるワールドチャンピオンとワールドディザスターが喧嘩をして大変だった」
皮肉気に「ははは」と笑う僕に、骸骨も笑顔アイコンを連打する。
「さて、そろそろ狩りに出向くとしよう」
「そうですね、みんなももう準備が終わる頃でしょうし」
僕たちはそう言って立ち上がり、部屋を出て歩き出した。
「ナザリック最高峰のDPS、期待してますよ」
「僕は炎が弱点なんだがな」
僕たちは笑いながら、狩りへと向かった。
ああ、たった数日前のことなのに、酷く昔のことに感じる。
これはもはや叶わぬ夢。あそこにはもう戻れない。なぜなら僕は死んだのだから。
現実の僕は死に、夢は叶わない。
だがしかし、許されるならば。
夢と現実が入れ替わればいいのに。
そう願わずにはいられなかった。
そして僕の意識はその願いを最後にして失われ、溶けてどろどろ。闇へと消えた。