デュノアの頬がほんのりと赤らむ。桜はあんぐりと口を開けた。
「織斑、正気か」
と告げたものの、桜は思案する。
——んなわけあらへん。正気なら織斑があんな
一夏が出入り口を見やって一瞬身じろぎする。すぐに興味を失い、デュノアに愛をささやいた。
それどころか手を取って抱き寄せる。両腕で華奢な体を覆った。観衆の存在を意に介せず「俺のこと、好きだよな?」と宣ったのである。
デュノアはあからさまに戸惑った顔をしてみせた。
「そんな顔するなよ。俺はお前と一緒にいて、すっごい楽しいんだ。……シャルもそう思うだろ?」
「……う、うん」
桜はため息をついた。
——あかん。ぶっ壊れとる。
横を見やる。箒と鈴音の顔が真っ赤から真っ青に転じるところだった。
箒にいたっては滑稽なほど震えている。悲しみが憎しみに変わるのをこらえるだけで精一杯だ。
対して鈴音は困惑して複雑な顔つきだった。
目尻に涙を浮かべていて、眼前の光景を認めかねている。だが、遅れて拳を握りしめた。
「……アンタ、私に言ったアレ……」
肩を震わせながら言葉を絞り出した。結婚して料理を作ってくれ、とまで匂わせていたのに、眼前でデュノアに愛を
一刻の猶予も残されていなかった。
ラウラは一歩引いて事態の成り行きを眺めている。
箒と鈴音が目配せしあい、ふたりして桜をじっと見つめた。桜は察してうなずき返す。
——実力行使に出るってこと?
まず鈴音が動いた。一夏を蹴飛ばして抱き合うふたりの間に強引だが、隙間を作った。
桜は箒に促され、デュノアを引きはがした。
どちらかが抵抗すると思いきや暴れるようなことはなかった。
ただ、別離のとき視線を絡め合う様子が火に油を注ぐ。鈴音の瞳に涙にたまっていった。
「あたしを見てよっ!」
とっさに一夏の胸に飛び込んだが、彼の反応は薄い。
「あ、あぁ……」
要領を得ぬ受け答えは普段の彼に近しい。
しかし、何かの前触れだろうか。一夏は鈴音を凝視してから、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
そっと鈴音の髪を撫で、力強く抱きしめたのだ。
「えっ……」
鈴音は想定外の行動にうろたえてしまった。
普段の彼ならば、これほど大胆な行動はしない。おかしい、と思ったが一夏の言葉が理性を破壊する。
「鈴は俺のこと、ずっと見てくれたんだよな。中国に行っても忘れずにいてくれたんだよな」
「え……ぁ、うん……」
「嬉しいぜ。俺、中学のころから鈴が気になってた。でも、いい関係だったからさ。壊したくなくって妹みたいに思い込もうとしてた。ゴメンな。俺がバカだった」
「ほ、本当にそう、そう思ってるの?」
「もちろん」
「だったら、だったら、私が一番だってこと、証明してくれる? そうしてくれないと、私、アンタを信じられないから……」
「ああ。
「あ……」
一夏は指先を鈴音の顎に添える。少し上向かせ、顔を寄せていく。
鈴音は目蓋を閉じた。
ほんの短い時間だ。口唇同士が触れあった瞬間、鈴音は感激のあまり腰砕けになった。
糸が切れた人形のように気を失い、その場にくずおれてしまった。
「鈴、どうしたんだ!?」
一夏は口では心配しながら、箒に狙いを定める。
「おい。一夏、やっぱり、変だ」
「おかしくなんてないさ。それに、おかしいところがあるなら教えてくれ」
言って、間合いを詰める。
箒に長物を持たせたら敵わない、と踏んだらしい。素早く目と鼻の先まで近づいた。
箒は一夏の尋常ではない雰囲気に気圧されつつあった。
あえて近しいものを挙げるならば、つい先程千冬が「喰うぞ」と言った時の感じに近い。捕食者の目だ。
一夏は箒の両手で掌を覆い、胸の前まで持ち上げた。
「指で教えてくれ。俺自身じゃ、おかしいところなんてわからないから」
箒はすかさず額を指した。頭がおかしい、と言いたかった。例の水を飲んだせいでもあった。逡巡したのち、腹も指し示した。
「すぐに水を飲め。大量にな。吐かせてやる」
「ん……? そうか? 箒がそういうなら……」
素直に言うことを聞いてくれた。効果が薄れてきたのだろうか。
一夏は持ち上げたペットボトルの蓋を開けようとして、
「あっ……」
「す、すまん! すぐ拭くから」
一夏が手ぬぐいを濡れた浴衣にあてがう。胸元と腰のあたりが濡れていて、一夏は少し顔を背けながらたどたどしい手つきで水をぬぐった。
「……ぁっ」
「ご、ごめん。悪気はないっ。信じてくれ」
口でそうは答えるものの明らかに胸のあたりを凝視している。一夏は片手で顔を覆って見ていないことを強調する。
「……んっ」
手ぬぐいが胸元を滑った。
一夏が声に釣られて前を向けば箒の膨らみがくっきりと浮かんでいる。
浴衣が透けてしまって下着の柄までわかってしまった。
赤紫白のチェック柄でフルカップブラジャーだった。サイズが大きくなったため新調した品で、 勇気を振り絞って挑戦的な色を選択したのだ。
「見てないぞ。見てないからっ」
だが、手つきがおかしい。
乾いた手ぬぐいは執拗に胸ばかりを拭っている。
「もういいっ……あとは自分でやる……」
デュノアを介抱していた桜やラウラの目が、箒を射た。
箒の瞳が羞恥で
「もういいんだっ。十分だ!」
「いや、でもまだ、濡れ……」
勢いよく手を振り払った。一夏は二、三歩後ずさった。
座布団に足を取られて背中から倒れそうになる。
手ぬぐいが宙を舞い、何かにつかまろうと手を伸ばす。とっさに箒の手首をつかんで、どうにかとまった。
「サンキュ。助かっ……わっ!」
「待て、私が引……しまっ」
起き上がろうとした一夏が手首を引き寄せてしまった。彼の体重を支えきれずに箒も前のめりに倒れこむ。
何かに包まれている。箒が眼を開けたとき、一夏の腕のなかにいた。
少しだけ上向くと彼の瞳がある。安堵の表情を浮かべていた。一夏ははにかむように破顔する。
「箒、ケガはないか」
箒が首を振る。
一夏がすべてを受け止めてくれていた。彼のほうこそ痛めた場所はないのか、と気遣う。
一夏のほうも何ともないという。だというのに、箒を離そうとしなかった。
「自分で立ち上がれる。立ち上がれるんだ。離せ、離してくれ」
「……嫌だね」
「どうして。私はどこもケガをしていない。こんな……抱き合う理由なんてないんだ」
「
一夏は急に真剣な声音になった。
ただならぬ雰囲気に気づいた箒は黙して次の言葉を待った。
「ずっとこうさせてくれ。俺は箒を離したくない。それに……箒は俺の初恋が誰か知っているか」
「……姉さんか千冬さんじゃ」
「違う」
「じゃあ、篝火さん」
「それも違う。ってかありえない」
箒は叔母の名を口にしたが、一夏は首を振るばかりだ。焦れた一夏は考え、箒を強く抱きしめると、後ろから首に手を添えて前に向かせる。
「んぅ……」
急な出来事に目を瞬かせた。
いったい何がどうなってるんだ?
箒は自問自答する。
口唇が離れ、一夏の真剣な瞳を目にしたとき、箒は事態を理解した。
「わかったろ」
「……」
「俺の初恋は箒なんだ。子供の頃は箒の強さに憧れてた。一度別れて、また再会して、こんなに……こんなに綺麗になった箒を見て、俺は恋に落ちたんだ」
一夏の告白。夢にまで見た光景だが、どういうわけか実感がわかない。
違和感のほうが強い。
「箒、箒、箒……俺っもうっ……」
「ま、待て、待てっ、まだ、心の」
一夏が激しく唇を求める。なすがまま唇をこじ開けられ、強く抱きしめられる。
これでよかったのだろうか。
私は念願だった一夏を手に入れたのだろうか……どっちでもいい。目を閉じて彼を受け入れるのだ……と思った矢先。
「そろそろ気が済んだか?」
上からラウラの冷ややかな声がした。
「篠ノ之。これは合意の上か? 答えろ」
箒は涙目になっていた。
感激の涙か、いや、そうではない。
視線の奥に後からやってきた鷹月と四十院がいる。桜がふたりにデュノアの介抱を頼んでいた。
「違……ぁ……ぅん……だぁ……そうじゃ……ぁぁ…な……ぃ……」
「合意の上ではないな、では、そのように対処しよう」
「ぇ……」
ラウラはいきなり帯を解いた。
浴衣がはだけ、白い肌にまきつけた大量の武器が出現した。いつ、どうやって持ち込んだのかわからない物騒な代物までもが含まれていた。
ラウラは一夏の首根っこをつかむと、一思いに後ろへ振り抜いた。
グゲ、と嫌なうめきが聞こえた。だが、一夏は尻餅をついただけで首を撫でさすり、二、三回左右に振った。
ラウラが箒に帯を投げ渡す。
「武器だ」
すかさず立ち上がろうとした一夏の腕を取る。
関節を伸ばし、さらに捻りを加える。
普通なら激痛で動けなくなるところだが、一夏は立ち上がって腕ごとラウラを持ち上げた。
体が宙に浮いたことで力の行き場を失くす。が、足を振り上げ、首にひっかける。そのまま背中に回りこみ、一夏をうつ伏せに倒した。
「今だ。篠ノ之。その帯を使え」
「へ……あ、ああ、そうか。そうだな」
帯で輪っかを作り、手首を縛り上げる。
足元に先ほどの手ぬぐいがあったので猿轡を噛ませた。
暴れないよう両足も縛る。一夏がとっさに見せた馬鹿力を思い出し、不安になった。
ラウラが部屋にあった残りの帯を紐状にしていた。
受け取って柱のへりにひっかける。紐と紐をつなぎ合わせて念入りに四肢の自由を奪った。
「これでよし」
箒は額の汗をぬぐった。
捕縛術を披露したのは久しぶりだった。
縛り上げられた一夏は常時爪先立ちになっているので相当に苦しいはずだ。
命を奪うほどではないが、長時間苦痛を与えることができる。
だが、ここまでやる必要はなかった。気が動転してついやってしまった。
「ほほぅ。素晴らしい結び目だ」
ラウラが目を輝かせて見入っている。
彼女の傍らには眠りから目覚めた鈴音がキョロキョロと辺りを見回した。
一夏の緊縛姿に気づいて激しく驚いた。
「ちょっ……何がどうなったっていうのよ。一夏がなんで縛られてんのよっ!」
「自業自得だからだっ」
箒が答える。
「訳わかんないわよっ。ていうか、デュノアは?」
ラウラが桜を呼ぶ。
桜が恐る恐る廊下から顔をのぞかせた。
「終わったん?」
「……終わった。この朴念仁が妙なまねをしくさったがな」
と、箒が手の甲で唇を拭ってから縄を何度も弾いてみせる。
「ぐぅっ……」
一夏の額に脂汗がにじんだ。桜は眉根を寄せて、顔をしかめた。
——うわっ……。
「篠ノ之さん。織斑、使い物にならんうちに下ろしたほうがええよ。後生や」
そう言って顔をひっこめた。
▽
騒動を聞きつけた相川が櫛灘を連れて部屋にやってきた。
一夏の惨状を見て言葉を失った。
櫛灘だけは目を輝かせ、すかさず携帯端末を天にかざした。
撮影を試みたが、何かに当たった拍子に端末が床に滑り落ちた。
「ぼ、ボーデヴィッヒの姐さん……」
「死者に鞭打つのは止すべきだ。それが優しさではないか」
肩に手を置いて静かな口調で告げる。だが、ラウラの手にはコンパクトデジタルカメラが握りしめられていた。
「私は写真班の仕事を全うしたい。無論、公開・非公開の是非は先生方が判断する」
大義名分の下、ラウラはカメラを構える。無慈悲にシャッターを切り続けた。
▽
ロビーまで来ると桜は、あっ、と声をあげた。
就寝時間が近いこともあって、教師が見回りの準備をしていたのだ。
弓削が長い手足を振ってどこかに駆けていく。
四組の担任が携帯端末をいじりながら副担任と談笑していた。
指示を出し終えた教師が振り返って桜を見つける。連城が相変わらず青白い顔のまま桜の前までやってきた。
「佐倉さん。問題は解決しましたか?」
「はい。先生。終わりました」
「わかりました。でも、騒々しいのは控えるようにしてください」
桜は半笑いを浮かべながら頬をかいて頭をさげる。
「すみません……」
「……と言っても、毎年こうなので佐倉さんたちが特別ということではありません。私がこの学園に赴任してきて最初の年も苦労しました」
連城は懐かしい顔ぶれを思い出して目を細めた。
「最初の年、ですか」
桜は慎重に言葉を選ぶあまり標準語を口にしていた。
「ええ。今の日本代表が学園に転入してきた年です。問題ばかり起こす子がいましてね」
あははは、と連城にしては高く笑う。あははは、と桜も同じように笑った。
突然笑みを止めた連城が桜から離れた。
廊下の奥で弓削が手を振っているのを見つけ、四組の先生に合図を送る。電波時計に目を落として、「時間です」と告げた。
「もう寝る時間ですよ。夜十時を回りました」
連城がよく通る声で言った。
「え、もうっ!?」
桜は身をよじって年代物の掛け時計を見上げる。
文字盤の中央が回転を始め、機械仕掛けの扉が開いてオルゴールを奏でた。
桜は口を半開きにして眺めるうちに、弓削の困った顔がくっきり映った。
彼女はクリップボードにプリントを挟んでいて、ボールペンを握っている。プリントは部屋割り表だった。
「佐倉さん。もう寝る時間だよー。明日はちょっと早いから眠っておきなよー」
弓削が脇を通り過ぎていく。桜は振り返って担任と副担任を眺めた。
これ以上ロビーに居続ける理由がなかったので前を向いて歩き始めた。
——っと、こんな時間に。
携帯端末が震えた。桜は階段のそばまで来てから携帯端末を取り出す。四回目のコールで通話を始める。相手は見知らぬ番号だった。
「もしもし」
「ハロハロ束さんだよぉ。サクラサクラはいるかなあ」
「おっしゃるとおり私ですが、どなたでしょうか」
「べつに、きちんと名乗るなんてどうだっていいじゃないか。そんなことは」
「……良くないのでは。名乗って頂けないのであれば通話を切ります。よろしいですか?」
「良くないね。そうだよ。SNNの天才しーいーおー。篠ノ之束さんなのだー」
「最初から承知していました」
「だったら
ここは素直に話すべきなのだろうか。黙っているうちに束がしゃべる。
「今日の束さんはサクラサクラと話したい気分なんだ。ちーちゃんといっくんがあんなことになっちゃったしね」
何の話かすっとぼけようとする。
電話から耳を離して今すぐ姿をくらませようと思い、離れの部屋番を告げた。
「違うね。だってさぁ、束さんは今、サクラサクラの後ろにいるんだ。君は嘘をついたよね」
桜がゆっくりと振り返る。浴衣姿の女が立っていて、薄笑いを浮かべながら耳に電話をあてていた。桜を見つけて空いた手を振った。
「……すんません。嘘つきました」
「正直に言いなよ。忙しい束さんが君のために
桜が丁寧に感謝の言葉を伝えると、電話口からご満悦のため息が漏れた。
「ところで用件は何ですか」
「会いに行こうってのに、サクラサクラは野暮だね。束さんはサクラサクラに会いたいんだよ。
「……今、なんとおっしゃいました」
桜は耳を疑い、底冷えした声を発していた。
束から離れようと階段を上っていく。
振り返ったとき、階下にいた束の髪には簪代わりに一輪の花が差してあった。
「